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┃ 満州回顧録 ――――――――――――――― by gosakuさん
☆ ヤポンスキーマダム ダワイ!! ―――――――― 2003/06/20
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┃街┃頭ばかりでなく、日本人住宅に押し入って手当たり次第に略奪する者の
┗━┛なかには、将校を先頭にした部隊ぐるみのものまであった。しかもそれ
も、ソ連軍はどんどん新京に入り、一泊だけしてまた南下してゆく為、いつも
入れ替わった新手の侵入者が押し入ってくる。
腕時計、万年筆はもとより、布地、長靴などを、先を争うようにして奪い取っ
ていった。

中国人の暴徒も、日本人の住宅に侵入しては略奪を繰り返していたが、ロスケ
(ソ連兵)の乱暴は狂気じみた凄まじさで、日中であろうと街頭であろうと、女
さえ見ればどこでも犯した。そして夜になると、日本人の住宅にジープで乗り
つけ「ヤポンスキーマダム ダワイ!!」と、マンドリン銃をぶっ放しながら
女を探して暴れ回った。

日本女性ばかりでなく、中国女性までも被害にあいだしたため、街から女の姿
が消え、それがいまでも尾をひいていて、暴行を怖れ、老女以外はほとんど見
かけられないようになってしまった。

国民党軍が治安を管理をしているが、日本人にとってはまったく頼りにならな
いので、暴徒に対して、武器のない男は棍棒で、女はブリキ缶を叩いて脅して
自衛している。頼りになる男は根こそぎ召集され、軍隊と警察に見捨てられた
女子供と老人は、言語に絶する悲惨さだ。

けれど、都会に住んで組織に属している我々は、まだ、奥地から避難して来た
開拓団の人たちに比べれば良いと言わざる得ない、、等々。

ブリキの一斗缶が激しく叩かれて、「ロスケが来たよー!」の叫び声に女房と
子供は防空壕に逃げ込みましたが、私の家もやられましたよ。時計とラジオを
強奪されました。蓄えてあった食糧も根こそぎ持っていかれ、いまじゃ子供が
街へ出て、「カピタン、チース、パジャールスタ(兵隊さん、靴磨かせて)」を
やってるよ。

└──────────「ここまで奥田さんの話」

始めは、時折苦笑いしながら話していた彼も、途中から興奮して赤くなった顔
を涙でクシャクシャにしながら語った後、これからの生活について説明してく
れました。

「君たちの宿舎は、召集された者が使っていた部屋が空いているから使ってか
まわない。彼等の持ち物がまだ置いてあるから手をつけないように、電気、水
道は使えますが、ガスは止められています。炊事場は各棟にあります。簡単な
煮炊きは薪と石炭でして下さい。給料は出ませんから各自で自活して下さい。
当座の一週間分の食糧だけは工面します。」

さすが満電本社の独身寮でした。鉄筋2階建て一棟20室の寮が10棟ぐらい
並んでいました。その中の一棟に案内してくれると、彼は帰って行きました。

約1ヶ月ぶりに、畳の上で布団にくるまって寝られる幸せ。水道の水をがぶ飲
みすると、8畳の部屋に6人が三枚の布団を敷いて、一枚の布団に2人ずつ、
翌日陽が高くなるまで死んだように寝ました。
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┃通┃貨は、ソ連軍票が発行され、満州銀行券とソ連軍票の両建てでしたが、
┗━┛物凄いインフレで、とりわけ軍票の価値が下落して満州銀行券100に
対して軍票120の割合だった。

ソ連の軍票は100円が紺色、10円が桃色、5円が薄緑色、1円が空色で、
色つきの札など見慣れない日本人にはオモチャのように感じられる重みのない
紙幣は悪評だった。

肌着に縫いつけておいて、かろうじて略奪から逃れた金を皆で出し合い、とり
あえず高粱と米を買って来ましたが、どんなに節約して食べても1ヶ月もある
かなしか?

                  = この稿つづく:次の記事へ =
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┃┃ お便りで頂きましたご意見・感想。
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┌──────────「爺さん」

今まで断片的に聞かされていた満州からの引揚げ、聞きしに勝ります。

広島の市民の中には「広島に原爆を落されたのは日本が悪いからだ」と言って
はばからない人がいて、小学校でも、国旗を揚げるのに反対する先生が多いと
か。今、日本を背負っている青年や子供たちにも考えて欲しいですね。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから答復」

爺さんいつもコメント有難うございます

「朕深く世界の大勢と帝国の現状に鑑み、非常の措置を以って時局を収拾せむ
と欲し茲に忠良なる爾臣民に告ぐ、朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其
の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり(中略)堪えがたきを堪え、忍び難き
を忍び、以って万世の為太平を開かんとす(後略)」

最後まで一億玉砕を叫んだ陸軍と、早期終戦を進言した海軍との凄まじい葛藤
の末の、1945年8月15日の天皇陛下の詔勅です。

ーーなぜもっと早くに「太平を開かんと」してくれなかったのか。

私達国民は、絶対に降伏はないと信じていたからこそ「堪え難きを忍んで」き
たのです。しかしなおも“現人神”を信じる人々は皇居前に土下座して泣き、
「天皇陛下に申し訳ない」と自決した人もいました。

ーー文献によると、

日米戦を想定した「国力判断」は昭和12、3年ごろから企画院で度々行われ
いずれも回答は「不可」。陸軍も、特に昭和15年から経済学者を集めて各国
経済力の調査をさせた結果、「ドイツの戦力は今が峠で、日本の生産力はこれ
以上増加することはない、しかし米英には余力がある」という答申でした。

戦力物資と生活必需品の七割を英米の勢力圏から得ている日本には、長期戦の
能力はなく、支那事変解決は英米との外交交渉よる以外に道は無かったにも係
わらず、杉山陸軍参謀長は「国策に反する、直ちに破棄せよ」でした。

天皇は「捨て鉢の戦争をする気か!真に危険である」との意見を述べられ、内
大臣木戸幸一も「この際、日清戦争後の三国干渉の時の臥薪嘗胆と同じ決意を
すべきだ」と隠忍自重を求めた。

ーーなのになぜ?開戦!

ここからは gosaku の独断ですが「アメリカが口実をつくってフセイン政権を
潰し、石油利権を手に入れた」のと同じ構図ではなかったのか?

当時、大日本帝国はアジア共栄圏をかかげて”聖戦”に打って出た..。およそ
国家などというものは、内外をたぶらかす口実なしには戦争はやれません。

アメリカから石油の供給を絶たれた日本は、東南アジアの国盗り、エネルギー
を強奪するために戦争の口火を切った。そのころのアメリカは世界総産油量の
65%を占める石油の覇者で、日本は、輸入石油の80%をアメリカに頼って
いた。

ーーそして油が尽きて、負けた。

アメリカがサダム征伐という挙に出たのは、独裁者が大量破壊兵器をもてあそ
び、テロリストたちと連携して世界平和を脅かしている、から「悪」の首魁を
倒して「正義」の民主化を為すのだ、ということになっています。
多くの人々が、アメリカの「正義」に共鳴したり、共鳴したふりをしている。

アメリカの経済生活は、世界産油量の40%を消費し、その50%以上を輸入
に頼っている。そして、イラクの地下には埋蔵量世界第二位の「黒い黄金」が
眠っている。

狙いは石油メジャーの復活?メジャーとそれにつながる企業の活動は、すでに
イラク国家の建て直しよりも速やかに機能している、と、報道されています。
大量破壊兵器など、例え出てきたとしてもわずかで、言い訳に過ぎないような
程度ではないでしょうか。

ーーgosaku の偏見が長くなりましたが、

「日本が悪かったから、原爆を落とされて負けた。アメリカの原爆投下は何十
万という非戦闘員も殺したけれど正しかった。」

ーー戦争に至る背景を抜きにして、唯「日本が悪かった」では、特攻隊として
死んでいった人々の崇高な心は、どうなる、、、、空襲で死んだ人々は、ただ
焼き殺されだけなのか、、、、満州や其の他の地にねむっている大勢の人たち
は、どうなる、、、、

ーー暑いあの日がまたやってきます。

平和で豊かになった日本は、あの破壊と殺戮の果てにあるのです。愛する親兄
弟と緑の祖国を護るために散っていった若者たちや、愛する家族を失った人々
の哀しみの上にあるのです。

ーーということを忘れてはいけないと思います。

「日米戦争は油で始まり、油で終わったようなものである」
―― 昭和天皇独白録より ――

└──────────
┌─────────「HANAHANA73さん」男性@七十代@東京 2003/06/23

熱線のみなさん始めまして。私、満州の出来事に興味あります。

戦前、姉が従軍看護婦?として渡満しました。私が尋常小学校の頃には、しば
しば葉書が来ていました。ハルピンの大きな並木道が、今でも記憶に残ってい
ます。

誕生日には(一ヶ月ぐらい遅れてきましたが)小さな小包が来ていました。三国
志の仮面や馬の玩具などでした。昭和18年頃まで続いていた葉書やオモチャ
も、その後バッタリと来なくなりました。
姉の名前は[千鶴]、チズルと読みます。

だいぶ前になりますが、NHKの[大地の子]を視聴し、亡き姉の苦労と重ね合
わせ感動したことが思い出されます。

熱線の皆様の記事を拝見し、私の70数年間の事柄を少しずつ、ご紹介したい
なぁと思いました。ではまた・・。

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┌──────────「gosakuさんから」

HANAHANA73さん、コメント有難うございまさす。

お姉さんの千鶴さまは(亡き姉とありましたが)帰国後お亡くなりなったので
しょうか?それとも現地で戦死なさったのでしょうか?
ハルピンは、私も一度行った事がありますが、ロシア人が作った街並は、ロシ
ア風の建物とマッチして、異国情緒を感じさせる美しい町でした。

是非その後のお話をお伺いしたいですね

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