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┃ 満州青春録 :―――――――――――――――― by 松本進さん
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☆ 奉天二三七部隊へ転属 ――――――――――――――― 2003/10/24
―――― 竜宮城の乙姫様。
部隊で伝染病(パラチフス)が流行った。下痢と嘔吐を繰り返し次から次に入院
した。食事当番や洗濯で残された者は大変忙しい。私は入院した者の忘れ物を
届けるように命令され病院へ出かけた。
はじめて見る病院、そこで私はビックリして思わず立ち止ってしまった。看護
婦さんを見たのである。こんな綺麗な日本女性を見たのは初めてである。まる
で竜宮城にいる乙姫様ではないか!「お注射ですよ」などと言われて、病人で
ある彼らが羨ましかった。
それからは病院への使いは奪い合いである。それよりもなんとか発病して入院
できないものかと、何人もが真剣に考えた。入院を告げられて「バンザイ!」
と呼んだ者もいたのである。
私は....といえば至って健康で、未だに病院生活には縁がない。
このときばかりは残念であった。
部隊は厳しいところであったが、その為にいろいろな生活習慣も身に付いた。
靴をキレイに磨くこと、針仕事もこのときに覚えた。洗濯物を四角にキチンと
たたみ、アイロンもないのにシワひとつない。挙げればいろいろとあるが、こ
れらが身に付いたのは罰則があったからだともいえる。
毎夜、必ず班付から気合いを入れられる。早がけ、ビンタ、太鼓ビンタ、腕支
え、よくもこれまでと思えるほどの体罰であった。
未だに上官を憎んでいる人もいるが、私は当時の時代背景から仕方のないこと
だったと思っている。
これは私の班だけではない。日本中の兵隊はみんな同じ目にあったのだ。陸軍
も海軍も誰に聞いても同じだ。もし恨むとするならば殴った個人でなく、軍国
主義を恨むべきである。また、当時それは軍隊ばかりではなかった。
職人の世界でも企業の世界でも、上の者が下の者を殴るのは日常茶飯事であっ
た。殴られる者は、立場が変れば殴る側になったのだ。もちろんあんな鍛えら
れ方は間違ってはいるが、私たち戦争を知る者の根性は、あの環境によって作
られたことも事実なのである。
戦後の自分の半生を振り返るとき、戦中に鍛えられた根性や辛抱が、今の私を
作り上げてくれる原動力となったと思う。だから私は、本心からかつて厳しく
鍛えてくれた上官達に感謝の気持を持っている。
しかし当時、あまりにもひどい罰則に耐えられず、別の班の同期が2名脱走し
た。1週間ほどして見つかったが、それが問題になった。錦織隊長が全員を集
めて
「それほどまでに殴らないと教育できないのか!殴らない教育をせよ!そんな
ことでは日本は負けてしまうぞ!」
と話された。
それから一時、殴られる回数が激減した。
昭和十九年三月頃、転属命令が出た。私達は一通りの教育を終え、満州に点在
する飛行場に赴任していった。
―――― 二三七部隊。
転属命令が出て、二、三十名で汽車で奉天に向かった。十一期生の三百五十名
が各地へ転属して行った。移動中は雪が降り続き、何も見えなかった。錦州か
ら奉天に行くということは日本に近づくということで、転属は嬉しかった。
故郷のことはいつも胸の中にあり、父や母、兄弟のことが思い出された。帰れ
るわけではないが、懐かしい日本に距離的に近付くことは心が弾んだ。
奉天に向かう汽車の中で三浦君という人と親しくなった。以前から「いいヤツ
だ」と思っていたのだが、同じ飛行場で訓練をしながら言葉を交わすことはな
かった。三浦君が仲良くしていたTという男が嫌いだったせいかもしれない。
小さい頃からあまり人と喧華などしない私だが、Tとは一度派手にやり合った
ことがあった。板金工のTは身体の小さい色黒の男で気が短く、誰とでも喧嘩
をしていた。
彼は喧嘩になると、隙をみて相手の目に指を入れるので、どんな相手も倒され
た。身体の大きな武田君という新居浜出身の男も「私がやっちゃる!」とTに
向かっていった。私が「武田!目に手を入れられんようにせよ!」と忠告して
いたが、武田君には何のことかわからずに負けてしまった。
Tは食事当番になると、自分の仲のよい者には飯を押さえつけるようにしてた
くさん入れ、他の者にはフワッと軽く入れ、あまりにもその差が激しかったの
でみんなに嫌われていた。しかし喧嘩に強いので誰も注意をしない。
私はそんなTに我慢がならず、廊下で見かけたので声を掛けた。
「T、おまえ食事当番のとき、あんなことしたらいかんぜ」
「なに!いらんこと言うな!」
「いらんこっちゃないが。そんなことするなよ、みんな一緒じゃろうが」
「おぬしゃ!」
つかみかかってきたTに、目に手を入れられないうちに身体を投げ倒し、首筋
をつかんで「もうせんか!」と押さえつけた。私は身体は小さいが、力仕事を
していたせいか喧嘩に強かった。
そのとき、運悪く先輩が通りかかり「何をしているか!朝から喧嘩するやつが
あるか!」とニ人とも殴られた。そのTと親しい三浦君には、それまで何とな
く近付くきっかけがなかった。(三浦君とは戦後ずっと親交が続いている)
奉天飛行場は錦州より広く、私達は飛行場のど真ん中を歩いて宿舎へ入った。
宿舎は、日本の皇室から中国の清朝王溥儀の弟溥傑に嫁いだ愛新覚羅浩の住ん
でいた城であった。
奉天では飛行機の脚を試験する仕事に就いた。八期の相沢さん、十期の神田さ
ん、そして私の三名である。脚を全部外して規格通りか試験をする。油圧の情
態を測定、パッキンを取り替えたり、油を差したりする。
作業は神経をつかう重要な仕事だったが、私は先輩に恵まれていた。相沢さん
も神田さんも優しい人であった。私は一度も二人から叱られた事がなかった。
いつも作業をしているところの側にはマンホールがある。ここは寒いので蒸気
を引いて暖房にしているが、その蒸気を引いている穴である。
相沢さんはよく温かいその穴に入って昼寝をしていた。前の晩に外出して酒を
飲み過ぎ休んでいるのだ。相沢さんはよく町へ外出したが、その度になにかを
買ってきては、いつもお腹を空かしている私に食べるように勧めてくれた。
「いえ、見つかったら大変です」
「構わないから食え。わしがここで立って見ておるから」
錦州での厳しくて辛い日々が帳消しになる思いだった。
作業はそんなわけで辛いことなどなかったが、宿舎に帰るとやはり罰則の連続
だった。それは錦州にいた頃の罰則ほどではなかったが、ある日、同期の十一
期生が九期生にひどく叱られた。そのあまりひどい罰則を見かねた八期の人が
その九期の人に説教しているのを聞いたことがある。
「人をそんなに殴ってはいけないだろう。殴らないと規律を守らせないようで
はいけない。殴ることを良いことだと思っているのか?」
「悪いです」
「悪いことだとわかっているのになんでそんなに殴るのか。それほど殴ること
が一体何のためになるのか。気合いを入れるというのとは訳が違うぞ。必要
以上に殴ることはないだろう。人を殴って、おまえの親兄弟が喜ぶのか。
もっと殴れ、もっと殴れと言うとでも思うのか」
諭すように一時間くらい説教していたが、両親の話をしたころから、とうとう
その九期が泣き始めた。遠い異国の地で、戦争という状況下においても人間ら
しさを失わない、そんな人物がいたことに私は深く感動した。
自分の行動を親兄弟が見ればどう思うのか。その日のことは、私自身が岐路に
立ったときなどに度々思い出した。私の人生の判断に大いに影響を受けた忘れ
られない出来事だった。
やがて飛行機の脚の点検から飛行機の整備、修理の仕事に変った。そこに梅津
君という秋田県出身の後輩が入ってきた。私にとって初めての後輩であるが、
私は十ニ期を一度も叱ったりしたことはなかった。梅津君は歌が上手かったの
で「赤城の子守歌」「誰か故郷を思わざる」などを次々と歌わせた。
飛行機の機体の中で小さな声で歌うのを、外から点検窓を開けて機体に耳を付
けて聞くと、まるでレコードを聞いているような感じになるのだ。時々班長が
見回りに来ると、合図をして仕事をしているように見せかけて、いなくなると
また続き歌わせた。やはり日本の歌は懐かしい。
日本の歌を聞くと、いつしか故郷の風景が浮かび、懐かしい人達のことを想っ
た。
ここでの生活も朝は朝札から始まる。四期か五期の人に挨拶の長い人がいた。
いつもクドクドと同じ話をする。
「頑張ってやらないかん。砂糖を舐めたら甘い。甘いと思えば甘い。塩を舐め
たら辛い。辛いと思えば辛い。何でもやろうと思えばやれる。やれないと思
えばやれない。やればやれる。成せば成る。頑張らないかん」
なんだか訳の分からないことを繰り返し言うが、癖のある話し方が面白い。
「甘いと思えば甘いぞ。辛いと思えば辛いぞ」をいろいろに言い換え流行言葉
になり、みんなで宿舎で口真似をした。
やがて宿舎が変わった。歩いて二、三十分のところにある敷島寮というところ
だ。その頃、病気知らずの私が風邪をひいた。作業場で熱を出し寝ていたが、
帰りの点呼の時倒れたのだ。十期の伊藤さんが肩を貸してくれ、連れて帰って
くれた。
= つづく =
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│●│お便りで頂きました感想。
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┏━━━━━━━━━━「修行僧2さん」男性@六十代@山形 2003/10/31
本当のことが書いてあると感じた。
ただもう少し具体的に、読んでいる者の目に浮かぶように書いて下さい。
殴られた、というだけでなく、どんなことが気に入らないというのか、どこが
悪いというのか、どんな言葉で言ったのか、殴る時手はどうだったのか、拳骨
か、なにか棒でも持ってやるのか。
靴とかスリッパで殴るとか書いてあるのもありますが、どうだったのでしょう
か。
今の子どもたちにこそ聞かせてやりたいものです。戦争は文字でしか分からな
い子どもたちです。せっかくのあなた様のお話を伝える時、私自身がイメージ
できないのではリアリティがなくてダメです。66歳ですがこんなザマです。
叱られそうですが、どうか本当のことを詳しく、これからも書いてください。
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┏━━━━━━━━━━「井口君夫さん」2003/10/31
戦争時の体験を語っておられますが、いいお話ですね。
小生宅では兄が出征しましたが、帰ってこなかったので精しい話は聞けません
でした。まことに残念に思います。
兄が存命であったなら、小生のいき方も違っていたでしょうに・・。
人間性を失う戦争は避けたいことですね。
ただ、軍隊という規律の厳しい環境に身をおくことがよい体験になっているこ
とは、すべての方がおっしゃることではないでしょうか。
命あればのことですが・・。今日余りにも規律がなくなっていますから。
土光敏夫氏が軍隊というところはいいところだ、それまでの自分たちの暮らし
の方がよほど辛かったと話しておられたのは、印象的です。
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。

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