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中国ひと口話:16 ――――――――― by けんさん
| ★ 新しい題目が上段です。
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☆ 中国維新 ――――――――――――――――――― 2008/04/11
中国で心ある人は、日本の明治維新を高く評価しています。私の友人で維新と
いう名前の人もいます。
中国は老人の国ですが、一方で若者の道も開かれています。1998年瀋陽で
開催されたアジア体育祭囲碁部門に参加したときのことです。
折衝に当たっていた22才ぐらいの若い女の子は、私はてっきり事務員だとば
かり思っていたのですが、彼女が責任者として開会の挨拶をしたときは驚きま
した。
ーーー雑用から対外的な折衝まで、全部若者だけでこなしているのです。
明治維新政府の若者がこうだったかと思うほど、彼等の目は輝いています。や
り甲斐があるだろうな、と、羨ましく思うときもあります。
学生も凄く勉強します。早朝国旗掲揚と国歌の演奏を聞きながら、校庭のベン
チでは若者が本を読んでいます。図書館は夜九時まで灯りが消えません。
発展途上国は、まさに維新を目指して発展しています。
若者の 目の輝きが 国を変え
= この話おわり =
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☆ 中国経済は発展するか ――――――――――――― 2008/04/04
改革開放を水の流れに例えたら、外洋の堰をきって内陸に水を引きこんだよう
なものといえないでしょうか。抽象的に言えば、経済発展は拡散と均一化の進
行でシュミレーションできると思います。
水位の逆転はあるか。
仮に無いとしましょう。
だとすると、問題は拡散のスピードと均一化の時期です。
中国の内政問題、経済問題は農村問題に集約されます。
一次産業と、二次三次産業との成長率の乖離は動かせない。
しかし、先の一尺祭りや上海近郊の農家のように、農工業の配置を適正化すれ
ば、成長率の乖離を持ったまま解決の方策はあるかもしれない。
それが郷鎮企業の育成であり、もっと大規模化したのが「西部大開発」です。
これの目標が100年先ですから、均一化は100年先とみます。
もし西部大開発が成功したら、中国の歴史は4千年で始めて一ページを開くこ
とになる。
経済の 流れが政治の 色を変え
= この話おわり =
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☆ 中国よ何処へ行く ――――――――――――――― 2008/03/28
改革開放は「走れる者は走れ」。その面では資本主義そのものです。
一方で厳然たる社会主義国家ですから、土地は国有で、農民には居住地選択の
自由もありません。
計画経済という「見える手」は、沿岸部に国家が人為的な梃入れして、それが
内陸格差となり、傾斜に更に拍車をかける。
2002年11月、特色有る社会主義の建設を目指して、中国共産党は、重要
な規約改正をしていました。
18才以上の国民なら、原則誰でも党員になれるというものです。
それは、憲法一条で明確にしているプロレタリア専政という国の骨格をも揺ら
ぎかねないことです。
歴史は権力分散の方向に流れている。中国もその方向に流れるのか、中国人本
来の姿「バラバラ」に戻るのか。
改革の レールの先は 何処へ着く
= この話おわり =
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☆ 一尺祭り ――――――――――――――――――― 2008/03/21
私は終戦後、中国で栄養失調になっていましたが、日本も食糧事情は最悪だっ
たようです。買出し、闇屋という言葉は、私が1948年日本に引き揚げたと
きも残っていました。
闇屋とは、食料品など統制物品を非合法に取引する人。買出しとは、近郊農家
に、直接食料品を買いに行くことです。
当時、日本の都市近郊農家では、猪(十円札のこと)を積み上げて一尺になった
らお祭りをしたとか。
いま中国でも、上海近郊の農家のように、沿岸部の発展地域に隣接した地域で
は避雷針がついた吹き抜けの高層近代建築が立ち並び、その屋上に農作物を干
しているほど景気が良い。
これだけ見ると、中国の農村問題は全て解決したようにも見える。総体的にみ
た実態はそうでないから内陸格差となり、社会不安を造成する要因になってい
ます。
二桁という猛スピードで成長を続ける経済に、一次産業をどう追従させるか、
改革開放「特色ある社会主義」の一番の腕の見せどころでもあります。
豊かさを 求めるスピード 衰えず
= この話おわり =
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☆ 満蒙開拓青年義勇軍 ―――――――――――――― 2008/03/14
当時、農村の16才から19才の少年が、満蒙開拓青年義勇軍の名前で満蒙の
僻地で開拓に従事していました。
義勇軍という名前から想像するに、平時は開拓、一旦緩急あるときは銃も取る
屯田兵みたいな役割を期待されたのではないでしょうか。
10才を過ぎたばかりの子供の私の目から見れば、随分大人に見えましたが、
いま16才の少年を見たら本当に子供ですよね。
彼等にも甘い運命はありませんでした。血気にはやり強盗を働いて、公開銃殺
された人もいます。これは風説に聞いたのですが、まだ血が付いた上着が群集
の中に投げられとき、それを皆が奪い合ったとか。
そんな中で今でも忘れられないのが、宮城県出身の門脇某という青年です。彼
は部隊を脱走し中国人の農家に入り、このまま中国に残り農業を続けると言っ
ていました。
確か龍鳳という部落に近い、親日の富農の家に居ました。
撫順に行く度に気にしているのですが、その後の消息は分かりません。
混乱の 土地に若者 夢をかけ
= この話おわり =
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☆ 居留民会 ――――――――――――――――――― 2008/03/07
1946年再開された私達の学校の名前は、日僑俘子弟小中学校でした。日本
人捕虜の子供の学校という意味です。
私達の正式な身分は捕虜かもしれませんが、通常は居留民と呼んでいました。
撫順の炭鉱は、日本人居留民の技術と協力なしでは維持できないのが分かって
いたので撫順は治安も良かったのです。
当時、「居留民会報」というガリ版の新聞がありました。
そこに最後の撫順炭鉱長、久保孚氏が石山灰一というペンネームでエッセーを
書いておられました。石山灰一は、石炭の「炭」を「山」と「灰」に分解した
もの。つまり「石炭一」ということです。
この人は1947年7月、平頂山事件の責任を負わされ処刑されます。
平頂山事件とは、1932年9月16日、紅槍会匪という匪賊の襲撃があった
とき、住民が匪賊に協力したと軍部の青年将校の独断に近い形で一般住民3千
人を虐殺した事件です。
当時久保氏は炭鉱次長、民間人です。炭鉱運営の労働力の確保という立場から
も常に事を平和的に処理した人です。
それでも、誰かが血で贖わなくてはいけなかったのでしょう。
捕虜は、ときにBC級戦犯として満足な裁判もなく処刑されました。
一介の 庶民が国の 罪背負い
= この話おわり =
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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