┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  迷子になったらここ!(^O^)  ━┓
┃
┃ 満州青春録 :―――――――――――――――― by 松本進さん

☆ 熊岳城・満飛・終戦 ―――――――――――――――― 2003/10/31

―――― 奉天に来て半年くらい経った頃、熊岳城に出張した。

ここは奉天と大連の中間地点にあり、温泉とりんごの産地であった。そのりん
ご畑を潰して飛行場にしてあり、新しい飛行兵の練習場所であった。

飛行訓練をするのは見習士官で、その訓練が終了すると少尉になる。四、五十
人はいただろう。その練習機の整備、修理を私達十名ぐらいで行った。人数が
少ないと気合いを入れられることもなかった。

みんなが仲良くしないとやっていけないからかも知れない。制裁には慣れたと
はいえ、やはりここは楽しかった。やや遅れて他の部隊の兵隊が来た。彼らの
兵舎は、私達のところからは少し離れたところにあった。

その中に整備兵もいたが、私達のような訓練を受けていなかったのか、整備は
あまりできず、実際の作業はほとんどが私達の仕事であった。

ここでの練習は、飛行機も十分にないため交代で乗り、無線の指示通りに操縦
するが、下手な人は山の谷に墜落してしまう。操縦していた飛行兵が死んでし
まっていることもあった。

"お国の為に"と思いここまで来たのであろうが、訓練で死んでしまうなんてか
わいそうと思った。私たちは墜落した飛行機を分解して持ち帰り、修理してま
た組み立てる。日本の飛行機は、汽車やトラックなどに積み込みが可能なよう
に、切り離しができるのである。何度か飛行機の移動に同行したことがある。

―――― また、熊岳城で同郷の人に出合った。

ある日「愛媛県人はおらんか?」という呼びかけに応じて話してみると家も近
くだった。この人は初年兵で来ていたが何かにつけよく怒られていた。ある時
ケガキ針をなくして「見つかるまで捜せ!」と言われ困っていた。ここにある
機械で、ケガキ針なら簡単に作れる。

「わしが作ってあげる。見つかるといけんから捜している真似をしよいでな」
私はケガキ針をたくさん作って彼に渡してあげた。彼が喜んだことは言うまで
もない。

熊岳城では四、五ヶ月の短い期間であったが、朝のげんこつ体操(体を温める
ため、げんこつを作り、ヤーヤーとかけ声とともにしゃがみ込んで立ち上がる
体操)やマラソン、相撲大会、外出には温泉と楽しいところだった。

しかしこの頃、各方面で撤退や玉砕が続き、日本本土でも米軍機による空襲が
始まった。(昭和十九年六月〜)空襲ははじめの頃は軍需工場を的に行われたが
まもなく無差別爆撃へと変わった。日本の都市は焼き尽され、終戦までに空襲
で五十万人以上の国民の命を奪った。

こうして日本の戦況はますます厳しさを増していった。

奉天に帰ると、南方行きになっていた同期の橋本積君が、マニラ沖で船が沈み
戦死したことを聞いた。橋本君は熊岳城まで一緒だったが、そこから南方へ転
任することになり、汽車でいくのを十数人で見送った。

橋本君の兄さんが南方にいると聞いていたので、「南方に行ったら、お兄さん
に合えるかもしれない」と私が言うと、ニコッと嬉しそうに笑って手を振って
別れたのだ。ともに訓練を受けていた頃の橋本君を思い出した。

演芸大会での彼は人気者だった。歌が上手かった。いろいろと思い出されて辛
い。同期の戦死の報を聞くと、やはりここは戦地なのだと身が引き締まる感じ
がした。そして在りし日の橋本君の顔が、次々と目に浮かんだ。

―――― 戦況の悪化に伴い、特攻隊が重要な戦略となった。

昭和十九年十月、レイテ沖海戦で、海軍の神風特別攻撃隊が米機動部隊に体当
たり攻撃をかけたのがはじまりであった。

ここ奉天からも特攻機が出撃し、私達も二百五十キロ爆弾を戦闘機に取り付け
る仕事をするようになる。しかし満州には優秀な飛行機はほとんど残っていな
かった。満州ではノモンハンで戦った九七戦闘機が作られていたが、機体が軽
くスピードが速くない。

スピードの遅い飛行機は敵に狙い撃ちされやすいのだ。重い爆弾を付けるると
さらに遅くなる。目的を達する前に撃ち落とされる可能性も大きい。何度か暗
い気持になりながら私達は作業した。

特攻兵達は、私達の作業するのを見ながら「難しいな、よくこんなややこしい
ことができるもんだ」と関心していた。私達の方こそ、難しい試験を受けてき
た優秀な特攻兵達は大変と思っているからそう言うと、「いや、自分たちの方
がしよいよ」と言う。あとニ、三日もすれば、今私が整備した飛行機に爆弾を
積み、この人も死ぬのかと思うとなんともいえない気持になった。

爆弾の取付け作業が終わると、特攻兵達と固い握手をした。その度に「手柄を
立てて生きて帰ってください」と祈らずにはおられない。しかし取付けた爆弾
は機体からはずれないようになっていて、そのまま体当たりするほか道はない
のである。

片道だけの燃料を積んで、お国の為、愛しい家族のためにと、多くの若い命が
散っていった。
「ああー、よかった。ここでのんびりと話ができて......」
彼は微笑んで飛んでいった。

飛行機が行く時には、みんなで見えなくなるまで手を振って見送った。笑って
逝った彼らのことがたまらなくかわいそうだったが、そんなことは口には出せ
ない時代であった。

特攻機である九七戦闘機の製造が急がれるため、吉村曹長をはじめ、八・九・
十・十一期生が満飛(=飛行機製造会社)へ応援に行った。満飛は奉天の東側に
あった。十四、五人で戦闘機を作る応援に行った。

私は座席を組み立てて飛行機に取り付ける仕上げの仕事を、ワンさん(私より
一、ニ歳年下)と作業した。

ある時ワンさんに「日本は勝つと思うか、負けると思うか?」と尋ねたことが
あった。
ワンさんは私をジッと見て「日本は負けると思う」とハッキリ言った。
私は慌てて「ばかを言うな」とワンさんをこづいた。私のほうが聞いておきな
がらこづいてしまったことがなんだか気になって、後でワンさんに謝った。

―――― 外出はよく城内へ行った。

ここは高い城壁に囲まれていて、中は商店街になっている。飛行場から歩いて
四十分ほどのところだが、途中は工場ばかり並んでいる。
ある日の朝、朝倉君と喋りながら歩いていて向うからくる憲兵に気づかず敬礼
しなかった。

「待て!お前達、どこの部隊か」

「二三七部隊で満飛におります」

「なんで敬礼をしない!」

「話に夢中で気づかなかったんです。すみません」

「謝って済むか!」

ニ人ともニ回ずつどつかれた。せっかく外出を楽しいんでいるのに、朝から人
を殴らなくてもと思った。

昼間の外出は楽しみでよく出かけたが、私は夜の外出は一度もしなかった。夜
外出する者は酒だけが目当てではなく、色街へ行くことが目的だった。先輩が
行くのにお供をして覚えたのである。

ある十期が、何とか女の人にモテたいと、私が貸したマフラーを巻き、色黒の
顔に歯磨き粉をつけてうれしそうに出かけていった。
「儂の色の黒いのが何とかならないかなあ」とボヤく彼に、以前旅芸人が白粉
が足りなくて歯磨き粉をつけたのがきれいだったと私が言ったのだった。

そのおかげかどうかモテたらしく、真似をする者も出できた。外出の前に慌し
く顔に歯磨き粉を塗っている姿は滑稽であったが、本人は大真面目であった。

また、頻繁に色街へ出かけていくためお金がなくなり、私はMに六十円貸した
こたがある。私は無駄遣いすることもほとんどなく、夜遊びもしなかったので
お金に困ることはなかった。Mにはその後返してくれるように言ったが、とう
とう貸したお金は返ってこなかった。

ある日イノシシが営門から入り込み、倉庫の近くにいると大騒ぎになった。
何人かで捕まえたが、大きなイノシシだったので何日も食事に出された。おい
しい御馳走だった。

―――― 私はこの頃一度内地へ帰ろうとした。

父が病気で弱っており、母がなんとか私を帰そうと村長に頼んで部隊に手紙を
出してもらたのだ。その手紙を吉村曹長に見せると、二三七部隊の本部へ行け
と言われた。

本部では「ぜいたくを言うな!この非常時に親がどうのという時期じゃなかろ
うが!」と帰らせてはもらえなかった。飛行機の製造を急いでいたもの許可さ
れなかった理由の一つであっただろう。

故郷を遠く離れて、ただ心配するしかなかった。旅立つ日、戸にすがって私を
見送った父の病んだ姿を思い出し悲しかった。私は密かに「父ちゃんにはもう
会えないかもしれない......と思った。

―――― 昭和ニ十年五月、ドイツが連合国に無条件降伏した。

また日本では御前会議において本土決戦の方針を確認したが、それからまもな
く沖縄が本土防衛の犠牲となった。住民を巻き込み、沖縄県民の死者は十ニ万
ニ千人といわれ、沖縄での日本軍の死者の数を上回る犠牲者を出した。

満飛は飛行機を製造しているため、奉天にある二三七部隊の本部より空襲を受
けることが多かった。ある日空襲のサイレンが鳴り、B29が十機ばかり飛ん
できた。始めのうちは何もしないのでみんなでワイワイ騒いでいたが、門の外
に出ようとした時に爆弾を落しはじめた。

防空壕に入ろうと覗いたら満員なので外に座っていた。そして前の防空壕に爆
弾が落ちた。防空壕といっても直撃弾をくらえばひとたまりもない。爆弾は当
たらない者には当たらないのだと腹をくくった。

B29は三回ほど旋回しながら爆弾を落し、去っていた。あたりは空襲を受け
た時煙幕を張っているので黒煙が上がっている。防空壕から出た女の人が、子
供を寮においてきたと言って泣いていた。寮の方も真黒い煙に覆われていた。

女の人は私に「寮を見てきてくれまいか」と言うので様子を見に行きかけたが
あまりの煙に諦めた。やがて私の帰るのを見て「どんなですか?」と聞いてき
た。「駄目ですよ、寮の方はすごい煙です。丸焼けでしょう....」
女の人は泣き崩れた、かける言葉もない。辺りはすっかり焼け野原となった。

もうそこの工場では飛行機の製造が不可能になったので、私達は二三七部隊に
引き上げた。それから一週間ほどして、広島に新型爆弾(原子爆弾)が落された
と知らされた。ここも爆撃を受ける可能性があるからと、毎日、防空壕を掘る
のに忙しかった。

八月十五日朝、重大な発表があるということで、その昼全員が集められた。

玉音放送であった。天皇の声を聞きながら、みんな一言も言わなかった。
戦争が終わったのだ。涙を流す者もいた。これからどうなるのかという不安だ
けが、だんだん膨んでいった。

                           = つづく =
┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃┃ お便りで頂きました感想。
┗━┛
┏━━━━━━━━━━「toshirouさん」

松本進様の手記を読み、しばし感慨にふけり、断片的ではありますが往事を偲
び時を忘れました。

私も奉天に在住し、中学二年で終戦を迎えました。お話のなかの二三七部隊や
満飛では、学徒動員で弾磨きや防空壕掘りをしたものです。爆撃で亡くなった
多くの人にも接しましたし、体当たりをし空中分解させた機残骸が白昼の空に
花火のように開き、後を引いて落下する様子も目撃しました。

訓練での死を悼むお気持ちや笑って出陣する人を送るやるせなさは、言葉では
言い表せないものと思っています。

若者の一途でひたむきで純粋だった心情を改めて思い出し、平和と豊かさの中
に生まれ育ち、暴走をする一部の若者に嘆かわしさを感じます。

続きがあるとのことですので、楽しみにお待ちしています。

┗━━━━━━━━━━

┏━━━━━━━━━━「ハヤブサさん」男性@七十代@静岡 2004/01/23

熊岳城という土地の名前が偶然見つかり、拝見させていただきました。
私は陸軍少年飛行兵15期です。

昭和19年、熊谷陸軍飛行学校を卒業、即、満州の溝幇子の部隊に配属、99
式襲撃機をマスター、其の後、遼東半島の大連に近い三十里堡の飛行部隊に転
属、部隊名は15353部隊。

ここでお話の中に度々出てくる97式戦闘機で2〜3ヵ月訓練、その後北上し
て熊岳城の飛行場に移り、戦闘部隊として隼の訓練。

海岸が近いので浜辺に仮想の船を建設して、毎日隼に250キロの模擬爆弾を
積み特攻の訓練、その他にも襲撃隊の任務である超低空の訓練も欠かさず、厳
しい訓練が続きました。
訓練のない日は、よく駅の近くまで外出して、近くにあった陸軍病院で温泉に
入って日頃の疲れを癒したものです。

現在でも同期生の会合は毎年1回はあり、当時を思い出しながら懐かしんでお
ります。
私は、幸か不幸か特攻部隊の抽選には当たったことは無く、この後、龍江省の
鎮東飛行場に転属、ここでも余り長い期間は居ませんでした。

この後は青山堡の飛行部隊、更に勃利の飛行部隊に転属、航空士官学校の生徒
の操縦助教として勤務。

――此処で忘れもしません、8月7日にソ連の参戦により初空襲をうける。

当時は97戦の改造練習機しか置いてなく、応戦する力が無い。

止む無く私たち助教達が集まり、実戦機を手に入れるために奉天の800部隊
=我々の本隊)に行こうという事になり、数人で部隊を離れ列車に乗る。此れ
が運命というものか、

林口を経て新京まで来たときに終戦を知り、奉天〜四平街を経て釜山まで逃避
行、釜山よりは密航船で帰国した次第です。

┗━━━━━━━━━━
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 

満州青春録目次 ライターはこんな人 アジアの街角から CHINACHIPS 総合トップ




SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 わけあり商品 動画無料レンタルサーバー ブログ SEO