┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  迷子になったらここ!(^O^)  ━┓
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┃ 満州青春録 :―――――――――――――――― by 松本進さん

☆ 興安丸・日本が見える!! ――――――――――――― 2004/01/30

―――― 興安丸

私達の乗る船は興安丸という貨物船だった。

この時はほとんどが軍人ばかりで、軍服を着た五百人以上が乗船した。
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│編集部注:興安丸
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│▽▽ 興安丸の錨(いかり) ▽▽
│ http://ww4.tiki.ne.jp/~okip/koanmaru.htm
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│▽▽ 抑留者とシベリア犬クマとの哀歌 ▽▽
│ http://www.itci-j.co.jp/kando-01.htm
└──────────

エンジンの音がし始めた。

私は階段を五階ぐらい下の船底にいたが、船は何回か向きを変えたように感じ
られ、誰かが「ウラジオストックに向かっている!」などと言い出すものだか
ら、船内は騒然となった。

甲板に上がって、どちらに向かっているのか何人かが確かめに行った。船員か
ら「大丈夫、南に向かっている」と教えられホッとした。みんな戦争で生き残
り、やっとの思いで日本に帰れることになったのだ。

日本に帰れると思ったら....シベリア送りになった戦友もたくさんいる。

少しのことでも疑い深くなっているのだ。最後の最後まで、日本の土を踏むま
では油断ができないと思っていた。

私はそれでも、父や母や兄にもうすぐ会えると夢のような気持になっていた。
家を出てからずっと思い続けた夢の現実が目前であった。母には2年半、手紙
を出していない。私のことを死んでしまったと思っているのではないかと考え
たが、きっと待っていてくれると思うことが辛い日々の救いとなっていた。

「ただいま!戻んたで!」「戻んたか....よう戻んたのう....さあ上がれ」
みんなで話しながらの楽しい食事、、そんな光景を何度思い浮かべたことか。

次の日、玄界灘が時化た。・・午後から風と大雨でまるで台風のようだ。

船内放送で、危険な状態だが落ち着くように知らせてきた。甲板へ様子を見に
行った人が船室に下りてきた。

「あかんぜ、この船は沈む」
「船内放送で言うぐらいじゃもの。ダメかも知れん」
「山のような波が来よる!」

私はそれを聞いて「ここで死んでたまるか!!」と思った。

「泳ぐのはここにいる誰にも負けん!陸さえあれば必ず泳ぎ着く!これは陸を
確認しておかんといけん」と、そう思い甲板に上がった。
甲板は確かに水がジャブジャブで風も強かった。

しかし海を見ても霧のように白いものが見えるだけで、波があるようには見え
なかった。みんなにそう告げたが、みんなはその一面の霧のような白いものが
大波だという。

私はしばらくしてもう一度確認のため甲板に行った。さっき霧のように白く見
えたのは大波であった。私は黙って降りた。周りの何人かは船酔いでゲーゲー
吐いている。

「これはいかん!」・・いざ沈むとなったら船内放送がある。

海に飛び込めということになったら、一番先に飛び込まないかん。

寒いけど、服を着ていたら泳げんぞ、・・私は覚悟していた。

しかしそのうちだんだん雨も少なくなって、時化も治まってきた。

助かったのだ!!

船内放送で「みなさん、大丈夫です!」と知らせてきた。元気な者が、船酔い
している人の看病に当たった。

―――― 日本が見える!!

3日目は快晴だった。みんなが口々に、もうすぐ日本だと言っている。

甲板に上がった誰かが「日本が見えたぞ!」と叫んだ!

私も甲板に上がって見てみたが、日本らしき陸なんてわからなかった。
見た人は漁師か船員だったのか?それでも「どうじゃった?」と聞かれると、
「見えたような気がするぞ!」と答えていた。

それを聞いてみんなニッコリしている。涙もろい人は泣いていた。

それから数十分経って、上の方から「見えたぞー!見えたぞー!」と叫ぶ声が
再びしてきた。みんなに「見てこい」と言われ、また見に行った。

・・・・かすかに山のような影が見えた・・・・

「ばんざーい!!!!」

その声につられ、船内で「ばんざーい!!ばんざーい!!」という声が沸き起
こった。それから30分も経ったら、今度は誰の目にもハッキリと見えた!!

大勢の人が甲板に集まっている。

船酔いしている人も戦友の肩を借りて見ている。

手すりをしっかりと握り、ジッと陸を見つめている。

妻や子どもの名前を呼ぶ者もいる。

母親に呼び掛けている者もいた。

船の速度が落ちてきた。船内放送で船がそろそろ停泊をするので準備をするよ
うに言っている。みんなは言われなくても準備にかかっていた。

「バンザーイ!!バンザーイ!!」

あちらこちらから聞こえてくる。

みんな涙を流していた。

私も泣いた。「武やん!戻んたぜ!」....兄に呼び掛けた。

―― 船は静かに停泊した。それから上陸準備に三十分ほど待った。

―― みんな佐世保のほうを食いいるように見つめていた。

それからニ、三十人乗りの小さな船に乗り換えて陸まで運ばれた。
ニ、三隻の船が、行ったり来たりでこれに当たった。順番を待つが、なかなか
時間がかかった。ようやく私の番が来た!!

陸までは約十分ぐらいだったろうか。岸が近付くにつれ、景色もハッキリとし
てきた。ーー松の木がある。ーー竹敷もある。ーー菜の花がきれいに咲いてい
る。ーー白い蝶が飛んでいる。

それらを見た時「ああ、ここは日本だ!!」と、帰ってきたことを実感した。

ーー船着き場が近づいた。ーー岸に黒い顔の人が見えた。ーーアメリカの兵隊
だった。ーー黒人を見るのは初めてだった。ーーアメリカの兵隊が進駐してき
ている。ーーやはり戦争に負けたのだ。

船着き場に着き、陸に上がった。

荷物をその場に置くとジャツ一枚になれという。白い粉(DDT)が頭に、首に
かけられた。伝染病を防ぐための消毒だという。

それからトラックに乗せられ、山を越えて十五分ぐらいのところにある元兵学
校に連れていかれた。ここでも部屋を割り当てられ、帰国の手続きやいろいろ
の調査があり汽車の順番を待った。

ここで戦犯がいたら、アメリカ軍に引っ張られることになる。
書類を何枚か書かされた。みんな日本に帰ってきたことを知らせる手紙を書い
ていたが、私はわざと書かなかった。

この2年半も手紙を書いていないのだから、佐世保に帰ったことを知らせるよ
り、イッペンに驚かそうと思った。

四、五日経って佐世保から汽車に乗った。帰るまでの旅費として、佐世保に着
いた時一人千円ずつ支給された。

尾道に着くと、どうやら祭りらしい。幟が何本も立ち、神興が出ている。

ワッショイ!!ワッショイ!!ワッショイ!!ワッショイ!!

賑やかな祭りの様子に、永年思い続けた故郷西野を思った。
故郷の祭りに迎えられたような気持になって、高浜行きの船に乗る。

瀬戸内の汐の匂いがした。ーー潮風を体いっぱいに受けて、実際には2時間半
程かかったはずなのだが、アッという間に高浜港が見えたように感じられた。

                     = 満州青春録:つづく =
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┃┃ お便りで頂きました感想。
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┏━━━━━━━━━━「坊主2さん」

―― 仏教徒として考えました。

日本にいよいよ帰れてよかったです。

連れ合いも小一で船に乗って帰ったのですが、どうも状況を詳しくわからない
です。その母も思い出したくないのか、大変だったとしか語ってくれません。
今は、忘れたというばかりです。

ところで、人間は生まれながらにして、生きたいと求める生命力を認めていま
す。赤ちゃんの乳を吸うことなど誰も教えないうちから行動しますから。それ
が生きていくための最低限の必要不可欠条件とみます。

どんな人でも食欲を否定されたら生きていけません。完全に食べるものがなく
なったら人間でも食べてしまうこともあります。「削られた岬・合田一道著」
に、実際食べて裁判になった事件が描かれています。

そんなわけで霊山和尚が自分もひもじい思いをしたのでしょう。明治22年か
ら昼弁当を持ってこれない子にオニギリをあげました。以来昭和2年に亡くな
るまで、托鉢をして給食しました。これがわが国の学校給食発祥の原動力にな
りました。食育とは生きていくためにほかの命をいただく事だと気付くことだ
と捉えています。

そんなわけで、帰りの船で三日間ほどは何をどのように飲食したのか、知りた
いものです。食べたら当然出るわけでそれは大丈夫だったんですね?
東北の川べりで育った私は、そこいらに平気でやってましたが、船では困った
ろうと思います。しかし、よくも無事に帰れてよかったですね。

時の政府の政策で、たくさんの善良な人々が亡くなり、たくさんの善良な人々
が人間のギリギリまで追い詰められるような生き方を強いられることは、2度
と繰り返してはならないと思います。

┗━━━━━━━━━━

┏━━━━━━━━━━「結草さん」男性@六十代@山形

満州青春録の愛読者です。

この人しか書けないこと、それがこれからの日本や世界を少しでもよくしよう
とするものたちに役に立つことならば記録に残すべきと考えます。

たとえ時の政府や権力者に都合が悪いことでも、いや悪ければ悪いことほど、
書き残すべきと思います。残留孤児になりそうだった人と今も暮らしているの
で外国で暮らすということの厳しさを平時ではないときにはどうなるか、知り
たいです。
これは過去の問題ではなく、今の問題でもありますね。

中国関係の方にはこんな話がたくさんあると思います。
それを拒否されないで掲載してくれることに感謝します。

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┏━━━━━━━━━━「さよこさん」女性@三十代@その他海外

松本さん、ついに日本に戻ってこられたのですね。
本当にお疲れ様でした。いつも楽しみに購読しておりました。

私も本が欲しかったのですが、ぐずぐずしているうちに売切れとは残念です。

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(^^) OJIN です(^^)

松本さんの自分史「佳き日を生きて」は、その後も希望される方が続き、残っ
ていた分は終了しましたという連絡を頂きました。
尚希望される方がおられるようであれば増刷を考えますが、今度は本の原価と
送料だけはお願いしたいということでした。
=国内(送料込み)3000円 海外の場合は送料を別途に計算。

ご希望の方は、郵便番号・住所・姓名・電話番号と「佳き日を生きて」希望と
書いてメールにてお送りください。 asiadesu@hotmail.com

  「佳き日を生きて」表表紙      「佳き日を生きて」裏表紙



















「佳き日を生きて」目次
第一章
 1.母の背中(幼児期の思い出)
 2.兄弟げんか
 3.魚とり
 4.先生の思い出
 5.仕事好きの子ども
 6.遊び
 7.村の祭り
 8.すいか作り
 9.麦・米
10.新築
11.薪集め
12.大人のけんか
13.遠足
14.兄弟のこと
15.赤紙の兵隊さん
16.山火事
17.博打
18.山の木出し
19.物売り
20.父の商売
21.小作争議
22.卒業式
23.父との別れ
第二章
24.旅立ち
25.岐阜での暮らし
26.満州へ(堤中尉の涙)
27.七五一部隊
28.11期生の涙
29.初めての外出
30.部隊でのくらし
31.竜宮城の乙姫様
32.二三七部隊
33.熊岳城
34.終戦
35.安東の収容所
36.土橋さんの家
37.社会主義との出会い
38.八路軍に参加
39.815記念日
40.北朝鮮に渡る
41.トロッコ
42.脱走
43.石ごたつ
44.帰国命令
45.興安丸
46.日本が見える
47.懐かしの我が家
48.自分の墓
第三章
49.青年芝居
50.災害
51.引揚者援護協会
52.私の新宅
53.山林と牛
54.三人の男兄弟
55.腹違いの兄
56.結婚
57.農業委員
58.たばこ耕作者の争議
59.みかん作り
60.母の死
61.妻の入院
第四章
62.不動産業を始める
63.古家買い
64.一富士商事設立
65.福増力夫氏との出会い
66.スナック・バー通い
67.二度目の新築
68.庭造り
69.成人病センター
70.土地改良区の理事
71.茶道を習う
72.金貸しの二年
73.中野町の土地の売買
74.相撲茶屋
75.女優、片山由香との出会い
76.まつちかに店を出す
77.白鳥を飼う
78.証券株
79.農協理事になる
第五章
80.娘の結婚・息子の結婚
81.西野町総代
82.中国語の勉強
83.宅建協会理事となる
84.優しかった義母
85.兄の死
86.交通事故
87.こどもの城
88.お墓のこと
89.人捜しの旅
90.支えられて
91.戦友会
92.感謝をこめて(あとがき)
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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