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┃ 満州回顧録続編 ――――――――――――― by gosakuさん
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☆ あるシベリア抑留者の回顧談(5) ―――――――― 2003/10/24
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┃シ┃ベリアでの捕虜が課せられた強制労働の過酷さは、
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たとえば鉄道建設で枕木一本に一人の人柱が立ったという表現がされている。
捕虜の起床は午前六時です。シベリアの冬は日の出が遅い、空が白み始めるの
は八時を回ってからです、午前六時はまだ真っ暗です。起床の合図は営門の柱
に吊るしたレールの切れ端をハンマーでたたく音です。
カーン!カーン!と、凍てついた闇を切り裂くその音は、疲れはてて眠る捕虜
たちには奈落の底からの呼び声のように感じられました。それは二十四時間の
日々の営みのなかで最も恐ろしく、残酷な時間でした。
まどろみの夢から現実の世界へ無慈悲に引き戻される瞬間でした。鈍い動作と
引きずるような足取りで食堂へ向かう、洗顔や歯磨きはもうとっくの昔に失わ
れていました。
第一、冬のシベリアではすべてのものが凍り付いて水など満足にありません。
せいぜい、雪をつかんで顔にこすりつけるくらいが関の山です。朝食が終わる
と営庭に整列して点呼を受ける。この点呼がまたひと仕事で、ソ連の警備兵は
算術が出来ない。なかなか人数が合わず、三十分や一時間の立ちん坊は普通で
捕虜たちは足踏みしながら極寒の冷気の中で出発を待ちました。
点呼が終わると、自動小銃を構えた警備兵に前後左右を囲まれ、五列縦隊で作
業現場へ向かいます。警備兵は「ダワイ」「ダワイ」(早く)と怒鳴って、小銃
の台尻で捕虜の体をこづいた。
行進中の私語は出来ません。また、隊列から脱落すると逃亡とみなして射殺さ
れます。体の弱っている者には、雪道が凍りついて滑りやすい冬は大変危険で
した。
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┃ソ┃ビエット社会主義とスターリン体制を支持する者は民主主義者で、それ
┗━┛に反対する者、積極的支持を表明しない者はすべて反動とよばれ、ほと
んど毎日吊るし上げの集会がありました。直接の暴力こそ少なかったものの、
罵詈雑言、誹謗中傷といった言葉による集団暴力でした。
その原因は、アクティーブとして、収容所でつくった役職につくと労働を免除
され、当局の覚えめでたい活動家であることのお墨付きでした。
当局は、社会主義思想、スターリン思想をより深く学習した者から順に日本へ
帰国させると言明していました。そのため「ダモイ民主主義」つまり帰国した
い一心で、にわかに民主主義者になりすます者が多数現れました。
彼等が決まり文句にしたのが「反動は日本に帰すな!」であり「反動は白樺の
こやしに!」でした。反動のレッテルを貼られることはシベリア終身刑か死罪
の意味でもありました。
「ロスケ!」と一言口走ったため吊るし上げられた戦友がいました。
「だれか、ロスケと言った者がいる、日本帝国主義の反ソ感情をむきだしにし
たこのロスケという言葉は、先進的な俺たちの収容所では、もうとっくの昔
に精算されたはずだ、今日またこの言葉を聞いて、俺は残念で仕方がない。
意識の低い同志はここに出てきてみんなの前で自己批判しってもらいたい」
「意義なあーし!」
しかし誰も出て行く者はなく、発言者は再び椅子の上に立って
「オレはさっき同志的愛情をもって自発的な自己批判を求めた。しかし、オレ
の好意は報われなかった。この上は、やむをえないから摘発する、さっき、
そばで聞いた同志は、誰がいったのか名前をあげてもらいたい」
参加者の一人が「岩瀬です」
「岩瀬、すぐここへ出たまえ」
「出ろ出ろ!」
「早く出ないか、この野郎!」
引きずり出された岩瀬は脅えきっていました。
「君はロスケという言葉が、反ソ感情から生まれたものだということを知らな
かったのか?」
「・・・・・・」
「はっきり言わないか、この野郎!」
「知らなかったとはいわせないぞ」
取り巻いた円陣の中から罵言のつぶてが飛んだ。
「すみませんでした」
「すみませんじゃない、知っていいたかどうかと聞いているんだ」
「知っていました」
「ふてえ野郎だ!」
「意識的な反ソ分子だ!」
「吊るし上げろ 」
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┃収┃容所ではめったな事はしゃべれなかった。
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どこの壁に耳があって、誰が何を告発するかわからなかった。うっかり口をす
べらせて反動の烙印を押されたらそれこそ命とりになりかねませんでした。
少なくとも村八分、そして帰国の夢が遠のくのは確実でした。
「今だに後味の悪さが残っています、だから帰国後も限られた戦友以外交流が
ないんです」
「吊るし上げはね、ぱーっと批判的な言葉をね、浴びせれば浴びせるほど共産
主義に共鳴していると認められるんです。それがいやでしたね。お互いにア
ラ捜しばっかりでね」
「たとえばね、おい、今度日本に帰ったら団子食って、その次に汁粉を食って
なんて話が出来ないんです。どこそこへ遊びに行きたいとか、そういうよう
なブルジョワ的な発言っていうのは一切できなかった。軽率なことはしゃべ
れない。
みんな、言葉尻を捉えられないよう細心の注意をはらっていました。まった
くたまらんですよ」
反論は禁物で、指弾を受けた者は黙って耐えるしかありませんでした。
私も吊るし上げられましたし、また吊るし上げに加わった経験もあります。
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┃聞┃くところによると、
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このような民主運動はドイツ人はじめヨーロッパ諸国のシベリア捕虜の間では
起きなかったといわれています。日本だけのようです。
それはひとつには、日本独特の旧軍組織の圧迫が大きく影響していたのではな
いか?と思われます。
民主運動のそもそもの発端は、旧将校らの支配体制に対する下級兵士の反乱で
した。そしてこの運動の成果が、階級章や私的な当番兵の廃止であり、ビンタ
の追放でした。
「民主運動はマイナスばかりじゃない、プラスもあったんですよ」
「あの運動があって、僕たちは本当に、こう、助かったんです。階級章を外す
なんてことが実際に出来たときにはヤッパリ嬉しかったですよ。あれがなかっ
たらもう、兵たちはもっとたくさん亡くなっていたでしょう。要するに民主主
義っちゅうのは、だれもかれも平等にしたんです。そいで食事も一律に平等に
もらえるようになったし、本当に、僕たちが帰国する一年前ぐらいから、立派
なひとつの秩序ができたんですね」
「リーダーは○○天皇とよばれて、随分威張っていました」
彼等は労働を免除され、特別食を食べ、外出も許可されていましたね。
取り巻きを連れて所内の中を見回っていて、捕虜たちは、かっての師団長巡視
さながらに平身低頭して奉迎していました。前歴が憲兵とか特高とかの兵隊を
探し出し「反動」の烙印をおして囚人ラーゲリに送るのが仕事で、人民裁判で
吊るし上げのときには、台の上に立ってむやみに怒鳴っていました。
「同志諸君!戦時中、天皇や階級をカサに、我々兵隊を虫けらのように扱った
特権を許すな!!」
反動とされたのはエリート将校、憲兵、警察官、特務機関員、弁護士、新聞記
者、などでした。
密告が横行して、身に覚えが無くてもいつ対象にされるかわからず、それを避
けるには取り巻きになるか、平身低頭して恭順を示すしかなかったのです。
―――― しかし、ここまで!!
┌--------
│病床のシベリア抑留体験者から聴書きをしてまいりましたが、
│容態が急変し集中治療室に入れられたため取材ができなくなりました。
│
│ーー真に残念ですがここで中止せざるを得ません。
│
│以下は、取材中に私が集めた資料の中にあった
│アルハンゲリスキー著の一節ですが参考に要約しておきます。
↓
┌──────────
│日本は正々堂々と胸を張ってクレムリン当局に要求するべきだ。
│
│これまで日本の対露交渉は、北方領土問題にしぼられていた。しかしロシア
│人は、北方領土は太古の昔からロシアの領土であり、日露戦争で日本に奪わ
│れた、と信じきっている。領土問題をロシア人に判らせることは極めて困難
│で、例え百年経っても解決はできまい。
│
│それよりも抑留問題を前面に打ち出すべきだ。
│
│ロシアには「収容所群島」の犠牲者を出していない者は(親戚まで含めれば)
│極めて稀である。日本はそこに食い込むため、次のことを要求したらよい。
│
│1.関東軍は天皇の詔勅と政府の命令によって自発的に武器を置いた。
│ ソ連軍はそこを攻撃して大量の捕虜を作った。
│ ロシア国会はその事実を認め、日本に対して謝罪をすべきである。
│
│2.ロシアは9月3日を"対日戦勝記念日"にしているが、これを廃止せよ。
│ ソ連は勝利したのではなく侵略をしたのである。
│
│3.日本人捕虜を強制的にソ連国内に拉致したことを認め、経済復興に協力
│ した抑留者に対して賃金を支払い、遺族には五十倍の額を払うこと。
│
│4.日本人が建設したバイカル・アムール鉄道は、これを"日本幹線"と改称
│ せよ。
└──────────
以上、訳書10項目から4項目を紹介しました。
= この稿おわり:次の記事へ =
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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