☆ 1980チベット偵査旅行記(1) ―――――――― 2008/05/12
by リー将軍さん(70才男性)
私は1980年代初期のチベットに入った。陸路でチベット・拉薩[ラサ]に入
るのは普通2ルートある。
北のチャイダム盆地の要所・格爾木[ゴルムド]から109号線を一気に南下、
温泉・そして有名なるタングラ峠を越え安多[アムド]、そして那曲[ナッチュ]
に入り この那曲からさらに南下し、右手に名湖柄木錯[ナムツオ]を見て、都
ラサに入る道。
もう一つは、メコン川上流の蘭滄江[ランツオンチャン]沿い 唐古拉山脈の東
麓の要地・昌都[チャムド]から214号線を南に走り、那達[ホムダ]に出、こ
こより318号線に入り、然鳥[ラヴォ]→波密[ポーミー]、そして、工布江達
[コンボギャムダ]を抜けてツアンボ川を上流に走り拉薩に入る道である。
私らは一行4人、私と、ボスが日本から連れてきた大学の先生Y君、上海事務
所の設営係中国人Aさん。ーーーそれと、四川省カンゼチベット族自治州=当
時はこんな名称はなかった)山岳都市の馬爾康[マルカム]で雇ったチベット人
カンバ族の通訳兼賄夫兼用心棒のJ青年は、昌都からラサに入るルートをとる
予定だった。
だが、ボスは昌都[チャムド]に行けと言う・・これがもの凄い強行軍だった。
四川省成都でドイツ製の四輪軌道車を借りる・・この方法は内緒。ここで私の
人脈が生きてくる・・だが、この内訳は内緒。私の友人やその知人に迷惑かけ
たくないから。・・・とにかく借りた。
この車に、テント2張と鍋釜・食糧とミソ・醤油とインスタントラーメン、さ
らにガソリンタンクを積み、成都の金堂を出発する。
成都の西北口を出て、文川から馬爾康[マルカム]へ ここでカンバ族J青年を
雇い、ここから大雪山脈の秀麗のミニアコンカ山(7556米)を南に見ながら
山岳の集落・翁達を越えて甘孜[カンゼ]に出た。
ここまでで400キロから450キロぐらいはあったのじゃないのか?
1950年10月、チベット総攻撃の中国人民解放軍基地となったはこのカン
ゼと、もうひとつは、康定[ダルツエンド]から雅江[ニャクチュカ]へと抜ける
318号線の国境の町理塘[リタン]である。・・・。
このカンゼから徳格[テーゲ]へ出て、長江の上流の金沙江=西遊記で有名な通
天河)を越えてチベット自治区に入り、江達[ジャムダ]を通りチャムド地方の
中心地の昌都[チャムド]に入った。
カンゼからチャムドまで300キロから350キロぐらいあるんじゃないかな
・・・地図で距離を測った訳じゃないから正確なキロ数でないかもわからん。
何故にボスがこのルートへ行けと言ったのか、
1950年から1951年にかけての中共によるチベット侵攻作戦は「昌都→
邦達→拉薩」攻撃であったからなのです。
1949年10月に中国共産党は建国を宣言。もうその5ヶ月後の1950年
3月に人民解放軍は四川省成都周辺でチベット進撃の軍事訓練を重ねる。毛沢
東の決意だったのです。
そしてこの軍事作戦の物資輸送に、康定[ダルツェンド]→ダウ→タンゴ→カン
ゼまでの軍事自動車道の建設にはいる。…チベット側は国境の町、徳格・巴塘
(この時期ここはまだチベット領)が国境守備隊の駐屯地だったので、の中共軍
の侵攻作戦近しの報告は直ちにラサに知らされる。
だがチベットのポタラ政権は、なんらこれに対抗する手を打たなかった。
1950年の1月にインド共和国が成立。5月にネールが首相に就任する。
今、インドでも、ネールが中共融和政策をとったことが中国のチベット併合の
機会を与えたとの批判があるが、しかしチベット側が積極的に動かにゃインド
だって動けんであろうが・・・
1950年6月に、まだ軍事道路が完成してないのに、人民解放軍は軍の自動
車道路終点の甘孜[カンゼ]から、山越へにチベット側の徳格へ攻撃をかけた。
これは威力偵察作戦で、中国兵も百人程度であり、チベット側の戦闘能力を確
認するための攻撃であった。だが、町は簡単に陥落してしまう。中国軍は仕方
なく町を占領するが、補給の問題もあり数日でカンゼに引き上げた。
チベット側の守備隊=兵か住民かは混濁)も僅かであったためにこんな結果に
なったとは思うが、もう30年以上も前の戦闘話であり、その時の情況を知る
人を探し出して聞き出すのはなかなか困難なことであったが、通訳のカンパ族
のDさんのお蔭で、徳格の町で2人〜3人の老人から聞くことができた。
町は簡単に陥落した。・・・だが、チベット亡命政府東京事務所から出ている
情報では・・・町は一時中国軍に占領されたが、昌都[チャムド]からのチベッ
ト反撃部隊により、600人の中国軍部隊は全滅し徳格[テーゲ]の町は奪還さ
れたとある――――。
しかし私達が聞いた話の、抵抗らしい抵抗もなく町は陥落、、威力偵察行動の
結果に満足した中国軍はカンゼに引き上げた、との話とはだいぶ異なるが我々
の聞き間違いかもしれない――――。
だが、我々のこの後の聞き取り調査でも、当時のチベットには守備隊らしきも
のがいたことはいたが、それが「戦う組織・兵または軍」といえるものだった
のかどうか、には、いささか疑問を感じる。 ‥‥‥ 正直な話 ‥‥‥
= つづく =
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転載元:せいろん談話室:
http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/top_display.cgi
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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