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┃ 満州回顧録 ――――――――――――――― by gosakuさん
☆ 日本が見えるぞぉぉぉお!! ―――――――――― 2003/08/29

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┃9┃月10日、厳しい健康検査の後、同じ収容所を出られることになった多
┗━┛くの日本人たちとともに、また無蓋貨車に乗って引き揚げ船の出港地、
コロ島へ向かった。

相変わらず汽車はノロノロと走っては止まり、また動き出したと思ったら止ま
り、錦県からすぐ近くと聞いていたのになかなかコロ島に着かない。朝10時
頃出発したのに暗くなってきても到着する様子はなかった。

出発するときに例の高粱粥を流し込み、国民服が化けた小さい粟餅を皆で分け
合ってかじったきり何も食べていないにも拘わらず全く腹がすかない。胃腸の
吸収力が上がり、少ない栄養素でも生き延びられる体に変わってきたのだろう
か?もう携帯食料も金もグループで確保していた高粱もなくなっていた。

二日間、飲まず食わずの列車の旅を経て、列車はようやくコロ島に着いた。皆
憔悴しきって子供は泣く元気もなく、年配者は歩くのもおぼつかなくヨロヨロ
と無言で先導者に従い埠頭へと向かった。
(コロ島:地図上では漢字「葫蘆島」)


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┃懐┃かしい海の香りがツーンと鼻をついて、桟橋の先に赤茶けた大きな船が
┗━┛見える。
道の両側に、色とりどりの果物を並べた店が連なっていた。栄養失調でずいぶ
ん衰えた視力だが、果物の瑞々しさや柔らかさを感じるにはまだ十分だった。

喉が鳴った。まるで拷問のようだ。最後の最後のところで、いったい誰がこれ
ら高価な食べ物を買えるというのか。身震いがした。目をそらして一歩ずつ船
へと歩く。もう手持ちの金など誰もないはずだ。

露天では一杯の水が百円で売られていた。当時の普通の会社員の月給の倍の値
段である。腹を立てるほどの気力もないまま、日の丸を掲げた引き揚げ船の危
なっかしく揺れるタラップを上がり、ガランとした船底に詰め込まれた。

船はアメリカのリバティ型の貨物船を改造した即席の人員輸送船で船底に一人
たたみ一畳ほどのスペースを与えられた。枕元に軽くなったリュックを置き、
上を見るとガランとして、20メートルぐらい上に穀物か石炭を流し込むのだ
ろう大きな口が見えた。

私達が最後の組だったのか、ザワザワと未だ席の決らぬ人もいるのに汽笛が鳴
り、何時の間にか船はゆっくりと船体を回し桟橋を離れていた。

「出港だ!」「出港だ!」手を取り合い、嬉しそうに騒ぐ者もいた。
「子供を置き去りにしてきた」と、船の動きとともに泣き崩れる女もいた。
呆けたように空をみている人もいた。
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┃私┃も仲間数人と甲板に出て、誰も見送る人のいない港を眺めていた。
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五族協和、 王道楽土の夢が吹き飛び二年余り前希望に燃えてやってきた満州
帝国の崩壊した山野がだんだん霞んでいった。

元水兵だったと思われる水夫たちが、軍隊式に「飯あげ!飯あげ!」と怒鳴っ
てから、白いおにぎりとワカメの味噌汁が配られた。ほとんど忘れていた米の
オニギリとワカメの味噌汁を眺めて胸がイッパイになり、誰もいきなりかぶり
つく者はいなかった。

泣いている者もいた。愛しそうに、オニギリに頬ずりしている者もいた。誰も
"美味い"とも言わず無言でしたが、顔はうっとりと幸せそうに微笑んでいた。
私もワナワナと震える手で、先ずワカメの味噌汁を飲んで、オニギリを口に運
んだ。一気に飲み込むのが惜しくて、いつまでもいつまでも噛み続けた。

やがてコロ島が見えなくなると、船はググーッと気持ち悪く揺れ始めた。
リュックを枕代わりにして目を閉じた。船底から伝わってくる重い揺れが頭に
響く。波が船底を突き上げるたび、軽い吐き気を覚える。もう少しで内地に戻
れる。もう少しで。

それまでジッとしていよう。
ただ眠っていよう。
眠っていれば夢にみた内地に着く。

そうは思ったが疲れきった身体は刺激を受けて、眠るに眠れず、只うつらうつ
ら目をとじているうちに誰かが子守り歌代わりだろうか?小声でなじみの軍歌
を歌っているのが聞こえた。もの哀しいメロディーの「戦友」でした。

∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴

ここはお国を何百里 離れて遠き満洲の
赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下

思へばかなし昨日まで 真先かけて突進し
敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか

嗚呼戦の最中に 隣におった此友の
俄かにハタと倒れしを 我は思はず駈け寄って

軍律厳しい中なれど これが見捨てておかりょうか
「しっかりせよ」と抱き起こし 仮包帯も弾の中

折から起る突貫に 友はようよう顔あげて
「お国のためだ構わずに後れをとるな」と目に涙

あとに心は残れども 残しちゃならぬこの身体
「それじゃゆくよ」と別れたが 永の別れとなったのか

戦いすんで日が暮れて さがしに戻る心では
どうぞ生きていてくれよ ものなと言えと願うたに

空しく冷えて魂は 故郷へ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと 動いているも情けなや

思へば去年船出して お国が見えずなった時
玄海灘で手を握り 名を名乗ったが始めにて

それより後は一本の 煙草も二人わけてのみ
ついた手紙も見せ合うて 身の上話くり返し

肩を抱いては口癖に どうせ命は無いものよ
死んだら骨を頼むぞと 言い交わしたる二人仲

思いもよらず我一人 不思議に命永らえて
赤い夕日の満州に 友の塚穴掘ろうとは

くまなくはれた月今宵 心しみじみ筆とって
友の最後をこまごまと 親御へ送るこの手紙

筆の運びはつたないが 行燈の陰で親たちの
読まるる心思いやり 思わず落とす一雫

∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴

最後のほうは呟くように口ずさんでいたが、内戦に巻き込まれ病魔に冒され、
栄養失調でも医者にかかることもなく、理不尽な最後を遂げ赤い大地に埋めて
きた多くの友、先輩、知人の顔がひとりひとり脳裏に浮かんで、やりきれなく
切なかった。
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┃台┃風の時期と重なったためか海は大荒れで、船は上下左右に大きくゆれ、
┗━┛船倉に詰め込まれ人たちは子供を柱に括りつけ、転がらないようした。
私達はそのままでいたが、船が大きく揺れるたびにあっちへゴロゴロこっちに
ゴロゴロ転がってばかりいた。

私だけでなく大半の人がひどい船酔いになった。しかし不思議なことに食事が
喉を通った。握り飯と佃煮、味噌汁の献立はずーっと続いたが、吐くことはな
かった。若さ故か、乾いた砂浜に水がしみこむように食べた物は残らず吸収し
て栄養になるような気がして食べ物を残すことは無かった。

悲しいことに、あの世話好きの管(すが)先輩が力尽きて、博多湾を目の前にし
て逝ってしまった。この二ヶ月あまりの食うや食わずの連続が結核に良いはず
もなく、船に乗るまでは比較的元気だったのに、安心したのか乗船後は寝たき
りだった。

「頑張れ!頑張れ!日本が見えてきたぞ!」「もうチョットだ!」我々の励ま
しに応えることなく、静かに呼吸が止まった。船員が持って来た粗末な木箱に
我々仲間が抱えて入れた。その身体は“ゾッとするほど”軽かった。

「ボー ボー ボー」と船が鳴らす葬送の汽笛と共に海に投げ込まれ、波間に
消えて行った。海を覗き込むと大小のクラゲが無数に漂っていた。

「せめて日本の土を踏んでから逝かせたかった!」皆の思いは同じでした。
あの宮崎訛りをもう聞くことはできない!“享年49歳、独身、宮崎県出身”

「規則ですから」と水葬を勧める船員に、冷たくなった嬰児を抱いて「日本の
土に埋めてやる!」と離さない母親もいた。
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┃9┃月はじめの早朝――何日かがハッキリしません――
┗━┛
「日本が見えるぞぉぉぉお!!」甲板で叫ぶ声が聞こえて、まだ夢の中にいた
我々は我先にと甲板に殺到した。目頭が“じーん”と熱くなってぼやけた目に
遥か南東方向に緑に霞む陸地が見える!!

初秋の朝日がキラキラと波に反射する中、船はユックリと進み、数時間かけて
博多湾に入ると、沖合いに錨を下ろし停泊してしまった。甲板に出れば風はあ
るが、なんという蒸し暑さだったろう。
博多湾はねっとりとした暑さに覆われていた。

「伝染病に対する検疫をする為一週間は上陸できない」
コレラ、赤痢、チフスなどの患者発生がないことを確認してから許可されると
いうことでした。

毎日朝になるとポンポン船で博多から検疫官と共に食料と水が運ばれてきた。
麦が半分のご飯とタクアン二切れ、一日おきに味噌汁もでて、満州の高粱粥と
比べれば皇帝料理を食べているような気分でした。

皆の心はもう故郷に飛んでいて、話すことは故郷へ帰ってからのことばかり。
お国自慢も花盛りで、九州勢が圧倒的に多く、長崎県、熊本県、宮崎県、鹿児
島県、四国は愛媛県、新潟県は佐渡ケ島、それと岐阜の多治見、私は愛知県。

「かならず連絡してくれよ!」
それぞれ落ち着き先のメモを交換し再会を約し、心躍る数日間でした。

――――
この後は皆様に読んで頂く価値はないと思われますので省略させて戴きます。

┌──────────
│昭和20年夏から21年秋までの約1年間を、ずーっと封印してきました。
│というよりも「他人に話すのが怖かった」
│
│今回は OJIN さんの巧言??に乗せられその封印を解くことができ、そして
│ようやく重い記憶から解放され心の整理をつけることが叶いました。
│
│辛抱強く掲載してくださった OJIN さん、読んで下さった方々、そして批評
│を頂きました皆様方に心よりの感謝を申し上げます。
│
│今は、機会があれば別の観点からの満州国を語ってみたい、などという大そ
│れたことも考えたりしています。
│
│長い間本当にありがとう!!
└──────────
                 =満州回顧録:完= =次の記事へ=
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┃┃ いただきました感想やご意見。
┗━┛

お寄せ頂きました感想やご意見が多く、またgosakuさんの答復も長くなりま
したのでページを改めました。――→ ここをクリックしてお進み下さい
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛  (^^) OJIN です(^^) ーーようやっと終わりました・・・。 ようやっとと申し上げるのは、この作品の校正が OJIN にとりましては非常に つらい作業だったからです。 読者の方々は1度読まれて、多い方でも2度或いは3度であろうと思います。 ところが、こうした過酷な状況を、思い出し、思い出ししながら書かれた作品 ですから感情も千路に乱れたであろうと推察され、意味の分かりづらい部分や 重複する部分なども多く、何度も何度も読み返して推敲を重ねなければなりま せんでした。 ーーけれど、そうした作業がつらかったと申し上げているのではありません。 読んでいて目頭が熱くなり、傍らに置いたタオルで拭い、考えながら作業を進 め第一次校正を終わらせますが、言い回しの修正や誤字脱字を拾うために更に 幾度か目を通さなければなりません。 ーーその度にまたジワッと湧いてくるものに邪魔をされ、、 いやーー、、本当に辛く苦しい作業でございました。 それが今回で終わる。では嬉しいのかといえば決してそんなことはなく、気持 の中に大きな穴が残ってしまったように感じます。 あとがきの中でgosakuさんは「別の観点からの満州国を語ってみたい」と述べ ておられますので、英気を充填され、いつか再びご登場いただけるものと期待 しておりますが、とりあえず「満州回顧録」の完了に労いと感謝を申し上げた いと思います。 ――本当にお疲れ様でございました。そしてありがとうございました―― 皆様からも尚、労いや感想のお言葉を頂けますよう宜しくお願いいたします。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ さて来週からは、松本進さんの「満州青春録」を連載させて頂きます。 昭和18年の陸軍入隊渡満から、22年の引き上げまでの松本青年の体験記で す。何事も事実真実をと、わざわざ当時の移動先を訪ねて廻り、裏付け確認ま でしてきた几帳面人間の松本さん。 「回顧録」ほどの悲惨な場面はでてきませんが、とはいっても平穏無事ではあ るはずもなく、やはり波乱万丈の展開となります。 お楽しみいただきたいと存じます。(^^) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ なお、満州や朝鮮、樺太、当時の中華民国、或いはアジア各地での戦前戦中の 体験記を求めます。特に悲惨な体験をという意味ではなく、その当時、人々が 何を思いどう行動したのか、そして現地の人々とはどう接していたのかなど、 いままで語られなかったがために埋もれて消えていこうとしている、先達方の 歩んでこられた道を少しでも現在の日本人に知ってもらいたいとの願いです。 ご自身の体験ではなくお祖父さんやお祖母さんに話して頂いて、書き取ったも のなども歓迎します。 単発であると連載であるとを問いません。また、あまりにも偏っているものは 困りますが、ある程度ならば右寄りの、或いは左寄りのものでも結構です。 ――ご協力を、よろしくお願い申し上げます。 ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
満州回顧録の目次に戻ります







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