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┃ 満州回顧録 ――――――――――――――― by gosakuさん
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☆ 豆腐屋の水汲み ―――――――――――――――― 2003/07/25
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┃興┃安大路を西に向かい、興安橋を渡ったところが“立ちんぼ”の溜まり場
┗━┛でした。
他にも2、3箇所あったようですが、興安橋のたもとには早朝6時になると、
毎日2〜30人が雇い主を求めて集まっていました。
そうです、“立ちんぼ”とは、今でも山谷のドヤ街などで見られる自由労働者
です。ただ、ここには手配師がいる訳ではなく、雇い主がやって来て直接交渉
し、双方が納得すれば即就職が決まります。アブレる者が約半分ぐらいで、私
なんかのように、チビで痩せっぽちでは滅多に彼等の目にとまることもなく、
殆ど“アブレ”ばかりでした。
アブレた日はコークスと石炭拾いをします。自分達が消費する分もありました
が、大部分は青空市場で売る為のものです。この仕事場は、興安橋の下辺りか
ら新京駅の西北にあった満鉄の機関車庫、貯炭場、石炭ガラの捨て場などでし
た。
最もポピュラーだったのは、石炭ガラの捨て場に山と積まれた燃えカスの中か
ら、コークスや石炭のかけらを拾い集めるのです。実に多くの日本人避難民が
朝から晩まで、自分の穴を掘って根気よくこの仕事をしていました。なかには
夢中になり過ぎて、ガラの山が崩れ生き埋めになりかけた人もおりました。
線路沿いでは、行き来する列車の満鉄留用社員が、線路をウロチョロしている
我々の姿を哀れと思ってくれてか、時々石炭をこぼしてくれることがあって、
それを目当てとしたものです。
また、公安隊の目を盗み、危険を覚悟で石炭置き場や車庫の辺りまで駆け込ん
で、ピカピカの大きな石炭を詰め込んで来た者もおりましたが、これは見つか
ると発砲され、さらに捕まると例のブタバコに放り込まれます。
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┃ま┃た今日もアブレかよ〜!
┗━┛と、仲間と石炭拾いに行く相談をしていると、40才ぐらいのおばさん
が手招きしてなにやら言ってますが満語でわかりません。
ゾロゾロ4、5人が近付いていくと「一個人就好=ひとりだけよ」
この際、どんな仕事でも選り好みなどできる立場ではありません。私が行くこ
とになりました。彼女はジロジロと私を眺めて少し不満そうでしたが、「後ろ
について来い」というジェスチャーで顔を西に振ると歩き出しました。彼女の
後に随いて30分ぐらい城内のデコボコ道を歩き、薄暗い八畳ぐらいの馬小屋
に着きました。
豆腐の製造所でした。
其処が私の就職第一号の職場でした。だいだい色の裸電球が一つぶら下がり、
目を潰された盲目の騾馬が、グルグルと休みなく大きな石臼の周りを回ってい
ます。私の仕事は其処の大きな甕(かめ)に水を満たす事でした。
50メートルぐらい離れた場所の井戸から、石油缶で作ったバケツ二桶に水を
汲んで天秤棒で担いで運び、水がめを常に満杯にしておかなければなりません
でした。豆腐屋は水を大量に使うため、騾馬が食事で休む時間を除き、こちら
も休む暇などありません。
何とか一日だけは我慢して働きましたが、一日で肩の皮が剥けてしまったので
“ケツわり”することにしました。ハッキリと覚えていませんが5月中旬ぐら
いだったと思います。
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┃ま┃たアブレが続くようになった数日後、
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今度は早朝一番に興安橋へ行って待っていると、またしても例の豆腐屋のおば
さんが現れました。けれど、私から仕事の内容を聞いていたので、我々の仲間
からは誰一人応募する者はおりません。豆腐屋のおばさんはなにやらブツブツ
言いながら別のグループと交渉していましたが、ヤッパリ拒否されたのか一人
で帰って行きました。
その日はどうした訳か雇い主が多くてアブレは殆どなく、最後まで売れ残った
私のところにも、背の高い痩せた満人が来て「来来」と手招きしました。
どうやら彼の求人は一人だけのようでした。一体どこに連れて行かれるのか、
どんな仕事なのか、不安で胸が潰れそうでしたが、一日二食のうち、まともに
高粱米にありつけるのは一食だけで、あとの一食?は水だけという毎日でした
から、贅沢はいわない、腹いっぱい米の飯を食べさせてもらえるなら、、
「なんでもやるぞー!」
= この稿つづく:次の記事へ =
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┃●┃ お便りで頂きましたご意見・感想。
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┌──────────「ヘイワアトムさん」男性@六十代@福井
読んで頂き有難うございます。
興安大路の大通りの角に在った、新京ガスの営業所をご存知ですか?終戦から
帰国する21年9月まで此処に住んでいました。
営業所の事務所にはロスケが駐屯しており、じゃがいものスープと黒パンをも
らって食べた記憶が昨日のように思い出されます。
政府軍と八路軍の戦いのときは、高い屋上を双方が交代で監視所として利用し
て、最上階の私たちの部屋は彼らの休憩場所に使われていました。
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┌──────────「gosakuさんから」
よく憶えていらしゃいますね!
僕は満電の独身寮でしたが20年の秋から21年の7月までの一年足らずで、
町名の記憶があやふやで困惑しています。特に印象深かったところ以外憶えて
いなくて、かつての同僚や先輩に問い合わせたりしています。
ヘイワアトムさんの回顧録も是非拝見したいものです。百人いれば百人の回顧
録があるはずです。
僕の場合、新京で楽しい事は全く思い出しません!少しはあったはずですが?
愉快な回顧録を期待しています!
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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