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┃ 満州回顧録続編 ――――――――――――― by gosakuさん
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☆ 私見満州国論(1) ――――――――――――――― 2003/10/31
現在の日本でも建前上は満州国は"なかった"ことに"一応"なっています。
日露戦争後に、ロシアから南満州鉄道=満鉄)の権利譲渡を受けた大日本帝国
は、それを足がかりに中国東北部に進出、満州事変を契機に「満州国」建国を
宣言しました。
――つまり満州国は日本の軍部が作り上げた"国家の体裁を装った占領地"だっ
た、そのように現在の(日本の)歴史教科書には記されています。
満州国が"なかった"といわれる経緯として、満州事変に端を発する日中戦争か
ら大東亜戦争に至る時期の日本の歴史的活動に対し、ひとつの評価を決定づけ
たのは、大戦後に戦勝国側が敗戦国日本を裁いた東京裁判です。
東京裁判では、第二次世界大戦に至る日本の行動の全ては戦争犯罪とされ、そ
の中での満州事変は関東軍の謀略であり、謀略によって成立した満州国は傀儡
国家であり、満州国成立後も勢力拡大を求める軍部の独走を日本政府は止めら
れず、太平洋戦争になだれ込んでいった。
こうした説明の仕方が採用され、不当な拡大侵略を行った日本の国家犯罪が裁
かれ、満州国が国家では"なかった"という評価がそこで"公式"(?)に定まり、
戦後の日本が資本主義陣営の一翼を担うべく、東京裁判で「裁判官」を演じた
アメリカに追随する道を選択した為、裁定に対する異議申し立ては基本的にな
されぬまま戦後の時間が過ぎてきました。
しかし、戦後の世界がそのまま戦勝国対敗戦国という二分法だけで進めば波紋
もなかったのでしょうが、そこに更に資本主義陣営対共産主義陣営という二分
法が重なった為複雑となり、一種のダブルスタンダード状態が起きてしまいま
した。
戦争犯罪人の処遇についても、そうした事情がうかがえます。
たとえば東条英機氏らを戦犯として処刑したまでは、東京裁判史観は潔く徹底
されていましたが、東京裁判で戦犯と看為されていた人物の中には、戦後日本
の資本主義経済体制の強化、あるいは日本が西側陣営の一員として軍備義務の
分担遂行をするうえで役立ちそうな人材が少なからず含まれていたため、東西
冷戦構造が出来上がって日本が資本主義陣営に組み込まれた時点で彼等は放免
となり、やがて戦後日本を動かす要職に帰り咲いていったのです。
とはいえ、アメリカが東京裁判史観そのものを否定したわけではなく、それは
それ、しかし戦後は戦後だという立場でした。しかし、ダブルスタンダードの
適用により、東京裁判の「タガ」が緩んだことはたしかであり、
「日本は悪くなかった」
「日本は自分なりに考えて、真っ当なことをやったのだ」
「戦争ってのはしょせんこんなものだ」
的な議論が息を吹き返す土壌を醸成したことは否定できません。
このことが「満州国」に対する評価に反映しないわけがなく、日本の大陸進出
を巡って、それをハッキリ「侵略」と形容するか否かという議論があり、教科
書が教科書として認定されなかったりするなど話題になったことが何度もあり
ました。
戦後50数年が経過して、若い世代のなかには、日本が太平洋戦争に勝ったと
思っている者すらいるらしい。
TVの常套手段である、六本木辺りで遊びまくっている女の子に突然マイクを
向ける取材で
「エー、日本は負けたんですかアー?じゃどうして円が強いんですかアー?」
ーーなんて声が聞かれる。
彼女たちがウケを狙うほどシタタカな演技派でもない限り、東京裁判史観的な
見方が頑なに教えられていた時代は少なくとも過ぎた。あるいは教えられてい
るとしても伝わっていない。
ーー歴史観としてそれが風化しつつあるのは確かかも知れない。
そんな状況を感じている頃、中国東北に旅行した友人が持ち帰った現地の旅行
ガイドブックは、日本語表記のバージョンでしたが、「偽国務院」「偽皇居」
「偽法務院」等々、いたるところ「偽」を冠した建物のパンフレットでした。
「満州国時代に造られた建物が今もずいぶん残っているけど、それらには皆、
"偽"がつくんだ、あの国はなかったことになっているから」
ここまで徹底されると、いかにも満州国が「なかった」かを示す執念の強さに
驚きます。トゲをもって眼を刺すように鏤められた「偽」の文字がそれを強く
主張していました。
――満州とは、そもそもツングース系とモンゴル系の諸民族のものであった。
有史以来こうした北方系遊牧民が活躍し、多くの国家と民族の興亡盛衰があっ
た土地である。
北アジアと東アジアとの間に横たわる万里の長城は十七世紀から清王朝(16
16―1912年)の中華世界=漢民族の中国)征服によって、歴史の分水嶺
としての役割を終了した。
北アジアと東アジアは清王朝三百年間、一つの連続体となっていたのである。
しかし19世紀中葉には、満州の地も少しずつ変化し始めていた。
アヘン戦争(1840―42年)後、ロシア勢力の南下により、満州の勢力地図
には大きな変化が起きつつあった。更に日清戦争(1894―95年)、義和団
事件(1899―1901年)、日露戦争(1904―05年)などによって、満
州の地図は大きく塗り替えられたのである。
もちろん清朝内部の激変も満州の変化をいっそう加速させた。18世紀以降、
中華世界=漢民族の生活空間)では、自然環境と社会環境に加速的崩壊が続い
ていて、これが大量の漢民族流民を生み出し、それが満州に流れ込んで、満州
の地は変わっていった。
特に回乱=回教徒の反乱)を契機に、列強諸国勢力の脅威から清朝は満州への
移民を解禁することになった。それまで満州は「封禁の地=立入禁止の土地」
であり、漢民族は足を踏み入れることが許されていなかったのだ。
満州族と漢族との結婚禁止も廃止され、民族融和も進められた。
しかしここに、それまでの変化が一気に堰止められるような出来事が起きる。
清朝が孫文らの「駆除韃虜、恢復中華」「滅清興漢」をスローガンとする革命
派によって打倒されたのである。=辛亥革命・1911年)
――辛亥革命後、
十七世紀以降に清国が征服した土地は全て中華民国に継承されるのか?
それともそれぞれ満、蒙、回=ウイグル)蔵=チベット)の諸民族が分割相続
するのかという、いうならば"遺産相続問題"が生じたのだった。
ここに、さらに列強諸国が介入した。
こうして生まれたのが「満蒙」問題、あるいは「満蒙、彊」独立問題である。
また今日の「チベット」「新疆」独立問題も然りである。
清朝も、末期にいたる頃には満州人はすでに"民族"としての団結力を失いつつ
あった。清朝が滅亡した後、もはや帰る故郷もない、中国社会への"置き土産"
的な境遇におかれていた。
列強が覇を争う時代、満州は南北に分かれて日本とロシアの勢力下におかれ、
中華世界からなだれ込む流民の新天地となっていった。
清朝崩壊後、20世紀初頭の満州を支配したのは所謂"満州軍閥"である。
軍閥による満州支配というのは、ひと言で言うなら「苛斂誅求」。
貨幣制度は乱れ、満州経済は大混乱に陥った。日本人は、その満州社会の停滞
と、どん底の貧窮状態を近代的な資本主義社会へと改造したのだ。
日本のやり方は、西欧列強諸国がアジアで行ってきた植民地的支配、収奪とは
まったく異なっていた。近代国家建設の理想と情熱をもって、立ち遅れていた
満州を開発し、わずか13年半という短期間で近代化社会を築き上げた。
現在の日本人は、贖罪や郷愁といったメンタルな感情を捨て、より冷静冷徹な
視点に立って満州国を直視し直すべきではないのかと思う。
――――主要参考文献、黄文雄著「満州国の遺産」 武田徹著「偽満州国論」
= この稿つづく:次の記事へ =
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┃●┃ お便りで頂きましたご意見・感想。
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┌──────────「大原敬一さん」男性@八十代@北海道
私達でさえ知らなかった満州の歴史が良く理解できました。
私共の小学校時代は昭和五年からでしたが、国史教育で何故か明治以後の事が
簡単にしか書かれていませんでした。旧制中学校の東洋史も中国や満州の事に
ついてはホンのさわりだけでした。辛亥革命の事など始めて知りました。
gosakuさんという方は相当な勉強家ですね。
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┌──────────「gosakuさんから」
大原様 ご愛読アリガトウ御座います。
「盲、蛇に怖じず」で OJIN さんに唆(そそのか)されて満州回顧録を書き始め
て以来いろいろ書きなぐって参りましたが、勉強家といわれると、お尻がコソ
バユイ(くすぐったい)ですね。
しかし、歴史は面白いですよ!
謎解きのようなもので各種文献を照らし合わせて違った個所を組み立てていく
と、真実が見えてくるような気がします。病み付きになってしまいそうです。
"私見"満州国論に続いて、極東軍事裁判の検証を始めます。
引き続きご愛読をお願い致します!
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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