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┃ 満州回顧録 ――――――――――――――― by gosakuさん
☆ 1945年8月9日、ソ連参戦 ――――――――― 2003/05/19
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┃日┃中戦争が長期化する中、五族協和、王道楽土の掛け声に応じて500万
┗━┛人あまりの日本人が新生満州国に移住しました。
私もその中の一人として、戦局もいよいよ緊迫した昭和19年、希望に燃えて
琿春電報電話局に同僚3人と着任しました。

小学校の高等科を修了し満州電電に就職、近鉄奈良線沿いの瓢箪山にある養成
所(満州電信電話学校)で一年のオペレーター速成研修を終えると、すぐに神戸
三宮港から出港、

米軍の潜水艦を警戒し昼間は朝鮮沖の島陰に隠れ、夜間航行し玄海灘の荒波で
猛烈な船酔いに悩まされ、食べ物が全く喉を通らずフラフラになって、一週間
かかってようやく満州の土を踏むことができましたが、ーーーまだ大地がグル
グル回っていて、食事をとれるようになるまでにはさらに半日かかりました。

・・・軍国少年16歳の春!でございました。

1943年、既にイタリアが降伏し、44年7月にサイパン玉砕。そして東京
大空襲、と事実戦局は厳しいというよりも破局に向かっていましたが、大本営
発表は連日華々しい皇軍の戦果を報じていましたから、何人の日本人が無条件
降伏をするなんて予測できたでしょうか?

神国日本には、神風が吹いて鬼畜米英を追い払う!と固く信じていました。
(サダムフセインにもアッラーの加護があったかなー?)
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┃琿┃春は東にソ連、南を朝鮮に面した、人口は3万人弱の国境の町です。
┗━┛住民の80%が朝鮮系でした。軍事の要衝として、町から少し離れたと
ころには関東軍駐屯地があり、町の中央には憲兵隊兵舎があって、肩から拳銃
を下げ、赤字で憲兵と書かれた腕章をした兵隊が異常に多かったことを憶えて
います。
(日本人の)民間人は、町の中枢機関の役所、郵便局、電報電話局、満鉄、警察
署、裁判所などで働く500人ぐらいはいたでしょうか?

新しく着任したのは私を含め3人で、局の構成は電報課が主任以下約15名、 電話課が交換手30名と技術5人、交換手の半分は現地採用の朝鮮系中国人で あと庶務を含めて総勢約70名。 戦局の逼迫に伴って、男子は満19歳から徴兵されるようになったため、男の 職員は未成年者か45歳以上の中年者か、病気持ちで兵隊検査に不合格になっ た者だけでした。 私達の勤務体制は電報という仕事上、夜勤(徹夜)と日勤が一週間交代で、時々 は非番の時に、郊外に戦車壕(ソ連戦車侵入に備えて幅3M深さ2Mぐらい)を 掘りに狩りだされるぐらいで、腹はしょっちゅう空かしていましたが、若かっ たせいでしょうか、結構楽しんでいました。 内地=日本本土)程ではありませんでしたけれど食料事情はやはり良くなく、 米は配給で食べ盛りの少年に足りる筈もなく、安月給のほとんどはチャン料理 屋=中華料理店)に消えてなくなりました。たいして旨くもないパイチュウを 飲み、タバコを吹かしてむせこんだりしながら、精一杯背伸びし大人になった 気でいた青春の入り口でした。 ┏━┓ ┃し┃かし、忘れられない悲惨な思い出もありました。 ┗━┛ 食料の取締りはあまり厳しくはなかったようで、チャン料理屋へ行けば内地で はめったに拝めない銀シャリ=米の御飯)や餃子が、金さえだせば食べ放題。 その日も例によって先輩同僚6人で、赤紙=召集令状)のきた先輩の送別会で チャン料理屋へ繰り出し、パイチュウの勢いも手伝って職場の愚痴などを喚い ていたらしい。 ーー内容はよく憶えていませんが、多分いつも検閲にくる若い憲兵が生意気だ とか、その程度のたわいのない話だったと思いますが、そんな話を隣室で盗聴 され、翌朝、顔なじみの憲兵2人が来て、局長室へ呼び出されて散々絞られた 挙句に、局裏のいつも体操をする広場に引き摺りだされて顔が変形するほど殴 られました。 「靴を脱げ!」全員を裸足にさせて、素手で殴ると自分の手が痛いので、その 靴で殴り、立っていられなくなってしゃがみこむ者は襟首をつかんで引っ張り 上げられてまた殴り続け「お前らは国賊だ!」「国外追放だ!」などと怒鳴り 気絶する者が出てやっと終わりました。 翌日から熱が出て2日間寝込み、一週間は口の中の傷で流動食しか食べられま せんでした。子供の頃から”できんぼうず”で、家では親父に殴られ、学校で もしょっちゅう先生に殴られて慣れてはいましたが、この時は本当に恐怖でし た。これが16歳前後の少年に対する制裁でしょうか?いつも見る彼等とは人 が変わったように冷酷な一面を見せつけられて震え上がったものでした。 支那料理屋はテーブルごとの個室になっていて、彼等は毎日盗聴していたんで すね!、憲兵は暗号文の検閲のため殆ど毎日局に顔を見せ態度は横柄でしたが 冗談を言い合う仲でしたのに? 彼等にとって殴るなんて日常茶飯事で憲兵隊 兵舎の前を通ると、いつも聞こえてくるスパイ容疑者と思われる泣き声と絶叫 がいかに凄まじい拷問によるものか実感しました。 後日談ですが、憲兵の上級将校は、敗戦の情報をいち早く得て行方をくらませ たようですが、直接手を下した下っ端は、敗戦と同時に地元住民の報復の対象 になり、威張り散らしていた報いとはいえ、吊るし上げられて虐殺され、その 死体処理が私達若い者に回ってきました。 同僚数人と、大八車2台を引っ張って市役所の倉庫まで行き、そこに転がされ た死体を見て暗然としました。紛れもなく憲兵さんと解りましたが、後ろ手に 縛られ見るも無残な青アザだらけ、撲殺されたことが一目瞭然でした。 真夏のこととて、早くも腐敗が進んでいて、大八車に乗せるとき私は顔を見る のが怖くて足を持ったのですが、ひやりとした冷たい感触と持った処の足の皮 が”ズルリ”と剥けて、思わず「ヒヤー!」と悲鳴をあげたのを今でも思い出 します。川原に穴を掘り、念仏を唱えて4体の仏を埋めましたが、あの方達も 名誉の戦死として届けられているのでしょうか? ┏━┓ ┃8┃月9日午前10時頃、火事場泥棒のように突然ソ連は日ソ不可侵条約を ┗━┛破棄して参戦し、襲いかかってきました。 国境の町に遠雷のような砲声が轟き、我々も不安と興奮で仕事が手につかない 状態でした。 明けて8月10日からは一般人の電報受付が停止され、軍の暗号電文(数字) か、報道関係の、相変わらず威勢のよい「どこそこで我軍のなんとか上等兵が 敵のミグ戦闘機を小銃で打ち落とした!」といった電文ばかり。 11日になって砲声がかなり近くなり、時々煙も見えるようになりましたが、 関東軍の精鋭が必ず撃退するものと思っていた矢先の8月12日午後、「ここ は危険ですから、一時撤退して図門に集結する」という局長通達が出ました。 そこで軍のトラック3台に15人ぐらいずつ分乗し、着のみ着のまま、僅かな 身の回り品だけをリュクサックに詰め、70キロ先の隣町図門へ向けて琿春を 後にすることになりました。 騒然とする町の中で、さき程の憲兵の死体片付けやら出征家族の家庭の手伝い をしたりしていた為に、先の2台とは遅れて出発することになりました。 しかし、それが運命の分かれ路になるとは!! 先に出発した2台は、途中の図們まであと20数キロという地点でソ連軍機の 爆撃に遭い、1台は直撃を受けて全員死亡、もう1台は直撃こそ免れたものの トラックは大破し、約半数の6人が重傷、3人が負傷した状態で後発の我々に 発見され収容されました。 これは後になって解った事ですが、武器らしい武器は殆ど南方戦線と本土防衛 に持っていかれ、飛行機は皆無に等しく、三八式歩兵銃と旧式の小型戦車だけ の関東軍では、せいぜい地元住民を威嚇するのが精一杯でソ連軍の戦車部隊に 歯が立つわけもなく、ただ撤退するだけだったようでした。                   = この稿つづく:次の記事へ = ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ お便りで頂きましたご意見・感想。 ┗━┛ ┌──────────「大原敬一さん」男性@七十代@北海道 久しぶりに大東亜戦争【太平洋戦争】末期のソ連参戦頃の話を見まして、なん ともいえない感慨に耽りました。まさにこのとおりの現実です。日本軍もソ連 軍もやりたい放題の残虐無残な行動でした。今の若い方々には到底理解のでき ない現実でしょう。 北朝鮮を見てますと、かっての日本と同じように見えるのは私達の年齢ではな いでしょうか。 幸いに私は、大学教育まで受けられた恵まれた身でありましたので、命は失い ませんでしたが、戦争に勝てるとは思ってはいませんでした。しかし、当時の 社会や政治を動かす軍閥の力には、象の足の下の蟻に近いもので、如何ともし 難いものでした。 └────────── ┌──────────「gosakuさんから」 謝謝看我的報告。 日本軍もかなり酷いことをした、と聞きますが、私が見聞きしたソ連軍の非道 残虐さとはケタ違いではないか、ーーーというのが私の実感です。 うっかり金将軍の写真が載っている新聞を踏んだばかりに、その場で射殺され た(事実はわかりませんが)というような報道に接しますと、おっしゃる通り 北朝鮮の現状と、あの頃の日本がダブリます。ーーー天皇陛下は神様で絶対的 な存在でしたから。 大原さんは未だお若い(あ!失礼!)と思いますが、当時冷静に判断されてい たと思います。我々軍国少年は、神国日本が赤毛のロスケやチャンコロに負け るワケがない固く信じていました。今を持ちこたえれば神風が吹くと頑張って いました。 戦争末期に、満州での召集に応召し入隊する時に持参する物として「ビール瓶 2本」と「出刃包丁一本」とありました。これを何に使用するかお分かりです か?ーーーこの答は以後のレポートの中で述べたいと思いますが、いま考える とまったくトラジックでした。 国も企業もアタマ(頭領幹部)次第で将来がほぼ決まります。怖いですね。 └────────── ┌──────────「大原敬一さん」2003/05/30 <日本軍もかなり酷いことをした、と聞きますが、私が見聞きしたソ連軍の  非道残虐さとはケタ違いではないか、というのが私の実感です。> ーーー言い忘れました。 ソ連の参戦は確か八月七日だったと思いますが、其の時点での日本は、原爆が 広島、長崎に投下後で、敗戦が目に見えておりましたにもかかわらず、それに 日ソ不可侵条約まで締結していたのに、満州、樺太【今のサハリン】に猛然と 戦車と大軍をもって侵攻してきたのです。 ーーーこの事実は死んでも忘れられません。私の小学校の同級生は、その時に 半分亡くなりました。・・・貴方のいう事は真実です。 └────────── ┌──────────「gosakuさんから」2003/05/30 大原敬一さん、たびたび有難うございます。 私も別に、ロシヤ人に偏見があるわけではないのです。いずこの国にも善人も いますし、悪い奴もいます。 戦争という特殊な状況下では、ある程度仕方のない事なのかもしれません。 しかしそれにしても、スターリンというソ連の独裁者に深い憎悪を覚えます。 おぼろげな記憶を補充する為、いろいろな文献を調べてその思いは増々深くな りました。8月14日、ポツダム宣言受諾によって降伏した日本に、スターリ ン大元帥は、 ーー 満州の曠野における極東ソ連軍の進攻の手を緩めるな! 「日本軍に対する攻撃作戦は継続するべし」 ソ連軍の目標は”関東軍の粉砕、全満州、北部朝鮮、樺太、千島、北海道北半 の占領”でありそれを降伏文書の正式調印までにやり遂げる。 無抵抗になった関東軍や満蒙青年義勇隊に、 敵は哀れみを乞うているが、しかし敵は狡猾で奸智に長けている。いつ、なに をやるかわからない、速やかに前進し、容赦なく殲滅せよ。ーーーでした。 そして将兵52万2千余名、一般人1万1千余名をシベリアに抑留し強制労働 を強い、満州各地の工場などからは機械、関東軍の貯蔵食糧を収奪していった のです。これには中国をはじめ他の連合国もビックリして抗議したようです。 満州における日本資産の処理は共同協議のうえ決めるべきであり、また日本兵 捕虜は国際捕虜協定で決められた通り捕虜収容所に収容し、後なんらかの帰国 方法を見出し帰国させる。 というヤルタ合意があったにも関らず、スターリンはそれを無視して日本人を 強制労働に狩り出し、約6万人の餓死者凍死者を出したのです。 └────────── ┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」2003/05/30 !まさに火事場の泥棒! しかしこんなことは、形こそ違え、現代のビジネスの世界においても常態的に 行われていると思います。そうされない為の様々な“チカラ”を保持しておく ことが必要だと思います。 └────────── ┌──────────「PACKMANさん」男性@六十代@会社員@神奈川 とても感想など書けませんが続きを期待しています。 中国ではよく歴史を学べということが多いと思います。 歴史といっても、編集された歴史ではなく真実を知ることが大切ですね。 ご存知の方も多いと思いますが 藤原てい著の「流れる星は生きている」とい う本を読んだことがあります。興味のある方は是非読んでは如何でしょうか。 著者は山岳小説などで有名な新田次郎氏(故人)の奥様です。 └────────── ┌──────────「gosakuさんから」 ありがとうございます お年から拝察して、大東亜戦争の体験がおありのようですが、私も「流れる星 は生きている」は、随分以前に読ませて戴いた記憶がございます。 子供を背負って朝鮮経由で帰国、という内容だったことを覚えています。一読 の価値は確かにあります。もう一度読んでみます。 中国人や朝鮮人は、なんといっても同じ東洋人で、共通するものがあります。 赤毛のロスケとでは、草食動物と肉食動物の違いでしょうか。大手の報道機関 では報道できなった悲惨なニュ−スは数限りなくあると思います。 └────────── ┌──────────「津軽の男さん」男性@四十代@自営業 つらい過去のパンドラの箱を開いたあなたの勇気に敬意を表すと共に、戦後生 まれの私に、今世界で起きている悲しい紛争や戦争の当事者が昔の日本もそう だった事が再認識できる貴重な体験談をありがとうございます。 私の妻の両親も旧樺太引き上げ者ですが、当時の事はあまり口を開こうとしま せん。終戦間際の混乱期に相当嫌な思い出があったものと推察しており、私も 聞こうとは思いません。 今は樺太にも旅行に行ける時代ですが、タダでも嫌だそうです。 └────────── ┌──────────「gosakuさんから」 コメントありがとう。 今まで“敬意を表す”なんて言われたことのない gosaku としては、いささか 戸惑っています。誰にでも思い出したくない過去はあると思います。 その様なことは本能的に記憶のスミに追いやられ、普段は思い出さない(よう にしている)ものだろうと gosaku の偏見?ですが、今回、改めて記憶の糸を 手繰ってみるとやはり胸が痛みます。 こうなったらヤケクソだあ!!最後までやるぞ!!と今は開き直っています。 He He He! └────────── ┌──────────「無名さん」 歴史の隠された真実を見せられた思いがします。 多くの日本人が知らなければいけないと思います。 └────────── ┌──────────「gosakuさんから」 ありがとうございます 歴史の隠された真実なんて大げさなものではありません。「平和ぼけ」いや! スツレイ(笑)「平和狎れ」した若者には、あの悲惨な戦争の結末(負け戦) を実感して..といってもそれは無理でしょうが、あの当時の経緯があって現在 があるのですから、少しでも解ってもらえたら幸甚の極みでございます。 └────────── ┌──────────「爺さん」 小学生の孫「おじいちゃん、何で戦争があるの? 戦争って何やノン?」 爺「・・・マア お前らよく喧嘩するやろ。喧嘩の原因はそれぞれ自分の勝手   なことを言い合ってるんと違うか。それといっしょや」 孫「日本は戦争しないと決めているんやろ。 そしたら誰も戦争しかけてけえ   へんやろ」 これと同じことをいう世代が もう50歳台になった。教導(今も使うのかな この言葉)や教師がこういって教えるばかりか、日本人のよい事は教えず、ど こかの国々が喜ぶ事ばかり教えている。この孫が、友好とやらで韓国へ行って 同年輩の子どもらと仲良くしてきた。卑下せずに堂々と遊んできた事を祈る。 爺「お前らかて、いじめがあるやろ?」 孫「ウン。。」 爺「いじめられる子は嫌がって逃げるだけやろ? いじめっ子はそれでも余計   いじめるのと違うか?」 孫「そうか..。」 何千年かの大昔、東アフリカの構峡帯に湧き出た現人類が、一部(ネグロ)を残 して北上し、ケルトなど白人、インドヨーロッパ語族、モンゴル族と三つに大 きく分散し、モンゴル族はアジア、太平洋諸島、そして北米に渡り、南米の南 端にまで長い長い旅をした。 それまでの、グループ毎の生存争いはすさまじく、つまり居住地や食糧確保の 為、国家体制が成熟してきたらそれを維持するために領土や働く人の為の褒賞 の確保・奪い合、他民族、異教徒、弱者を排除(抹殺)の繰り返しが行われてき た。 現在、それぞれの国に住んでいる民族は、例えばギリシャ・エジプト・トルコ 等々、2、3千年前の民族とは違う人種にすっかり入れ替わっているとある学 者は言う。ヨーロッパの民族大移動で、フランス・オーストリア・スコットラ ンドなどケルト族は追い出されて北西に移動している。 日本国ですらそうではないですか。いや 領土や食糧がやや確保され、人間と しての常識が確立された今も現実に続いている。生き物の宿命か? 私も戦中、にがい苦しい経験をしてきたので、戦争は絶対あってはならないと 痛切に感じている。強いものだけが法律で、よりよい生活を楽しめる、そんな 世の中であってはならない筈。 贅沢なものが有り余らなくてもいい、世界中の人が仲良く平和を分かち合える 世の中を孫たちに残したい。 └────────── ┌──────────「gosakuさんから」 爺さん、いつも健筆を拝見させて戴いております。 おっしゃる通りでございます。いつの世にも戦争はなくならないものでござい ます。ーーー今の日本は、戦争中毒の米国に追随するしか方法が? 早くドンパチは止めてもらいたい。日本だけは他国と戦いを交える事態を避け なければいけません。アメリカは“いじめっ子”じゃありませんが、ガキ大将 とでもいいましょうか、現在は世界でただ一国の超大国として君臨しています が、歴史の中ではほんのひとコマで、いずれ交代する時が来ると思います。 └────────── ┌──────────「norimiyaさん」男性@七十代@埼玉 前に25年来の上海人の朋友夫妻との交友ぶりを、紹介させて頂きましたが、 gosakuさんの満州での悪戦苦闘ぶりが、とても他人事と思えなくてメールさせ て頂く事にしました。 1927年2月生まれの実兄が、昭和19年4月に脱日本??を試みまして、 当時両親の兄弟(伯父、叔父)がそれぞれ大連、奉天、四平街、ハルピン、北京 などに住んでおりまして、それらを数珠つなぎに頼って行けば何とかなる!! くらいの覚悟で出かけていったものです。 そして行き着いたところが、その内の一人に紹介された大倉の関係会社の通化 省臨江県三盆子という山中のダム工事現場で、2000人程の苦力と日本人が 十指にも満たない陣容のところだったと聞きました。 昭和22年秋に、胡櫨島―佐世保経由で帰還しましたが、発疹チフスを患った 後で見る影もなく憔悴しておりました。 当人は、75歳の現在になりましても、この3年半の、よきにつけ悪しきにつ けてのカルチャーショックを、あたかも昨日の事のように話します。 19歳現地応召の話や、荒野を苦力の暴動とロスケの間を逃げ回った話などな ど、年代的に極めて兄の話と酷似しております。 頭の下がる思いでイッパイです。 └────────── ┌──────────「gosakuさんから」 norimiyaさん、謝謝 お互いに、当時は内地にいても満州にいても難儀な時代でした。よく「苦労し ましたね〜」と言われますが、わたしなんかより、もっともっと辛い思いをさ れた方がたくさんいらっしゃいます。それに比べれば!! ・・と今思っています。 栄養失調寸前でしたが、幸い病気もせず無事帰ることが出来、シベリヤ送りに なった方や、いろいろな事情で満州の現地に残された方々に申し訳ないと思う ばかりです。 私もコロ島経由で帰りました。お兄さんの思い出と、共通点がたくさんあると 思います。一度お聞かせください。 └────────── ┌──────────「norimiyaさん」2003/05/28 前回の、私の実兄の満州の話の中で、重要な欠落部分があることを思い出しま したので追記させて下さい。 彼を追い回したのは、ロスケ、苦力ともう一つ八路(パーロ。現政権の大先輩 の方々の下部組織とでも申しましょうか)にも追い回されてまして、荒野の中 の農家に逃げ込んだと聞きました。 貧しい中でその農家のご主人が、筆談でだったのか口頭でだったのか聞き漏ら しましたが「窮鳥懐に入れば猟師もこれを撃たず」とばかりに2泊3日匿って 貰ったお陰で自分の今日があるということです。 その為中国の人に対して親近感を覚えこそすれ、悪感情を持っていないことを 申し添えるべきでした。 テレビ、新聞によれば中国人による犯罪が仰々しく取り上げられていますが、 上海の友人と話すのですが、自分自身の中にも善悪ふたつの心があるように、 どちらが表に出るかによる、と、ジョッキをぶっつけあっております。 └────────── ┌────────「showさん」男性@三十代@会社員@愛知 2003/05/30 gosakuさんのコラムを初めて読ませていただきました。 経験者ならではのとてもリアルなお話で、こういった話こそ教科書に載せると 良いのにと思いました。 また、先日のバグダットでの戦争でも似たようなニュースを聞き、いつの時代 にも変わらないことがあるのがわかります。 また、違う角度からのお話を楽しみにしています。ありがとうございました。 └────────── ┌──────────「gosakuさんから」2003/05/30 Shuwさん、謝謝。 私もコラムは初めてで納得のゆく文が書けなくて、皆さんに見て戴けるかどう か?不安でした。貴方のように仰って戴けると大変うれしく書き甲斐がありま す。ただ事実と違わないよう、おぼろげな記憶を掘り起こし文献を探し参考に して、最後まで書くつもりです。よろしくお願いします。 └────────── ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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