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┃ 満州回顧録 ――――――――――――――― by gosakuさん
☆ 無蓋貨車で奉天、そして.. ――――――――――― 2003/08/08

文献によると、国際赤十字の働きかけで満州からの日本人引き揚げが始まった
のは昭和21年の5月頃からとなっている。当時の日本の新聞では次のように
報じられている。
┌──────────
│(6月25日)
│
│満州方面からの引き揚げは、長春(新京)を境として以南、以西地区を第一期
│とし、以東、以北地区を第二期引き上げとする。
│
│第一期は長春以南の満鉄沿線地区を優先的に行い、次いで在奉天一般邦人を
│還送し、第一期は十月中旬頃終了の予定。
│既に本蹊湖、黒山、錦州、鉄嶺は送還完了、現在撫順地区進行中。
└──────────

長春では、5月20日頃まで八路軍による共産政治が行われていたが、まもな
く小さな市街戦があり、再び国府軍の正規軍が占領した。多くの八路軍は戦わ
ずに周辺の農村地帯やハルピン方面に移動していった。

街の中にはまた晴天白日旗が翻り、中国国民政府のもとに在留邦人居留民団が
設置され、日本人の引き揚げに関する様々な事柄が決められた。

日本人会からは、引き揚げに関するいろいろな通達がきた。

引揚者一人が持ち帰れる荷物はリュックサック一個と手で持てる限りの物品、
所持金は千円まで、貴金属類はいっさい持ち出し禁止、本土到着までには一ヶ
月以上の期間が予想されるので準備をするように、等々。

しかし我々は、一人千円どころか道中食べる携帯食料さえ準備することができ
ず、幸い暖かくなった頃だったので、下着の換え以外の身の回りの衣類は全部
売り払って、着の身着のままで道中の費用を工面するのがやっとというありさ
までした。

生きる為に中国人と結婚した娘は、すでに臨月に近く帰るに帰れず、又「この
ままでは餓死する」と中国人に子供を預け、返してもらいにいけば、死んだと
言われて渡して貰えなかった母親もいて、引き揚げをめぐって喜んでばかりも
いられない悲劇も展開されていました。



昭和21年7月25日「さあ!帰れるぞ!」

真夏の太陽がジリジリ照り付ける駅前広場に集結した面々はおよそ300人。
皆栄養失調で痩せてはいましたが、どの顔も晴れやかに輝いていました。

リュックに、それぞれアルミの鍋、やかん、などと分担してくくり付け、七輪
を手にぶらさげた者もいて、歩くたびにカランカランという伴奏つき。その頃
満州で流行していた東海太郎の「赤城の子守唄」を歌いだす者や「新京の街も
今宵限りだ!」とチャチャをいれてどっと盛り上がり大笑いするなど、この先
に待ち構えているであろう苦難の道中も忘れ、皆高揚していました。

引き揚げ列車は石炭などを運ぶための無蓋貨車でした。一両に30人ずつと、
かなり窮屈でした。屋根はなく、視界をさえぎる側板もなく、積荷が落ちない
程度の20センチくらいの高さの囲いだけがあった。

まず貨車の床に高粱の入った麻袋を平らに敷き並べ、人間はその上に座った。
古い「アンペラ」(葦簀のようなもの敷物)を5枚ほど集めてきてロープを張っ
て括りつけ日除けにし、小雨ぐらいなら何とか凌げるようにしました。病人も
いて夏の直射日光下では堪えられません。

殆どが老人(50歳以上)か女性、それから18歳以下の少年少女の混成団で、
我々のリーダー“管”(すが)元課長は背がヒョロリと高く、かなり老けて見え
ましたが、実際は50幾才の面倒見のいい人でした。

途中線路の補修をしたりしながら、走っては止まり又走っては止まって、夜に
なると満天に星が輝いて昼間の暑さが嘘のように涼しい風が頭上を吹きぬけて
いき、皆は体を寄せ合って眠りました。

一週間ほどかかって奉天(瀋陽)に到着すると、下車して30分ほど歩き、大き
な工場跡を利用した収容所に入れられました。軍需物資を作っていた工場らし
かったが、機械類の一切合切をソ連軍が本国へ送ってしまって、がらんどうに
なっていた。

手分けして付近から木切れや枯草など集めてきて、七輪で火をおこし高粱を炊
き、買出し係りが近くの市場へ行って調味料や卵を調達してきて食事をした。
一週間ぶりに屋根のある下で毛布に包って手足を伸ばして寝ることができ、皆
少し笑顔が戻り冗談もでるようになりました。

どうしてなのか判りませんが奉天で四日間を過ごした後、再び乗った無蓋貨車
は、地平線の果てまで高粱畑が続く中を南西方向に向かってノロノロと走り、
日中は暑くてかなわなかったけれど、雨には遭わなかったのがまさに天佑でし
た。

ポツンポツンと泥で固めた民家が点在し、その庭にひまわりが咲いていたのが
印象にのこっています。満州の広野は、野獣の背のように光沢のある草原がな
だらかに起伏してつづいていました。その起伏した丘の上で長い時間停車する
ことがあり、汽車を降りて風をよけ、丘の陰で炊事をするのが私達若者の仕事
でした。

十両連結の、各車両からそれぞれ5、6人が丘を降りて小川から水を汲んでき
て高粱米を炊く煙があちこち風にながれ、今考えるとちょっとしたピクニック
感覚のようですが、当時はとてもそんな気分になれず必死の毎日でした。

どこにも民家など見当たらないので、人里離れた場所かと思っていると、いつ
の間にか現地の中国人が集まってきて、一定の距離は保ちながらも声が届く程
の近さまで寄って来て我々を眺めていました。笑いながら指差し、何やら叫ん
でいるのが、嘲笑しているように感じられました。

上半身裸の子供。大人も殆どが貧しい身なりで、日に焼けた痩せた身体に裸足
という姿で、たとえ中国語が解ったとしても、この田舎では地方訛りが強くて
理解などできなかったでしょうが、多分、

この間まで大米(白米)しか食べなった日本人が赤い高粱米を炊き、また彼らを
小作人として使い、一等か二等の客車にしか乗らなかった日本人が無蓋貨車に
乗せられて行くのが痛快だと思っていたのではないでしょうか。

                  = この稿つづく:次の記事へ =
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┌──────────「ヘイワアトムさん」男性@六十代@福井

安東に間違いはありません、昨年テレビで懐かしい安東の駅を観ることができ
ました。21年9月「コロ島」より貨物船で博多に入港しました。

地図のことですが、当時の長春の地図を日本からの観光客用にと販売していま
したので購入して来ました。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

ヤッパリ安東ですか!僕の認識不足ですね、位置は何省のどの辺りになります
か?できればお知らせ下さると有難いですが!

長春の地図をお持ちですか、厚かましいお願いで恐縮ですが、添付で送る事が
できたらお願いしたいのですが!!!
大きいものでしたらちょっと無理でしょうね、

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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
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