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┃ 罵 是 愛 ――――――――――――――――― by けんさん                    (けんさんの日中友好コーナー)

☆ 南京問題 ――――――――――――――――――― 2005/12/23

先にあげた中国革命史によると、例の南京の30万については、「不完全な東
京裁判の統計によると」という前段がついて30万となっています。

この場合、いうところの「不完全な統計」は、もっと多いという意味か、純粋
に不完全という意味か、私には推測できません。中国人に尋ねたい。

3千万という数字が、惨禍から殺戮に変わって日本で一人歩きしたように、こ
の30万という数字は、中国政府が不完全と認めたまま中国で一人歩きしてい
る。

少し不謹慎な言い方をするのを許して頂くなら、あの大量殺人兵器の原爆です
ら、10万人しか殺せなかった。ーーー銃剣と鉄砲で、30万人をどうやって
殺すのか。

ナチスの残虐行為を追及する人達は、自分たちが行った殺戮をナチスに押し付
けたことも認めています。己の非も率直に認めているからこそ、主張に信憑性
と客観性があるとされている。

ーー声が大きいだけで真実は語れません。ーー信頼は得られません。

日本人が、この問題に歯切れが悪いのは、では、何人なら許されるのかという
根本問題がある。ーーー数の絶対値ではないからですーーー。

例の100人切りも、従軍新聞記者の誇大記事の疑いが非常に濃い――――。
遺書によると、
二人は、軍人として中国人民に惨禍を与えた点に反省をして、事実は否定した
まま処刑に服しています。

私が知っているB・C級戦犯で処刑された人は、元撫順炭鉱長久保孚氏ですが
彼は民間人です。平頂山事件のときは次長です。彼は、立場上も虐殺に関与す
るはずがない。

満足な裁判もないまま処刑されたB・C級戦犯には、名誉回復の機会があるべ
きだと思っています。
それは決して、
侵略を否定するものでも、残虐行為の非を否定するものでもありません――。

                        = この稿おわり =
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┌─────────「岡崎溪子さん」

 けんさんの意見に同感です。

私は独自の調査で徹底的に平頂山事件を調べました。わたしのメルマガに書き
ましたが、特別に詳細を寄稿します。

――― 日中戦争の問題点を検証する「第58話 平頂山事件」

1932年(昭和7年)9月15日、空には美しい中秋の名月がかかっている。
ーーー満洲では中秋節は休日で、各地でお月見の会が催されていた。

満洲国ができて1年を迎えようとするここ撫順では、匪賊襲撃の予想があり、
守備隊は十分に警戒態勢をとっていた。指揮官は井上中尉である。

主力の川上大尉率いる中隊120名は、行方不明の佐藤軍曹の捜索と匪賊征伐
のため、撫順の東南12キロにある大東州東社方面に、昨日(14日)から後藤
中尉を連れて遠征している。角田中尉は法庫門に駐留中。

残りの守備隊は80名ばかりである。

そのほか撫順を守るのは、憲兵隊10余名、警察250名、防備隊600名で
ある。炭鉱防備隊は兵役が終了して炭鉱勤務者となった在郷軍人で組織した。
撫順炭鉱は満鉄の所有であるから、すべて身分は満鉄社員ということになる。

夜1時過ぎ、匪賊大刀会1000名が楊柏堡(ヤンパイプ)、東郷採炭所、東ヶ
岡採炭所の三方から急襲してきた。

守備隊は山砲と2丁の重機関銃の射撃で応戦した。

ホー!ホー!と奇声をあげながら、槍をふりかざして襲ってくる相手に自警団
はピストルで応戦した。各採炭所では、防備隊と守備隊の必死の銃撃で、なん
とか賊を本溪湖方面に追い返した。

放火された箇所の消火を終わると、すでに午前5時である。

もっとも被害の大きかったのは楊柏堡採炭部で、採炭事務所と巻揚職員住宅は
全焼、渡辺寛一所長以下、死者6名(内炭鉱職員4名)、負傷者20余名を出し
た。
東部採炭部、老虎台採炭部、万達屋採炭部も焼かれたが、死傷者はなかった。
被害額は35万円ぐらいと見積もった。

守備隊は、匪賊を追撃しての帰り道、通称平頂山と呼ばれていた楊柏堡工人部
落の一部、百世帯余の団地で、昨夜市内で略奪されたと思われる色々のものを
発見した。
そこで、匪賊を誘導しこれに根拠地を与えたのはこの部落に相違ないと断定し
厳しい詮議に取り掛かったが、部落民は言を左右にして真相を語らなかった。

午前9時、井上中尉は、「これから工人部落に赴く」と指示した。

トラック3台に分乗して楊柏堡の工人部落についたのが正午過ぎ。井上中尉は
『通匪』ではなく『匪賊部落』と断定し厳重置断することにした。350人余
を1箇所に集めて、重軽機で射撃して殺害した。

翌17日に、防備隊員が製油工場から重油を運び、遺体を焼き、シャベルで土
砂をかけた。こののち数日後、ダイナマイトで崖を爆破して埋めた。

炭鉱関係者は「軍はやり過ぎじゃないか」と帰隊した川上大尉に申し入れをし
た。工人たちが恐れをなして逃げたら、労働力の確保に困るのは炭鉱である。

井上中尉の軍律の厳しさは有名であった。

昭和6年12月、衛生部隊の交代補充として大阪第4師団に動員命令が下る。

師団所属の37連隊からも1個小隊を出すことになり、井上少尉が小隊長とし
て渡満することになった。満洲に渡る前夜、新婚の千代子夫人(21)は「後顧
の憂いを断ってご奉公できるように」と自害した。この話は美談として有名に
なり、「ああ、井上中尉夫人」、「死の餞別」の題名で映画化され、演劇も各
地で上演された。

当然、井上中尉は衆目を常に集める存在となった。

錦州攻撃に参加したが、張学良がすぐに撤退したため、日本軍は戦わずして勝
利した。
これを、彼は何の手柄も立てていないと受け止めたのか、衛生隊に帰国命令が
出ても、ひとり満洲に残った。ーーーそして、その配属先が撫順中隊である。

陸士39期の卒業であるが、彼は陸軍大学校に入学したいと願っていた。

撫順の将校室では、毎晩勉強する中尉の姿が見られた。陸大は連隊長か大隊長
の推薦がなくては受験できないのが慣例である。

今夜、はからずも川上大尉の留守を狙って匪賊が押し寄せてくるという。

ここでしっかりと手柄を立てれば、責任者として自分の名前があがるではない
か。すると、陸大への入学も夢ではない。千載一遇のチャンスだ、と勇んだだ
ろう。
ーーー当時の満洲には、匪賊が30万人もいた。大きく分けると、

1.軍匪(兵匪) 2.政治匪 3.赤匪 4.馬賊 5.流賊 になる。

軍匪というのは、もともと張作霖の下にいた「赤ひげ賊」や、張作霖や張学良
の部下であったものが、満洲から追い出されたときに満洲に居残って、もとの
盗賊にもどったもので、軍隊経験があるだけにあなどれない連中である。

政治匪は、東北義勇軍のなかの大刀会は、もともと馬賊の略奪と軍閥の搾取か
ら農村を守る自衛組織であった。張学良の傘下にあったが、河南地方から入満
した紅槍会が大刀会と結合して独立した。

張学良が去っても独自に動いていたが、のちに共産党に吸収されてゆく。白蓮
教の流れを汲み、入会すると導師に呪文と行法を授けられ、修業77日にして
刀が身を通さなくなり、さらに77日を重ねれば弾丸も当たらないと信じてい
た。
常に護符を身につけて戦場に赴いた。勇敢で強い。

赤匪は共産党ゲリラをさす。満洲では、共産党はさほど勢力は大きくなかった
が、それだけにゲリラ活動は活発で、住民たちに取り入り、共産党入党を勧め
たりする。
彼らは、一般人と変わらず職に就いているので、見分けるのが非常に難しい。

支那軍は「便衣隊」といって、兵士に民間人と同じ洋服を着せておいて、いざ
戦闘になったら兵器を持って戦う、という卑怯な方法をとっていたが、共産党
はゲリラが常習である。

馬賊は、もともと古くから騎馬民族の末裔たちが、不猟の年になると村に降り
てきて金や作物を奪って行った。いわば彼らの生業であった。軍隊と事を構え
ることは避け、手薄なところを狙って襲う。また、外国人や金持ちを誘拐して
身代金をせしめる。残忍な手口を使う。

流賊は、満洲に来たよそ者が、仕事にあぶれて盗賊となった者である。
一般庶民の家を襲い、金品を強奪する。追い剥ぎとなって通行人を襲う。

満洲国が成立したことを受けて、反対する匪賊たちの行動は活発化した。

そこへリットン調査団が現地調査にくるというので、「国際連盟」という外国
を機に攻撃しようと手ぐすね引いて待ち構えていた。特に北満洲からモンゴル
方面は危険極まりない。

一度は満洲国に参加すると表明した馬占山[ばせんざん]が寝返って、ハルピン
付近で勢力を張る、元の軍匪になって暴れまわっていた。関東軍は、たびたび
戦火を交え撃退した。

ともかくこの時期の関東軍の戦いは、匪賊との戦いに明け暮れていた。

炭都とよばれた撫順は、撫順駅から放射状に延びる道路沿いの新市街地と永安
台の満鉄住宅地、渾河河畔の満人街に分かれている。都市計画によって設計さ
れた近代都市である。

豊富な石炭によって、各家庭にパイプで高温の蒸気が送られ、暖房があり、水
洗便所が普及していて文化度が非常に高かった。昭和8年では、人口6万人の
うち日本人は18000人である。

この事件について詳細に報道したのが現地の「満洲日報」である。

昭和7年9月17日朝刊、夕刊、に加えて号外を出している。「深夜の撫順炭
鉱に大匪団猛襲す」「我が第一線を突破し社宅街にも乱入」と、地図入りで大
きく報じている。

事件後の昭和7年10月15日の新聞では、撫順県が、匪賊にあった住民のた
めに救済委員会を設けて、罹災民には1日1人10銭の食費と、家屋建築補助
金が、5人を1戸として50円ずつ支給されている、と報じている。

このなかに、平頂山村の人口1369名のうち400名が死亡したと明記され
ている。

ところが国民政府は、昭和7年11月にリットン調査団の報告書を審議するた
め開かれたジュネーブの国際連盟理事会でこの平頂山事件を取り上げ、「日本
の満洲における非道の証拠として死者700名を出した」と報告している。

確かに、匪賊とともに行動して殺害された者とは別に、一般住民の殺害はいき
過ぎではあるが、通州事件にみられるように、日本人も無差別殺戮の憂き目に
遭っている。

また、殺害された人数も多く語られているのだが、それさえも21世紀の今日
では「3000人が虐殺された」と記念館を建てて中国共産党はウソの宣伝を
している。

井上中尉は、11月末に撫順を離れ、大隊本部付きとなって奉天に転属する。

金鵄勲章を受け、上司の紹介で再婚相手が決まり、昭和10年、内地に帰って
行った。
のちに昭和17年、少佐に進級して陸大入りを果たし、卒業して船舶参謀に任
ぜられている。少佐で終戦。昭和44年大阪で病死。

昭和21年7月、

満洲から引揚げる撫順炭鉱関係者を、国民党政府は次々と逮捕した。

久保孚(事件当時炭砿次長)、山下満男・満多野仁平・西山茂作・金山弓雄・
藤沢末吉・久米庚子・有瀬貞雄・加藤作三郎・廣田繁(炭鉱従業員)・坂本春吉
(事件当時撫順署の警察官)が瀋陽第1監獄に戦犯として収容された。

昭和21年10月、瀋陽に「国民政府主席東北行轅審判戦犯軍事法廷拘留所」
が開設されると、各地の留置所に拘禁されていた戦犯が移管され、300余名
に及んだ。

101人が起訴され、無罪11人、有罪90人(再審開始は47人で、44人
が無罪)である。―――つまりよく調べてみれば無罪の人ばかりなのである。

軍の関係者はシベリアに抑留されており、民間人ばかりが帰国を待っていた時
期である。検察官の取調べは形式だけの数分で、明確な証拠もなく、ほとんど
が冤罪である。

昭和23年1月3日、平頂山事件の判決が下り、軍とはまったく関係ない7人
が死刑の判決を受けた。加藤・久米・有瀬・廣田ら4人は無罪釈放。
むろん炭鉱関係者が再審を願い出たが、却下された。

私は、満洲でキリスト教の宣教師で活動して最後まで死刑囚たちの声を聞き続
けた平野一城[ひらのかずき]氏のお孫さんから、平頂山事件の死刑囚とのやり
取りを記録した「満洲の獄窓に祈る:新紀元社刊」を入手して拝読した。

無実で死に逝く7人の声を聞き、昭和23年4月19日午前の銃殺(死刑執行)
を見届けた。氏は昭和23年6月16日に佐世保に帰還し、故郷の静岡県磐田
駅に帰った。のちに札幌の教会に牧師として赴任する。

川上大尉は、昭和21年6月12日、GHQから戦犯に指定され、東京の巣鴨
拘置所に連行されることが決定して、身を寄せていた宮城県荒浜で、青酸カリ
による自殺を遂げた。

遺書には「外人の裁きを潔しとせず…」と書かれていた――――。
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 岡崎けい子のHP: http://www12.ocn.ne.jp/~okazaki8/
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└──────────
 
┌──────────「けんさんから」

まず岡崎様の詳細な調査に敬意を表します。私の返事は、前回の「南京問題」
と重複する点があるかもしれませんが箇条書きにしてみます。

1.平頂山事件ですが、当時子供だった私は終戦後楊柏堡(ヤンパイプ)事件
として知りました。ところが、満州国官吏で1939〜1945まで撫順市の
地政課長だった父は、まったく知らないのです。
ーーーよほど厳しい緘口令が布かれていたのでしょう。

2.匪賊の襲撃は語り草になっていました。私達から言わせれば匪賊ですが、
彼等にとっては英雄です。匪賊の頭目楊靖宇を捕らえた岸谷隆一郎が述懐して
います。「私が逆の立場だったら同じことをしただろう」と。

その岸谷氏も、最後は熱河の警察署長として、奥さんと娘さん二人を道連れに
して自殺します。

3.3000人は、何処から出た数字でしょう。3000万。30万。3千。
中国語で「3」は単純に沢山という意味しかないのではないでしょうか。

4.久保孚氏は、終戦後、居留民会誌というガリ版刷りの会報に「石山灰一」
(石炭一の意味)のペンネームで寄稿していました。軍国主義ばかりの読み物か
ら、私が始めて目にした平和の香りのする文でした。

最後まで、処刑されるとは思っていなかったふしがあります――――。

満多野氏には「英子」さんという、私と同級の大柄で美しいお嬢さんがいまし
たが、どうされたでしょうか。

5.B・C級戦犯に名誉回復の機会を与えるのは、決して戦争の罪悪を否定す
るものではありません。歴史に学ぶことそのものだと思います。

6.井上中尉の新妻自殺という、猟奇的ともいえる事件が、平頂山事件を異常
にしている背景にあるかもしれません。

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 http://www.ken-san.jp/omotyabako/ongaku/minyou/minyou_m.htm

ーーー今、中国の民謡に入れ込んでいます。

「康定情歌」は、民謡の傑作ですね。明るく楽しい。
「小白菜」の単調なメロディーは、悲しみが沁み込んでいます。

新疆ウイグル族の民謡が、コーランの節で、コザックダンスを踊っているよう
に聞こえるのは私だけでしょうか――――。

東北民謡の、調子はずれのチャルメラは、楽器が壊れているのかと思っていた
のですが、あれはトボケタ味だったのですね。

百聞は一聴に如かず。まずは上記URLで、どうぞ一度聴いてみて下さい。

まだ20曲足らずですが、ーーーこれからもどんどんHPで聴けるようにする
つもりです。
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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