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┃ 満州回顧録 ――――――――――――――― by gosakuさん
☆ 敗戦..首都新京への地獄列車 ―――――――――― 2003/06/02
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┃図┃門への70キロ余りの途中、しばしばソ連軍機に襲われましたーーー。
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「またダンゴ蜂だ!」ソ連の戦闘機を私達はそう呼んでいました。づんぐりし
た灰色の機体に星のマークを光らせながら入道雲の間から見えたと思うと急降
下して「パタ、パタ、パタ」機銃掃射を浴びせてきます。

爆音が聞こえてくる度に車から飛び降り、高粱畑や雑木林に逃げ込み、「バカ
者!シャツを脱がんか!」白シャツは空から目立つのか、先輩にどやされ裸に
なったのを憶えています。

8月14日、ソ連軍機の爆撃が続いているのですから、当然その時点ではまだ
日本は降伏していませんでした。が、図們では何という事か一部の中国人暴徒
が、口々に「ニホン、マケタ、ニホン、マケタ、バカヤロウ!」と叫びながら
職員住宅に乱入して略奪を始めていました。警察も、威張っていた憲兵も撤収
したのか姿が見えません。

「嘘だ!神国日本が負けるはずが無い!」と数人の職員が気強く日本刀を振り
回して追い払おうとしましたが、多勢に無勢、たちまち反撃され棍棒で撲殺さ
れるのを目の当たりにして、丸腰の我々にはどうする術もなく宿舎の小学校に
逃げ帰るほかはありませんでした。
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┃8┃月15日の無条件降伏など知る由もなく、混乱の中本業のオペレーター
┗━┛の仕事もなく、軍のトラックを借り分局の撤収作業を続けていました。
数字を主とした暗号電報が多かったので、それ等を集めて焼却したりして技術
屋さんの下働きとしてそれなりに張り切っていました。

住民暴動が心配だということで、琿春から来た全員が夏休み中の図們小学校の
講堂に集合し、その後この小学校は電電社員の収容所になりました。

15日の夕方、分局の撤収作業から帰った我々4、5人が、部屋のスミで例に
よって酒盛りをはじめ、酒の勢いで騒いでいたところ「お前らはなにをやっと
る!」頭上で怒声がし、兵隊の皮ベルトが振り回されて私は頭が斬れ血だらけ
になり、他のの連中もかなりの傷を負いました。

「貴様ら天皇陛下の玉音放送を聞かなかったか!」

いつの間に紛れ込んでいたのか、軍人か警察でしょう。真っ赤な顔をして仁王
立ちになっていました。彼もかなり酒を飲んでいたようでした。そこで我々は
初めて敗戦を知りました。

結局、地元中国人の反感を恐れて、話し合いで軍人と特高=特別高等警察)に
は出ていってもらうことにしました。地元住民に恨みを買っている特高は恐ら
く見つかったら殺されるでしょうが、かくまえば日本人全員が殺されてしまい
ます。仕方ない措置でした。
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┃三┃週間が何もする事もなく過ぎ、図們の学校収容所には、噂をききつけて
┗━┛電電社員の家族が地方から続々と子連れで集まって来て300人ぐらい
に膨れ上がったころ、夜になるとソ連兵が襲ってくるようになりました。

ソ連の最前線兵は、一説によるとシベリアの囚人部隊といわれ、レベルは最低
でした。収容所には奥さんや娘さんもかなり居て、彼等の目的は女狩りです。
二、三人がマンドリン銃をつきつけて侵入して来、泣き叫ぶ娘、人妻お構いな
く有無を言わせず攫って行きました。

その度に、ロシア語ができる人がゲペウ(ソ連憲兵をそう呼んでいました)を
呼びに走りました。しかしゲペウが来たときは、時すでに遅しということが多
かったでした。生きて返された娘はまだ運がよいほうで「忘れなさい」と老人
が慰めていました。「まだ16歳だのになあー」涙ぐむ者もいました。

一ヶ月後、収容所は満杯になり食糧も底をつきかけてきた頃、やっと列車が動
くことになり新京に行けることが決まりました。9月下旬のある朝(はっきり
した日時は忘れました)総勢120名が第一陣として図們駅から新京へ向かい
ました。

新京は満州国の首都で、満州電電の本社もありましたから、行けば何とかなる
のではないか、少なくとも今の状態よりはよくなるのではないかと、皆一筋の
期待をもって汽車に乗り込みました。

これが地獄列車であったとは露知らず!


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┃の┃ろのろと3時間ぐらい走った汽車は、ようやくひとつ目の駅に到着し、
┗━┛2時間あまりも停車したあと、又のろのろ走り出しました。各駅停車で
四つ目の駅に停車した時にはもう、初秋の陽は落ちて暗くなり、何時になった
ら新京に到着できることかと皆言葉も出なく黙りこくっていたそのとき、悲劇
が始まりました。

最初の犠牲者は電話交換手のB嬢でした。数人のソ連兵が列車に入り込み、例
によって女性を物色し始め、男装にし、頭も丸坊主にして隠れるようにしてい
たBさんの首筋から胸に手を突っ込んで確認すると、二人がかりで外に運びだ
しました。男性たちは別のソ連兵に銃を突きつけられ動くことが出来ません。

勿論彼女は大声で泣き叫び暴れましたが、大男二人の力に抗すべくもなく、、
そして薄暗いプラットホームでは目を覆う光景が始まりました。私は耳を両手
で覆い下を向いていましたが、彼女の絶叫が聞こえないはずはなく、正にこの
世の地獄でした。

30分も続いた叫び声が途絶えたのは、もう声を出す元気がなくなったので、
暴行はまだまだ続いていました。ようやく解放されたのは3時間も後になって
からでした。

別の兵士も、列車内を何度も往復して物色していましたが、やがて別の車両に
移って行き、プラットホームの絶叫は、翌朝列車が発車するまで次々と続き、
60歳以下の女性は、k年齢に関係なく殆ど犠牲になったようでした。ただ、
銃音は聞こえませんでしたから、撃たれた人はなかったようでした。
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┃2┃日目からものろのろ列車は相変わらずで、駅でもない高粱畑のまん中で
┗━┛半日停車してみたりという状態が続き、食糧もなくなり列車から飛び降
りて近くの民家に駆け込み、なけなしの金で僅かばかりのジャガイモと水を分
けてもらい飢えをしのいだりしていました。

が、一ヶ月前からの食糧不足で、耐久力のない子供はガリガリに痩せ下痢を起
こし、さらに母親も栄養失調で乳は出ず、幾人かの乳幼児が死んでいき線路脇
の土に埋められました。
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┃小┃さい駅(名前は憶えていません)で停車するたびに、中国人が食べ物を
┗━┛もって衣類と交換に来ました。これから寒さに向かう季節だというのに
着ているものが一枚一枚“まんとう”に変わっていきました。しかし中国人は
まだ良心的でした。

比較的大きな駅に停車すると、必ずソ連兵が銃を構えて乗り込んできて又女性
の拉致が始まり、持ち物の強奪が始まります。はじめに腕時計を取られ、次は
リュクサックを物色して目ぼしい物を持って行きました。

半月余りもかかって新京に着いた時には、雪が降る寒空に無一文の丸裸になっ
ていました。多くの死者を出した逃避行でしたが、私たちは若さのせいか或い
は男性だったからか、運良く生き延びて満電本社に入ることができました。

                  = この稿つづく:次の記事へ =
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┃┃ お便りで頂きましたご意見・感想。
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┌──────────「爺さん」

gosakuさんや大原敬一さんのお話を伺っていますと、同じ時代に生きた者同士
ですね。長い間押えてきた胸のうちの声が、押える手を跳ね除けて口から飛び
出しそうになって困ります。

戦時中青島に滞在中、地元の人との交流も少しありました。その中で、日本の
陸軍兵に対しては反感もあり、時にはテロまがいもあったとか無かったとか。
しかし海軍兵にはそのような反感はなかったと聞いていました。戦後帰国まで
隔離されましたが、日本人に対する特別な悪感情は感じませんでした。

戦後の約20年後ぐらいに、仕事で東南アジア各地を10年間くらい歴訪しま
したが、「子供の頃日本軍には大変お世話になった」からと各地で色々手助け
をしてくれた住民に会いました。
勿論なかには「自分の親は日本兵に殺された・・」という人もおりましたが、
よくよく聞いてみると、日本軍との戦いで戦死したという事でした。

(青島から)引揚後、占領地住民に対する日本兵の暴虐振りを、旧軍人とか訳知
り顔のジャーナリストなどからよく聞かされましたが、私にはそのような体験
が無く、そういうことが全くなかったとはいわないまでも、大幅に誇張されて
いるものが多いのではないでしょうか。

逆に、戦後日本や沖縄に駐留した米兵の悪行ぶりは目に余ります。それもアメ
リカ軍そのものが加害者の兵隊を隠蔽し、本国へ転勤させてしまうのですから
日本の警察も被害者も泣き寝入りをさせられていました。平和な戦後の時代に
ですよ。それも最先進国の白人が。多分に人種差別感を感じました。
戦時中日本兵が犯した罪より悪いと思います。

引揚後(終戦後数ヶ月の頃)多くの樺太からの引揚者に会いました。
その人たちから聞いたソ連兵の悪逆非道ぶりはここでは書けません。

ロシア人と話をすると、不侵略条約を破ったのも、終戦間際に悪い事をしたの
も、北方領土を奪ったのもソ連人若しくはソ連がやった事で、我々の関知する
ところではない..とのことです。

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┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」

このメールの枕に「こんな事を書くと、平穏な OJIN さんのマガジンに、へん
な色がついて、折角の愛読者紳士淑女から敬遠されることにならないかと心配
します。ご遠慮なく取捨選択切り捨ててください。」と書かれておりました。

見当違いのトンチンカンな意見ではありません。実際にその現場で辛酸をなめ
てこられた先達方の体験は、自分の父母祖父母も通ってきたかつての途です。
それをすら「へんな色」としか感じられないような読者なら..何百部落ちよう
とも悔いるものではございません。

どうぞ「胸のうちの声」を遠慮なく吐露なさって頂きたいと思います。

└──────────
┌──────────「やんちゃさん」男性@六十代@千葉

貴重な体験の話、ありがとうございます。

20年3月生まれの私としては、身につまされる話です。
一人一人が辛い体験を持っていると思います。
それを風化させてはなりません。語り継いでいくことが大切です。
今、声を出して若者に話しをしていきたいと思います。

└──────────
 
┌──────────「gosakuさんから」

やんちゃさん、謝謝!

若者にとっては、劇画の世界でしょうね。心の奥深くに納いこんでおいた記憶
を掘り起こし始めたら、思い出したくない空白の一年余りが、堪らない空腹感
と共に蘇ってきます。おそらく最後まで明るい話は出てこないと思いますが、
お付き合いをお願いします。

語れば長くなりますので結論だけを申すならば、「正義の戦争などはない」と
いうことでしょう。国と国との戦いにおいて、それぞれの国が掲げる{正義}
の旗印は、つまるところ国益を糊塗するための粉飾に過ぎません。

あわれなまでに無策だった当時の日本の指導層と、非情な米ソの政治戦略、、
その狭間にあって虫ケラのように殺されていった18万人余りの同胞。

ーーーシベリアの土の下に今も眠っている10万人余の兵士に合掌!!

└──────────
┌──────「日本人さん」男性@四十代@会社員@北海道 2004/01/16

「ロシア人と話をすると、不侵略条約を破ったのも、終戦間際に悪い事をした
のも、北方領土を奪ったのもソ連人若しくはソ連がやった事で、我々の関知す
るところではない..とのことです。」・・・を読んで。

日本人も日本人のしたことは、大日本帝国のしたことで、今の日本は民主主義
なのだから・・・関係ないと言っていいのかな?

└──────────
 
┌──────────「爺さんから」

戦争に最も関心の薄い人が多いといわれる年代にも関わらず、この記事に関心
を持って頂き有難う。「日本人さん」の設問を確認したい。

貴方が現代の日本人として、昔のことはかっての日本人がしたこと、ロシヤ人
など戦勝国が占領地の日本人にしたこと、どちらか一方には関(心)係はない、
或はどちらにも関(心)係がないと思っておられるのか?

それともどちらか一方だけに関心があるのか?

できれば「日本人さん」のもっと深いお考えを聞かせて頂きたい。

└──────────
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
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