┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃
┃ 自虐史観の枷を解く ―――――――――― by gosakuさん
☆ なぜ日本は戦わなければならなかったのか ―――― 2004/10/29

「ABCD包囲網?って..そりゃなんじゃい?」

久しぶりに顔を見せた息子(44歳)に聞いてみると、案の定ポカンとして聞き
返してきました。

「お前、日本の近現代史は習わなかったのかい?」
「フーン、戦争があったということぐらいで、詳しい内容は全く教えてくれな
かった..というか習わなかったね〜」

こんなやり取りがあって、戦中戦後生まれの人々が80%以上を占めるように
なった現在、日本の近現代史に特に関心のある人以外、前回「指宿吉國さん」
の答復でも述べた「ABCD包囲網」と言っても判る人が少ないのではと思い
「ABCD包囲網」と、その延長線上にある「なぜ日本は大東亜戦争に踏み込
んでいかねばならなかったのか」を簡単に解説してみようと思います。

「ABCD包囲網」という言葉は、もともとは、日米開戦直前の1941年春
頃からマスコミが使い始めたのが起りで、A=アメリカ)B=グレート・ブリ
テン=イギリス)C=チャイナ=中国)D=ダッチ=オランダ)の、語呂合わ
せ的造語ですから、政府も軍部も公式文書で用いた例はありません。

1941年7月、アメリカが石油などの対日輸出禁止政策を断行し、前後して
他の三国も追随して日本との貿易を停止したため、経済封鎖を受けたも同然の
状態となり、資源を求めて東南アジアへ武力南進したのが太平洋戦争の発端に
なりました。ーーまあ、簡単にいえばこういうことなのですが、では何故その
ような事態に至ったのか?ということまで話さなければ納得できませんね。

―――― ABCD包囲網を語る前に、

先ず、なぜ日中戦争から、太平洋・東アジア全域にまたがる全面戦争に拡大し
てしまったのか!その背景から述べなければなりません。

十九世紀の中頃から、欧米列強、特にロシアが、満州・チャイナ・朝鮮・日本
を植民地にしようと虎視眈々と窺っていました。――日本の近現代史がずいぶ
ん混乱しているので、多くの人々は、明治維新が終わったときには、西欧列強
のアジアにおける植民地支配は完了していたかのように思い込んでいるようで
すが、それはそうではありません。

日本が、自由民権だとか国会開設などと騒いでいた明治初期には、欧米の植民
地化はまだ着々と進行中という状態だったのです。アメリカがハワイの王朝を
潰し、ドイツはチャイナから青島を奪い植民地化し、フランスはチャイナから
ベトナムを奪い、イギリスはインドを経てビルマを併合し、さらにチベットを
勢力下に収めるなどという状況が進行中でした。

イギリスは、明治18年にビルマの王と王妃をセイロン島に島流しにし、王子
は皆殺しにし、王女はイギリスの兵隊にくれて、ビルマを併合してしまったわ
けです。ーーその後も列強の侵略は続いて、マレー半島が完全に植民地として
完成されたのは、じつに1909年(明治42年)のことでした。

―― その当時、

日本にとって特に脅威だったのは、ロシアの動きです。ロシアは、旅順や北朝
鮮の港を占拠し、全朝鮮半島を支配する構えをみせていたのでした。

今から振り返ると、周辺の国々が次々と欧米の植民地になっていく中で、よく
ぞ日本だけが無事だったものと不思議な気がします。今ですら、そうのような
感じがするわけですから、当時の日本としてはもう必死だったことでしょう。
いつベトナムのようなことになるのか、ビルマのようにされるのか、ハワイの
ようにされるのか、といったことで戦々恐々としていたわけです。

南アジアの大国であったインドも、また、清国の一部も植民地とされ、老いた
る官僚国家である朝鮮はとても頼りない感じでした。――ロシアは今の北朝鮮
あたりまで既に南下を果たしていたわけですから、日本も、もう既に射程距離
に入っていたようなものでした。

イギリスやフランスがチャイナの分割を終えてから朝鮮半島へと進攻してくれ
ば、これまた次は日本へという図式になります。アメリカだって、西へ西へと
原住民(アメリカインディアン)を征服しながら西進し、太平洋に出てハワイを
平らげ、そして遂にフィリピンまでも手に入れたわけですから、これまた次は
日本をということになります。
┌--------
│編集部注:一部が前後する部分はありますが、近代のアジア勢力図です。
当時、清国や朝鮮は科挙制度が完備していて、筆記試験をパスした成績優秀な 官僚が実質的に支配する官僚国家であったわけですが、日本はまがりなりにも 武家社会でした。そのためでしょうか、日本は朝鮮と違って、欧米やロシアの 武力の脅威というものをかなり正確に読んでいました。 そうした、まことに危機的な状況があったればこそ、日清・日露戦争が戦われ たわけです。日本の防衛、白人の世界支配への抵抗運動としての日清・日露と いう側面を抜きに、これらの戦争の本質は語れません。 それは、第二次世界大戦についても同様です。欧米、わけてもアメリカを敵と して戦うなど、よほどのことがない限りどの国だってやりたくはありません。 日清・日露から第二次大戦までの日本の戦争は、広義の意味での自衛戦争だっ たのです。――自衛ということが基調となっていた戦争だったのです。 では日本は、いったい何から自衛しなければならなかったのかというと、それ はまずは欧米とロシアの植民地支配です。当時としては、それは単なる脅威論 の域を越えていて、今日明日に迫る現実的な課題でした。 結局わが国は大東亜戦争に敗れたわけですが、このときの主要な敵国のすべて は、大東亜戦争以前にわが国が脅威の対象と直観していた国々でした。 アメリカは昭和5年(1930年)に、イギリスは昭和7年(1932)にブロッ ク経済体制に入りました。後にオランダもこれに同調しました。ソ連も閉ざさ れた国です。これらの国々はいずれも近代産業を支える天然資源を自給自足で きる国です。これらの国々が日本に天然資源を売らないことにしたらどうなる か。とくに石油はどうなるか..これが日本の直面した恐怖でありました。 ┌-------- │編集部注:ブロック経済体制とは? │http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q139R100.HTM └-------- ―― それとともに、 大東亜戦争にはもうひとつ大きな、世界的対立の側面がありました。それは、 ホワイト対カラード(白人対有色人種)という対立の構図です。人種の中では、 白人が一番優秀で、その次が黄色人種で、いちばん劣っているのが黒人である という暗黙の序列のようなものがあります。これは、決して公にはされません が、本音の部分で、欧米人の間では現在でも根深く残っているといえるでしょ う。 日本は、第一次世界大戦のあとで「人種平等」ということを国際連盟規約に入 れるように要求しますが、これはあっさり拒否されてしまいました。 そもそもあの時に、第二次世界大戦後の国連のように、人種平等ということを 国際連盟が受け入れていれば大東亜戦争は回避できたのではないでしょうか。 日本は、対ロシア政策として、朝鮮の近代化を切実に願っていました。しかし 当時の朝鮮の宗主国であった大清帝国が邪魔をします。そして、協定に反して 清国は朝鮮に軍隊を入れました。ーーかくして日清戦争が起こったわけです。 これによって日本は、有色「カラード」人種国の代表みたいになってしまいま した。 カラードの国である日本が、まずもって世界をアッ!といわせたのは日露戦争 でした。カラードの国である日本が、白人の超大国であるロシアと戦って勝っ たということで世界中がビックリしたわけです。 その驚きは、白人に限った事ではありません。中東のトルコなどでも、大変な 驚きと希望とをもって受け止められました。アメリカでも、とくに黒人などは 息をのんでこの勝利を見守りました。植民地にされていたアジアの諸地域も同 様です。(諸国ではありません..当時、独立国だったのはタイ王国だけでした) 第二次世界大戦後には世界中で民族運動が起き、独立が相次ぎましたが、その 根っこのところには、カラードの国である日本が善戦したということが大きく 影響していたのです。 ―― 話を元に戻しますと、 十九世紀の半ばに、既にイギリスの侵略を許していた中国大陸は、日清戦争の 敗戦を機に、欧米帝国主義の利権漁りがいっそう激化し、英仏独露日などによ る事実上の分断統治が為されており、主権などは無いに等しい状態でした。 当時のアジア地域で、かろうじて独立国として存続していたのは、日本とタイ 王国ぐらいのものだったのです。 アジアは、こうした、つい最近まで欧米帝国主義諸国に牛耳られていた歴史を 忘却してはなりません。 この歴史的事実ひとつをとっても、日本の中国進出を----被害者である中国か ら責められるのはある程度仕方ないとしても----欧米諸国から責められる謂れ (いわれ)などは毫(ごう)もないのです。まず責められなければならないのは、 我欲剥き出しで武力をもって先にアジアを侵略した欧米列強のほうなのです。 日本が中国や朝鮮半島へと進出しなければならなかったのは、欧米露など帝国 主義国家のアジア侵略があった為です。欧米列強のアジアでの傍若無人な振る 舞いは先にも述べた通りです。ーー残された中国大陸の一部・朝鮮半島・日本 を、各国が植民地支配せんと手薬煉(てぐすね)ひいている状態だったのです。 強国ロシアとの戦いに勝利を収め、満州の南部はなんとか確保できたものの、 この戦争によって十万人もの日本人兵士が犠牲になりました。しかし、講和で ロシアから得たものは南満州の鉄道経営権だけで、賠償金などはゼロでした。 しかも、この戦勝によってロシアの脅威が消えたわけではなく、むしろ、日露 戦争によってロシアの南進意図はよりいっそう強固なものとなりました。やが てはロシアが、朝鮮を足がかかりに日本へと触手を伸ばしてくることは時間の 問題だったのです。ーー日本の危機感はつのるばかりでした。 中国大陸でも、蒋介石の国民党政府が着々と力を蓄え、これまた日本にとって は大きな脅威になりつつありました。 対する日本政府は、日露戦争の勝利で得た南満州の鉄道経営の権利を足がかり にして満州に積極的に乗り出していき、満州国を建国し、さらには朝鮮併合へ と進んでいきました。いってみれば、日本にとっての満州建国・朝鮮併合が、 自国の防衛にとっては止むを得ない進路だったという側面を見逃してはならな いと思います。 しかし、そうして中国大陸に楔を打ち込んだ日本を、苦々しい思いで眺めてい たのは欧米列強です。自分たちがクイモノにしようと狙っていた中国に、新た に乗り込んできた日本が、欧米列強にとっては邪魔者以外の何ものでもありま せんでした。とりわけ日本を目の上のタンコブと感じたのは、虎視眈々と大陸 の利権を狙っていたアメリカです。 日露戦争当時、日米両国の関係はおおむね良好でした。ロシアとの講和の中介 をとったのもセオドア・ルーズベルト(アメリカ)大統領です。ところが、日露 戦争終結と共に風向きは一変します。まず、南満州の鉄道経営権を巡ってギク シャクがはじまります。 日露戦争中に日本を支援し、莫大な戦費を貸付たアメリカの実業家にハリマン がいます。彼は鉄道会社の経営者で、日本に南満州鉄道の共同経営を持ちかけ てきました。日本政府は、いったんこの申し出を受諾し、仮契約までこぎつけ ますが、小村寿太郎外相が国益上の理由から断固反対し、仮契約を反故にして しまいました。 またアメリカ政府も、次第に勢力を伸ばしつつある日本に脅威を感じはじめ、 満州の利権を独り占めにしようとする日本を食い止めようと必死になります。 ーーこうして、アメリカは一気に反日へと傾いていったのです。 いってみれば日米対立の構図は、互いの権益を守る為の対立だったわけです。 以後アメリカは、日本をあの手この手で揺さぶり、国際社会から孤立させてい きます。日本を封じ込めるためにまずアメリカが採ったのは、蒋介石へのあか らさまな援助です。中国大陸へと歩を進めた日本は、蒋介石政権を相手に日支 事変に突入、戦線が拡大し泥沼の戦い続けていました。 これが欧米諸国の(在中国)権益との紛糾の種になり、アメリカは蒋介石政権を バックアップすることで日本を牽制しようとしたのです。 この日米の確執が本格的に表面化したのは、昭和14年のことです。 この年の7月、アメリカは日米通商航海条約の破棄を日本政府に通告し、12 月には、アメリカ大使が条約の締結を拒否、翌年1月には、日米通商航海条約 は失効します。 当時、アメリカはビルマと仏印(フランス領インドシナ=現ベトナム・ラオス ・カンボジア)を通じて軍需物資を蒋介石政権支配地域に輸送していました。 そこで当時の近衛内閣は、フランス政府と協定を結び、援蒋ルートを遮断しよ うとします。しかしこの時点でも、日本政府は、急激に悪化しつつあった日米 関係を何とかして緩和しようと努めていました。 にも関わらずアメリカは、イギリス・中国・オランダと交渉し、共同戦線によ る経済封鎖、いわゆるABCD包囲網を強化し、昭和15年には、軍需物資は もちろん、生活必需品の対日禁輸まで仕掛けてきました。 そして昭和16年には、日本人の在米資産の凍結が断行され、イギリス、オラ ンダもこれに追従します。こうした一連の対日禁輸措置は、日本に世界中との 貿易を断念せよというのに等しく、貿易立国の日本にとっては危急存亡ともい える程の危機でした。 昭和16年8月、アメリカは日本に対し石油の全面禁輸を実施します。 当時の日本は、石油はアメリカと、オランダ領だったインドネシアからの輸入 に頼っていました。石油が一切入ってこなくなれば、国内に備蓄してある少量 の石油だけで当面はしのげたとしても、備蓄が尽きれば全ての産業が停止に追 い込まれることになる訳で、まさに死活問題です。 日本は、日米交渉が決裂すれば、資産確保のためには日米開戦もやむなしとい う瀬戸際へと追い込まれていきます。 このとき、東京のジョセフ・グルー駐日大使は、日記に次のように書き込んで います。 「報復と、それに対する反撃行為との悪循環が始まった。地獄への道をたどる のはたやすい。最早、なんらかの抜本的な異常な事情が起らない限り、坂道を 落ちてゆくような今日の事態の惰性をいかにして食い止め、またはいかにして この事態の発展の行方を突き止めえようか。明白な結論は戦争が不可避である ということだ」 エネルギーの供給源を断たれた国が、それを求めて戦争への道を歩んでいく。 これは国際社会では当然の成り行きです。--今回のイラク戦争がいい例です。 中東の石油を安定的に確保するため、いうことを聞かぬサダム・フセインを、 ありもしない幻の大量破壊兵器を口実に攻撃し逮捕し、そのため、アメリカも 莫大な戦費と戦死者を出しているのは世界周知の事実です。 経済封鎖と石油の禁輸措置で、のっぴきならない事態に追い込まれた日本は、 やむなく日米開戦を決意、9月6日の御前会議で「帝国は、自存自衛を全うす るため、対米・英・蘭戦争を辞せざる決意のもとに、概ね10月下旬を目処と し戦争準備を完遂す」と決定します。 昭和天皇が亡くなられた直後ぐらいに「昭和天皇回顧録(文藝春秋)」がでまし たが、その冒頭の部分に「この前の戦いは、結局は人種問題と石油問題であっ た」というくだりがあり、さすがに昭和天皇はよく大局を見通しておられたと 感心したのですが、これは正しくその通りなのです。 ――太平洋戦争の遠因は人種問題でした。 アメリカが、日本人を一人も入れないというような絶対的排日法案を可決し、 実行しなければ、あのような反米感情は起こらなかったでしょう。 ――そして近因、つまり直接の引き金は石油の禁輸です。 日本の連合艦隊が、石油がなくて動けなくなり、一戦もしないで白旗を掲げる などという事はありえなかったからです。                   = この稿おわり:次の記事へ = ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ 読後感アンケート結果。 ┗━┛ ◇ このとおりだと思う --------------------------------- 74人 (81%) ◇ そうではないと思う --------------------------------- 7人 ( 8%) ◇ どちらともいえない --------------------------------- 4人 ( 4%) ◇ 知らなかった。そうだったのか〜 --------------------- 6人 ( 7%) ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ 頂きました感想やご意見。 ┗━┛

お寄せ頂きました感想やご意見が多く、またgosakuさんの答復も長くなりま
したのでページを改めました。――→ ここをクリックしてお進み下さい
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
自虐史観の枷を解くの目次に戻ります







SEO お金 無料レンタルサーバー ブログ SEO