┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃
┃ 満州回顧録続編 ――――――――――――― by gosakuさん
┃
☆ 私見満州国論(2) ――――――――――――――― 2003/11/07
―――― 満州国の崩壊は、アジアの理想の崩壊でもあった。
「満州国」は、アジア近現代史が今日も追い求めている国家のひとつのモデル
であり、夢だったのだ。其の夢とは「民族協和」である。
アジアの新興国家は今日、すべてが多数民族国家である。中国は50以上もの
多数民族複合社会である。中国だけではないベトナムもミャンマーも50以上
の民族が生活しているし、フィリピンやインドに至ってはそれ以上の多数民族
複合国家である。
アジアの国々にとって、「民族協和」を掲げた満州国は、まさしく多数民族が
複合する社会を建設する最高のモデルであった。満州国とは「第二のアメリカ
合衆国」を東アジア東北部に築きあげることが果たして可能であるのかどうか
という、壮大な実験でもあったのです。
そもそも中華民国も、アメリカ合衆国をモデルに革命派志士たちによって創ら
れた共和制国家である。しかしそれは見事に失敗し、いくつもの政府が存在す
る戦乱国家となっただけであった。
中華民国が失敗に終わった最大の理由は、2千年余にわたる「一君万民制」と
いう大きな歴史の重荷だったのではないか。その点満州国は中華民国とは違っ
ていた。満州は4千年来、ずっと中華世界の外側にあったからです。
―― そこには有史以来多くの民族と国家の興亡があり、多数民族国家の歴史
的経験もあった。
満州国とアメリカ合衆国が酷似している点としては、まず豊富な資源と未開発
の地域がたくさん残されていたことが挙げられる。それだけではない、とくに
強調されるのは、どちらも諸民族統合の新興移民植民地であることだ。
満州国には歴史的、地理的条件ではアジアの「アメリカ合衆国」と呼ばれるに
ふさわしいものがあった。未来への可能性も最も高かったのだ。
このような国家がアジアから消えてしまったということは、アジアの夢が消え
ただけでなく、アジア新興国家の国家モデルが喪われてしまったといってもい
いだろう。
―― 満州は19世紀まで「封禁の地」であった。
だから、ツングース系とモンゴル系の原住民以外、漢民族で満州に住んでいた
のは流刑に処せられた罪人、或いは盗掘、密猟の流民や匪賊という事である。
つまり全満州の住民は、原住民を除けばその殆どが匪賊、馬賊にかかわる家族
やその子孫であった。農民でさえ生活に窮乏すれば、馬賊の群れに身を投じ、
周辺の農民を襲撃することも多かった。
官憲も「官匪」兵士は「兵匪」学者にいたっては「学匪」と呼ばれた。
中国社会と何も変わらない、匪賊、軍閥跋扈の地獄だった。
だが、やがて満州の地は馬賊だけのものではなくなった。中国から大量の移民
が満州に押し寄せてきたからである。中国人の満州への移民が年間百万人を越
えたのは、殆ど日露戦争(1904―05年)以後である。
中国人=漢民族)はヨソ者である。もし日露戦争がなければ、満州はどうなっ
ていただろうか。満州は今日のシベリアと同じようにロシア人の移住者によっ
て埋め尽くされていたことは確実であろう。
日本支配下の満州は中国からの大量移民を受け入れたが、ロシアが中国人移民
を受け入れることが有り得ただろうだろうか。
―― 「中国の絶対不可分の神聖なる固有領土」
戦後の中国人がもっとも愛用している言葉である。台湾に対してだけでなく、
満州にも、モンゴルにも、チベットに対しても、そう発言している。
ーー十数億の民衆が一斉にそう叫ぶと確かに迫力がある。天下を鳴動させるこ
ともあるかもしれない。
だが、これは歴史的な事実といえるだろうか?
中国人の領土に対する貪欲な執着心は、実はそう昔からのものではない。例え
ばアヘン戦争=1840―42年)以後は、イギリスにも、フランスにも領土
を割譲している。日清戦争では、台湾を日本に永久割譲という形で手放してい
る。
また、戦争をしなくても、明代末期にはマカオをポルトガルに与えているし、
ロシアには、英仏と清帝国とのトラブルを仲裁しただけで、ウスリー江以東の
沿海州等の広大な領土を与えた。
もちろんこの時代は、清国だけが気前よく領土を他国にやっていたわけではな
い。ロシアも、たかだか七百二十万ドルでアラスカをアメリカに売ってしまっ
た。1エーカーがたったの3セントという安い値段である。
日本も、台湾経営の初期には反日ゲリラと風土病に悩まされ、帝国議会が台湾
問題を論議して、フランスへ1億円で売却が検討されたこともあった。
これらの事実は、どちらかというと近代以前と以後では、土地、領土に対する
考え方、つまり領土観が異なっていた事を意味する。つまり、国家と国家が、
“寸土必争”するような緊張関係は近代に入って以降のものなのだ。
―― 中国人が近代的領土観を持ち始めたのは20世紀に入ってからである。
それでも中華人民共和国成立から文化大革命=1966―75年)の時期まで
は「なんでもかんでも中国の領土」という主張などしていない。
中ソ・中印・中越との国境紛争はあったものの、それはどちらかというと国内
政治運動と連携しながら民衆の敵愾心を外敵に向けさせる必要からであった。
毛沢東主席時代の中国は「世界革命、人類解放」を目指していた。だから労働
者階級には国境などない、国家は死滅すべきだ、というドグマがまだ信奉され
ていた。当然領土意識は希薄だった。
たとえば毛沢東は、かつてベトナム労働党の幹部にたいして、四川省はタイと
ほぼ同面積でありながら、四川省の人口はタイの倍となっている。だからその
不公平を解消するためにはタイを解放して中国からの移民を受け入れるように
するべきだと主張した。
このムチャな考え方のベースにあるのは、当然世界革命である。実際、毛沢東
のこうした思想を背景に、当時のアジア全域で共産主義による解放闘争が吹き
荒れることになった。
= この稿つづく:次の記事へ =
┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃●┃ お便りで頂きましたご意見・感想。
┗━┛
┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」
「私見満州国論」などにご意見を頂いておりますが、当誌では他の読者が納得
できるようなシッカリした根拠のある傍証のない断定意見は採用致しません。
特に反論などのご意見の場合には、論拠を示さずにただ断定するが如き甘えた
態度のご意見では、真剣に執筆した者にたいして甚だしく礼を失することにな
ると思います。
他の多くの読者を納得させられるだけの論拠すら示せない主張は、即ちあやふ
やでいい加減なものであるということでしょう。よろしくお願いいたします。
└──────────
―― 以下のご意見は、上記の観点から掲載しない部類に属するものですが、
gosakuさんから懇切丁寧な答復がありましたので、今回に限り特に掲載
するものです。
┌──────────「xonaさん」女性@四十代@主婦@神奈川2003/11/07
"満州国の崩壊はアジアの理想の崩壊"という嘘は、戦時昭和時代の国史教育の
延長で、日本の最近の右翼化傾向の一つの現れです。
└──────────
▼
┌──────────「gosakuさんから」
xonaさん、ご愛読感謝します。
読み捨て、無視なさる方の多い中、貴重なコメントをありがとうございます。
戦時中の国史教育が、まったく正しかったとは申しません。
何故アメリカや中国と戦争をしなければならなかったのか? xonaさんたちが
学んできた占領軍によって作られた日本の戦前戦後史は正しいのか?
戦後、言論の自由が認められてから、多くの文献によって戦前の政策の活発な
検証も行われています。
東京裁判によって日本近代史が歪曲された結果の自虐史観、、に基づいた考え
はそろそろ変えて、左も右もない中立の立場で見つめ直してみられては如何で
しょうか。
━━━━ そもそもどこの国でも、占領すると相手国民に対して洗脳やら宣撫
工作を行うものです。日本の場合、台湾を領有し韓国を併合したときは、日本
と同水準に高めるために力を注ぎました。
満州国でも、建設のため莫大な資本投下をやったし、支那事変中の宣撫工作も
ありました。
それではこれらと対比して、アメリカの行ったハワイ併合、フィリピンに対す
る植民地支配、そして何百年にもわたったイギリス、オランダ、そしてフラン
ス等の植民地政策と較べてどうだったのか、また、ソ連の衛星国に対するイデ
オロギーによる独裁政治との比較も忘れてはなりません。
各国ともやり方が違うし、成功度にも差があります。これらを視野に入れなが
らアメリカの対日占領政策を再検討してみたいと思います。
━━━━ 昭和二十年(1945年)八月末、最高司令官マッカーサーの率い
る連合軍が日本に進駐し、九月二日、戦艦ミズリー艦上で降伏文書に調印して
日本は連合軍(実質アメリカ軍)の占領下に置かれました。
以後サンフランシスコ講和条約が発効するまでの六年九ヶ月、アメリカは日本
の「精神的武装解除」(バーンズ国務長官の言)に全力をつくしました。
「日本の終戦の受け止め方」として、日本は敗戦しても国家体制や国民意識が
一挙に崩れたわけではありませんでした。
同じように敗戦したドイツと較べてみればよく分かります。
ヒトラーはドイツの最後に臨んで降伏という屈辱に耐えられなかった。ドイツ
民族と共に焔と消えるという「美学」を実践したかったのです。そのため国民
に対して徹底抗戦を命じました。しかし、ソ連軍がベルリン市内に突入し身辺
が包囲されて、四月三十日に彼は自殺しました。
後任のデーニッツ政府は名ばかりで機能せず、五月二十三日に閣僚全員が逮捕
され、そして米・英・仏・ソ四ヵ国によって分割占領されました。
文字通り無条件降伏でした。
それに対して日本は、ポッダム宣言を「玉音放送」とともに整然と受け入れ、
尚、国民の天皇への忠誠心は変わらず、帝国憲法に従って天皇は元首でありま
した。
内閣は鈴木内閣から東久邇内にい交替しても、政府の機能は保たれていたし、
政府も全国民も、国体護持の信念をもって日本の再建を誓っていました。
さらに世界が驚嘆したのは、国体護持を祈って自決する人が後を絶たなかった
ことのです。
そうした人々の壮絶な遺志が当時の日本人には伝わっていました。
━━━━ わが国は、あれだけの大敗戦を迎えながら、軍・官・民のいずれも
が、一部の混乱を除いて平静そのものであったことは、実に驚くべき事であり
世界中から注目されました。
ストックホルムの読売特派員、喜多村からの送電が、九月二日同紙に掲載され
┌──────────
│世界はいま日本に対して二つの大きな”奇跡”を感じている。
│
│その一つは血で血を洗う国内的殺戮混乱なくしては到底成し遂げられないと
│みられた日本の降伏の大業が、彼等の予想に反してなんら国内秩序の乱れも
│なく達成されつつあること。
│
│今一つは、連合軍進駐に際してこれまた必至とみられた一部日本軍民の激情
│的な反撃が本土はもとより全戦線に亘って全然みられなかったことである。
│
│”特攻隊”に象徴された日本国民のあれ程の熱狂性が、一たび大いなる歴史
│の啓示をうくるや忽ち林の如く静かに湖の如く冷たく定められた運命に服す
│る変化は、前大戦末期のドイツおよびナチス・ドイツ壊滅の姿を日本に予期
│した彼等にとっては、奇跡的な姿として受け止められたに違いない。
│
│即ち日本の、連合軍に見せつつある静粛さは、停戦協定実施に対する誠意の
│表現ではなくして、ひそかに将来の復讐を期する臥薪嘗胆の姿ではないか、
│或ひは日本の国内的平静さは、敗戦の現実に対する認識の甘さではないか。
└──────────
ーーというものである。
GHQは、日本の整然たる和平に驚くと共に、不気味さを感じていました。
あれだけ勇敢に戦った日本。武装解除だけでは安心できなかった。
そこで取り組んだのが「精神的武装解除」でした。
それは日本国家自体を改造する重層的政策でした。
1.言論の・出版に対する圧力(新聞・ラジオの検閲)
2.日本近現代史への一方的断罪(極東国際軍事裁判)
3.教育制度と内容変革・米国教育使節団の干渉。
4.GHQ主導の新憲法制定。
この四つに分類された政策は同時並行的に強行されました。日本としては心構
えは出来ていましたが、次々に打ち出されてくる政策に、抵抗し反論する用意
はしていませんでした。
ポッダム宣言は「有条件降伏」であったのに、占領軍は恰も「無条件降伏」と
してふるまい、押しまくってきました。
━━━━ 先ず、東条英機元首相ら三十九名を「戦犯」として逮捕し、
続いて新聞・ラジオ等のマスメディアの支配を狙い、十四日には同盟通信社の
業務停止を命じ、更に占領政策に合致しないという理由で朝日新聞には十八日
から四十八時間の発行停止を命じました。
続く十九日には英字紙の「ニッポン・タイムス」が二十四時間の発行停止、十
月一日には「東洋経済新報」が押収処分を受けました。
さらに十一月になると「戦犯」の逮捕が続き、近衛文麿氏等九名が逮捕(近衛
は応じず自殺)され、開戦日にあたる十二月八日に合わせて、GHQ制の「太
平洋戦争史」が全国主要新聞に十回に亘り連載を強要されました。
これは、アメリカから見た日本の犯罪史で、翌年五月三日から開廷される予定
の「東京裁判」のプロローグでした。
占領軍は一方で「民主化五大政策」を掲げ、着々と実行に移していきました。
婦人参政権・労働運動・憲法改正・農地改革などあらゆる分野に斧をふるい、
これらの五大政策は、スターリン・ソ連のような全産業国営を原則とする社会
主義革命でなく、自由経済を基礎とする変革だから、その後の日本に好結果を
もたらした面はありました。
━━━━ さらに、精神の武装解除の方も米側は大きな成果を挙げました。
日本の国民意識は「格子なき牢獄」に気づくことなく、急速に変貌を遂げてい
きます。
・戦死者は犬死だった。
・アメリカから民主主義を与えられた。
・暗い軍国主義の時代から、明るい平和と民主主義の時代へ。
という風潮が、ジャーナリズムにも教科書にも及ぶようになり、日本人は占領
軍の前にカメレオンのように保護色を施したのか、それとも本心から豹変した
のか?
国家体制も国民の意識も変革させられた戦後の日本は、マッカーサーの演出に
よる「まさに革命」=高見順)であったのです。
アメリカのサンアントニに住むジョージ・ウエスト博士(法学)は日本女性を
妻にした大の知日派です。平成六年三月来日した際、
┌──────────
│あれ(現在の日本国憲法)は憲法ではない。
│日本人が憲法というなら、聖徳太子の十七条憲法と明治大帝の帝国憲法しか
│ないはずだ。
│あれはマッカーサーが作ったコンスティテューションだから、英語で呼ぶべ
│きものだ。
└──────────
と言っていました。そして更に、
┌──────────
│問題なのは、いまも変わらない敗戦による謝罪意識でしょう。
│日本はどんな犯罪を犯したのでしょうか。
│もしも日本が犯罪国家だというのなら、どこの国もが犯罪国家です。
└──────────
とも言っています。
└──────────
▼
┌──────────「爺さん」
―――― gosakuさんとxonaさんのやりとりを見て。
最近「覚える歴史」「知る歴史」「調べる歴史」(検証歴史)という講話を聞き
ました。“歴史は勝者によって造られる”とも言われています。
1.16世紀のはじめ、コロンブスの先導で、“神父”が引き連れたスペイン
人がアメリカ大陸に侵入。元々モンゴル系統の人々の住む大陸でもあった此処
を「新大陸」と彼らの歴史では言っている。
2.石器時代そのままの彼らを、銃や馬で征服、豊富な金・銀を採掘し本国に
持ち帰るのに、現地人を奴隷以下に扱って苦しめ殺戮し、僅かの年数で膨大な
人口を90%も減らしてしまったといわれている。
単身赴任した官吏は手当たり次第に女子に子を産ませ、その後の白人・黒人と
混ざり合って何十種類もの民族が発生した。私はあるスペイン人にこれをどう
考えるか?と問うたら、「我々は彼らを解放したのだ」との答でした。
近代日本の歴史は、無垢の若者の手で一次資料を発掘し検証して貰わねばなり
ませんね。
└──────────
┌─────────「気分は情報無限さん」男性@三十代@大阪2003/11/14
☆私の満州国論(2)2003/11/07を読んで
そもそも日本の地理や歴史教育には根本的な問題があって大半の人間が万里の
長城は満州の北側で旧ソ連国境周辺に建っていると勘違いさせられています。
中国共産党の宣伝政策の上手さでしょうか?
それとも日本のマスコミ及び教育者の怠慢なのか?
しかし、それにしても満州国がアジア版の連邦共和国だったとは大変興味深い
話だと思います。
└──────────
▼
┌──────────「gosakuさんから」
"気分は情報無限さん"コメントありがとうございます!
一応関係文献で確認し参照しながら書いていますが、”私見”とお断りしてあ
りますように、僕の偏見と独断によるものも、かなりの部分を占めています。
正直「絶対です」と断言出来るものではありません。
しかし「私見満州国論」の次に予定している「東京裁判の検証」に書くつもり
ですが、明治以後の日本の歴史を一方的な「侵略戦争」と断罪する「東京裁判
史観」により曲解され、歪曲された"満州国論"では、正しい歴史を捉えること
ができないのではないでしょうか。
東京裁判でインドのパール博士(極東軍事裁判の判事)は、堂々と日本の無罪
と正当性を主張しました。
そして日本国民に送る金言として、次のように語っています
┌──────────
│欧米諸国は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史に留めることによっ
│て自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の17年間の経緯
│を罪悪と烙印することが目的であったに違いない。
│
│・・・私は1928年から45年までの十七年間の歴史を二年七ヶ月かかっ
│て調べた。この中には恐らく日本人の知らない問題もある。それを私は判決
│文の中に綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそが憎むべきアジア侵略の
│張本人であることがわかる筈だ。
│
│それなのにあなた方は自分の子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は
│侵略の暴挙を敢えてしたのだ」と教えている。満州事変から大東亜戦争に至
│る真実の歴史を、どうか私の判決文を通し充分研究していただきたい。
│
│日本人の子弟が、ゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流れて行く
│のを私は平然と見過ごすわけにはいかない。
│
│誤りたる彼等の宣伝の欺瞞を払拭せよ!
│誤りたる歴史は書き改めねばならない。
└──────────
今こそ日本国民は、欧米や中国の日本誹謗の戦時宣伝を払拭して、歴史の真実
を探求し、歴史の真実に開眼すべき時ではないでしょうか。
└──────────
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
|