┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  迷子になったらここ!(^O^)  ━┓
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┃ 満州青春録 :―――――――――――――――― by 松本進さん

☆ 土橋さんの家 ――――――――――――――――――― 2003/11/21

―― 安東の町には日本の民間人がたくさん暮していた。

そうした日本人の家庭は、夫が兵隊にとられていたためにほとんどが女、子供
老人だけであり、危険なことが多かった。中国兵やソ連兵も、安東にはたくさ
ん入ってきている。

実際、男がいないと分かると踏み込んできて暴行されたり、金目の物を盗られ
たりすることは珍しくなかった。用心のためそんな家庭に泊り込みを頼まれる
こともあった。

徳丸、西隅、池本、そして私で、清水さんとその隣の土橋さんの家に分かれて
泊まることになった。それからしばらくして、夜寝ていると四、五人のソ連兵
がやってきてコンコンと扉を叩いた。出なければガラスを割って入ってくる。

私達に緊張が走る!

私は西隅さんの後ろに立ち、イザというときのために身構えた。西隅さんが戸
を開けると、土橋さんの奥さんを見て「マダム?マダム?」と聞いてきた。
「私のマダム」と返事をすると諦めて帰って行った。

―― 清水さんは四十五歳ぐらいの女の人で、十六歳ぐらいの姉と妹がいた。

私が十七歳で、清水さん姉妹とは若い者同士話に花が咲くことがしばしばあっ
た。疲れて清水さんの家で居眠りをしたときなど、娘二人に鼻や耳をくすぐら
れてイタズラされたことがあった。

その翌日、用事があり清水さんのところに出かけられなかった。

すると、徳丸さんが清水さんの姉の千代さんから手紙を預かってきた。生まれ
て初めて女性から手紙をもらったのである!みんなに冷やかされ、恥ずかしい
ような嬉しいような気持がした。

内容は「あの時は安眠妨害をしてしまってすみませんでした。怒らないでまた
お越しください」というようなものだった。私は清水さんの家に行くのが楽し
くなり、用事がなくても立ち寄って話をしたりした。

土橋さんは三十歳ぐらいのきれいな人だった。よしこちゃんという名前の三歳
の女の子がいた。始めは清水さんと土橋さんの両方の家に分かれて泊まってい
たが、そのうち土橋さんの家にみんなで泊まるようになった。

清水さんの家には年頃の娘さんがいたこともあったし、またスグ隣なので、何
かあってもすぐ駆け付けることができるので清水さんも安心していた。

私と池本さんは、昼間は魚売りをしてその稼ぎを土橋さんたちに渡し、それで
ご飯を食べさせてもらっていた。魚はグチという魚で、他に梅干しなども仕入
れて売った。魚を籠に入れ、二人で担いで売りに行った。

池本さんは大きな売り声だったが、「グチの魚に梅干し〜」と私がアクセント
をつけて言うと、奥さんたちが笑いながら買いにきてくれた。父の商売に付い
て行ったことを思い出し懐かしかった。

―― やがて徳丸さんが餅売りをしようと誘ってくれた。

七輪で餅を焼きながら売るのである。大通りの時計屋さんの表を貸してもらえ
るように交渉した。この時計屋さんは、三十六、七歳の実直そうな人で、また
彼の奥さんも纏足した小さな足の優しい感じのいい人だった。

二、三歳の子どもがいたが、躾の厳しい人で、徳丸さんが煎餅を買ってその子
に与えると「いらない、いらない。あなたがたが帰ってお食べなさい」と私達
が苦労をしているのを察して言ってくれた。

そして子供に煎餅を返すように言ったが、子供が駄々をこねているとバシッ!
と叩いて言い聞かせた。私達が餅売りをやめるときも、お礼にと差出したお金
を決して受け取ろうとしなかった。

餅売りには清水の千代子さんが来て手伝ってくれた。千代子さんは「疲れたで
しょう」と、よく肩を揉んでくれた。そんな様子に隣のおじいさんから「あん
た達は夫婦かな?」と言われたりした。

餅はよく子供に盗まれた。相手が子供で、ひもじい思いをしていることが分か
るだけに追いかける気にもならず、徳丸さんには「そんなことしよったらいか
んぞよ。癖になってまた盗みに来るぞよ〜」と、人の良いのをあきれられてし
まった。

―― その餅売りもやめなくてはならなくなった。

中国軍から、炭坑で働かせるため二十歳以上の男を全員出せと言われたのだ。
池本、徳丸、西隅の三人は炭坑で働き、私だけが残り、土橋さんの家族と暮し
た。私は病院で雑役の仕事をすることになって、土橋さんの家から通った。

国民党と八路軍の戦いはますます激しくなり、運ばれてくる負傷兵の数も多く
なった。腕や足を切断する患者が多かったが、そこでの私の仕事はその切断し
た足や手を山へ持っていって埋めてくること、そして食料や物資の運搬などで
ある。

町の真ん中を通って、数人で切断した手や足を運ぶ。

手と足とでは、手のほうが気味悪がられていたが、私は足は重いし抱えないと
持てないので手のほうがよかった。また死人もたくさん出たので、棺桶づくり
が忙しかった。

棺桶は病院の倉庫で作られていたが、そこへも二、三人で手伝いに行った。
誰にしても手や足を埋めに行くより、こちらのほうがしたい仕事に違いない。

中国人の頭領が、私達の金槌の扱いを見て私にだけ残るように言った。大きな
ハンマーでタガネを打ち込んでいた頃の技術が役に立ったのだ。私はここで、
棺桶と松葉杖を作った。

中国人の知り合いもでき、結婚式や葬式にも呼ばれるようになった。結婚式は
みんなが花嫁に落花生や大豆を投げた。また葬式では泣くのを仕事にしている
人を先頭に、大泣きしながら弔いをする。実に上手に泣くのを見て驚いた。

満州に来てからも、こちらの生活を見る機会は終戦まであまりなかった。

その頃、日本人の銃殺を見た。日本人のニ人組が強盗に入り、そこの人を殺し
物を盗って逃げたのだ。黒山の見物人を前に、中国人が演説した。

「二人の日本人のうち一人が人を殺しをした。我々は人殺しをした日本人だけ
を銃殺にする。もし日本軍であったなら二人とも首をはねていただろう。二人
の親族も同じように殺されるだろう。だが我々はそんなことはしない」という
ような内容であった。

長い演説のあと、座らされていた日本人は後ろから銃殺された。

私達の戦争はまだ終ってはいなかった。

                           = つづく =
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││お便りで頂きました感想。
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┏━━━━━━━━━「気分は情報無限さん」男性@三十代@大阪2003/11/21

――満州青春録 土橋さんの家 2003/11/21 を読んで――

日本人の強盗が銃殺刑にされた話を読んで、つくづく中国人は他民族を裁くの
が上手い民族だと感じました。

これは私の偏見かも知れませんが、中国人は「復讐」と「裁き」の区別を付け
るのが当然の様です。
中国人が「裁き」を与える時は衆人環視の元で堂々と行い、他方「復讐」する
時は情け容赦なく徹底的に皆殺しにする。

文化の違いではあるのでしょうが、大陸民族の厳しさと島国民族の甘さを実感
させられるお話でした。

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