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┃ 自虐史観の枷を解く ―――――――――― by gosakuさん
☆ 甦れ!日本外交、頑張れ!外務省(2) ―――――― 2004/11/19

先に、対米戦争に突入した原因は「ジリ貧」を恐れての決断だった、と述べま
した。しかし、当時の状況は「ジリ貧」というより「ドカ貧」を予想せざるを
得ないほど切迫していました。

―― それがアメリカによる「対日石油禁輸」です。

その頃、最も強硬に戦争に反対したのは米内光政(昭和十五年―内閣総理大臣
・海軍大将)であり、山本五十六(連合艦隊司令長官)であり、井上成美(海軍
大将)でした。この3人は、当時の日本海軍きっての切り札トリオでした。

けれど石油がなくなれば海軍はお手上げです。「ジリ貧よりもドカ貧が怖い」
という理由から開戦に踏み切ったので、外交とはあまり関係がありません。
ーー日本が生き延びるための止むを得ざる行動だったからです。

―― 戦争直前の外交での悪い例といえば、

三国同盟締結から南進政策まで数限りなくあります。
ーードイツの力を過大評価したことなどは、情勢分析の根本的な誤まりだった
わけです。
ただ、戦前の外交で、外務省に多少とも同情できるのは、"外務省主導の外交"
ができたのは1930年までだったという点でしょうか。

1921年から23年までは、ワシントン軍縮条約で英米対日本の保有戦艦数
を5・5・3の比率とされ、さらに「日英同盟」も廃棄されてしまいました。

1928年に、パリ条約(ケロッグ・ブリアン条約)が成立し、ここで(現在の)
日本国憲法第9条第1項のような枠組みがガッチリと嵌められ、日本が勝手な
行動をとれないような国際的枠組みが構築されてしまったのです。
┌--------
│編集部注:パリ条約(ケロッグ・ブリアン条約)
│
│正式には「戦争抛棄に関する条約」という。別名を締結地に因みパリ条約と
│も呼び、また条約締結に貢献したアメリカ国務長官ケロッグとフランス外相
│ブリアンの名を採ってケロッグ=ブリアン条約ともいう。
│1928年8月27日、パリで、アメリカ・フランスの他イギリス・ドイツ
│・イタリア・日本など15カ国が先ず調印し、次いでソ連をはじめ63カ国
│が加入した。
│
│最初、1927年6月、フランス外相ブリアンが、第一次世界大戦後の国際
│関係の安定を目指し、国際連盟未加入のアメリカに、2カ国間の条約の締結
│を提案したのに対して、アメリカ国務長官ケロッグが多国間条約に拡大する
│ことを提議した結果成立した。
│
│ワシントン会議・ロンドン会議・ロカルノ条約などに連続する、第一次世界
│大戦後の集団安全保障思想の重要な成果で、条約に終期が規程されていない
│ので、今日でも有効である。
│
│第1条は「締約国は国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、相互の
│関係において、国家の政策の手段としての戦争を搏棄することを各国の人民
│の名において厳粛に宣言」しており、
│第2条は「相互間の紛争・紛議は、必ず平和的手段により処理、解決するこ
│と」と約束している。
│
│このように、条文の規程は抽象的で、条約違反に対する制裁条項を欠いてい
│る上、自衛のための戦争を是認したこともあって、日本の「満州国」樹立、
│イタリアのエチオピア併合、ドイツのオーストリア合邦などを阻止する実力
│はなく、第二次世界大戦の発生を防止できなかった。
│
│日本は、原署名国として内田康哉全権を調印式に派遣したが、国内では批准
│をめぐり第1条の「人民の名において」の字句が帝国憲法に抵触するという
│非難が興り、そのため政府は批准に当って、同字句は天皇の統治権を規程し
│た大日本帝国憲法の条項に照らし、日本に限り適用されないと了解するとい
│う帝国政府宣言書を発表して決着をつけた。
└--------

更に問題なのは、1930年の「ロンドン海軍軍縮条約」で、補助艦まで制限
されてしまったことです。補助艦は非常に重要な艦艇です。
戦艦以外の航空母艦・潜水艦・駆逐艦・巡洋艦・掃海艇・揚陸艇・ミサイル艦
・フリゲート艇・等々、補助艦艇が果たす役割は戦艦以上のものがあります。
ーー大将一人では戦争できないのと同じです。
┌--------
│編集部注:補助艦の保有制限
│
│補助艦の保有制限については、フランスとイタリアが参加を拒否したため、
│アメリカ・イギリス・日本の間で、比率10:10:7と決められました。
│日本としては、
│1−補助艦総トン数 :対アメリカ7割。
│2−8インチ砲巡洋艦:対アメリカ7割。
│3−潜水艦絶対保有量:7万8千トン。
│
│の三大原則を主張したが、(1)しか認められず、結局この条約は1935年
│までの暫定的なものとするとしてようやく承諾したのです。
└--------

ロンドン軍縮会議に出席した日本全権は首相経験者でもある若槻礼次郎氏と、
財部彪・松平恒雄氏などであり、彼らは日本側の要求にほぼ近い成果を得まし
た。
補助艦比率の問題で、浜口内閣は英米との妥協によって、10対6.975の
比率を受け入れましたが、野党である政友会の森暁(さとる)とか、鳩山一郎、
中島知久平といった政治家が、英米の10対して7を望んでいた海軍の反対派
と共に大騒ぎをし始め、、浜口内閣は国防兵力量という天皇の統帥権を犯した
と糾弾したのです。

政府が、国防や兵力を決めることができない、という政友会の主張は、まさに
政党政治の自殺行為で、この、政権奪取のためにならなんでも攻撃するという
野党政友会の自殺行為によって軍の台頭を許すことになってしまったのです。

こうして、外交が軍に曲げられてしまい、天皇直結を称する軍が動きはじめ、
ロンドン軍縮会議の翌年、満州事変が起きて、その時点から日本外交は急速に
おかしくなり、軍が前面に出てくるようになっていきました。

1932年3月1日、満州建国後、中国民衆の国権回収運動・日貨ボイコット
運動が激しく広がるなか、アメリカをはじめとする列国は「中国に関する九ヶ
国条約:(米・英・仏・日・伊・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国)19
22・ワシントン」「不戦条約:1928・パリ」違反として非難し、国際連
盟は1931年12月にリットン調査団(団長=イギリス人A.Litton、他、米
・仏・独・伊の5人)の派遣を決定。

リットン調査団は、翌1932年2月から東京・上海・南京・北京・瀋陽など
で調査を行い、1932年10月1日に、日中両国と国際連盟にその報告書を
通達しました。

―― こうして軍が政治の主導権を握り、

天皇の統帥権がクローズアップされた後は、外務省の発言力は、さらに大きく
低下していくことになります。
┌--------
│編集部注:天皇の統帥権
│
│統帥権(とうすいけん)とは、軍の最高指揮権で、大日本帝国憲法では「天皇
│ハ陸海軍ヲ統帥ス(第11条)」と規定され、天皇の大権(帝国議会の召集・
│命令の発布・文武官の任免・宣戦、栄転の授与など議会の参与なくしてでき
│る権限)の一つにして、国務大臣の輔弼(ほひつ=天皇の権能行使に対し、
│助言を与えること)の外に置かれ、政府も議会も全くこれに関与できないと
│された。
│これを統帥権の独立というが、1878(明治11)年の参謀本部独立により
│軍政(軍に関する行政事務)と軍令(作戦用兵に関する統帥事務)は分離され、
│天皇は軍令機関である陸軍参謀総長・海軍軍令部長の輔弼(ほひつ=天皇の
│権能行使に対し、助言を与えること)を受け陸海軍を統帥(軍隊を支配下に
│おき率いること)した。
└--------

昭和11年には「陸・海軍大臣現役制」が復活し、陸海軍が大臣を出さなけれ
ば内閣が成立しないという状態になり、軍が政府の生殺与奪の権を握るように
なってしまいました。

―― 明治維新から昭和までを見ると、

日本人のひとつの大きな欠点は、初めのうちは組織がキチンと機能しています
が、それがいつの間にか硬直化し、昔でいえば「藩」とでも呼ぶべき閉鎖性を
もってしまうようになることです。

かつて、明治時代の陸軍はかなり融通無碍でした。海軍とも十分話し合いをす
るし、外務省の意見もよく聞きました。同じことが海軍にもいえたわけです。
ところが昭和に入ると、外務省は外務省、海軍は海軍、陸軍は陸軍と、それぞ
れガッチリと組織を固めてしまい、三者の間で本当の意味で腹を割った議論と
いうものはありませんでした。

もし当時、近衛氏のような頼りない総理大臣ではなく、本当に偉大な文民宰相
がいたならば、なんとかできたかもしれませんが、残念ながらそういう人物は
おりませんでした。
山本五十六元帥が、勝てる見込みのない戦争に踏み切った理由のひとつとして
「大正以来、国民の税金の莫大な部分を使ってこれだけの海軍を作った。それ
を使わないままでアメリカに屈服するのは忍びない」
ーーという思いがあったそうですが、

しかしこれは、あくまで海軍の立場からの発想であって、日本国全体の発想で
はありません。仮にそうだとしても、アメリカと戦争をすれば日本は必ず負け
る。それならば、巨額の税金を費やして精鋭な海軍を作り上げはしたけれども
「アメリカと全面戦争をするだけの力はない」と海軍がハッキリ言ったならば
戦争にはならなかったでしょう。

山本氏個人は立派な人だったと言われていますが、僕個人は、山本氏は拘りも
あり、矛盾した感情に揺れていた人物であったろうと思っています。

―― 開戦前の外務省の情報収集や情勢判断の精度にも問題がありました。

若干の例をあげれば、まずドイツの国力を完全に見誤まっていたことです。

ですから、陸軍中将からドイツ大使となり、日独伊三国同盟の締結に奔走した
大島浩氏には非常に大きな責任があると思います。

アメリカの圧倒的な生産能力についても、正確に認識していませんでした。

ワシントン軍縮条約も、ロンドン軍縮条約もバカバカしい話です。

5対5対3とか、7割とか決めてはいますが、そんなことはあくまでも戦争が
始まる前の時点の状態に過ぎない訳であり、アメリカの建艦能力が分かってい
れば、5・5・3というのは、いざ戦争になった場合の三者の軍事力バランス
のことではなくて、政治的妥協をしようという、アメリカとイギリスの日本に
対する呼びかけであったと解釈すべきものです。

こうしたことは、若槻礼次郎氏も含め、若干の人々は分かっていました。

しかし大多数の国民も軍指導部もそれが解らないで、「3では低過ぎる、せめ
て3.5でなければいけない」などと、表面的な数字に拘っていたのです。
何故そういう発想になったのか?ーーひとつの原因は、日露戦争の日本海海戦
で、日本があまりにも完勝し過ぎたことがあるでしょう。

そのために「帝国海軍は無敵である」という変な思い込みが指導層にできてし
まったこと、及び、来るべき近代的海戦構想においても、日本海海戦の記憶か
ら完全に脱し切れなかったことが上げられます。

もうひとつは、日本は第一次世界大戦で、形の上では参戦しましたが、実戦は
経験せず、軍艦を地中海に出しただけだったのです。フランス及び東部戦線で
英・仏・ロシア・イタリア陣営対ドイツ・オーストリア陣営の戦いぶり、特に
兵器、物資の消耗ぶりなどを詳細に観察し、二十世紀の戦争がどういうものか
ということを体験的に知っていれば、当時の日本の国力では国家総力戦は戦え
ないということを悟れたはずです。

―― 情報の問題についても、

ワシントン軍事条約の時の駐米大使は幣原喜重郎氏でした。駐米大使と本省と
の連絡は殆どが極秘に属する内容です。ところが、幣原氏の回想録「回想五十
年」には、自分が東京に打った電報は全部読まれていたと書かれています。
幣原氏に対する一般の評価は非常に高いのですが、彼は少し抜けているところ
があったのではないかと思われるフシがあります。

というのは、幣原氏は「自分は日本の本省に正直な事を言った。予算が不足し
ていたのでそういうことをする必要がないと言った。アメリカは自分がいかに
正直かを分かってくれたので、自分は盗聴されたのを一向に後悔していない」
と言っているのです。

開戦後、イギリス軍が開発したマジックという暗号解読機で、ーー日本の主な
公電が解読されていたのは現在では公知の事実です。

昭和18年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が南方の前線視察をする
に際して、各方面に電報を打って離陸、山本長官搭乗機は海軍204航空隊の
ゼロ戦6機が護衛していました。

一番機のパイロット、柳谷謙治兵曹長は唯一の生き証人ですが、雲間からいき
なり多数の敵機が現れて、山本五十六機にだけ機銃掃射を浴びせてきました。
「なんで俺には撃ってこないのか?!」と不思議に思った次の瞬間、煙を吐い
て山本長官搭乗機が撃墜されてしまいました。

柳谷氏はとっさに「アメリカに暗号が読まれているのではないか?!」と思い
ましたが、そんなことは口にすることすら許されない雰囲気だったというので
す。
もし逆に、日本がニミッツの搭乗機を撃墜すれば、大本営は小躍りして一面の
トップで発表したことでしょう。
しかしこの時、アメリカは何も発表しませんでした。アメリカは強(したた)か
です。何か発言すれば、いくら日本海軍でも、暗号電報が解読されていること
に気がつくからです。

追求されて「暗号を読んでいた」とアメリカが渋々発表したのは戦後でした。

情報戦では、日米には、最初から赤ん坊と大人のような開きがあったのです。

                  = この稿つづく:次の記事へ =
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◇ 知らなかった。そうだったのか〜 ---------------------  2人  ( 5%)

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