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┃ 自虐史観の枷を解く ―――――――――― by gosakuさん
☆ 私見:東京裁判の検証(1) ――――――――――― 2004/01/30

満州回顧録からソ連抑留者の手記を綴るに当たり、多くの文献を参照して来た
過程で、大きな疑問として残ったのが勝者が敗者を裁いた東京裁判を始めとす
る、東南アジア各地で行われた軍事裁判の不当性です。

東京裁判とは、ご承知のように、正式には「極東国際軍事裁判」といいます。
国際という名称がつけられていたために、何か国際法に基づいたものだと思っ
ている人も多いのですがそれは全くの誤解です。
この東京裁判ほど非文明的裁判はないといっていいでしょう。

この裁判の根拠となっているのは、占領軍が公判直前にこしらえた「極東軍事
裁判所条例」(昭和21年1月19日布告)という一片の文書に過ぎません。
それどころか、裁判官と検事がグルになっているのだから、これは裁判とすら
呼べるようなシロモノではありません。

検事が全て戦勝国の人間であるというのはまだしも、裁判官もすべて戦勝国か
その植民地国の出身で、中立国の人間が一人もいないのですから、つまりこれ
は裁判という名を借りた復讐の儀式です。

たとえて言ってみれば、暴力団Aと暴力団Bが抗争し、A暴力団が勝った。
このAという暴力団の若頭十数人がB暴力団の幹部を裁いたとすれば、それが
そっくり東京裁判の構図だと思えばいいでしょう。
なにしろ中立の裁判官を入れるという発想がなかったのですから。

1947年=昭和22年)5月1日と2日、山形県酒田市の酒田市商工会議所
を臨時法廷として東京裁判の証人にたいする出張尋問が行われました。

特別列車8両を仕立てて東京からやってきた一行は、ニュージーランド代表の
ソースクロフト判事以下、検事、弁護士、通訳その他で総勢85人に及びまし
た。彼等が目的とした証人の名は石原莞爾(元)陸軍中将です。
┌──────────
│編集部注:石原莞爾(いしわらかんじ)陸軍中将。
│
│▽▽ Navigator of the Historical term より ▽▽
│ http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/
│
│山形県出身の陸軍軍人で、昭和陸軍最高の戦略・戦術家。
│
│陸大卒・ドイツ留学の経歴を持つエリートで、昭和3(1928)年、関東軍
│作戦主任参謀として満州事変を主導「満州国」建設を推進。同じくエリート
│だった統制派の東条英機(陸相、後に首相)と戦争政策方針で対立し昭和16
│(1941)年予備役へ編入、左遷された。
│
│彼は熱烈な日蓮主義者で、来るべき「世界最終戦争」(日米両国による最終
│決戦−ハルマゲドン)での日本勝利の為、アメリカとは少なくとも十年は戦
│わないという、所謂「十年不戦論」などの独自の戦争論を展開した。
│
│参考資料:▽ 石原莞爾 恒久平和の使徒 ▽
│ http://homepage1.nifty.com/taku-nakajo/sakusaku/2_1.htm
└──────────

―― 石原中将は、持病の膀胱炎が悪化して自宅で病床に伏していました。

一人の人物の証言を得るためにこのような大勢での出張尋問が行われるという
のは極めて異例のことでした。

その頃、東京裁判は満州事変の審議に入り、その中心人物であった石原の証言
が極めて重要視されたのです。石原は陸軍士官学校、陸軍大学を抜群の成績で
卒業し、戦略戦術の才能では他に並ぶ者がないといわれました。

満州事変当時、石原は関東軍参謀でしたが、排日運動の激化により日本の立場
が苦しくなったことから事変を計画、実行しました。当時満州にいた軍閥の張
学良軍は33万3千人。それに対し関東軍は1万1千人でした。

なんと33倍に及ぶ敵と戦い勝利を収めたわけです。石原の戦術がいかに優れ
ていたかわかると思います。石原の名前はこの事変を通じて世界中に知られる
ようになりました。

―― 石原は独自の世界展望を抱いていました。

世界の戦争の歴史を研究し、技術力の発展が「世界最終戦争」を生むと考えま
した。それはアメリカと、日本を中心とするアジアとの間で戦われるようにな
るというのです。

そのためには、日本と中国の権益が衝突する満州問題を解決して日本、中国、
満州の提携を実現し、それを基礎に東亜連盟を結成してアメリカに対抗しよう
と考えたのでした。それ故石原は、後に生じたシナ事変=日中戦争)に対して
は反対の態度をとり続けました。欧米諸国のアジア侵略の実態を見据えてわが
国の将来の戦争を考えていたのです。

―――― 酒田臨時法廷において石原は冒頭、

満州事変の中心人物は自分なのに、何故戦犯にしないのかと裁判自体の偽りを
つき裁判官を慌てさせます。そして、満州事変を起こさざるをえなかった当時
の状況を説明し、自衛のための行動であったと主張しました。

その間、尋問に当たる検事の主張の矛盾を指摘するなど、石原の独壇場の感が
ありました。満州国建国が悪質な犯罪であるならば、その首謀者こそ真っ先に
訴追されるべきであろうと主張し、

終了後、傍聴していた記者が石原のもとに駆け寄り「将軍の言葉を聴いて、私
は日本人として初めて胸が晴れました。こんな嬉しいことはありません」と涙
を流して語ったといいます。

満州国のことについて、石原将軍しか知らない情報もたくさんあるはずだから
何をおいても石原将軍を戦犯として指定しなければ、これは話にならない。
ところが、極東軍事法廷の検察団は彼を訴追するどころか、形式的な審問をし
ただけでした。

―― ではなぜ、連合国側は石原将軍を東京の法廷に呼ばなかったのか。

確かに将軍は病気を患っていました。
だからといって発言が出来ないような体調ではなかった。

--石原将軍は東京裁判の開始から3年後、即ち裁判終結の翌年60歳で死亡--

巷間伝わるところによれば、将軍は「もし証言台に立てるのであれば、裁判官
や検事たちに堂々と“日本の言い分”を述べてやる」という趣旨のことを語っ
ておられたといいます。

石原莞爾といえば、日本陸軍最高の理論家と謳われ、欧州戦史を独自分析して
「最終戦争論」という本を書いた人で、おそらく将軍が東京法廷に出廷してい
たら、その当時の日本が置かれていた国際情勢から説き起こして、日本の立場
を説明してくれたのではないかと思われます。

もちろん、もし、そんな証言をされれば、連合国はたいへん困ったことになっ
たでしょう。
そもそも東京裁判は「日本は犯罪行為を犯したか」ということを調べるための
裁判でなく、最初から断罪するつもりで始めたものです。それを今更、被告の
言い分など堂々と開陳されてはたまりますまい。

石原将軍が訴追されなかった背景には、そういう判断もあったと思われます。

石原の態度はアメリカ人記者にも感銘を与え、夜、石原の宿舎で2時間半に及
ぶインタビューがおこなわれました。石原は原爆や都市の無差別爆撃を命じた
トルーマン米大統領こそ第一級の戦犯であることなどを鋭く指摘しました。

この記事はアメリカの新聞に掲載されました。

石原の堂々たる自己主張の姿は、東京裁判という勝者の裁きの下で卑屈になっ
ていた当時の日本人に、大きな勇気を与えたのでした。

                          =この稿つづく=
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