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┃ 満州回顧録続編 ――――――――――――― by gosakuさん
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☆ あるシベリア抑留者の回顧談(4) ―――――――― 2003/10/17
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┃越┃冬一年目の本格的な寒さはすぐやってきた。
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シベリアの冬は人間を寄せ付けない。文字どおり雪と氷に閉ざされた茫漠たる
荒野です。川は厚さ2メートルにも結氷する。マローズと呼ばれる寒波が間断
なく押し寄せる。
猛烈な吹雪を伴うブラン=雪嵐)のなかでは、動物も草木も命あるものはすべ
て死に絶えたようになる。
氷点下30度の屋外はまるで針で刺されるような痛さだ。ガラス窓には指二本
分の厚さで氷が凍てつく。凍った道路にツルハシを打ち込んでも、激しい火花
が散るだけで、人間の力ではまるで歯が立たない。
薄暗い裸電球の地下小屋に閉じ込められた我々は、空腹と重労働に押しひしが
れて、叫びだしたい望郷の念に心をかきむしられて悶えて暮らさなければなら
なっかた。
我々の班は石炭の露天掘り作業でした。厚さ数メートルの表土を削り取ったあ
と、石炭層に垂直に穴をあけ、そこへダイナマイトを仕掛けて砕き、一輪車で
集めて貨車に運ぶ仕事です。
多くの者が体調を崩して病棟へおくられたが、薬は無く、横になって自然快癒
待つだけで、毎日毎日、埋葬のため収容所の庭に並べられ、やがて安置所へ運
び出される死体の数は四、五十体を下らない数でした。
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┃私┃も一度血便と下痢が一ヶ月続き、歩くのがやっとの状態になり病棟送り
┗━┛になりました。
患者の半数が、栄養失調に続く下痢患者でした。便所へ行く元気もなく、寝台
の上で漏らしてしまう者もいて、部屋中は臭気でムッとしていました。あちら
もこちらからも、苦し紛れの異様なうめき声が聞こえ、死の妖気漂う病室は、
なんともいえない特有の臭気につつまれていました。
その上、病室は蚤とシラミと蠅の巣でした。むせ返るような臭気と蚤やシラミ
の襲撃を恐れて、重病人があっても軍医は容易に病室に入ってきてはくれませ
ん。何回も呼びに行ってやっと連れてくると、美味そうな贅肉たっぷりの軍医
に、「待ってました」と言わんばかりに蚤どもは、バラバラッと足めがけて飛
びついて行く。
「ああ、痒い痒い!また蚤の襲撃か、敵わんなあー」
軍医はろくに診断もぜず、瀕死の重病人を置き去りにして戸外へ飛び出してし
まいます。戸外で追っ払われた蚤どもは皆戸口の集まってきて、人が通るたび
に五、六匹ずつバラバラッと飛びつき猛攻撃するのだから、たまったものでは
ない。
シラミはまた、肌着の縫い目の塹壕に白い偽装をして隠れていて、ときどき肌
に食い込み、血をたらふく吸い込んで赤黒いはらを隠しながら散開しつつ匍匐
前進です。寝ている身体は蚤とシラミの勢力圏争奪戦場と化して、長い夜も、
蚤とシラミの襲撃でウツラウツラすることしかできなかった。
ひと口に一日の死者四、五十人というが、これほどひどい死に方は、世界中ど
この病院でも見られなかったでしょう。病死の原因は、主に栄養失調と赤痢、
それに壊血病、肺侵潤などで、また十人の内二、三人は夜盲症に罹っていまし
た。
夜便所に行きたくも辺りは真っ暗で遠くの電灯がボンヤリ霞み、火の玉になっ
て見えるだけです。やっと手探りで外に這い出し、ところかまわずやってしま
う。用便の為誤って柵に近づいてしまい、射殺される者が後を絶ちませんでし
た。
患者の中でどうやら元気な者は死体運搬や墓穴堀りの作業をやらされました。
これが一番嫌な仕事でした。
死んだ同僚の遺体を、しかばね室と呼ばれる十畳ほどのレンガ建ての安置所に
運ぶのです。カチンカチンに凍った戦友の遺体を、この安置室に井桁状に積み
上げました。
「俺もいずれこんな姿になるのかなあー」という思いが頭をかすめました。
恐れおののきながらもある種の諦めを抱いて、他人事のような無関心、無感覚
が身についてしまったのでしょう。他人に対する徹底した無関心は、シベリア
捕虜収容所で生き延びる大切な手段の一つでした。
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┃病┃棟では定期的に病状診断がありました。
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診断といっても、問診のほか、まず全員裸にされ、軍医が肉付きを見て、次に
尻の肉を引っ張るだけです。
尻の肉の弾力を見て、一級から六級まで分けられ、一級は退院、二級は軽作業
を、三級以下は作業免除です。四級は老年、病弱者で、五級は重傷の怪我人、
6級は別の専門病院に転院させられた。
私の場合、栄養失調による下痢で、入院した当初は三級でしたが、やがて二級
になり軽作業をしばらく続けました。
「食べるもんといったって、黒パンとニシンかなんかのスープ、それに薄い
お粥だけでしょ。それでね、もう体重が三十五キロくらいになりました」
死神の誘惑を振り切った経験から言うと、
┌--------
│栄養失調になって下痢をしたら、食べ物を一切口に運んではいけません。
│食べたら絶対に死にます。私は食べたら死ぬということを知っていました。
│
│そういう時はどうするかというと、炊事場へ行ってスープのダシをとった後
│の羊の骨がありますね。あの骨をね、黒こげに焼くわけですよ。それをね、
│潰して飲むんです。そうしたら下痢が治る。自分でつくってね。
│
│栄養失調だからといって誰も薬はくれませんから。
│
│寝床は二段になったいましてね。僕は下に寝とったんですが、朝起きたら上
│の人が亡くなってたとかね。栄養失調の人は苦しまずに亡くなるんですね。
│私もこのままいっちまうかなと思ったこともありました。
└--------
栄養失調で慢性の下痢を伴うようになると最終段階といわれています。身体が
むくんで飢餓浮腫とよばれる危険な状態になる。前夜隣のベットで話していた
患者が、翌朝になると人知れずヒッソリと死んでいた。シベリア抑留では戦友
の死を悲しむ感情は失われ、同僚の死を悼む感覚も麻痺していました。
それが抑留されてシベリアで生き延びるということでした。
一日分の食糧は、大体黒パン350グラムとカーシャと呼ばれる雑穀粥、ある
いはスープだけでした。お粥やスープは、二人分が一個の飯盒で配給され、そ
れも七分目程度です。ノルマ達成率110%以上の優秀者"ラム"は一級の認定
を与えられ450グラム支給された。100%達成の者は二級で350グラム
80%は250グラムという具合でした。
黒パンは、朝にまとめて支給されるので、自分で三回に分けなければなりませ
ん。腹が減っているからといって朝まとめて食べてしまうと、昼も夜もパンな
しで過ごさなくてはなりません。
パンの支給の際は、誰もが端の方を欲しがった。外側の固い皮の部分が腹持ち
がよかったから。また中には支給されたパンを水に浸して食べる者もいた。
こうすればすこしでも満腹感がでるような気がしました。
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┃私┃達が味わった最大の苦痛は飢えでした。
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「食糧の絶対的な不足の元では、食罐組の存在は、おそかれはやかれ相互間の
不信を拡大させる結果にしかならなっかった」
食罐組とは、ひとつの飯盒に入った粥やスープを食べる二人一組のことです。
ひとつの食器を二人でつつき合うのは、傍から見れば何でもない風景ですが、
当時の私たちの、這いまわるような飢えが想像できるなら、この食罐組がどん
なに激しく神経を消耗することであるかが理解できるでしょう。
私達は、ほとんど奪い合わんばかりの勢いで飯盒の三分の一にも満たない粟粥
を、アッという間に食べ終わってしまいます。結局、こういう状態が長く続く
と、腕づくの争いにまで到りかねないことを予感した私たちは、出来るだけ公
平に食事がとれるような方法を考えるようになりました。
先ず、両方が厳密に同じ寸法の匙を手に入れ、交互にひと匙ずつたべる。しか
しこの方法も、同じ大きさの匙を手に入れることが殆ど不可能であり、相手の
匙のすくい加減を監視する煩わしさもあって、あまり長続きはしなかった。
次に考えられたのは飯盒の中央へ板または金属を立てて、内容を折半する方法
である。しかしこの方法も、飯盒の内容が均質の粥類のときはいいが、豆類な
どのスープの時は、底に沈んだ豆を公平に両分できず、仕切りの隙間から水分
が相手方へ逃げる恐れもあって間もなくすたれてしまいました。
食事の分配が終わった後の安堵感は、実際に経験した者でないとわからない。
この瞬間には、まるで嘘のように敵意や警戒心が消え去り、無我に近い恍惚状
態がやってくる。もはやそこにあるものは、相手に対する完全な無関心であり
完全に相手を黙殺したまま「一人だけ」の食事を終えるのです。
このような凄まじい食事が日に三度、必ず一定の時刻に行われるのです。
自分を取り巻く一切のものに対する冷淡は、極限状態になった人間の自己保存
本能なのでしょう。
= この稿つづく:次の記事へ =
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┃●┃ お便りで頂きましたご意見・感想。
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┌──────────「м.мさん」男性@六十代@自営@東京
食事の分配の話、涙が出るようです。
極限の世界でとにかくも公平に分配しようという知性が働いた皆さんを尊敬致
します。
私の引き揚げ時の経験など、他の方々に比べれば天国のようなものでしたが、
その中でも食事の分配は公平ではなかったと思います。
私の場合は、食事はスイトンが多かったのですが、父が団長をしていた関係で
「団長さんの家族は一番に」というわけです。聞こえはいいのですが、スイト
ンの上澄みをサッとすくうと中身は汁と子供にとっての天敵であるネギだけ。
食事係は最後に沈んでいる実を堪能する、という図式でした。子供心にも情け
ない気持ちでイッパイでした。
引き揚げてからその当時の人たちに会うことがあっても、私にはスイトンと重
なって親しみはわかなかったものです。
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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