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┃ 満州回顧録 ――――――――――――――― by gosakuさん
☆ 国共内戦 ――――――――――――――――――― 2003/07/18
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┃1┃1月半ばから除々に進んでいたソ連軍の撤退で、いつの間にか国務院の
┗━┛主が国府軍に替わり、国務院の奥庭にある背の低い兵舎に大勢の国府軍
兵士が寝起きするようになりました。

アメリカの援助を受けている国府軍は物資が豊かで、使役に出た者(なかなか
順番が回って来ませんでした)は特典として、食事の余り物など各自持ち帰る
事ができました。ブリキのバケツに白いご飯や美味そうな“おかず”を入れて
持ち帰ると、腹を空かせて待っていた仲間たちは、大歓声をあげて覗き込み、
ご無沙汰していた鶏肉のから揚げや野菜の炒め物など、分配するのももどかし
く「ガツガツ!」....あとから思い出すと、なんともあさまし姿でした。

順天公園のドロノキが新芽をふくらませ、凍った大地にも春の気配が漂い始め
た四月十四日「今日は“ひるめし”じゃなく、“昼水”だあー」ひょうきん者
の徳田君が持ってきたヤカンの水をがぶ飲みしてみたが、水ではやっぱり腹の
足しにはなりません。

使役にも“立ちんぼう”(また稿を改めて書きます)にもあぶれて、多分仲間が
帰るまで食べ物はおあずけ!でしょう。 しかし若さでしょうか、じっとして
いる事が出来なくて、近くの小公園の市場へ連れ立ってブラブラ出掛けました

20代から45歳ぐらいまでの男性は、殆どソ連軍の男狩りでシベリヤへ連行
され、奥さんや50年配の日本人が、それぞれ家から持ち出した僅かばかりの
衣類や家財道具を並べて売っていました。

我々も売る物(出征していった先輩の物)はまだ残っていましたが、いつ帰国
出来るか全く見通しが立っていない今の状態では、2、3日ぐらい絶食を余儀
なくされてもギリギリまで我慢をしよう、と話し合って決めていました。

和服を並べて売っていた子連れの奥さんと立ち話をし、小学校4、5年生ぐら
いの女の子の頭を撫ぜてあげて、さて帰ろうと思ったその時「パンーパンー」
と銃声が聞こえました。何事かとあたりを見回した途端、今度は「ヒュルール
ルー」と不気味な飛弾の音。
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┃か┃ねてから噂のあった八路軍が攻撃してきたのです。
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中国は抗日救国のため、1937年以来国府軍と共産軍が合作していました。
しかし満州の地では、敗戦の翌年3月頃から、各地で国府軍と共産軍の戦いが
始まっていました。

皆悲鳴をあげ、慌てて地面にはいつくばりましたが、銃声は止むどころかます
ます激しくなり、しかも近づいてきます。すきっ腹も忘れ、這うようにして寮
に逃げ帰りました。

各寮の建物の間隔は、窓際に植え込みがあり10メートルぐらいの道路をはさ
んで並んでいますが、我々の部屋は一番角で、しかも一階です。流れ弾に見舞
われる危険性が最も大です。先輩の命令で、畳をあげて南側の窓全部に立てか
けて、うす暗くなった部屋でまだ使役から帰らない仲間を心配しながらじっと
しているより他ありません。

いまにも窓ガラスを粉々にして流れ弾が飛び込んで来そうでした。
「ピューンヒュルル」と絶え間なく飛弾の音が聞こえていました。

窓際には決して近づかないように言われていましたが、怖いのも見たさで窓際
ににじり寄り、立てかけてある畳の間からソオーッと外を覗いて見ました。

見慣れた国府軍の兵隊と、黄緑色の軍服姿の八路軍の兵隊が小銃を撃ち合って
いました。逃げる国府軍を追って突撃する八路軍。まるで映画を観ているよう
で手に汗をにぎるスリルでした。

夜になると機関銃の音も聞こえ始め「ダダダ!、ダダダダ!」ひときわ激しい
銃声と同時に停電になってしまい、真っ暗闇のなかでただじっとしているほか
ありません。

深夜を過ぎても断続的な銃声と「ピューン、ピューン」という流れ弾の音が聞
こえていましたが、銃声はかなり遠くなり、ホッとすると同時に、未だ帰らぬ
仲間の身が心配になり、額を寄せて相談していると、「噂をすれば影!」廊下
から人声がして、どうやら帰って来たらしい。
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┃お┃互いの無事を喜びあいましたが、
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「○○君がやられちゃってねー」
「え!で、どんな具合?」
「どうも、踵からふくらはぎに抜けたらしい。皆で抱えてきたんだが」
「え?!踵から?どうしてまた踵からなんか?」
どういう状況だったのかサッパリ解りません。

すぐ2階の2号室へ見舞いに行きました。そんなに熱いわけでもないのに本人
は額から玉の汗をふいていました。

「なんか傷薬がないかねー。消毒薬もないんだよ」
「出血は止まっています。とりあえず水道水でよく洗ってますが」
「痛むかい?」
「いや痛かあない!ジンジン痺れてて、なんか熱いんだよ」

幸い傷薬と消毒薬がみつかり、応急処置を施すことはできました。

それから四日目の朝まで銃声が続いて、外出はできませんでした。

その結果初期治療ができず、ヨードチンキと市販の傷薬ぐらいでなんとかなる
ような軽傷ではなかったので、傷口を出して寝ている間に傷口からハエが卵を
産みつけたのか、時々大腿部のあたりまで蛆虫が顔を出すようになり、驚いて
皆で傷口からクレゾールを入れて蛆虫退治をしょうとしましたが、酷く痛がる
のでそれもすることが出来ず、ただただ見守るしかありませんでした。

1週間後になると、右足の全部がほとんど腐敗してしまい、異様な臭気の中で
3週間後に亡くなりました。19歳、青春真っ只中の春でした。栄養失調に加
えて敗血症も併発し「痛い」とも言わず眠るようなあっけない最後でした。
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┃戦┃闘が終わるとすぐに使役が始まりました。
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国府軍は姿を消し、街には黄緑色の制服に身を包んだ八路軍の兵士が溢れてい
ました。今度の使役は、道路や植え込みなどに転がったままになっている兵士
の死体処理でした。硬直した死体をリヤカーに積み上げて運び、近くの塹壕に
投げ入れて、いっぱいになったらスコップで土をかぶせる作業です。

今度の戦いで八路軍に負かされた国府軍は、ちゃんとした正規軍ではなく、旧
満州軍を中心とした臨時編成の雑軍だったそうで、そのせいかどの死体も普通
のおじさん、という印象で、さらに驚いた事に彼等は一様に裸の姿で転がって
いました。見慣れた灰色の軍服を着ていないのだ。

「この兵隊さん達どうして裸なんだ?」一緒に作業していた年配の人に尋ねる
と「ああ服のことか、多分、満人たちが夜中に全部剥いでいったんだろう。見
てみろ、靴だって履いてないだろう」当然だという顔で言いました。

「そんなあー可哀想じゃない、成仏できないよ」と言うと、
彼は「ハハハ」と笑って更に驚くべき体験を聞かせてくれました。

「俺は冬の間、日本人難民収容所の死体運搬をさせられたのさ。いやあー悲惨
だったよ。手足は枯れ木のように痩せ細っていて、やっぱり裸同然だったな。
あれは満人の仕業じやない。生き残った日本人難民たちがコッソリ剥いでって
しまったんだろうなー。ちょうど君たちぐらいの年頃の死体もあったよ。誰に
も弔ってもらえず猫や犬みたいに棄てられてしまうんだ。可哀想になあー」

ーーその話に我々は息をのんだ。
そして以前に駅で見かけた難民の姿を思い出した。
‥‥破れたブラウス一枚しか着ていなかった‥‥。

あの姿では冬を越せ....る、わけがない....。
あの人たちは生き残ることができたのだろうか?

なるほど生き残るためになら、死体から衣服を奪う必要もあるんだと納得させ
られたものでした。

                  = この稿つづく:次の記事へ =
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┃┃ お便りで頂きましたご意見・感想。
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┌──────────「としぼうさん」満州回顧録を読んで

現在インドに単身赴任している会社員です。
たまたま貴方の文章に行き当たり吃驚しました。

私は大連で生まれ、1歳のときに引上げましたので満州での記憶は皆無です。
両親もあまり満州の事は話してくれませんでしたし、今更聞こうにも両親はな
く、母が亡くなる際も、無事に私を日本に連れて帰ってくれた事にお礼を言わ
なかったことがいまだに悔やまれます。

なんとかして、私の生まれた満州がどんな状態だったのか、今とても知りたい
という願望で一杯です。最近も中国出張の同僚に、私の生まれた薩摩町の大連
病院を探してもらいましたが見つかりませんでした

引き上げ時にも、中国人や、朝鮮人から酷い目に会ったように断片的に母から
聞いてますが、余りイメージが湧かなく、60歳の定年を前に自分の生まれた
満州がどうだったのか知りたいという気持ちが強くなってきました。

既に本なってるのなら題名と、出版社を、まだなら第1回目から読みたいので
入手方法を教示下さい。

貴重なご経験と歴史を、又真実を後世に残す。大変な事と思いますが、御健康
に充分気をつけて戴き継続されることを期待しております。

                       インドより  としぼう
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┌──────────「gosakuさんから」

インドの としぼうさん

Thank you very much インドでは当然公用語はEnglish でしょうね。
単身赴任とはご苦労さまです。
日本の経済は、としぼうさんのような企業戦士で持っている事を実感します。

ところで、大連生まれとか!ご両親もさぞご苦労なさった事でしょう。
良い思い出があまりなかったのでしょうね。苦労した事など話したくありませ
んから。

それと、不思議なことに極度に痛めつけられると、そのときの記憶は飛んでし
まって完全になくなってしまう事もあります。私は当時チョンガーで能天気で
先輩の後ろについていれば何とかなる存在でしたから、比較的にまだ覚えてい
たのでしょう。

このレポートを書くにあたって、なるべく正確に間違いがないよう、連絡の取
れる限り当時の先輩同僚に電話し手紙を書き、問い合わせをしましたが、
「記憶が無い」「そんなことは知らん」という返事が多くて困惑しました。
別に隠しているわけではなく、事実覚えていないのでしょう。

満人(中国人)や朝鮮人のすべてが日本人に敵対行動をとったわけではなく、曾
て「主人」であった日本人を最後まで助けてくれた現地人も、決して少なくあ
りませんでした。結局暴動の背景は、土地や家屋をとりあげたり、不当な仕打
ちを加えるなど、よき隣人でなかった為、というところにあったのでしょう。

この程度の駄文では本など、とても出せません。

http://chinachips.fc2web.com/repo1/015gosaku.html
上記のURLに満州回顧録の過去記事があります。
まだ暫く続編があります。引き続き感想をお寄せ下さるようお願いします。

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┌──────────「ヘイワアトムさん」男性@六十代@福井

毎週待ちどうしく拝見しています。今週も懐かしい地名(順天公園)を・・・

昨年行ってきましたが、丸太で出来た橋はコンクリートに変わっていました。
公園の入り口の所にはテレビ塔が建ち、丸太杭が並んでいた岸辺はブロックで
固められており昔の面影はありませんでした。

公園の横の和行路に住んでいました。
経済部・国務院などが昔のままの姿で私を迎えてくれました。
経済部の敷地内にあるエントツ。
昇って親父に怒られた懐かしい思い出の煙突が今も残っておりました。

その下に佇んで58年前一緒に遊んだ友達の安否を祈り、
懐かしの地を後にしました。

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┌──────────「gosakuさんから」

コメント謝謝!ヘイワアトムさん

そうですか!昨年行きましたか!
長春に限らずどこでも中国は様変わりのようですね!

私は十数年前に中国(洛陽)で知り合った中国人の友人と二人で行きましたが、
殆んど昔のままでした。駅前の大和ホテルに宿泊しました。当時は二重通貨制
で、外国人は外貨、中国人は人民元。しかも私はすべての料金が三倍高で友人
とは同じ部屋には泊れませんでした。

お城のような関東軍司令部や旧満州国の建物は名前は変わっていてもまだ健在
でした。
いずれ凄まじい経済発展で、満州時代の建造物は遠からず消え去る運命にある
のでしょうが。

ヘイワアトムさんの回顧録も拝見したいものです。是非発表してください!

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┌──────────「みやさん」

みやです。ご無沙汰しています。毎号楽しみにしています。

gosakuさんの満州回顧録をいつも感動しながら拝読していますが、とくに先日
の国共内戦は深い感銘を受けました。
若い人にぜひ読んでもらいたいと、あちこちに転送させていただきました。

アメリカのイラク攻撃について
このメルマガでもその是非も問う記事が載りましたが・・・

戦争開始を決定する人は、戦地から遠く離れた快適な部屋に座りながら・・・
そして劣悪な環境で銃撃に逃げ惑う人は一般市民。
いつの時代もそうなんですね。

強い国が攻撃を始めようと考えたとき
攻撃する理由なんて何でもいいんじゃないんかな?
他の人が聞いたら「そりゃ、屁理屈ちがうの?」と
つっこみたくなる理由でも平気でつけるようです。

徳川家康が豊臣秀頼を攻撃したときの理由のように・・・
方広寺の鐘銘に難癖をつけて、大阪冬の陣の戦いをしかけました。
鐘の文字「国家安康」が「家康」をちょんぎっている?!
おまけに勝手に内堀まで埋めて・・・
はじめに攻撃ありきで、その理由はあとから付けるのではないでしょうか。

豊臣といえば、秀吉の「好み」だけで朝鮮までせめて行きましたね。
もちろん朝鮮半島の人々に多大な被害を与えたけど
いやいやついていった日本人の下っ端兵もたくさん死んで・・・
いつの時代も下っ端の人間の命なんてどーでもいいと考えているようです、
お偉いさんたちは。

gosakuさんの満州回顧録を最も読ませたいのは、我が家のグータラ息子です。
「読んだら・・・」
「そんなん、ええわ」
まったく、欲しいものはいつでも手に入ると考えているし、便利で快適な生活
に慣れきって・・・ゲームに没頭するだけの怠惰な毎日を送っています。
う〜ん、わが息子ながら情けない。

こんな悲惨な生活を人々は送っていた、ほんの60年ほど前に。
知ってほしいんですけどねぇ・・・

昭和30年代もまだ貧しかったですね。
来年になったら時間が取れるので「みやの貧乏物語」を書かせていただきたい
なぁと密かにもくろんでおりますが。。。
(そのうち息子に読まそうという下心なんですけどねぇ・・)

gosakuさんの満州回顧録のように迫力ある記事の前では、私の貧乏自慢(?)
など「それがどーした?!」と言われそう。(やっぱり、止めようかなぁ・・)

では、 OJIN さん、gosakuさんをはじめ、ライターの皆様へ
これからも引き続き、面白く、感動いっぱいの記事を期待しております。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

高校講師のみやさんコメント有難うございます、

当時は、皆貧しかったのです。腹をすかしているのが当たり前の時代でしたか
ら。いま周囲が豊かな中で二宮尊徳精神を強要するのは逆効果?“このまま楽
な人生が送れるものなら誰も苦労はしたくない”一億総グータラ時代?ですか
ら(いや!すつれいー、がんばっていらっしゃる方ごめんなさい)親心としては
黙っていられないでしょうが、お子さんの場合、くる時がくれば黙っててもや
りますよ!

アメリカは、例の同時多発テロにイラクが関与していたことと、イラクが大量
破壊兵器を保有していることを理由に戦争をしかけたが、この理由は二つとも
成り立たない。

イラクが同時多発テロに関わっていたという証拠はなく、また大量破壊兵器は
いまだに見つかっていない。とすればブッシュ大統領は、石油利権の獲得と父
の恥辱を晴らすというだけの目的で戦争を始めたとしか思われない。
ということはおっしゃるとおり、理由なんかどうでもいいのです

イラクゲリラの頑強な抵抗によって、毎日アメリカやイギリスの兵士が殺され
また多くの無辜のイラク民衆も巻き添えになって死んでいます。歴史に照らせ
ば、自国から遠く離れた国で無用の戦争を起こしたことが国の衰亡の原因にな
ることが多い(60年前の日本然り、日本まで遠征し中国、中東までも席巻し
た蒙古然り・・・・・・・)

また話が横道に逸れてしまいました、私は迫力ある文章なんかとても書けませ
ん。ユーモアセンスが無いのでただ重い真実をだらだら書くだけです。
話が時々前後しますが脚色はありません。続けて読んでください。

現代高校事情に続いて「私の貧乏自慢」是非おねがいします。
私も貧乏ですが、自慢するほどのものが何もないので。

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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
満州回顧録の目次に戻ります







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