┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  迷子になったらここ!(^O^)  ━┓
┃
┃ 満州青春録 :―――――――――――――――― by 松本進さん

☆ 脱走(2) ――――――――――――――――――――― 2004/01/16

線路協の家のところまで行ってみると、家の陰から鋭い声がかかった!

「コラ!止まれ!止らないと撃つぞ!」

その日本語の声の主は北朝鮮の保安隊であった。

「止まれ!こっちへ来なさい。ここからは逃げられない!」

小さな山の中の町で、久万町のようなところであった。
┌──────────
│久万町:愛媛県上浮穴郡久万町
│
│松山市から国道33号線を高知へ向かう途中の久万高原にある。
└──────────

その町の真ん中には役場、その横に広場がある。広場を挟んで左右に商店街が
あった。広場の中央にソテツの木があり、その木を囲っている岩の上に、先を
歩いていた四人が既に座らされていた。

後ろ手に縛られ、犬のように木につながれてしまった。後のニ人も同様に連れ
てこられた。私達は自分たちの考えの甘さを痛感していた。広場には黒山の人
だかりができていた。珍しい日本人、おまけに日本人とも中国人とも見える黒
い服、だんだん人垣ができて、さらに人が集まった。

「気の毒に......」と同情してくれる人もいた。

「おまえたち、何をしたのか?」
「逃げるのだったら向こうの山を逃げればよかったのに」

「おまえらにはヒドイ目にあった!バカモノが!」
なかには日本人に恨みがあるのか、石を投げたり蹴ったりしてくる人もいた。
夕方までそのままで飲まず食わずでつながれていた。

―― その日の午後六時頃、八路軍の歩哨とワン班長が迎えに来た。

ワン班長は河を上り水豊ダムに着いたとき、日本人のゲリラからみんなを助け
たと私の手を取り、誇らしげに讚えてくれた人であった。
今は、捕らわれ人となった私を引き取りに来たのだ。

ワン班長は北朝鮮の保安隊と握手している。そして我々を見ると「おまえたち
は!」と険しい顔をして叱った。

「何が不服で逃げたのか。逃げるのなら逃げるとワシに言え!」

心の中で「今逃げるぞと言うて逃げる者など、いるワケがない」と思いながら
黙っていた。確かに自分たちから希望して参加しておきながら、食べる物も着
る物も支給され、給料までもらっておいてそこを脱走したのだから、ワン班長
が嘆くのも無理はなかった。

私が持ち出した黒い布地について聞かれたが、「落とした」と答えるつもりが
ウッカリ「ほった(捨てた)」と答えてしまい、ワン班長からズボンのバンドで
背中を三回ほど叩かれた。
私は慌てて落としたことを説明し直して許してもらった。

帰りは縄は解いてくれた。でも私たち七人は脱走したのだから、帰ればみんな
殺されると思っていた。帰りは近道を通ったが、かなりの距離を逃げていた。

―― 夜、八時過ぎに着いた。

まず事務所に入れられた。
そこへ安東にいたときから私を大事にしてくれたパイさんという将校が入って
きた。そして私の顔を見るなり近づいてきた。

「松本さん、あなた中国のためなら命を捨てると言った者が脱走するとはどう
いうこと?あれは嘘だったのか」

「いいえ、そういう気持ちは本当にありましたが母親に会いたい、ただ、それ
だけで......」

別の将校が「この中で誰が逃げると言い出したのか」と何度も問いつめられた
が、殺されると思い七人とも黙っていた。この日の取り調べはそれで終わり、
食事が出た。朝、わずかな食事をしただけだったし、腹が減っていた。

豚肉、白菜、大根の炒めた料理がおいしく、「もうこれで死んでもかまん」な
どと本気で思った。不思議なことに、食事の後、自分の宿舎に帰って寝るよう
に言われたのだ。

「なぜだ?寝ている宿舎に手硫弾を投げ込まれるのではないか」

などと疑心暗鬼になり、その夜は人が入ってくる度にビクビクしていた。

―― 宿舎では看護婦が心配して成行きを見ていた。

逃げるときに医者や看護婦さんたちから日本の家族宛に手紙を預かっていた。

「みんあ戻ったのですか?成功した人はいないのですか?」

「残念ながらみんな失敗です。これを皆さんにお返しください」

この人たちにしてみても日本の家族への思いは私たちと同じで、私たちが脱走
に成功すれば、自分たちの安否を家族に知らせることができたのに、残念だっ
たに違いない。

次の日の早朝から、助かったのだから一生懸命働こう、そんな思いで水汲みを
はじめた。水汲みを終え、食事を済ませるとワン班長が「集まれ」と言う。

―― そこにはマンモス隊長がいた。

私たち七人は一列に並びマンモス隊長の取調べを受けた。

「脱走したのはおまえたちか!」
「はい!」

「誰が逃げようと言い始めたのか。おまえか?おまえか?」
一人ずつ問うた。

「おまえか?」私は「違います」とみんなと同じように答えた。
答え終わるとバシーン!と大きな平手が私の頬を打った。
あの上陸の時、シェシェ(ありがとう)と私の手を握ったマンモス隊長の手が、
今は私を責める手となった。

「嘘を言うな!」

「すみません。私です」

今度は山下君に「おまえは?」と聞いた。
山下君は観念して「はい、言いました」と答えた。

「クンチライ!(縛り上げろ)」

二人の兵にガッシリとと後ろ手に縛られ、私達ニ人は牢屋に入れられた。
牢屋といっても仮牢で、つま先立ちのままの格好で縛られて、一時間交替で見
張りが付いた。

見張りが代わる度にいろいろと話しかけてくる。戦争中は何をしていたのか聞
かれたので、飛行機を作っていたことを話すと感心したようだった。

三番目の見張りは歌が自慢らしく、来るなり歌いはじめた。自分の歌が上手い
と思うかと聞くので褒めると、調子に乗って何曲も歌った。山下君は中国語が
わからないので黙って聞いていた。

見張りは疲れたのか煙草を吸いはじめ、私にも勧めた。縛られているので吸え
ないことに気づくと縄をゆるめてくれ吸わせてくれた。八人ぐらい見張りが替
わった。途中昼食も出されたが、食べ終えると同じように縛られた。

夕方、外の歩哨が固くなって敬礼した。誰が来たのかと思ったらマンモス隊長
だった。

「食事はしたか?」
「はい、しました」
「連れて行け」

――短い会話だった。

山下君と私は広場に連れていかれ、そこに並んで座らされた。広場には全員集
められた。日本人の医者や看護婦、付添婦達もいる。脱走した七人のうち五人
は無罪放免になっている。
山下君は分からないようだったが、私は今までに何度かこういう光景を見てい
た。

――銃殺だ....。「ああ、これだな」と思った。

私が見てきた銃殺は、広場にこんな風に人を集め、偉い人が長い演説=銃殺の
理由など)をして、その後、座らせたまま後ろから撃つのだ。

―― マンモス部隊長が演説を始めた。

早口の演説は何を言っているのか私にも分からなかったが、私たちの後ろには
銃を持った兵士が立っていた。負傷兵達も上のほうから見ている。山下君は訳
も分からず、それでもこの場の雰囲気に不安気だ。

私は「これが最期か、ええわい、仕方ない。リーさんにありがとうぐらい言い
たかったな」ーー以外と冷静にそんなことを思っていた。

リーさんは、出張で何日も前から部隊を留守にしていて、今度の騒動は知らな
かった。日本にいる家族のことはなぜが考えなかった。死の恐怖も感じなかっ
た。そこで起きていることが、何か現実のこととかけ離れているように感じら
れた。

演説は三十分も、それ以上も続いただろうか。

急にリーさんのことが気になった。帰ってくるような気がしたのだ。
するとかすかに隧道を蹄の音がしているような感じがした。。

「リーさんだ!」

一緒に馬に乗せてもらったことがある。聞き覚えのある馬の蹄の音だ!
リーさんは馬から下りると、私たちの方へは目もくれず、真っ直に演説途中の
部隊長のところに行って何やら話し始めた。
さらにそこへ、私と親しいパイさんも部隊長のところで話しに加わった。

しばらくして部隊長は再び演説を始め、最期まで話し終えた。

「いよいよ......」と思ったが、その時、私達の縄は解かれたのだった?!

あの時、リーさんとパイさんのニ人の将校に私の命は助けられたのだ。部隊長
の後半の演説の中に、私が今までみんなの危機を救ったこと、懸命に軍のため
に働いたこと、脱走も軍に反発をしたからではなく、親に会いたいがためだっ
たことなどがあったことを聞かされた。

リーさんとパイさんは、私を救うために部隊長を説得してくれたのだ。しかし
私にはその後、二人にそのことを確認し、心からの感謝の気持ちを伝える機会
がやって来ることはなかったのである。

リーさんは、たまたま立ち寄った町のレストランで、私にかつて見合いを世話
した中国人のおじさんに「松本が殺される!」と脱走のことを教えられ、
「それ、本当!」
と言うなり外に飛び出したという。

―― その日の夕食は味なんて分からなかった....。

自分は冷静であったと思うのだが、ヤッパリ死とギリギリのところに自分がい
たことに疲れた果てたのかも知れなかった。
ーー食事もソコソコに寝入ってしまった。

ウツラウツラしている意識のなかで人の声がした。しかし誰も私を起こそうと
はしない。リーさんだ!?「みんなでお食べなさい」そう言っている。
リーさんは毛布をかけ直してくれているような気がしたが、私はそのまま深い
眠りの中へと落ち込んでいった。

                     = 満州青春録:つづく =
┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃┃ お便りで頂きました感想と本の希望。
┗━┛
この物語の原典は、松本進さんの自分史「佳き日を生きて」として1冊の本に
なっています。「北朝鮮に渡る」の稿で希望者を募りましたところ、たくさん
の方から希望をお寄せ頂きました。

尚、松本さんからは、今回はまだ余分があるので贈呈させて頂きます、という
ご返事を頂いています。

┏━━━━━━━━━━「柴田さん」

松本 様の自分史の本。
もし増刷された時購入したいと思いますのでご連絡よろしくお願いします。

┗━━━━━━━━━━

┏━━━━━━━━━━「天本さん」

はじめまして。
大連に語学留学中の大学生です。
最近中国関連のメルマガを複数購読しはじめました。
松本さんの記事興味深く読ませていただいてます。
もし可能でしたら本欲しいです。
送料等の振込先などをお知らせくださいませ。
よろしくお願いします。

┗━━━━━━━━━━
 
┏━━━━━━━━━━「天本さん」―――――――――――― 2004/02/11

天本です。本ありがとうございました。
お礼が遅れて申し訳ありませんでした。

┗━━━━━━━━━━

┏━━━━━━━━━━「坊主2さん」

松本進さん。「逃亡2」を読ましてもらいました。
よくここまで記憶されていたことに驚いています。

毎日を真剣にまじめに全力で生きていたからだと推察します。本当によく生き
てこられましたねえ。誰から進められたからではなく、自分でしたいことをま
じめに選んで生きたから、前向きに学びながら生きたから、読むものの心をう
つのだと思います。

ぜひ増刷してください。

私は今、本物の坊主になりかけています。そうなったら、葬式坊主ではなく、
生きた人に対してやりたいことがあります。松本さんのご本のような全力で生
きた人の話を紹介したいのです。しかもすでに有名な人のものよりも、庶民の
(失礼かな)あたりまえの人の本が好きです。

私は今、松本十郎という、北海道開拓で黒田や榎本のコソドロのような、ちょ
うど今の政治屋みたいな者のやることに付き合いきれないとして明治9年郷里
鶴岡に戻り、農業をやって、勝海舟による台湾経営責任者の推薦を受けながら
も応じなかった、今の日本にほしい人の空語集145巻を研究しているもので
す。全部が漢字なので苦労しています。

本当にまじめに生きた人は、後の人の心にいつまでも生き続けるのだと思いま
す。どうぞ、再版でも増刷でもがんばってください。

┗━━━━━━━━━━
┏━━━━━━━━━━「坊主2さん」

松本進様、贈呈との事でしたが、喜んで読ませていただきます。

45年前にもなりますが、仙台で学生の時、魯迅の映画を見て、感想を書いて
以来、北京週報が送られてきました。
教員になって、中国革命小説10巻ぐらいを買って読みふけりました。
紅岩など興奮して読んだことを思い出します。

偶然ですが中国大陸生まれと結婚して40年近くなります。組合活動もやり、
今は数の目標より、こころから小泉ではダメだと思うちえを個人にも家族にも
地域にも広げることが大事と思ってるものです。

いろいろ教えてください。

┗━━━━━━━━━━

┏━━━━━━━━━━「MARU-SANさん」

松本進さんの「満州青春録」を感激と驚きで一杯になりながら
読ませて頂いて居ります。

もし、本を増刷するようであれば購入したく、OJINさんに取りまとめを
願えればと希望しております。

┗━━━━━━━━━━
┏━━━━━━━━━━「MARU-SANさん」

OJINさん、早速のご連絡、大変有難うございます。
お言葉に甘えていいものやら、恐縮しているしだいです。

著者である松本進さんが頭で創り出した物語ではない大変貴重な実体験「本当
の戦争の姿」を、我々戦後生まれに提供し考える機会を、今のこの時期に与え
て貰える事に感謝いたします。
お言葉に甘えて、小生の住所を下記致します。

以上、宜しくお願い致します。
最後に松本様・ OJIN さんをはじめ各ライターの方々に、毎回楽しく読ませて
頂いている事に感謝しつつ、これからの益々のご発展をお祈り申し上げます。

┗━━━━━━━━━━

┏━━━━━━━━━━「熊さん」

こんにちは、熊さんといいます。

WEB熱線いつも楽しく、ふーふー懸命によんでいます。!!!(^_^;)
何しろ、多士済々の寄稿者の人柄のにじみ出る文章と、最新の中国事情が判る
のが嬉しいです。
但し文書量が多いので、うっかりするとメール通信をためてしまうのが難点で
す。!!!<(_ _)>

私は、戦中生まれ(昭和16年生まれで62才)です。先輩方の戦争体験は折々
聴いておりますが、松本さんの「満州青春録」は、戦後も中国に残られ八路軍
入られた様子が語られ、ご苦労されたことの様子が身近に感じられ、私が嘗て
聴いた事がない体験談です。

私の、周りの若い人達にも読ませたい本として紹介致したく、一冊購入できれ
ばと思います。

宜しくお願い致します。

┗━━━━━━━━━━

┏━━━━━━━━━━「hosokawaさん」

松本さんの本を希望します。
当然のことながら、ご本人に対して作成にかかった費用と版権以上の代金は、
それなりの額でなければなりません。  

何時もお世話になっております。よろしくお願いいたします。

┗━━━━━━━━━━

┏━━━━━━━━━━「竹田さん」

「中国に遊学センター!プロジェクト」に参加第一希望者の名誉を頂戴しなが
ら、なんのお手伝いもせず恐縮している満州生まれ引揚者で、間もなく61歳
になる男です。
私の引揚げは、親はわりと順調だったと話しておりましたが、実感に近い感覚
で「満州青春録」を熟読させて頂いてます。

この度、「佳き日を生きて」を希望者に頂けると伺いまして希望いたします。
宜しくお願い申し上げます。

┗━━━━━━━━━━

┏━━━━━━━━━━「羅慶飛(ラケイヒ)さん」

松本 進さん、お初にメールを差し上げます。
私は76歳の台湾の読者で羅慶飛(ラケイヒ)申す者です。

松本進さんの「満州青春録」が非売品として一冊の本に纏ったと承り、是非入
手して日本文が読める(戦後の外来語を除く)友人達に回覧させたいと切望して
います。
若し、可能でしたら一冊ご寄贈願いたく拙信を差し上げた次第です。

私の住所は「台湾10044、台北市臨斤(水へんの斤)街67号2楼」
(英語アドレスは:2F 67 LinYi St. Taipei 10044 Taiwan)です。

国際郵便物ゆえ郵送料金が判読できましたら国際用の切手をお送りする所存で
す。厚かましい要望の失礼の儀、ご容赦頂ければ幸いです。

                      2004.1.17 羅慶飛 敬具
┗━━━━━━━━━━
┏━━━━━━━━━━「羅慶飛(ラケイヒ)さん」――――― 2004/01/31

松本 進 様

大作「佳き日を生きて」と直筆メール、昨日(1/30)の夕方に届きました。
ご寄贈の書籍の他に直筆のメールを頂き、凄く嬉しかったです。

著作の内容は「満州青春録」の部分だけと思っていたのですが、なんと420
余ページの完璧な「自分史」。
早速早読みで目次に目を通したところ、其の豊富な内容に吃驚しました。
私がメールマガジンで拝読したのは大作の第二章の36−44節のみでした。
今からジックリと拝読したのち、クラスメートたちに回覧させて頂きます。

直筆の達筆なメールで、毛筆で読み書きした時代を思い出し、懐かしくて幾度
も繰り返して拝読させて頂きました。
古稀を越した歳でも尚、日中友好の掛け橋として精力的にご活躍を続けて居ら
れる熱意に敬服しています。今後機会がありましたら、日台友好の為にもお力
添え頂ければ有りがたい、と期待しています。

郵送料につきまして、前信の言葉を反古する事となり、ホントに「不好意思」
ですが、お言葉に甘えて頂く事にいたします。
ここに重ねて厚く御礼申し上げます。

私は松本さんと同年とは申せ、人生経験は極めて浅薄で、平凡なサラリーマン
で10年前に定年を迎えて、目下悠悠自適の幸せな日々を過ごしています。
失礼とは存知ますが、更なる自己紹介に替えて、私個人に関わるウェブサイト
の古い記事(驚きの多言語)を一編添付しました。

願わくば同年の誼に甘えて、今後末永く親しくお付き合いさせて頂き、台湾で
お会いして「暢談」出来る日を楽しみにしています。

                         羅慶飛 2004.01.31
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驚きの多言語社会・台湾 
1999年9月15日  田中 宇

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私が8月下旬に台湾を訪れる前、メールをいただいた読者の一人に、71歳の
羅慶飛さんがいた。台北に着いた後、羅さんに電話してお会いすることになっ
た。羅さんは、日本統治時代に教育を受けたため、流暢な日本語を話す。 

羅さんと最初に電話で話したとき、私が泊まっているホテルの電話番号を確認
するのに、数字の「2」を「ふた」、「0」を「まる」とおっしゃった。2を
「に」と言わずに「ふた」というのは、電話を通じて数字を間違えずに伝え合
うときの言い方で、通信関係の仕事についている人が使う。私が3年前まで勤
めていた共同通信でも、この言い方を使っていた。 

羅さんは、日本語で通信をする仕事に携わっていたに違いない、と思い、翌日
お会いした際に聞いてみると、1945年に日本が台湾から撤退する直前、共
同通信社の前身である同盟通信社の台北支社につとめ、日本からのニュースを
受電する仕事をしていたという。私の大先輩にあたる人だったのである。 

しかも羅さんは、台湾人で最初に日本の敗戦を知った人の一人だった。

終戦前夜、1945年8月14日の夜、羅さんはちょうど夜勤の担当だった。
午後7時ごろ、東京の本社からニュースが1本、入電した。 

「ポツダム宣言を受諾する、というニュースでした。内容はそれだけでしたが
すぐに敗戦だと分かりました。翌日の朝刊で、敗戦が報じられることになった
のです。ところがその後、東京からのニュースの入電が、ぶっつり途絶えてし
まいました」 

その後3時間近くたって、ようやく再び東京からの入電があった。今度の内容
は、先ほど送ったニュースを取り消す、というものだった。「翌朝の新聞で、
このことを報じてはならない。社外にニュースの内容を伝えてはならない。そ
の代わり、明日正午に、特別放送を予定している、という情報から、東京から
伝えられてきました」 

日本政府はいったん、8月15日朝刊で、日本の敗戦を知らせることにしたも
のの、その後、正午の玉音放送に切り替えたのだった。羅さんは台北で、通信
用ヘッドフォンを通し、和文モールス信号によるニュース受電というかたちで
その歴史的な夜のできごとに立ち会ったというわけだ。

羅さんは1944年11月、16歳で電信技術の職業学校「台湾逓信従事員養
成所」を終了して台北電信局に就職、そこから同盟通信社に出向した。戦後、
台湾の同盟通信は、中国国民党政府に接収され、国民党系の通信社である中央
通信社の一部となった。 

戦後、羅さんは電信局に戻り、定年まで約50年間、台湾での電報の普及や、
電報通信システムの現代化に尽くした。今は台北から車で1時間ほど南に行っ
た中レキ市(レキは土へんに歴という字)に住み、週末には5人の子供たちや、
孫たちの来訪を受ける。 

●客家と台湾

羅さんは、客家(はっか)である。客家は、漢民族の中の一つの集団で、台湾の
ほか、中国大陸南部の福建省、広東省、江西省などに住んでいる。東南アジア
に渡り、華人(華僑)となった人々もいる。 

客家はもともと、古い時代に中国の政治の中心地だった中原地方(陝西省など)
に住む貴族だったが、その後の王朝の滅亡とともに、流民となることを余儀な
くされ、福建省などの山間部まで来て、定住した歴史を持つ。各地でよそもの
扱いされたため、「客人」という意味の「客家」と称するようになった。

今も福建省の客家の中には、外敵から一族を守るため、円形の城砦のような集
合住宅(客家土楼)に住んでいる人もいる。 

台湾の客家の多くは、羅さんの家がある中レキから少し南の、新竹から竹東に
かけての台湾北部周辺と、台湾中部の苗栗、南部の屏東周辺に住んでいる。
中国大陸から台湾に移民した最初の漢民族は、福建省南部に住むビン南人(ビ
ンは門がまえに虫という字)だった。台湾の人々の6割強はビン南人で、彼ら
が話すビン南語は、今では台湾語と呼ばれている。 

客家は、現在の台湾の人口の2割強。彼らの台湾への移住が始まったのは、ビ
ン南人より後だった。そのため、ビン南人が台湾西海岸中部の平野を占めたの
に対して、客家はその外側の、山と平野の境目にある地域を開拓した。当時、
そのあたりにはマレー・ポリネシア系の先住民族が住んでおり、彼らと戦って
追い出すこともあった。中国大陸では、客家とビン南人は、住んでいる場所が
近いが、客家語とビン南語は、全く違う言葉である。 

私が羅さんに会いに行った日はちょうど、羅さんの奥さんの葉素芝さんの一族
が、年に一度、実家に集まって宴席を開く日だった。(台湾や中国では、結婚
しても女性の姓が変わらない)
羅さんは「田中さんは、客家の村に行ったことないでしょう」と言って、私を
この宴会に連れていってくださった。 

葉一族の実家は、台北から車で約2時間の山の中で「東洋のシリコンバレー」
として知られる新竹のハイテク工業団地から、山の方にずっと入って行った、
新竹県横山郷にある。 

●国連のような多言語家族

行きは、羅・葉夫妻の息子である羅吉昌さんが運転する乗用車で行き、帰りは
夫妻の娘である羅瑞媛さんの旦那さんが運転する車に乗せてもらった。その道
すがら、羅さんは「私たちは、一つの家の中なのに、国連のようですよ」と言
う。

一族の中に、客家、ビン南人、外省人、そして先住民の人もいて、それぞれの
母語が違うので、家族や親戚の中ですら、「国連のような」多言語社会になっ
ているのだった。息子の羅吉昌さんの奥さんである邱麗容さんはビン南人、娘
の羅瑞媛さんの旦那さんは外省人だった。もちろん家族だから、母語は違って
も和気あいあいとしているが、言葉の混合ぶりが興味を引いた。 

たとえば、羅・葉夫妻は、両方とも客家なので、夫婦間の会話の中心は客家語
だが、その中に良く日本語が混じる。客家語で話していたはずが、ある瞬間に
羅さんが「そうそう、あれは何日だったかな・・・」などと言ったりする。

運転している息子に道順を客家語で指示している羅さんが、道を間違いそうに
なると、葉さんが「そこは左ですよ」と言ったり。 

私に向かって言っているのではない。夫婦の日常会話の中に、何かの拍子にあ
る瞬間だけ日本語が入り込むのである。「今日は私がいるので、日本語を多め
に話していますか」と尋ねると、羅さんは「そんなことはありません。いつも
と同じです。自然に日本語が出てくるんです」とのことだった。

羅・葉夫妻だけでなく、台湾人で、日本時代に教育を受けた70―80歳代以
上の人々の多くは、夫婦や親しい友人どうしの会話に、日本語が混じる。その
影響で、下の世代にも、ごく簡単な日本語なら、聞き取ったり話したりできる
人が多い。

だから台北では、若手ビジネスマンとの名刺交換の際、日本語で上手に自己紹
介するので、てっきり日本語ができると思って話しかけると、英語で「実は日
本語はできないんです」と照れ笑いされたりした。

羅・葉夫妻は、ともに客家だが、客家の中にもいくつかの支族があり、イント
ネーションの異なる方言を話している。羅さんと葉さんは、支族が違うため、
結婚当初は、お互いの会話で分かりにくい部分があったという。

羅さんは、客家人地域の中心にある竹東の学校を卒業した後、台北に出て就職
した。竹東ではビン南語(台湾語)をほとんど聞かなかったが、台北では人々の
言葉は、ほとんどビン南語だった。そのため最初は買い物をする時に苦労した
が、何年か台北に住むうちに、ビン南語も話せるようになったという。

●客家語の家族の会話に混じる日本語

羅さんと、息子の吉昌さんとの会話は、客家語が中心だが、時に北京語が混じ
る。羅さんと、息子の妻である邱麗容さんとの会話は、ビン南語と客家語が混
じっていた。さらに帰りは、運転した娘の瑞媛さんの夫である張華宝さんが外
省人で、公用語である北京語と、母語の広東語しか話せないので、家族の会話
は北京語となった。

外省人とは、戦後、国民党とともに大陸からきた人と、その子孫のことで、張
さんは台湾で生まれた外省人2世である。外省人の多くは台湾語を話さない。
来年の総統選挙に立候補する宋楚瑜氏が、外省人なのに台湾語が話せることを
「台湾を愛している」という宣伝材料にしているほどだ。

台湾では、戦後の教育が北京語のみだったので、若い民主化後の世代は、会話
の中心が北京語で、台湾語を使うのは、老人と話すときだけ、という傾向が強
い。半面、60歳前後以上の台湾人(本省人)の多くは、北京語の教育を受けてい
ない。羅さん自身も、北京語を学んだことはなく、さほど流暢ではない。とは
いえ羅さんは、「孫」の世代と話すときは、すべて北京語を使っていた。

「台湾は、多民族の国際社会を先取りしていますね」と私が言うと、羅さんは
「でも私たちは、自分から望んでそうなったわけじゃないんです。日本に統治
されたから日本語を勉強しなければならなかったし、その後は中国人がきたか
ら、北京語を勉強しなければならなかった。やむなく、こうなったのです。自
分から勉強したくて、外国語を学んだ人とは、立場が違います。これは、台湾
人の悲哀です」と語った。

これまで、台湾に住む人々の民族的なアイデンティティは、ビン南人、客家、
外省人、先住民など、多様に分かれていたが、民主化以前の約40年間、国民
党政府によって、北京語以外の言葉を抑圧する国語政策が続いたことに加え、
台湾全島で都市化と文化の均一化が進んでいる最近では状況は急変している。

今では台湾の80%以上の家庭に、100チャネル近いケーブルテレビの線が
来ているので、田舎に住んでいても、台湾どころか全世界のニュース、芸能な
どに接することができる。今後ますます、北京語のみを使い、客家だビン南人
だ外省人だという帰属意識の薄い「台湾人」が増えていく可能性が大きい。

半面、最近では野党の要求で、台湾政府の教育部(文部省)が、北京語以外の
ビン南語、客家語、先住民言語の語学教育を、小学校で選択制の必修科目とし
て新設する準備を進めている。

北京語のみの単一言語社会に向かう流れと、多言語社会を維持して多様なアイ
デンティティを守ろうとする流れが交錯しているわけだが、いずれも人々の自
由意思に基づいている点が、これまでの「悲哀」の歴史とは異なっている。
「台湾人の悲哀」がこれで終わるのかどうか、それは台湾をとりまく国際情勢
にも関係しているだろう。

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関連記事
●台湾人のアイデンティティ 

(田中 宇:8月30日) 台湾では、李登輝総統の時代になってから、政治・社
会の自由化が急速に進んだ。だがそれは、国民党独裁時代に弾圧されながら民
主化を推進した、民主進歩党のオリジナルメンバーたちの意図を超える速さで
もあった。その表れの一つが、台湾語より北京語の方がカッコ良いと思う若者
や、本省人なのに台湾語が話せない若者が増えたことだった。 

●自立したい台湾、追いすがる中国 

(田中 宇:8月9日) 台湾は中国から攻撃されるおそれが強いのに、軍隊を縮
小している。そんな中、台湾の李登輝総統は「今後は、中国と台湾が特殊な国
と国との関係であることを中国が認めない限り、中国との交渉は行わない」と
発言した。

中国は武力で台湾を威嚇する姿勢をみせたが、李登輝発言の背景をみていくと
実際に中国が台湾を武力侵攻するとは考えにくい。 

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┏━━━━━━━━━━「河合さん」

はじめまして、京都に住んでいる河合といいます。
私の父親は大正6年生まれで、中国に行っていました。

よろしくお願します

┗━━━━━━━━━━

┏━━━━━━━━━━「木田さん」

初めてお便りします。当方フランス大学に籍を置く書生です。
今まで貴メールマガジンを傍観しておりましたが、私も松本さんの記録に感銘
を受けてお便りした次第です。

私は拝読したいという希望以上に、この記録を少しでも多くの人に届けねばと
いう使命感を感じております。そこで私費を投じても(貧乏学生ですが)仏訳
したいと考えております。

松本さんに御意見を御伺いして頂ければ嬉しく思います。

またgosakuさんの論文も同様、ひとつのまとまった形にならないものでしょう
か。これも世に広める価値があると思っております。

いつの日か、松本さんや他のメンバーの方々に御会いしたいと存じます。
いつも楽しい配信有難うございます。末筆ながら、お体に気を付けて。

追伸
本を送って頂けることになれば、本代と送料および送金宛などもご教示くださ
い。

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┏━━━━━━━━━━「横田さん」―――――――――――― 2004/01/23

はじめまして、

父がぎりぎり戦場に行かずに済んだという世代の者です。
当時父は東京に済んでおり、徴兵されるには幼いが、疎開するには大きかった
ので、東京の当時の話は聞いたことがあります。

この記事は非常に貴重と考えます。

妻、子供(まだチビなので将来)に読んで欲しいと思い、
書籍を希望させていただきます。

よろしくお願いいたします。

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┏━━━━━━━━「老玩童さん」男性@六十代@会社員@静岡 2004/03/01

「佳き日を生きて」を申込、早速送ってい頂きました。
松本 進さんの直筆のお手紙が入っていました。
実直なお人柄に、またも感動しました。

中国出張中に届いたので送金手続きが遅れました。
早速読みはじめております。
80歳の義父、89歳の実母からも順読みをせがまれております。

先ずは御礼まで。

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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 

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