┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃
┃ 満州回顧録 ――――――――――――――― by gosakuさん
☆ 日本が見えるぞぉぉぉお!! ―――――――――― 2003/08/29

┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃┃ お便りで頂きましたご意見・感想。
┗━┛
┌──────────「mei さん」

gosakuさんはじめまして、現在中国東北地方に在住しておりますmeiです。

「満州回顧録」連載、本当にお疲れ様でした。一言、感謝です。

「死んでいった者は黙して語らざるがゆえに、生き残った者は何をすべきか」
(戦没学徒兵の手記「きけわだつみのこえ」)← 読んでみる。

これは戦時下に青春を過ごし、自らその青春を祖国に捧げるしかなかった祖父
の人生の命題となりました。(現在も超元気で健在ですが^^)祖父は海軍航
空隊の、本人曰く「特攻生き残り組」です。

口をつぐむ方が多い中、祖父は私達孫に戦争時の経験、事実と次世代への教訓
のようなことを事ある毎に話してくれていました。そして今も。

ーーーその中で何度も聞いた言葉

「歴史はつくられる。でも真実は一つだ。これからのお前達が知らなければな
 らない事。真実、真理はどこにあるのか。過去から学び、未来をつくらない
 といけない」

「多くの友人が空へ散っていった。死にゆくその時に若者は『天皇陛下万歳』
 となんか言わんかったんだ。皆『お母さん』といって死んでいった。それが
 戦争だ」

前回の感想メールにあった「爺さん」さんの
┌--------
│「小泉首相の 心ならずもーー」
│戦場に赴かされて死ぬのは若者です。戦争は回避しましょう。
└--------
簡単な言葉に重いものを感じました。

これから子供を産み育てる私達が学ばないといけない、知らないといけない
過去の真実の多くはベールに覆われています。

ーーー私の母と叔母は同じ時期中国で産まれました。

しかし何故日本人の両親がその時中国にいたのか、は本人達も詳しくは知りま
せん。「戦争の影響」とか「父親の仕事の都合」とか聞いていたそうです。
「無事に引揚げて」きたから今私がここにいる、としか私もわかりません。
私がそうした事を知ったのもつい2ー3年前で、私が中国で生活を始める事が
決まった時でした。

gosakuさんは、身を削るような思いで毎回原稿をあげておられたのではないで
しょうか。今までは軽々しく感想など送れなかったのですが、連載もこの回が
最後だという事ですので感謝の気持ちを送らせて頂きます。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

謝謝、meiさん。

暑い夏がくると、日本が勝利することを信じて散っていった特攻の同級生達の
顔が思い浮かぶ今日この頃です。お爺様のおっしゃるとおり真実はひとつだけ
ですが、なかなか顔を表にだしてはくれません。

苦しくても私たち老人が洗いざらい過去をさらけ出して、若者の批判をうけ、
未来につなげなくては、と思っています。もし日本が戦場になっても軍は決し
て民を守ってはくれません。軍の任務は敵を殲滅することのみです。
ーーーこれは実体験からの感想です。
いかなる事があっても、日本の参戦だけは止めなくてはなりません。

└──────────
┌──────────「TAKAさん」

まずは、gosakuさん、ご苦労様でした。毎回貴重な体験談を聞かせていただけ
て、大変為になりました。それにしても今回の第296号! しびれるコメン
トが沢山ありました。
gosakuさんの
┌--------
建国13年半で夭逝した満州国を、日本帝国の「殖民地」であり「傀儡国家」
だという中国側からの見地でのみ語るのは歴史の捏造であると考えます。

日本が満州国の建国、振興に最大の情熱を傾け、莫大な資本を投下し建国13
年半にして北東アジアの重工業の中心地とし、自動車や飛行機まで生産するこ
とができる一大近代国家に成長させました。

それは人類の歴史上でも、奇跡としかいいようがない、開国維新以来の日本の
技術の粋と情熱のすべてがそそぎ込まれた結晶であり、誇るべきはあっても、
些かなりとも誹られる筋などはないはずです。

建国の理想であった「王道楽土」は、遂に陽の目をみるまでには至りませんで
したが、戦乱による荒廃で絶望の淵にあった中国の人々にとって、満州国だけ
が最後の駆け込み寺の役を果たすが如く、年間100万人余りの流民が長城を
越えて満州国に流入したのです。

満州国の建国は、決して邪悪な野心の結果でもなく過ちでもなかったのです!
ーーそう堅く信じています。

「誰だって自分の生まれた国を愛するのは当然だ。昔、多くの人たちが死んで
も守ろうとした国は、どうなってしまったのか、てめえというものを見失って
いるヤツ、今の日本には多過ぎるじゃないのか!」
└--------
このコメント。

それから爺さんとおっしゃる方の「愛国心」へのコメント。

 OJINさんの
┌--------
・・ピンボケというべきか、茶番というべきか、、

抽象的なものに対していくらコブシを振り上げたところで、本当の黒幕当事者
は些かの痛痒を感じることもなく、壱毫の変化をもたらすことも出来ません。

ーー少年犯罪が問題になっています。

けれども、そうした犯罪少年をそんな風に育てたのはその子の親ではありませ
んか?まさかに隣の家が育てたわけではありますまい。

同根の問題ではないかと感じます。

子供の行動がおかしいんじゃないか?と感じながら何の注意を与えることもな
く看過し、学校で問題を起こせば学校の責任を言い募り、警察沙汰には知らん
振り、、、挙句に殺人者の親となる!?
└--------
これらのコメントがTAKAのハートを打ちました。感動しましたのでお便りいた
しました。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

「あんた日本人らしくないね!」これって誉め言葉?そんな国って他にある?
エサがよいのか!環境がよいのか!後ろから見ると外人さん(欧米人)と間違わ
れそうな若者が増えてきました。足長・茶髪の故か?あ!スツレイ!TAKAさん
も茶髪でしたっけ?

僕の周囲にも、欧米人には憧れるが東洋系の人を蔑視の目で見る日本人が数多
くいます。しかし、アジアの人達と仲良くならなければ今後の発展はありませ
ん。韓国、中国、東アジアと親しい関係を築き共存共栄をと云われているこの
時期に、島国根性の日本人が在日朝鮮人に嫌がらせ、「朝鮮に帰れ」と叫び、
女子学生のチョゴリを切って何の足しなるというのでしょうか!
ーーー日本人として恥ずかしい限りです。

満州建国から崩壊までの私見は、後日機会をみて述べさせていただきます。
その節はまた、よろしくご批判をお願いします。

TAKAさん、PCのトラブルは已修好了? 最近、九州男児的北京が登場しない
ので心配しています。愉快なレポート、早く復活してください。

└──────────
┌──────────「生野靖道さん」

良く書いていただきました。ありがとうございます。
昭和20年、終戦の年に生まれた58です。

同世代の方がこんなに苦労をなさっていたとは、ただ涙で読むことしかできま
せんでした。戦争の怖さ、恐ろしさ、など実感しました。全てプリントアウト
して、子供に、孫に、そして同世代の友たちに読ませ、その子供たちにも読ん
でもらいたいと思います。

ーーー本当にありがとうございました。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

生野さん、ご丁寧なお言葉却って恐縮します。

戦後も58年、「平和が当たり前だ」と思っている日本の若者には、毎日毎日
世界各地で起こっている紛争によって、人の命が虫けらのように無残に失われ
て行く現実は、さながらテレビゲーム上の感覚で、恐ろしさ怖さの実感が湧か
ないのでしょう。

私の孫(中三男子)は飽きもせず日がな「ピコ!ピコ!」と殺人ゲームに熱中し
ています。強制しなくても必ず読む時期がくると思います。

└──────────
┌──────────「ヘイワアトムさん」男性@六十代@福井

毎週金曜日を待ちどうしく、満州回顧録を読ませて頂きました。

場面場面で級友や 近所の遊び友達、の顔を思い浮かべながら涙して読んでい
ました。私たちの船も日本を目前にして亡くなられた方が多数おられました。
板の上に亡骸を乗せ海に流したのを思い出しました。
ーー今回が最終回とのこと寂しく思います。

お送りした地図、どのように使って頂けるのか楽しみに待っています。
長い間ご苦労様でした。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

永い間ご愛読ありがとうございました。

毎回最後は悲惨な結末で辛い思いをさせました事、申し訳なく思っています。
「もうチョット明るい話題は無いか」「これじゃ暗すぎる面白くない」という
ご批判もありましたが、残念ながら明るい話題を探し当てられませんでした。

当時の同僚、先輩と、電話で又手紙で連絡をとり一つ一つ事実を確認して書い
てゆきましたが、引き揚げが決定したときと、内地を踏んだ時以外、彼らにも
楽しい記憶は何一つ無かったようです。

鹿児島の大樅忍先輩、宇和島の徳田勝君、岐阜の奥田昭吾君には大変お手数を
お掛けしました。この場を借りましてお礼を申し上げます。

└──────────
┌──────────「小田きく江さん」女性@五十代@自営業@京都

gosakuさんの満州回顧録、どうもありがとうございました。

メルマガに公表されたgosakuさんの勇気と、 OJIN さんの情熱と使命感に脱帽
しています。戦争というものにおける人の命について、ただ涙するばかりです。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

小田きく江様、謝謝。

 OJIN さんに「墓場まで持って行く気か!」と脅され、正直言って辛い作業で
したが、やりかけた以上途中下車はできませんでした。再三、「ほうり投げよ
う」と思いましたが、皆さんの励ましのコメントに気を取り直して完成するこ
とができました。ありがとう御座いました。

又機会があれば満州国のことなど書いてみたいと思っています。その節はまた
よろしくお願いします。

└──────────
┌──────────「AkiraKudoさん」

ありがとうございました。亡き母の苦労が身に沁みました。

母は、新京で小さな商売をしていたそうです。戦後は音信不通、突然昭和30
年に帰ってきました。3年間居てまた行方不明になりました。

後日に判った事ですが、現地でお世話になった方が迎えに来て、しばらく経っ
て死亡通知があり、九州からお骨で帰ってきました。この間のことは、まった
く不明で、想像することしかできません。

「満州回顧録」を拝読しているうちに、名も知れぬ幾多の人々の中の一人に母
の足跡を想い合わせてしまいました。ご苦労さまでした。

私が想う数倍も母は・・・・・感無量であります、ありがとうございました。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

文面からお察ししますと、失礼ですが戦前のお生まれでしょうか? 歳を重ね
るごと、母の年齢に近づくにしたがって、若い時には気がつかなかった母への
想いが募って来るものですね。お母様はあまり苦労話を話されなかったようで
すが、それだけ辛かった過去を言わずにいるほうが、もっともっと苦しかった
のではないでしょうか。

私の友人、先輩の半数以上が、何も語らずに逝ってしまいました。残った私が
「真実を語る義務がある」ような気がして、文才など全く無い私が、あつかま
しく「アジアの街角から」の誌面をお借りし、四ヶ月もの間、皆さんに辛い思
いをかけました事、申し訳なく思っています。

└──────────
┌──────────「タマセイさん」男性@四十代@会社員@東京

昨晩遅くでしたが、gosukeさまの文章の中に出てきた、「戦友」の歌詞を見て
深夜にもかかわらず、最初から最後の14番まで口ずさんでおりました。
するとgosukeさまのお書きになった情景や、最近再読した山崎豊子の「大地の
子」の情景などが思い浮かんできて、涙が流れるのを抑えられませんでした。

「大地の子」山崎豊子著 ← 読んでみる。

これからも私たちの世代、そして次の世代のために、gosukeさまのような方々
に、ひとりでも多く「戦争」を語って頂きたいと切にお願い申し上げます。
 
――『満州回顧録』への感想

大正3年生まれの父を24年前に(享年65歳)亡くしました私は、49歳に
なります1会社員です。

父も2度の応召で都合8年間、大日本帝国陸軍の一兵卒として主に南シナで、
とてつもなく悲惨な目に遭ってきたと聞きました。あまり戦争中の思い出は、
私たち子どもらには聞かせることはありませんでしたが、私が聞くと断片的に
その質問にだけはキッチリと答えてくれました。

しかしながら、当時、学校で上っ面なだけの歴史を、戦争体験の無い(あった
としても戦争中は子どもであった)教師から教わり、いかに当時の軍隊や政治
家たちが愚かで、また、それに躍らされた一般国民も民度が低かったかという
ようなことばかりを強調され擦り込まれていた私の質問は、

「なんで負けると分かってるのにアメリカと戦争なんかしたん?」
「僕やったら、召集礼状が来ても行かへんかったな」
「共産党の人は、応召されても拒否して刑務所に入ってたんやろ?」

などと、知らぬ者の愚かさ丸出しで父に迫った記憶があります。
そんな父が何度も繰り返し申しましたのは、
「戦争は避けられないこともある。しかし、決して戦場にだけはなったらあか
ん。戦場になったらそれは悲惨なもんや」ということでした。
どのように悲惨であったかは語ってくれませんでした。

恐らく、自分の子どもには知られたくない、人間としてやってはならないこと
あるいは人道的に許されないことなどをしたのかも知れません。
単に見ただけだったのかも知れませんが・・・。

その後、私も年を重ねるとともに、いろんな戦記物や現代の歴史書を読むにつ
れ、父が言ってた「悲惨さ」もおぼろげながらわかるようになりました。
今回、gosukeさまの回顧録を読み、文章で表現された以上に実際はひどかった
のだろうなということが十二分に伝わってきました。

どうなのでしょうか。私も昭和29年生まれで、勿論戦後の教育しか受けてお
りませんが、あの戦争を経験されたgosukeさまのような世代の方がもっと真実
を語り、私どもより若い者に対して、「いい戦争」なんてないことを教え諭す
べきではなかったのではないでしょうか。
そして、もっと本当に「国を愛する」心を育てるべきではなかったのではない
でしょうか。

私は大学を卒業して以来、縁あって外航大手海運会社に勤務しております。
船は世界の至る所に参ります。その時に、日本の船は必ず「日の丸」の旗を掲
げて外地の港に入港致します。日の丸を掲げていないと、どこの国の船か誰何
(すいか)され、入港させてくれません。

10年前に英国に赴任し、外地で自分の会社の船を迎えたことがありますが、
掲げていた「日の丸」を見て、胸がジーンときたことを覚えております。
なにを申し上げたいかと言うと、「自分の国を愛する」ことが出来る者にしか
「他国を愛する」ことは出来ないということです。これだけ世界中に日本人が
進出し活躍する中で、自国を愛せない、自国の歴史を知らない国民は日本人ぐ
らいでしょう。・・情けないことです。

gosukeさま、長い連載、お疲れ様でございました。
でも、まだ100%書ききっておられませんね。少し休まれてからでも結構で
す。もっと書いていただけないでしょうか。もっと私たちの世代に、あの悲惨
な戦争の実態を教えていただけないでしょうか。

是非、お願い申し上げます。私はもう父には聞けません。内地で苦労した母も
26年前に60歳を目前に亡くなりました。私の大学生の子ども二人に私は教
えられないのです。ーーー私では、迫力も無ければ説得力もないのです。どう
か是非、お願い致します。

長々と申し訳ございませんでした。ありがとうございました。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

シベリア抑留で洗脳され「お前たちは早く帰す」と言われてソ連の走狗となり
日本兵に過酷極まる重労働を科し、死に追いやった共産主義者どもが帰国して
「社会主義こそ唯一つの正義である」と声高に叫び出しました。

中国その他よりの内政干渉言辞と変らぬ、「現代史」教科書の「進出」でなく
「侵略」とすべきだ等という主張を、一部のマスコミと同調して国内を大騒ぎ
させたあの文化人と称する人々は何処へいってしまったのでしょう?

戦後の日本では、旧連合国の視点や、或いはソ連、中国が云う正義の視点から
歴史と人を裁断する作業が行われ、時代を経るにつれて叙述もいくらか修正さ
れ、また論証も精緻にはなりました。しかし基本的に日本及び日本人を矮小化
し、ことさらに無視するような卑屈さは相変わらず続いているというのが私見
です。
しかし問題の本質は、我々日本人が近い過去をどのように認識し、どのように
叙述するか、という基本的なところにあるのではと考えます。当時、事実はそ
のように進まず、字句のみがあれこれ修正されることでなんとなく落ち着いて
しまいました。

今日の日本人にとって、その歴史に与えられたキズは深く、そしてその時代を
実際に生きてきた私のような世代にとっては、今日書かれている「現代史」な
るものの“偏向”や視野の狭窄、思考の単純さなど、自らの経験に照らせば疑
問であり否定する事もできます。

しかし、今や戦後50数年が経ち、あの戦争の時代はおろか、戦後の廃墟につ
いてすら、全く記憶の無い世代が育ち、むしろ大多数を占めつつあります。
そして彼らが歴史について知ることができる唯一のものが、現在の「現代史」
であり「教科書」であるとすれば恐るべき事態であると思います。

世界の中で日本および日本人だけが悪かった、、、かの如き読後感を抱かせる
日本の歴史学者が書いた「現代史」や極東軍事裁判などを否定し、できるだけ
多くの賛同者を得ることが今の私のライフワークです。

的外れなコメントになってしまった感がありますが、真実の歴史を掘り起こし
自国を愛する若者を育てる為、勉強してゆきたいと考えているこの頃です。

└──────────
┌──────────「星の王子さまさん」

本当に恐ろしい話でした。しかし、購読して良かったです。
国内国外を問わず、すべての戦争犠牲者に黙祷を捧げます。
そして、貴重な話をして下さったgosaku様に心から感謝申し上げます。

戦争を知らない世代からのお願いです。戦争経験者は、もっと次世代に語りか
けて欲しい。
「ミッドウエー作戦」は日本人の特徴が端的に表れた失敗例です。現在でも、
イケイケで潰れる会社は非常に多いし、「勝って兜の緒を締めよ」の認識が欠
如している事も現在の日本に通じると思います。

断言できる事として、「孫子」を学ぶよりも、太平洋戦争の失敗に学ぶほうが
役に立ちます。しかし、本屋の経営書籍の棚に戦前戦後の本はほとんどありま
せん。
戦死された方々が現在の日本を見たらどう言うか・・。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

日本はなぜ負けたのか? あの戦争は(暴虎馮河)血気にはやって無謀な危険を
冒すことの戦いであった。・・・というのが定説です。

戦争を強硬に主張した陸軍の首脳も、日米の国力差は一対二十、あるいは一対
二十五であることはよく知っていた。では、誰が見ても無謀な戦い、初めから
負けると分かりきっていた戦いだったのか?
けれど世界の戦史を紐解けば、どんなに無謀な戦争で、勝つはずなど考えられ
ないような戦でも、勝ってしまう場合が起こり得るのはどうしてなのか?

それは、奇跡が起きた場合です。奇跡に乗じ、意思と力を集中すれば勝つ!

太平洋戦争劈頭で大きな奇跡は起きた!日本はこの奇跡に乗じ意思と力を集中
して敵を殲滅しえた。、、だがこれをしなかった。これが最大の敗因です。
奇跡に乗じて一気に勝ちを制する。ーーー言うは易く、これほど行うに難いこ
とはない。

日本は緒戦においてこれほど勝つとは予想していなかった。あまりの大勝利に
腰を抜かしてオタオタするばかり。呆然自失して何もしなかった。
当時の首相東条英機は、米軍の攻勢が本格化した時やっと反省して告白した。

「もっと早く防戦準備をしておくべきであった。二年間、何もしないで空費し
てしまった!」と。日本を強引に戦争に引きずり込んだ東条英機すら、かくの
如し!日本は戦争に勝った後の用意を何もしていなかった。

ーーーだから負けた。

ハワイ海戦、マレー沖海戦と二度の奇跡をおこしたチャンスを生かして、ミッ
ドウエイに勝っていれば大東亜戦争に勝利していたか?日本連合艦隊が米艦隊
を凌駕していたあのミッドウエイ海戦に圧勝して運命の女神が日本に微笑んで
米艦隊を壊滅させていたら、日本は勝ったか?

いや、アメリカは降参しなかったでしょう。日本海軍が波の支配者になったと
ころで、アメリカは大陸国家です。北米大陸に閉じこもっても戦争を継続でき
ます。日本の戦争目的は何であったか、その達成のためにいかにすべきであっ
たか、ーーーこれを意識した日本人は少なかった。

「敗者勝因を蔵す」大東亜戦争の勝因研究こそ、経済戦争で奇跡的勝利を願う
日本の、焦眉の急ではないのでしょうか?

ゴメンナサイ、興奮して長談義になりました。続きは別の機会にしましょう。

└──────────
┌──────────「さよこさん」女性@三十代@自営業@その他海外
 
私は満州回顧録が読みたくてこのメルマガを購読始めたものです。

私の祖母は満州生まれですが、匪賊に襲われ両親を失い、5歳で帰国したそう
です。ですからgosakuさんが経験されたような体験はしていないわけですが、
そのかわり原爆で夫を失い、子供ら(含:私の母)を一人で育てるために大変
な苦労をしたそうです。

gosakuさん、OJINさん、貴重な記録を私たちに残していただき、本当にありが
とうございました。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

満州の建国宣言は1932年に為されました。しかしそれ以前に、1905年
の日露戦争終結によって、関東州の租借権と満鉄をロシアから譲り受けた時点
から、多くの有能な日本人が渡満して活躍していました。

お祖母様の父母も多分その中の一人だったのでしょう。文献によると当時は、
まだ匪賊、馬賊が跋扈して非常に危険な状態だったようです。

中国人でさえ「荒蕪=荒れて雑草が生い茂っている」「夷狄=野蛮な異民族」
の地として恐れ、あえて長城を越えて移民する者はいなかった未開の満州に渡
り、活躍なさった曽祖父母様達の勇気に感服します。

私に限らず、当時の日本人は皆“地獄”を見てきました。そして、二度とその
修羅場を再現させてはならない、という思いで今日の世界に冠たる経済大国、
平和な日本を築き上げてきたのではないのでしょうか!

次は貴女の世代が、次の世代にそれをバトンタッチしてゆく義務があります。
お願いします!

今度は松本様が「満州青春録」を掲載されます。引き続きご愛読をお願いしま
す。

└──────────
┌──────────「PACKMANさん」男性@会社員@神奈川
 
GOSAKUさん、有難うございました。
どんな感想も書けません、ただただ"有難うございました"。

ところで今考えると「満州国」とは何だったのでしょう?
いろいろな角度、立場から見直して再認識したいですね。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

お礼を言わなきゃならないのは私です。

皆様の励ましのコメントのお陰で、内地に上陸すところ迄やっとたどり着きま
した、、1945年当時はまだ17歳の独り身、今の高校2年生でしょうか。
いつも腹を空かして、「能天気」に先輩の後ろについ行くだけでした。

シベリアに抑留された先輩、また幼児を抱えた日本人会幹部の方々の苦労に比
べれば!!!自分のことだけを考えていればよかったのですから!

ところで満州国とは?ーーー話せば長くなります、またの機会にしますが、

第二次世界大戦には日本は敗れました。

然しその後の推移をみるならば、政治的に敗北したのは戦勝国であるイギリス
やオランダ、またアメリカ等の欧米諸国です。当時、日本やタイ、中国の一部
を除いたアジアの全ては西洋の植民地でした。大東亜戦争は、西洋をアジアか
ら追い出し、西洋植民地勢力の権威を失墜させることに成功しました。

その結果、西洋はアジア、次いでアフリカにおける支配権を放棄せざるをえな
くなったのです。さらに反共産主義の東欧革命が起こり、レーニンの打ち立て
たソ連邦も瓦解し、中国も市場経済の導入に躍起となっているわけですから、
共産主義の寿命も尽きたと云ってよいでしょう。

16世紀の大航海時代以来の400年に及ぶ白人支配、植民地支配体制は殆ど
の部分が崩壊しました。

また長談義になってしまいました。対不起!再見!

└──────────
┌────────「м.мさん」男性@六十代@自営業@東京 2003/09/22

リンクをたどっているうちにここに参りました。

7才まで北支に住んでおりました。満州と比べ、引き上げは楽なものでしたが
それでも敗戦国民という負い目は子供心にもつらいものでした。しかし、貴方
の文中にありますように、大方の中国人は引き揚げていく私たちに大人の扱い
をしたと思っております。暮らしにくかった日本を離れ、新大陸生活を目指し
た父と私にとっては、1番目の故郷のような気がします。

しかし、父も私も未だ中国には行っておりません。なぜか?
実は自分にもわからない気持ちなのです。もう少し、このコーナーを読ませて
いただけたら判るかも知れません。よろしく。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

お便りから推察いたしますと、ご尊父もご高齢だと思いますが、ご健在で何よ
りですね。北支からの引き揚は比較的スムースに進んだようですね。

満州の悲劇はなんといっても、勝者ソ連軍による占領時の残虐行為と成年男子
の拉致シベリア抑留のため、弱者の老人、女、子供が多く、たくさんの犠牲者
(死者)をだしてしまったことでしよう。私は戦後幾度も彼の地に行きました。
中国の方も個人的に付き合えば皆好い人ばかりです。

しかし、東洋人と西洋人の違いでしょうか?僕はあのソ連兵を許すだけの度量
はありません――――。

└──────────
┌──────「満人怖いさん」男性@六十代@会社員@茨城 2003/09/24

今年還暦を迎えた者です。
私は昭和19年頃、満州で軍務にあたる陸軍航空兵の父の元に、母と二人で渡
満したと聞いています。敗戦の色濃くなる中、突然ソ連が不可侵条約を破棄し
我々家族は貨車等で逃避のため南下し当然父とは離れ離れとなったようです。

3度の食事など到底あるはずもなく、母は乳飲み子の私にだけは自分のを食べ
させて呉れたそうです。その母も遂に病気になり、私は親戚の人と病弱の母を
一人残し帰国しました。その後母は、昭和21年6月異国満州奉天(現瀋陽市)
で24歳のあまりにも早過ぎる生涯を閉じました。

また、父はソ連軍に捕虜としてシベリア連行され一日1個のジャガイモで強制
労働と日本軍の精神的意識剥奪、スターリン思想の洗脳等をされたようです。
幸いにも昭和22年頃、お腹だけがプクッと出た、まさに栄養失調の状態で復
員して参りました。

後日聞いたことですが、復員があと1〜2ヶ月遅れたら、栄養失調による衰弱
で生きて帰国は出来なかったそうです。その後の父は、毎日無口で、私や祖父
母には会話も余りなく、淋しかったことを子供心に覚えております。

その父も今年で84歳となりますが、70歳を過ぎた頃から、長かった呪縛か
ら開放されたかのように、当時のことなど思い出すように語ってくれます。
父が生きているうちに、奉天で亡くなった母のこと、当時の様子など聞いてお
きたいと思ってはいますが、余りにも時間が経ち過ぎています。

せめて、母のお墓がもしあるのならば、少しでも情報なりを集め、墓参できる
ことを願っている次第です。

私事で大変長くなってしまい誠に恐縮致しますが、これからも、僅かな情報で
も頼りにしております。戦争などは無論あってはならないことですが、過去の
歴史的事実を正しく理解し、子や孫等の後世にも伝えて行きたいと思っており
ます。

これからも宜しくお願いいたします。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」――――――――― 2003/09/24

貴方と別れて奉天に残ったお母さんの心中を察すると胸が痛みます。多分病気
を治して後から帰国するつもりでしたでしょうね。

奉天で亡くなったニュースはどなたが知らせてきたのですか? 一度現地へ行
かれてみては如何ですか。ひょっとしたら何か手がかりが掴めるかも? 当時
の事を知っている人も高齢化し、年々少なくなっています。この二、三年が最
後のチャンスではないでしょうか。

僕は新京(長春)でしたので奉天の事はよくわかりませんが、奉天にも知人(中
国人)がいます。お役に立てないかもしれませんがご連絡ください。

満人より日本人のほうが怖いですよ! どこの国でも悪い奴もいれば善い人も
います。僕はロシア人と聞いただけで寒気がしますが、多分個人的に付き合え
ば残虐非道な奴ばかりではないのでしょう!

└──────────
┌────「SPWAW Rowheiさん」男性@四十代@自営業@埼玉 2004/09/17

父も母も大陸引揚げです。ーーー父は昨年死去しました。

先日、たまたま一人残された母の手記を、偶然読む機会がありました。それに
よると、母は、コロ島から9月か10月ごろ、アメリカの貨物船「V027」
という船で博多に着いたとの事です。しかし「V027」は多分航海番号27
だと思います。ーーー父は別で「興安丸」だったそうです。

私はそんな両親から、幼いころから大陸の風景や暮らしを聞き、大きくなった
ら第二の祖国である大陸に行ってみようと思っていました。そして大学に入り
中国語を専攻し、商社勤めを経て独立し、今は中国との貿易を行っています。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

僕は8月でしたが、全く同じコースですね。船も同じ「リバティ型」という貨
客船..というより貨物船を少し改造しただけの客船でした。客船といっても、
一等も二等も無い、穀物をバラ積みした船倉に人間を貨物のように詰めこみ、
やっと一人が横になれるのスペースがあるだけでした。しかし、船員はみな水
兵さんで親切でした。それがせめてもの救いでした。

お母さんが存命中に満州のことなど聞いて、またお便りを下さい。

└──────────
┌「満州生まれのスイカの種好き男さん」男性@六十代@岡山 2004/12/03

満州回顧録を読ませて頂き、改めて感動しました。

私も、引き揚げでは殆ど同じ経験をしています。ただ、我が家があったは新京
で、父が終戦の年に招集されましたが----子供だった私には事情は判りません
けれど----兎も角ソ連参戦の翌日(?)関東軍より突然除隊となって、丁度その
時朝鮮に避難するため新京駅に集結していた我々親子3人を連れ戻してくれ、
その後引き揚げまでソ連軍の接収からも免れて自分の家に住める幸運と、母の
才覚で竹の子生活を送ることが出来、一家全員無事に帰国できたのは実に幸運
でした。

当時10才の私は、帰国後両親と7才年長の姉から(当時の様子の)復習を受け
たため、かなりその頃の知識を持っていますが、貴方の回顧録を読んで、今更
ながらに当時の様子が再確認できました。
貴方が、今、何処でどのような生活をされているか存じませんが、今後も折に
触れいろいろと教えて頂ければ幸いです。

実は定年後、岡山で自分史を書きましたが、当然その中で満州引揚についても
触れています。メールアドレスを記載してもいいのですが、迷惑メールが多い
ので、第3者に判らない方法はないものでしょうか?ーー私はパソコンテクが
ないので判りません。

現在、岡山日中友好協会に入会し、年に数回は訪中しています。しかし、生ま
れた丹東や、終戦時に住んでいた新京へは未だに行けていません。ーー近年中
には是非行きたいものと願っています。

インターネットで、丹東と新京から留学している中国の女性から、彼女たちの
親が、そろって親日家らしく、来たら案内してやると言ってくれているので、
更に行きたい気持ちが募ってきています。

向うで酷い目にあった人には中国嫌いの人も多いのでしょうが、(私の高校の
同期にも数人同じような友人がいますが..彼らも含めて)私は向うで生まれた
こともあって何故か中国が嫌いになれず、むしろ愛着を持っています。
ーー貴方は如何でしょうか?

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

「中国迷」は僕も同じです。

丹東といえば、朝鮮との国境の町ですね。僕も琿春電報電話局にいて、終戦で
新京に引き上げ、合わせて三年満州に滞在しました。長い人生の間の僅か三年
ですが、とても懐かしく当時の友人とは今も連絡は欠かしていません。

ソ連兵にはひどい目にあいましたが、中国人は皆良い人ばかりでした。
(‥‥個人的に付き合えば‥‥)

ーー「満州生まれのスイカの種好き男さん」の自分史是非拝見したいですね。
 OJIN さんを通じてアドレスをお知らせ下さいませんか? ここに書くと心な
い人がいてご迷惑をお掛けするかも知れませんが、 OJIN さんなら信用できま
すから大丈夫です。

└──────────
┌────── 「川尻恵美さん」女性@三十代@会社員@長崎 2004/12/03

先日、ハルビン細菌工場跡を見てきました。また来年ハルビンに出向きたいと
思っています。
牡丹江からハルビンへの引き上げで、数々のいたたまれない話などをメディア
で知り、また当時の旧満州での日本人の残虐行為、または新天地に寄せたロマ
ン・希望、、、、ずべてがなぜか心に残り、あの時代に生きた人の生まれ替わ
りではないかと思うほど東北に惹かれます。

このような体験談などは、後世にもっとも引き継いでいかなければならないこ
とのひとつだと思います。
私の父親はソウル生まれで、祖父母は当時朝鮮竜山に駐屯、生活しておりまし
た。祖父は近年まで生きておりましたが、残念ながら21世紀を迎えることは
できませんでした。生きていれば、もっと当時のことを聞けていたのにと思い
ます。
日本は、義務教育の段階で、中国で日本人が何をしたか、どんな建築物を残し
たか、と、いいことも含めた授業をやるべきだと考えます。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

日本人も中国人も、個人的に付き合えば本当に良い人ばかりなのに、どうして
集団になるとあのような残虐行為ができるのでしょうか?特に悪いことをした
わけでもないのに、僕ら日本人も、憲兵にはかなり痛めつけられました。

まして中国人に対しては、口では言い表せないようなヒドイこともしたようで
す。ーーー終戦時には、報復として大半の憲兵は撲殺されました。それにして
も戦争とは残酷なものですね。イラクでも、同じようなことが行われているの
でしょうか?

└──────────
記事のページに戻る
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
満州回顧録の目次に戻ります







SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送