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┃ 満州回顧録続編 ――――――――――――― by gosakuさん
☆ あるシベリア抑留者の回顧談(2) ―――――――― 2003/10/03

シベリア抑留者の三重苦は、「厳寒、飢餓、重労働」であったと言われていま
す。特に第一年目の冬は双方の不慣れ、ソ連側の準備不足に異常寒波の襲来が
重なり犠牲者が続出した。

1991年春、ゴルバチョフ大統領が訪日時に持参した約4万人の死亡者名簿
を見ると、大半がこの時期に倒れている。正確な統計数字が残った唯一の例と
される沿海州第十五地区第十三分所(第18作業大隊)の例では、982人の
入所者のうち死亡者は112人だが、1人を除く全員が第1年目の冬に倒れ、
その死因の60パーセントは栄養失調となっています。

1500人のうち850人が死んだ極端な例もありました。B・ガリッキーは
「当時のソ連国民の暮らしは、日本人よりも劣悪であったが・・力の及ぶ限り
のことを成し遂げた」と弁明しているが納得する日本人捕虜はおそらく一人も
いないだろう。

もし、弁明に同感する者がいるとすれば、それは囚人ラーゲリに送り込まれた
ロシア人たちかもしれない。彼等が「地獄の収容所」と呼んで恐怖していたの
は、最北端にあったコミ、ナリリスク、コリマなどで、コリマ転送を知って斧
で自分の足を切り落とす囚人を目撃した捕虜談もあります。

戦犯としてこの地獄に送りこまれた日本人捕虜は、特務機関、憲兵などが主体
で、終戦直後に上陸してきたソ連軍と戦って大損害を与えた占守島の守備隊兵
士は、報復のせいかマガダンに送られ辛苦をなめ、半数が死亡しました。

時期や場所によって多少の差があったでしょうが、しょせんスターリン時代の
収容所が「人間を、従順な、そして生産的な家畜に改造する」ための労役場で
あったことに変りはない。

では日本人捕虜たちは、ロザノフ流にむざむざと改造されたのでしょうか。

早くダモイ=帰国)したい一心でソ連側に取り入り、ノルマの向上に積極的に
協力し、多くの同胞を死に追いやったエセ民主主義者は別にして、ほとんどの
人たちは「反動」の烙印をおされ囚人ラーゲリに送られるのを恐れ、また密告
によって身に覚えがなかろうといつ対象者になるの分からず、生殺与奪の権を
握っているソ連当局の手先になった“実力者”のアクチーブやカードルに迎会
して取り巻きとなるか、吊るし上げに付和雷同して絶叫するしかなかった....
だけでした。

――――――――「あるシベリア抑留者の回顧談」

私の命ももう先が見えてきました。地獄のどん底であった捕虜生活でしたが、
幸運にも九死に一生を得て帰国することができました。しかし、
もうすぐ彼の地で理不尽な死を遂げた戦友たちに会うことが出来るでしょう。


八月二十三日、雨がシトシト降りしきる不気味な夜、北満の五葉台でソ連戦車
30台に取り囲まれ絶体絶命の一夜を明かしていました。国境を警備する我が
分哨は、突然敵の急襲を受け壊滅的な打撃をうけてから、転戦また転戦、山中
をさまよい歩き、一途に必勝を念じて死闘を続けてきましたが、どうやら最後
の夜を迎えたようでした。

昼は隠れ、ひたすら夜行軍で、食うや食わず、さまよい歩いた10数日間でし
た。戦死、負傷、行方不明、と次々に減ってしまった我々一個中隊30数名は
幸か不幸か虎林部隊と合流でき、夜明けを待って「最後の突撃を敢行する」と
いう伝令がとび、覚悟をきめて戦車壕にうずくまっていたところ、

「防毒面と手榴弾、機密書類を山中に埋めよ」という指令がきた。

「手榴弾と防毒面をなぜ?」
「おい!おかしいぞ!」
と囁きながらも山中に深く穴を掘り、埋める。

山を降りることが決まったようで、前方部隊の動きに随いて薄暗い山道を降り
て満人部落に着いた。

そして、白々と明けてきた陽光に照らされ目にしたのは、なんと!?
部隊先頭騎乗の○○中佐の手に、白旗が高々と掲げられているではないか!!

??白旗?!
・・我が目を疑った!!
・・しかし正しく白旗だ。

ああ降伏........とっさに戦陣訓がひらめく。
「生キテ虜囚ノ辱メヲウケンヨリハ・・・・」
ああ、、、一体これでよいのだろうか。

降伏、武装解除、捕虜、このままここにいては、われわれの辿る運命は瞭然で
ある。戦友のなかには、逃亡するものが次々とでてきた。今こそチャンスだ!

一方ではまた「隊全体は、、友は、」と制止する。行動をおこすならば今だ!
しかし出来ない。どうしても生死を共にしてきた皆と睦親の情から離れ難い。
「よし。これから先はどうせなるがまま、運命に身を任せよう」と決心する。

ついに武装解除が始まり命に従って軽機、小銃、帯剣、を広場に並べソ連兵の
検査を受けて丸腰になり又移動を開始した、空っぽのザツノウ(雑のう)と水筒
だけ身につけてダラダラとだらしない行列が続いて行く。十数日の戦闘で、服
もボロボロ、膝は抜け、背は破れ、泥が厚くこわばりついて重くなっていた。

満人や鮮人たちはソ連兵を歓呼して迎え、昨日までとは打って変わり、我々を
小馬鹿にしあざけり笑い「打倒、日本帝国侵略主義!!解放中国人鮮人的斯太
林=スターリン)元帥万歳」と大書された貼紙がいたるところで目に付いた。

武器を持った昨日と、武器を持たない今日と、掌を返すが如く強きに味方する
彼等である。生きんが為、ただ現実の生をまっとうすることしか考えのないの
は当然のこととは云え哀れむべき民族というべきか。

勝てば官軍の例えか、勝利はすべてを解決し、敗北は一切を滅却する。
そして土民はただその強い力に盲従してゆく。

国際間に道義などは無かった。ソ連との相互不可侵条約は一片の紙切れに過ぎ
なかった。善悪の理屈などは後で何とでもこね回すことができるものだ。

ソ連兵の員数点検を受けながら、だらしない延々長蛇の列となって林口の兵舎
に連行された。入ったが最後出られない収容所である。周りには鉄条網を厳重
に張り巡らし、ソ連兵が銃口をむけて四隅に立哨している。



ーー収容所には水もなければ米もなかった。

何回も交渉の末、ようやくわずかな食糧の支給と柵外へ水を汲みに行く許可を
得た。給食は一日二食で、どろどろの高粱や緑豆、または栗粥であるが、飯盒
一本を五名で分配するのである。

兵隊の顔は青ざめて歩行する元気さえも無い。以前からここに収容されていた
地方人=開拓団員)の話では、二日の給食が僅かに乾パン一袋であったという
ことだ。

地方人の婦人は別棟に隔離されていて、給食は我々よりもよいようだが、哀れ
にもソ連兵の性の捌け口にされているようで、日本人男子は絶対近づけない。

銃殺規定とも云うべきソ連側の命令には、

1女に近づかない事。
2野糞をしないこと。
3柵の一メートル以内に近づかないこと。

以上のの3項目に違反した者は例外なく銃殺に処すべし、とあった。

情けない。牛馬以下の生活である。一体幾日続くのであろうか。

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