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┃ 自虐史観の枷を解く ―――――――――― by gosakuさん
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☆ 日韓併合前夜〜そのとき世界は ――――――――― 2005/03/28
hideおじさんは「祖父の懐旧談録:朝鮮編(2)」の冒頭で、何故当時の日本が
朝鮮と合邦することになったのか?の歴史的背景を簡単に辿られていました。
昨年の6月から8月にかけ、9回に分けて述べた私の「私見韓国・朝鮮論」と
重複する部分もありますが、新しい観点から愚見を述べてみたいと思います。
日本が開国し、明治維新を行った頃、アジアの有色人種の国々はみな白色人種
に制覇されようとしていました。----これは、今まで再々述べてきました----
そこで日本は、白人国家から日本を守るためには、協力し合える有色人種の独
立国が必要であると考え、明治元年、二年、三年の計3回にわたって、すぐ隣
の朝鮮を誘いました。
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│編集部注:一部が前後する部分はありますが、近代のアジア勢力図です。
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ーーところが話はこじれていまいます。
その原因は実に些細な事で、日本からの外交文書の形式が気に入らなかったと
いうだけのことでした。――要するに、日本の天皇が、シナの皇帝と同じ言葉
使いをしている..即ち日本の天皇が「皇帝」や「勅」といった文字を使ってい
るのは朝鮮を属国視するものだというものです。
当時、朝鮮の王朝(李氏朝鮮)にとっては、シナは宗主国でした。従ってシナの
皇帝からの外交文書は、臣下に与える勅語という形になっていました。そこに
日本から、シナの皇帝と同じような言葉使いで外交文書が届いたので、彼らが
気分を害したのは無理もありません。
だが、当時の日本にしてみれば、隣国の朝鮮に英語やフランス語で外交文書を
出すのもおかしな話ですから、双方が理解できる漢文で書こうと判断したに過
ぎないのです。また、外交では先例を最も重んじるため、シナの形式に倣えば
無難だろう、、というぐらいの気持ちで起草したのです。
ーー当時の日本には、朝鮮に対して「臣下の礼」をとれという気はサラサラな
かったのです。
文字通りの言葉の行き違いに過ぎなかったのですが、日本が訂正した後も朝鮮
の態度は変わりませんでした。事実、1870年(明治3年)の3度目の日本側
の国書には、朝鮮が嫌う「皇」「勅」「朝廷」などの文字は全て避けられてい
ましたが、それでも朝鮮は明治政府との交渉を拒絶し、かえって排日、侮日の
気勢をあげたのです。
――しかしこの後も、日本は朝鮮の独立をしきりに求めました。
日本にとって、朝鮮が近代化し日本の同盟国になるかどうかは、それこそ死活
問題であったからです。――朝鮮半島が欧米、ことにロシアの手に落ちて植民
地化すれば、日本の将来はありません。
ところが今度は、朝鮮の宗主国であった清国が、余計なことを言うなと日本に
圧力をかけ始めました。清国の言い分は、朝鮮は二百年来清国の属国であり、
日本ごときに今更口を出される筋合いではない、という趣旨でした。――こう
した状況がやがて日清戦争(1894年〜95年)へと繋ってゆくことになり、
結果として日本が勝利を収めることになったのは史実の如くです。
日本は、日清戦争の勝利によって、当時の国際慣習として、賠償金と遼東半島
(関東州)などを清国から得、また、朝鮮の宗主権放棄を承認させ、朝鮮は独立
することになりました。――こうして、それまでの朝鮮国王という称号から、
大韓帝国皇帝と呼ばれるようになったのです。
国王と皇帝という称号は、一見すると似ているように思われるかも知れません
が、国王が皇帝と称されるようになった事実は、韓国の独立を実に象徴的に表
しています。
そもそも、「皇」とか「帝」とい文字は、漢字文化圏においてはシナの皇帝唯
一人に対してのみ許されるものでした。
これに対して「王」というは何人いてもよく、皇帝の子供達は王であり、大功
のあった家臣も王になることがあります。例えば漢の高祖(前247年〜19
5年)の家臣で、股くぐりの故事で有名な韓信は斉王になっています。また、
シナ周辺のいわゆる「蛮族」の首長も全て王と呼ばれています。百済王・新羅
王、或いは朝鮮王などがこれにあたります。
この例外は日本だけで、その首長は天皇、或いは日本皇帝と名乗りました。
聖徳太子が隋の国に最初の使者(小野妹子)を送ったとき、その国書に「天子」
「東天皇」という言葉を使ったという話はあまりにも有名です。――もちろん
聖徳太子の国書の文言を見て隋の煬帝が「悦ばず」すなわち腹を立てたという
記録も残っています。しかし、いかにシナの皇帝が腹を立てても日本が天皇で
通せたのは「海で隔[へだ]てられている」という有利な条件に護られていたか
らです。
けれど、朝鮮はシナと陸続きですから、日本と同じ真似をするわけにいきませ
ん。彼の地は、ずっとシナの属国、つまり彼らの首長は王のままでした。とこ
ろが日清戦争で日本が勝ち、朝鮮が独立できたために、朝鮮民族始まって以来
初めて「大韓帝国」と称し、国王も皇帝を称することができるようになったの
です。
ーーといっても、それは日清戦争が終わってから、日韓併合までの十数年間に
過ぎませんでしたけれど。
さて、いうならば朝鮮は、日本のお陰で清国から独立できたのであり、当然の
ことに(朝鮮)国内では親日派、すなわち近代化推進派が力を得て、日朝関係が
スムーズに進んでいく体制ができることになりました。ーーそのまま進んでい
れば、その後の日朝関係は史実とは別の、両国にとって幸せなコースを歩んで
いた可能性が極めて大きかったでしょう。
だが、日清講和条約の締結直後に、いわゆる「三国干渉」が始まりました。
つまり、ロシア・ドイツ・フランスの三国が日本に干渉し、日本が清国から得
た領土を返還しろといいだしたわけです。もちろん当時の日本には、このよう
な白人先進国からの圧力を拒否する力などありません。仕方なく関東州を清国
に返還しました。
この当時、満州がいかにロシア化が進んでいたかについては、「ラストエンペ
ラー」という映画のもとになった名著「紫禁城の黄昏」の中で、著者レジナル
ド・フレミングは「もうそれは(ロシアの領土であるトルキスタン・キルギス
タンのように)満州スタンといってもいいような状況であった」という趣旨の
ことを書いています。
事実、イギリスの布教団体では当時、満州およびロシアを一括して一個の布教
地域として指定しています。このように全然関係のない第三者までが、満州は
ロシアの一部になっているものと認識していたのです。
さて、この三国干渉に際し、日本が白人の圧力に屈したのを見て、朝鮮内では
ムードが一変し、反日勢力が力を得ることになります。日本はシナ人には勝っ
たけれど、白人の前ではペコペコしているという印象を持ったのです。
このため朝鮮では、親日派と親ロシア派が争い始め、その結果、朝鮮の帝室は
親ロシア派と結び、殺害事件(1895年10月)が起こったり、ロシアの軍隊
が朝鮮皇帝を王宮から奪ってロシア大使館に移したり、多数の日本人が殺され
るという事態を引き起こすに至ってしまったのです。
これは、いってみれば「どっちもどっち」という事件であって、今日の尺度で
単純には論じられない状況がありました。――が、大局的にみれば朝鮮が親善
政策から、反日、侮日政策へと変化していったわけであり、これが両国関係の
決定的ターニング・ポイントとなったのは間違いありません。
これで勢いに乗ったロシアは、1903年、朝鮮から北朝鮮の竜岩浦港を手に
入れて、それをポート・ニコラスと改称しました。この港町は黄海に出る要衝
であり、関東州や朝鮮の西海岸に圧力をかけることができます。
このような一連のロシアの動きに対して、日本は絶えず抗議を申し入れていた
のですが、なにしろロシアからみれば、日本などはとるに足らぬ勢力であり、
一顧[いっこ]だにされませんでした。
当時、ロシア海軍の艦艇は総排水量が約51万トン、そのうち約20万トンは
すでに極東に回航されていました。一方、日本の連合艦隊の総排水量は約26
万トンです。日本の全海軍量に近いトン数に膨れ上がったロシア極東艦隊は、
朝鮮海峡に面した馬山浦や鎮海湾を目標とし、次いで対馬の竹敷港を狙ってい
ました。
鎮海湾を抑えられたら全朝鮮がロシア軍に制されることになり、全朝鮮半島を
抑えられたら日本が危ない。ロシアはすでに鎮海湾に近い馬山浦に手を出して
います。―――このロシアの重圧については、後年、朝鮮戦争が始まったとき
(1950年)、アメリカのマッカッサー元帥も認めざるを得ず、アメリカ軍は
朝鮮半島で死闘を演じなければならないことになりますが、そのことについて
はまた稿を改めて述べます。
ことここに至って日本は、ロシアとの外交交渉継続を諦め、ついに戦争の道を
決断せざるを得なくなります。それまでの日本の方針は、満州まではロシアに
獲られても仕方がない、しかし、朝鮮半島まで降りてきてもらっては困る、と
いう、現在からみてもたいへん筋の通った、また控え目なものでした。
ーーむろん、戦争など好んで起こそうという気もありませんでした。
ところが、その要求が完全に無視されて、朝鮮半島までがロシアの勢力範囲に
入り、日本に最も近い港までが危険になるに及んでは戦端を開かざるをえませ
んでした。ーーが、世界中は、日本がロシアを相手に戦争しても、問題になる
まいと考えていました。
当時のロシアは、世界最大の陸軍と、イギリスに次ぐ海軍を保有する巨大な軍
事国家でした。ナポレオンはロシアから裸同然にされて追い返され、ビスマル
ク―モロトケが率いるドイツ帝国ですら、ロシアとの戦争を回避し続けたので
す。
このようなロシア帝国と、封建時代からようやっと抜け出したばかりの日本が
全面戦争をしたのです。常識的に考えるならば、これはもう正気の沙汰ではあ
りません。ーーしかし日本は、陸に海にと勝ち続けました。
世界中から奇跡といわれたこの戦争の勝因はいろいろありましたが、また長く
なりますので別の機会にさせて頂き、
ーー話を本題の、日本と朝鮮の合邦の遠因へと戻します。
日露戦争は、たんに今まで敗北を知らない常勝軍だったロシア軍を日本が破っ
たという面だけではなく、実に絶大な影響を世界中に及ぼしました。それは、
有色人種の国が、最強の白人国家を負かした。――そして日露戦争から12年
後に、ロシアのロマノフ王朝は革命によって倒れました。これも、日本に負け
なかったなら事情は変わっていたでしょう。――という事実であり、世界史の
大きな流れからすれば、コロンブスの新大陸発見以来の歴史的大事件でした。
日露戦争がなかったなら、或いは日露戦争に日本が負けていたなら、この白人
優位の世界史の流れはずっと変わらずに続き、21世紀を迎えている今日でも
世界中は植民地と人種差別に満ちていたであろうことは、些かも疑う余地のな
いところです。
日露戦争で日本が勝ったために、コロンブス以来400年ぶりに、世界の歴史
の大きな流れが変わったのです。つまり、有色人種が白人の言いなりになり続
けるという歴史に終止符が打たれたのです。ーーそれを日本の勝利が満天下に
示したのです。
日露戦争の世界史的意味は、時間が経てば経つほどに、誰の目にも大きく明ら
かに見えるようになっていきます。――ここ500年間の世界史上の事件で、
コロンブスの新大陸発見に匹敵するような大事件は、日露戦争における日本の
勝利しかありません。
この日露戦争の勝利は、世界中の有色人種の人々の、頭の中に染み込んでいた
白人に対するイメージを根底から変えてしまいました。それ以前は、白人は優
れた科学的知識と文明の利器を持っているので、抵抗しても無駄であると誰し
もが思い込んでいました。
最初の頃は白人に抵抗した人種もありましたが、みな制圧されたり、殺戮され
たりして、20世紀になると、白人に反抗しよう、白人から独立しようなどと
考えることすらしなくなってしまっていたのです。
ところが日本が強国ロシアを相手に勝ったのを見て、他の有色人種も民族も、
ひょっとしたら自分たちにもできるかもしれないと思うようになったのです。
ーーそして実際に、そういう動きがあちらこちらで始まりました。
例えばインドでは、ガンジー(1869〜1948年)やネール(1889〜1
964年インド独立時の初代首相)によって民族運動が始まりました。インド
は古い文明を持っていますが、イギリスのような機械や武器や軍艦を造れると
は思わず、白人のみが出来る事だと思い込み、諦めてイギリスの植民地になっ
ていたのです。
シナ(清朝)なども、日露戦争が自国の領土内で戦われたのを見ていて、すぐに
反応を示しました。頑迷固陋だった清朝政府まで、教育プログラムを日本式に
改め、さらに、約千三百年前の隋朝を起源とする科挙の制度を廃止するにまで
至っています。
科挙を廃止し、それに部分的に代わるものとして、日本への留学を行うように
なりました。すなわち、日本留学を経て帰国した者に対して試験を行い、日本
での在学年数と留学先の学校の程度を勘案して、進士とか挙人(いずれも科挙
の合格者に与えられた資格)にしたのです。
シナでは、日本留学が知識人の間でブームとなり、東京には一時、数万人にも
上るシナ留学生がいたとされています。孫文(1866〜1925年)や蒋介石
(1887〜1975年)を始め、シナの近代化運動や改革運動に参加した初期
の活動家で日本に来なかった人はむしろ稀だったというのは、このような事情
によるものです。
この秀才たちは、日本に来て初めて自分の目で、有色人種でも近代国家を作れ
るという事実を見、自国の近代化運動に没頭するようになりました。もし日本
がロシアに勝たなかったなら、もし彼らが当時の日本を自分の目で見なかった
なら、おそらく近代化運動は遥かに遅れ、いつ頃起こることになったものか、
――今もって清朝か、或いは別の王朝のもとで、旧態依然とした社会が続いて
いた可能性も大いにあったはずです。
当然のことながら、李氏朝鮮政府の内部も様変わりして、親日派が勢いを盛り
返し、やがて合邦へと進んで行くことになるのですが、その経緯は先の「私見
韓国・朝鮮論」で申し上げたとおりです。
ヨーロッパ諸国も、ロシアに勝利した日本を見て、日本を征服したり、日本と
戦ったりしようという考えが消え、この東洋の島国と共存する方向へと向かう
ように変わっていったのです。
= この稿おわり:次の記事へ =
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