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┃ 満州回顧録続編 ――――――――――――― by gosakuさん
☆ 私見満州国論(3) ――――――――――――――― 2003/11/14

―――― 大中華民族論。

現在の中国人が、毛沢東時代から一転して「絶対不可分の神聖なる固有領土」
を叫ぶのは「大中華民族論」がそのバックボーンとなっている。

大中華民族論とは、“中国周辺諸国民族は大中華民族の一支族である”という
主張だ。十九世紀末の康有為、梁啓超ら中国人学者が唱え始めたものだ。しか
し、中国がこれをしつこく主張しはじめたのは文化大革命以降である。

ひとたび大中華民族主義が主張されると、全ての周辺諸民族の歴史は、中国の
ただの一地方に過ぎないことになってしまう。だから現在では、大モンゴル帝
国史も、チベット史も、朝鮮史の重要な一部である高句麗史も、渤海史までも
が「中国の一地方史に過ぎない」と主張されるようになった。

大モンゴル帝国も中国史の一部ということになれば、かつてモンゴル人が征服
した中央アジアやロシアまでもが「中国の神聖なる固有領土」だった、という
ことになる。事実、中国では学生にこう教えている。

中国人の「絶対不可分の神聖なる固有領土」についての主張には、一応論拠が
ある。だがそれは、“歴史に記録されているというだけだ。あるいはかつ
て征服、統治したことがあるという理由だ。

これが拡大解釈され、"中国を統治した者が征服した領土も中国人のものだ"
と言い張る。それが前述の“モンゴル帝国や清帝国が征服した地域は中国人が
継承するべきだ”という主張の論拠である。

満州史を語る場合にも、この中国人特有の歴史観に注意をはらいながら進めな
ければならない。でないと、知らず知らず彼等の歴史歪曲のワナにはまってし
まうからである。

中華思想では「天下は王土に非ざるなし」と説く。その天下思想とは、実質的
には万里の長城以南で、いわゆる「関内」が限界であり、「関外」は天下では
ないのである。

―― 彼等はなぜ長城を造ったのか。

長城はエジブトのピラミットのようなモニュメントではない。遊牧民と農耕民
を隔絶する壁であり、まさしく中国のベルリンの壁なのである。北は遊牧民の
生活圏である草原、南は中原の民(農耕民)の生活圏の可耕地である。

この二つの歴史世界にはそれぞれに独自の歩みがあり、それぞれの国家、民族
の興亡が繰り返された。

万里の長城の北側の世界とは、中国人が、自ら巨大な壁――万里の長城――で
分離した「中国人とは絶対いっしょになりたくない世界」なのだ。けっして、
中国人がこんにち主張するような「絶対不可分の固有領土」ではない。

満州が古来中国領土ではなかった論、和田清著「東亜史研究」の序文に

「満州は、もともと極東の辺陲(へんすい)の土地であるから、世界の片田舎で
 あったといえる。歴代の中国王朝からすれば、そこは化外の地(王化の及ば
 ないところ)であり、清朝の中国征服後にも、満州はその発祥の地であった
 関係から、発祥の秘事を暴かれることを恐れ、その研究を弾圧した。
 だから満州史は、従来もっとも閑却され、日本学者の一人舞台となった。」

と書かれている。

矢野仁一著「満州国史」満州問題に就いて」での
「満州は古来、支那領土ではなかった」論は有名である、また批判も多い。
矢野の主張は、

「満州の特殊性の第一は、満州が支那本来の領土ではないということだ。
 即ち満州は清朝の時代において支那の領土ではなかった。」
というものである。

その理由として、
「満州は清朝旗人の居住地として特別に保留されていた土地だからである」と
指摘し、清は
「満州人の王朝、帝国であり、中国人の王朝帝国ではないからだ」とある。

「満州国史」は
「恰も満州に一貫した国史があったかのようである、と国史を批判された。
 たしかに満州には多くの民族の興亡があり、国家の興亡があった。しかし、
 それだからといって国史が皆無であったというわけではない。
 満州族史があるのみという考え方もおかしい」
という考えである。

もし、満州国史というものがありえないのであれば、中華世界も、多くの民族
の興亡、王朝の盛衰、分裂や統一が繰り返されてきたわけで、支配民族の交代
が多く、中国史というものもありえないということになってしまう。

少なくとも、この方が論理的に筋が通っているのではないだろうか。

矢野仁一の「満州国史」は古代から満州はすでに「満州国」として存在したと
いう史観をもっている。
清王朝の乾隆帝国時代に編集された「四庫全書」は、中華大百科全書にあたる
書物である。この「四庫全書」では満州史については黄皇帝開国以来、中国と
並存する国家としている。

それに対して、「満州には一貫いた歴史がない」という説も有力である。

白鳥庫吉著「歴史上より観た満州国」では、
満州を満州族、モンゴル族、漢民族争覇の地として、これら三民族の波動が時
には北よりも南に、西よりも東に打ち寄せられたのであって、その歴史は断続
的であり一貫せる歴史がない、としているが、

それならば朝鮮史にも中国史にも諸民族の支配と歴史の断絶があり、満州国史
の一貫性のなさとはたいして差がないのではないだろうか。

もともと中国人は「満州」に対して、西域も、モンゴルも、同じようにすべて
關外(塞外)と称していた。
漠然と中華世界の外にある土地、と考えていただけだ。

だから「満州というところはない。東北と呼べ」という主張は、ご都合主義で
自己中心的な主張なのである。
史書には「満州」という呼称はあっても「東北」という正体不明な、ただ方角
方位を示す地名などは存在しない。

中華世界の内部であるなら華北、華中、華南、場合によっては「華東」という
呼称はあるにしても、中華世界の外側にある「満州」にはやむを得ず「東北」
という新呼称をつくるしかなかったのであろう。

                  = この稿つづく:次の記事へ =
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┃┃ お便りで頂きましたご意見・感想。
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┌──────────「PACKMANさん」〜一寸感想〜

戦中、戦後の歴史は見えないことが多いですね。

1977年、初めて中国に行った時、政府系のある高官との白酒入りの席での
話しですが、「中国は国家の統制力が強く、国の意思での事業がすぐ出来て良
いですね」との私の発言に、

「とんでもありません。中国は多民族で気候風土も違う広い国なので、国家の
統制は大変なのです。しかし日本は違います。あの戦争が、天皇の一声で秩序
の乱れもなく終結し復興した事は、中国からみれば恐ろしいと共に尊敬するこ
とで、日本の国家統制力の強さをあらわしています」

と言われ、ハッとしました。

空港反対、道路建設反対など遅々として進まない国家事業なんて小さい事、
日本は本当は怖い国なんでしょうか??

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

PACKMANさん はじめまして!コメントありがとう御座います。

現在でも、中国政府高官の言うように『日本は恐ろしい国」でしょうか?
戦後47年余りが過ぎ事態は当時とはかなり変わってきているとおもいます。

天皇の玉音放送で大きな混乱もなく終戦し連合軍を迎えられたのは、一大国難
にあたり、「一億一心火の玉だ!」というスローガンがまだ尾を引いていたの
と、占領軍の政策で精神的武装解除をされ、意気消沈し茫然自失の状態で迎え
た終戦でしたからでしょう。

又、神様であった天皇の放送は大変な効果があったと思われます。かつて神様
天皇陛下が自らマイクの前で放送されるなんて、誰が想像したでしょうか。

戦前、天皇神格化の教育は徹底していましたね。小学校の正門入るとすぐ横に
は二宮尊徳の像と共にに例外なく御真影殿と呼ばれる建物があり、祝祭日には
必ず全生徒を御真影殿の前に集めて校長先生が恭しくその扉をあけ、教育勅語
を朗読したあと、しばらく講演をするのが常でした。

順調に経済復興ができたのは、元々勤勉な国民性と高い教育水準、優れた技能
素質が、いまでこそ「官僚は国民の公僕です」なんていわれ、官僚主義は何か
と問題視されていますが、当時はまだまだ明治以来の官尊民卑の風潮が支配的
な中で復興に情熱を燃やしていた優秀な官僚の指導に従い、民衆は「泣く子と
地頭にゃ勝てぬ」、「お上の言う事にゃ逆らえぬ」と官民一体になって懸命に
働いた結果でしょうね。

天皇の玉音放送には逆らうどころか、皇居前広場に土下座して「こんな事態に
した我々は天皇陛下に申し訳ない」と号泣し、又自刃する者さえ数多くありま
した。

終戦後はアメリカ民主主義と呼ばれる個人利益第一主義が大歓迎され、生活に
も余裕ができて事態は一変しました。
国家公益より私益を優先し、自己を犠牲にしてお國の為にという人は大変少な
くなったように思われます。

いま現在、当時のような国難に襲われても指導者のひと声で事に当たることが
出来るか?ーーー甚だ疑問ですね。

└──────────
┌──────────「爺さん」

―――― 松本さんの実録、gosakuさんの博識には毎々敬意を表しながら
     拝読しております。

春頃、中国を旅したときに現地ガイドから聞いた話ですが、100余の民族を
統合して55に絞った。以前にはそれら民族のうちにヤマト族(日本)もあった
とのこと。

大中華民族論とは、“中国周辺諸国民族は大中華民族の一支族である”

!!まさに壮大。

└──────────
┌──────────「ヘイワアトムさん」男性@七十代@福井

満州回顧録以来、毎週拝見しております。

私達も、8月10日に無蓋貨車に乗って新京より安東に疎開しました。
当時10歳の私でしたが、赤レンガの安東の駅を思い出します。
鉄道員の各家庭にお世話になったと思います。

腹が減って辛かったのは今でも忘れません。
鴨緑江の土手で寝そべって、向う岸は朝鮮だぞ、と兄に教えられました。

安東には1ヶ月ほどおりました。
また新京に戻り、終戦前に召集されたいた父親とも再会でき21年9月、家族
全員が無事日本に帰ってきました。

次回を楽しみに待っています。

メルマガの評価は?・・・には該当する項目がありません。
ーーー涙して読んでおります。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

ヘイワアトムさん ご愛読ありがとう御座います。

安東は今は吉林省の安図と呼ばれているところでしょうね。

昨年夏休みを利用して娘と孫をつれて、図門と琿春に行って来ました。様変わ
りしていて、曾つての面影は全くありませんでしたが、図門江越しに北朝鮮が
目の前に見えて、当時を思い出し感無量でした。

一日中頭の中を占領していたのは、なんでもいいから「腹いっぱい食べたい」
ーーーそんな青春時代でした。飽食の現在では想像できませんね。

「私見満州国論」も終盤です。次は東京裁判の検証を予定しています。引き続
きご愛読をお願いします。

└──────────
※ OJIN 注:安東は現在の遼寧省丹東市になります。
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
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