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中国ひと口話:15 ――――――――― by けんさん
 新しい題目が上段です。 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ▼ ☆ ダワイ! ――――――――――――――――――― 2008/02/29 ロシア語で「こら!働け!」というような意味でしょうか。 ┌--------「編集部注」 「ダワイ」は実に使用範囲の広い便利な言葉で、○○せよ・○○しろ、と命令 するのも「ダワイ」。持ってる品物をこちらに「よこせ」も「ダワイ」急げ! も「ダワイ・ベストレ」寝ろ!も「ダワイ・スパーチ」ここへ「ダワイ・シュ ダー」ーーー全ての動詞の上につけて使えるようである。 └-------- マンドリンと呼ばれる自動小銃を小脇に抱えたロシア兵が「ダワイ!ダワイ」 と言いながら我々に近寄る様はまさに赤鬼でした。 スターリン戦車が、前の道幅一杯に通ると粗末なレンガ作りの宿舎は屋根まで 揺れました。 二頭立ての馬車を疾駆させる兵士、、彼等の腕には、二の腕まで腕時計が巻き つけられている。国境で玉砕した日本兵の死体からむしり取った物でしょう。 冷下10度や20度は、彼等にとっては小春日和か、防寒帽の耳も降ろさず、 戦車の前でオイルが凍らないようにウオッカを呷りながら焚き火をしている。 深夜、何処からともなく「助けてー!」と、日本人婦女子の悲鳴が聞こえてく る――――。 不可侵条約を一方的に破り、荒野を彷徨う無辜の開拓民老人女子供を集団自決 に追いやった赤軍の鬼ども!!!! 60年経った今でも、思い出すと許せない。ーーー日中戦争での、中国庶民の 思いも同じかな、と思うときがあります。 赤鬼が 心に残した 傷深し                         = この話おわり = ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ▼ ☆ 三十六計逃げるに如かず ―――――――――――― 2008/02/22 遠くに砲声が響く。暫くすると束の間の暴動も治まり、路上には人影も無く、 街中が閑散とする。 八路軍の殿[しんがり]が騎馬で駆け抜けた後に、国民党の軍隊がトラックで乗 りつける。 共産党軍から国民党軍への政権交代はこんな形で始まりました。 私は道路わきの家の二階から、恐る恐るそれを見ていました。 機関銃を車から降ろし、緊張にこわばった表情の若い兵士が、街角に据え付け る。 上から見ているから、そこに相手の兵隊が居ないのが分かるのですが、国民党 の兵士には物陰は見えませんから一挙動一挙動に警戒心を漲らせて前へ進む。 やがて、裏の渾河に架かっている橋の爆破音が響く。先の殿の兵士が、最後の 任務を果したのでしょう。 そして全市に国民党の党旗、晴天白日旗が何事もなかったように翻り全てが終 わりました。 少なくとも撫順の政権交代は、無血占領といっていいほどあっけなかった。 内乱ずれしている中国では、攻防ともに彼我の勢力を見て手を打つのも早く、 とことん殺しあうのはむしろ稀なようです。 戦乱の 智慧の結論 逃げること                         = この話おわり = ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ▼ ☆ 暴動 ――――――――――――――――――――― 2008/02/15 どんな政府でも、政権を取ったら治安維持に務めます。別の言い方をしたら、 治安維持ができて初めて政権を担ったといえる。 恐ろしいのは軍事政権と軍事政権の交代の狭間です。一瞬無警察無政府の真空 時間帯ができる。ーーーあれは正確には何月何日でしたか。1946年春3月 のことだったと思います。 撫順で八路軍が追われ、国民党軍が進駐してきました。 八路軍の主力が撤退すると、中国人街の一角から「うぉーっ」という地鳴りの ような雄叫びが湧起こる。暴動が勃発したのです。 この一瞬は、何をしても捕まえる人がいません。力の強い者が勝ち。 狙われるのは、主に日本人。 私達もバリケードを組み力で防衛する。集団で防衛できた人は良い。ばらばら に居た日本人は惨めでした。 暴動が去った後は、文字通り箸一本残っていません。普通暴動は命は取らない というのが通説でしたが、一人の日本人の子供が竹槍で殺されました。 郊外の競馬場に彼の土饅頭の墓があり、卒塔婆が立てられていました。 確か「玉井某」。愛媛県の人だったと聞いています。 混乱の 津波に庶民は 術もなし                         = この話おわり = ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ▼ ☆ 文革の効用 ―――――――――――――――――― 2008/02/08 恥ずかしながら私は、文化大革命を無邪気に文化的な革命と思っていました。 当時、中国から来日したピンポンの選手達の目は澄み切っていましたから。 文革とは何か? この問題を正面から論ずるのは、他の方に譲りましょう。 私は文革がもたらした結果だけを、一側面から見てみたい。 それは例えていえば、地上げ屋が更地を作ったようなものとは言えないでしょ うか。地主、富農、資本家、挙句の果てはインテリまで排除して、国内を思想 的に平坦にした。 城郭など文化的な遺産も物理的に撤去した。 これは、改革開放への地ならし的効果をもたらしたとはいえないでしょうか。 大躍進の失敗の跡地に、改革開放は継続して建設できなかったでしょう。 毛沢東の意図はともかく、結果は文革の荒療治が改革開放の建設用更地を作っ た効果があったと思います。 黄河の大洪水が、地表から全ての物を流し去りながら、豊かな沃土を残したよ うに――――。 洪水は 肥沃な大地を 残し去り                         = この話おわり = ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ▼ ☆ 後発国の強み ――――――――――――――――― 2008/02/01 1998年帰国後、瀋陽の工業大学に電話をしたら番号が全部変わっていまし た。私は元NTTの電話屋ですが、これは日本では考えられないことでした。 磁石式、共電式、リレー式、クロスバー式、電子交換機。と方式が変わっても 局番の付加をするだけで加入者番号は変えませんでした。 簡単なようで、これは大変なことだったのです。例えて言えば、住民が住んだ まま、住宅の改装増築工事をするようなものです。 お上の御威光で、バサッと全部新しくできるのが中国の強みです。 道路もしかり。土地は全部国有。用地買収の苦労がないから、定規で線を引い た通りに作れる。 インフラ整備に、付帯工事が少ない。それに技術的な試行錯誤の階梯が少ない のも強み。 後発国が先進技術の恩恵を受けるスピードは、先進国と変わらない。 後発国には、後発国の強みがあります。 一周を 遅れてトップと 肩並べ                         = この話おわり = ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ▼ ☆ 一億総中流 ―――――――――――――――――― 2008/01/25 日本人は、80%の人が自分は中流と思っているそうです。実は私も年金生活 者で、年収200万円少々で中流というには程遠いのですが、特に貧乏という 気はありません。 中国は、階層分けするときよく以下の四つに分類します。 貧困 飢餓水準以下の絶対的貧困。 温飽 一応飢餓は脱し、着る物、住む場所も暑さ寒さを凌げる程度にはある。 小康 日本でいう、中流。自動車に何とか手が届く水準。 富裕 金持。 そして中国政府が、大半の国民が貧困は脱したと宣言したのは、確か1995 年前後でした。 しかし、それはまた新しい貧困を生みました。 「大鍋飯」皆が同じ大鍋をつついていた時代、絶対的貧困時代は知らなかった 相対的貧困。それが農民を襲い都市へ流れて新たな絶対的貧困を生んでいる。 それは、産業革命が農民を農地から切り離し、無産階級を作ったのに似ていま す。中国の悲劇は、彼等が都市労働者になる道も閉ざされていることです。 江戸時代の農民のように、彼等は農地を捨てることを許されません。居住地選 択の自由がありませんから。改革開放は、まさに胸突き八丁です。 改革が 貧しさを知る 窓を開け                         = この話おわり = ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ▼ ☆ いつの日 ――――――――――――――――――― 2008/01/18 中国国家統計局2000年12月31日の発表によると、国内総GDPが1兆 $を越えました。13億の人口で割って一人当たり約800$。日本の正確な 数字が知りませんが、一人当たり25000$ぐらいはあるはずです。 GDPで比較する限り、日中の経済格差は30:1ということになりますが、 実感はそれ程ないようにも感じます。 瀋陽でみる限り、そして衣食住という生活の基礎でみる限り、中国人庶民が日 本人に比べて三十分の一貧乏だとはとても思えません。物価もそれ相応に安い からです。 私の、1952年の電気通信省試用員補としての初任給が4200円でした。 人民元に換算すると280元です。年収でいうと約5600元。 それから40年、退職する時は、年収で70万元ぐらありましたから、単純に 絶対額だけで比較すると125倍金持ちになった訳です。しかしそんな実感は ありません。また、当時それ程貧乏だったという惨めさもありません。 40年間の貨幣価値の変化を換算していませんから、125倍という数字の単 純比較は無意味ですが、感覚的には精々10倍程度でしょうか。 よく中国人に、「我々の暮らしはいつ日本に追いつくか」と尋ねられますが、 感覚が絡むと、意外に難しい質問です。 貧乏と 勤勉の神の 駆け比べ                         = この話おわり = ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ▼ ☆ 庶民の夢 ――――――――――――――――――― 2008/01/11 1995年、天津で行われた日中友好弁論大会に参加したときのことです。 日本からは、私を含め代表三名でしたが、中国人は20名程が日本語で演説し 上位二名が日本留学というご褒美つきでした。 入賞者にラジオ局のインタビューがありました。  問「いま貴方が一番欲しいものを三つ上げて下さい」  答「学歴、お金、恋人です」 若者は正直というべきか。 昔、よくいわれた中国人の夢は、「洋館に住み、日本人の嫁さんを貰い、中華 料理を食べること」でした。 東北地方の農民の夢は、「二畝地、一頭牛、老婆孩子、熱頭」 =食えるだけの土地、一頭の牛、女房に子供に暖かいねぐら) ささやかです。=kang\4」=オンドルの意味です。 我が夢は かかあと餓鬼と 寝るねぐら                         = この話おわり = ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ▼ ☆ チャンコンの町 ―――――――――――――――― 2008/01/04 長崎市には「中華人民共和国駐長崎総領事館」があります。 他に中国が日本に置いている在外公館は、札幌、東京、名古屋、大阪、福岡で す。??何故こんな田舎の小都市(長崎市民の方には失礼)に中国の総領事館が あるのか。ーーーそれは長崎が「チャンコンの町」だからです。 長崎ではお盆に、その年初盆を迎えた人の霊を「精霊流し[しょうろながし]」 といって、竹で作った船に乗せ海に流す風習があります。(今は港の汚染防止 のために焼いているようですが) その時の掛け声が、「チャンコン」。中国語の借光[ジエグァン]が訛ったもの です。借光はご存知中国語で「ちょっと通り道を譲って下さい」というような 意味です。 長崎は、鎖国の昔から、オランダなど僅かですが外国に門戸を開いていた町。 華僑の人々も多く、古い中国の伝統行事も多い町です。 方言の ルーツを辿れば 海を越え                         = この話おわり = ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ▼ ☆ 小日本 ―――――――――――――――――――― 2007/12/28 中国で、日本人のあなたに面と向かって「小日本」と言う人は、まず居ないと 思います。 もし言われたら、断固「バカヤロ」と怒鳴り返しましょう。これは日本に対す る差別用語です。 「小王」とか「小張」とか、年配者が若者に向かって使うときの「小」は親愛 の情を籠めた呼び方ですが、これは違います。 そして、残念ながらいまも街角などで時折耳にします。 かつて「大日本帝国」いまや一島国の日本ですが、日本も結構広いですよね。 私は四国に住んでいるのですが、自転車で回ったら十日以上掛かる。 恥ずかしながら、私はまだ北海道も鹿児島も行ったことはありません。 今度、自転車で行ってみたいと思っています。 小国と 雖も未知の 土地広し                         = この話おわり = ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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