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┃ 満州回顧録 ――――――――――――――― by gosakuさん
☆ 満州開拓団の惨.... ―――――――――――――― 2003/08/15

食事を終えて、遠く西の地平線に沈もうとしている巨大な朱色の夕日を眺めて
いるとき、あの夕日の彼方で突然起きた一年前の惨劇を、陽に焼けたシワだら
けの顔を涙でクシャクシャにしながら語っていた開拓団生き残りの老人が思い
出されます。

「満州移民はゼッタイに侵略などではない!!・・・そんなことを言ったら、
 、、現地で無残に死んでいった妻子たちがうかばれない........。
 ....犬死になってしまうじゃないか....。」

たしかに一時期は、辺境の居留民や開拓団も「優越民族」としての生活を国境
に近い町や村で享受したことでしょう。それも関東軍の威力を背景にしてのこ
とで、関東軍の敗走が始まり、見捨てられて放り出された居留民、開拓団は、
それぞれの判断で日本軍の保護を求め、最悪の道程をさ迷い歩かなければなら
なくなったのです。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
ソ連軍が急追してくる。さらに現地人たちが匪賊のように襲ってくる。
軍の根こそぎ動員によって屈強の者がいないと分かると、それまで親しんでき
た満人の友さえも加わり、暴徒となって日本人難民に波状攻撃をかけてくる。

屈強の男無く武器も無い開拓団は、それでも、レンガや鍋、釜を割っては投げ
つけ応戦する。十五、六歳の少年達までが斬り込み隊となって戦い、最後には
全員が自決した。

この老人のグループは、祖国日本は降伏したに違いないとの考えに至る。その
ことがいっそう絶望的な気分を蔓延させ、誰もが無慈悲になり、疲労困憊した
者や負傷者を置き去りにするようになっていく。

取り残された場合には、やがてソ連軍の攻撃や現地の暴民によって皆殺しにさ
れることを知って、逃れようと皆は必死の思いで歩き続ける。

何度も何度も暴民や武装匪賊の襲撃に遭遇し、すべてを奪われ乞食以下となっ
た日本人の行列に、中国人が「子供を売ってくれ、女の子は500円、男の子
は300円でどうだ」と声をかけてくる。それは執拗そのものだったという。

そして、最も悲惨だったのは子供たちだ。多くの子供が力尽きて野垂れ死して
いった。こうして疲れ果て、絶望した開拓団の集団自決が、8月20日を過ぎ
た頃から始まる。

守ってくれるべき軍隊もなく、包囲されて脱出の望みを絶たれた人々にとって
は、最後に残された選択肢は死だけとなる。人は忍耐の限度を越えると、生き
ていることも苦痛になるのでしょう。

8月25日午前4時過ぎ、満州東部のある開拓団では、夜明けの空を震わせて
自決の銃声が響き渡る。一足お先に・・・・と、子を両手に抱え、または胸に
抱きして、涙で顔をグシャグシャにしながら引き金が引かれていく。

妻を、子を、親を、知人を。

火葬場と決められた馬小屋は、絶え間なく銃声が続き屍が折り重なってゆく。
読経が低く流れるなか、泣き叫ぶ子を抱き抱えた母親も、目を血走らせて銃声
の中へと消えていく。

27日には、この場所に集結していた別の三組の開拓団千数百人が、ソ連軍の
包囲攻撃を受けてほとんど全滅した。

ソ連軍の攻撃は徹頭徹尾苛烈で、弾雨のなかで青酸カリ自決をする人、ちっぽ
けな武器ともいえないようなものを手に突撃して果てる人、砲弾にやられ木っ
端微塵になって散る人。どうにかして生き延びることはできないものかと空し
くも願いつつ、曠野の土くれと化していった。

8月15日に日本は無条件降伏しているのに、ソ連軍は何故無抵抗な民間人を
殺戮しなければならなかったのだ!
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

「満州開拓史」によると、全滅、あるいは自決した者一万一千五百名。帰国ま
での病没と行方不明者を合わせると、開拓団の人々の死亡は七万八千五百名で
全開拓団の三人に一人が死んでいます。

国から捨て去られた満州での開拓団の悲劇は、残留孤児、残留婦人問題として
今だに続いています。

老人の話から横道に逸れてしまいました。

7月30日、再び乗った無蓋貨車は、五日かかってコロ島に着きます。

                  = この稿つづく:次の記事へ =
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 (^^) OJIN です(^^)

1945年8月15日、58年前の今日、日本は敗れました。

私達は第三者でも観客でもありません。こうして尊い犠牲となられた方々や、
必死に戦ってくれた祖父や父たち、そして銃後を守り耐えてくれた祖母や母な
どの血涙の果てに今日を迎えることができている日本人です。

勇敢に戦い、或いは犠牲となって逝かれた英霊に対し、黙祷を捧げます。

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┃┃ お便りで頂きましたご意見・感想。
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┌──────────「ほんまのおっさんさん」男性@自営業@広島

幼き頃、母よりよく聞かされました。

満州の開拓団にいた事、敗戦になって毎日毎日歩き続けた事、そのとき2人の
兄(当時3歳と5歳)が亡くなった事、現地の人に子供を預けた人もいた事、連
れて行くのも地獄、預けるも地獄だった事、父がシベリアに抑留された事、黒
龍江省や大連の地名を聞かされていた事、舞鶴港に着いた事。

父は、母は、歴史を生き抜いてきた。
父は言う、
――俺はシベリアから生きて帰ってきた―― と。

その父も肺ガンで他界しました。23年前の8月15日に。
今日は父の命日です。
「お父さん、お疲れ様でした、ゆっくり休んで下さい」

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

ほんまのおっさん様、コメントありがとう御座います。

開拓団員の三人に一人は亡くなったと聞いています。幼児は三人に二人が死亡
しています。お母さんはさぞご苦労なさったことでしょう。
難民となり、果てしない逃避行の中で愛する者を失っていったお母さん。

 植田道子さんの詠です。

「幾たびか列車の中に立ち上がり 幼児投げんとせし若き母」

「幼き者二人死なしめて 御仏の前に行けずと思いきめいる」

東京新聞に掲載されていました。
子が親を思うより数倍勝る親心、、つらかったでしょうね!

お父さんは残念でしたが、お母さんを大切になさってください。

└──────────
┌──────────「sawadaykさん」

今、NHKで「大地の子」が再放送されていますが、余り関心を持っていませ
んでした。満州回顧録を読ませて頂いて改めて意識するようになりました。

今は繁栄を謳歌していますが、先人の苦労の賜物と感謝する事、又、明治以降
日本が、植民地を解放するキッカケを作り、白人支配からアジア諸民族独立を
謳い、(一部、行き過ぎた部分はあったと思いますが)有色人種国家が続々と
独立を果たすことができたというのは事実です。

日本人は、もっと事実に目を向けて自信の持てる教育を行っていく必要がある
と思います。
ロシアは(日露不可侵条約があったにも関わらず)日露戦争の仕返しをした!

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

sawadaykさんのご意見は、現在、多くの日本人が心の隅に持っている疑問では
ないでしょうか!
戦争の原因は双方の丘から眺めるべきで、大戦は太平洋の一方面の側にあるだ
けではない!

世界の中で日本及び日本人だけが悪かった、日本人だけが特別馬鹿で戦争にな
ると日本人だけが格別残虐なことをする、と声高に叫んできた文化人と称する
人々は、今でもまだ、日本政府の政治的選択は常に誤りで「逆コース」「復古
調」「右傾化」などと指弾しています。

「社会主義は正義であり、常に勝利する」と過去に叫んでいた文化人が編集し
た教科書では誇りをもてる日本人を育てるのは難しいのではないか?

私は自分たちが必死で生きた時代を簡単に否定されたくない!
ーーこれだけの思いで、これからも発言させて頂きます。

└──────────
┌──────────「爺さん」

gosakuさんの満州回顧録のすさまじさに感驚、また沢山の読者が応えてくれて
いる事に、日本はまだまだ大丈夫だと安心しました。

先日のTV視点・論点で アウシュビッツからやっと逃れる事が出来たユダヤ
人が、家族や周囲の人にあの恐ろしかった情況を話しても、退屈して聞いてく
れなかったとか。私も体験談を話しても同じ情況にあったので、以来口を閉ざ
していました。

8月15日ですので、私の同期生の遺詠を1つ、お許しください。
┌──────────
│海軍二等飛行飛兵曹 ○○ 茂 (当時18歳)
│
│「皇国の鎮石なら いつなりと 散りて甲斐ある この身 この骨」
│
│昭和20年5月4日 水上偵察機500k爆装
│鹿児島指宿基地 0600発進。沖縄周辺の敵艦船に突入戦死
└──────────
「小泉首相の 心ならずも・・・」 戦場に赴かされて死ぬのは若者です。
戦争は回避しましょう。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

爺さん、

私の同期にも数多く特攻機で散っていった友人がいます。今イラクで又パレス
チナで毎日のように自爆テロといわれる、過去の日本の特攻が繰り返されてい
ます。
けれど圧倒的な武力の差を前にしては、他のレジスト方法があるでしょうか?
肯定するつもりはありませんが、胸が痛みます!

戦争はいつも神の名のもと、聖戦という美名で始められ、そして勝者が正義と
なって敗者を裁く、少数の為政者によって始められ、その命令一下でどれほど
多くの命が消えていくことでしょう。

「平和」を願望しながら、その平和のために殺戮を繰り返す人間の愚かさは、
人間の歴史が続く限り、背負わねばならない人間の業でしょうか?

だからこそ戦争は悲惨なものであり、愚かなものである、ということを後世に
伝えていかなければならぬ責任がある!
ちょっと気取ってしまいました。。ゴメン!!

└──────────
┌──────────「タローさん」男性@四十代@会社員@愛知

タローと申します。
満州開拓団の惨....読ませて頂きました。

ただ、ただ目頭が熱くじわっと来る涙を抑えることができませんでした。
太平洋戦争に限らず戦争が悲惨だという事は、想像でしか私には語れません。
そんな私でも胸を締め付けられる思いがします。
愛する我が子に銃を向け、指に力を入れることなどこのメールを打ちながらで
も思わず考え込んでしまいます。

亡くなった方々が存在された事を忘れない。

日本人として、人間として忘れてはならない。
そう思います。
また、戦争に関して書く事はどんな事であれとても勇気がいる事と思います。
読ませて頂き深く感謝いたします。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

タローさん、お便りありがとう。

生き残り老人の話を聞いて、私だけでなく殆どの者は強烈なショックで涙も出
ませんでした。そしてそれから一日、なにも喉を通らなかったのを昨日の出来
事であったかのようにハッキリ記憶しています。

運良く奥地の開拓団から大都市(ハルピン、新京など)に辿り着いた日本人たち
が、引き上げの指示を待ちきれず、20人30人の集団で毛布やリュックを背
負い、子供の手を引いて「お先に行かせていただきます。お先に」そう言いな
がら徒歩で南へ向かって行った。

その大部分は途中で殺されたり、畑の中を逃げ惑った挙句「近いうちに必ず連
れ戻しに来ますから」そういって子供を預ける親がたくさんいた。

"お礼"にジャガイモをもらって....。

「親はそれで飢えをしのぐ、子供も殺すよりは預けたほうがいい、それで置い
 てきた子がたくさんいた。ッッッかわいそうでッ!!!!」

ーーこれもそのときに老人から聞いた話です。

今までに多くの残留孤児が日本に帰還を果たしていますが、育ての親(現地人)
が黙して語らず、日本人ということを知らずに生活している孤児もかなりの数
にのぼるのではないだろうか?・・これは私見です。

私の稚拙な語りが、もしタローさんの涙腺を刺激したとすれば、これは嘘誇張
のない事実であったからでしょう。

└──────────
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
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