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┃ :中国への熱い思線: ――――――――――― by けんさん
┃ (けんさんの日中友好コーナー)
☆ 「瀋陽―北京」銀輪旅行記:さくら(桜) ――――― 2004/11/08
―― 2004年9月9日。凌海〜錦州。40キロ。快晴。
今日の目的地錦州は、河北、東北、承徳、内蒙古に通じる交通の要衝である。
街全体が小高い丘陵になっていて、錦州に近づくにつれ、軽くそして長いアッ
プダウンが続く。
年をとると、瞬発力とバランス感覚がどうしても落ちる。登りで体力差がハッ
キリ出た。‥王隊長と私の間隔が次第に空く。まず川本さんが私を追い抜く。
高坂さんも追い抜く。自転車は、遅過ぎるのはバランスをとるのに力がいり、
却って疲れるから、若い人はスピードを落とすのが苦痛なのだ。
女性部隊が「頑張れ!」と声を掛けながら、これに続く。福田さんは、脚力は
十分にあるのだが、腰を労って無理をしない。男性部隊は、私をガードするよ
うに殿(しんがり)をしっかり務め前へは出ない。
皆が必死に頑張って、ペタルを踏んで登るのを遥か前方に見ながら、私は自転
車を降りてゆっくりと押す。登れば必ず下りがある。自転車を押すのは、はた
で見るほど苦痛ではない。自転車は杖代わりで、休んでいるようなものだ。
57才で、定年後初めて四国一周をして以来、やまなみ街道を越えて、長崎。
しまなみ海道を越えて、広島。高松、宇和島等々長距離のペース配分は私なり
に心得ている。「自転車は乗るものに非ず。押すものなり」これが私の自転車
哲学である。
若い頃は(57才は今より12才若かった)私もひたすら自転車を漕いだ。一日
120キロを走ったこともある。しかし疲れたらお仕舞い。疲れない限り例え
牛の歩みでも、目的地には必ず着ける。
日本の山道を「これが北京への一歩だ」と念じながらひたすら押したものだ。
ーー今、私は現実に北京への一歩を押している。
みんなが汗を拭きながらゆっくり休んでいる所へ、「お待たせしました」と私
がやっと追いつく。私は疲れてはいないので、一寸休んでそのまま皆と前へ進
む。休んでいる間、高坂さんが筆談で女性四人に「さくら」の歌唱指導をして
いた。これでいいのだ。交流は心だ。もう彼に私の下手な通訳は必要ないだろ
う。
高坂さんは「北国の春」が十八番。その後「さくら」は私達のテーマソングに
なった。女性四重奏に、高坂さんと、川本さんの渋いアルトが重なる。何時の
日か、彼女たちの孫が「さくら」を歌っていることを心から念願する。
王隊長の自転車がパンクした。パンクは臨時休憩で私にとってはありがたい。
劉さんの自転車もよくパンクする。その度に私は「ご協力に感謝します!」と
感謝の言葉を述べることにしている。徐さんのトラブル記録によると、王隊長
が3回、劉さんが3回、福田さん1回、高坂さん1回、徐さん1回、張さん1
回、だった。
1997年、私は瀋陽で看護婦学校の日本語教師をしていたのだが、そのとき
に比べて自転車は格段によくなった。街の角々にあった自転車修理屋が殆ど見
かけない。
私達日本人四人が乗っている「捷安特」は皆さん垂涎の的の高級車で軽い。
どのぐらい軽いかというと、王隊長が休みなくペタルを踏み続けるのに対して
私は三分の一は惰性で追従できる。
途中にアップダウンがあって疲れたこと。それにこの後の宿泊地の具合もあっ
て、今日は短いが錦州泊まりにする。時間が早いので、「遼瀋戦役記念公園」
を参観する。
1948年8月、蒋介石率いる国民党の東北地方における支配地域は、撫順、
瀋陽、長春、錦州等点に限られ、八路軍の包囲を受け孤立していた。
1948年10月、ここで所謂「遼瀋戦役」が戦われ、国民党軍10万の守備
兵と解放軍47万の、52日に及ぶ死闘の決着が東北全域の解放をもたらす。
当時私は撫順にいて13才だった。父は戦後も残留を希望し、同じく撫順の残
留技術者子弟の教師をしていた。瀋陽撫順は八路軍包囲網の中で食料品が異常
に急騰し、落城は目前だった。国民党の軍票をリュック一杯に背負って、その
分の大豆が買えなかった。肥料にする、大豆粕を20キロ買うのがやっと。
極度の栄養失調になる。日本に帰国したときの運動会で、同級生は100メー
トル走る間に私は30メートルも走れす、ぶっちぎりのドンビリで失笑をかっ
た。
この飢えの中で、子供心に北京に行けばなんとかなるのではないか、と考えた
ことを思いだす。
蒋介石が偉大だったのは、この決定的に不利な戦況の下でボッタム宣言を遵守
し、捕虜即ち私達を安全に帰国させたことである。支配下にある瀋陽から錦州
まで輸送機で私達を運び、胡芦島から引き揚げ船高砂丸で帰国させた。
いま私達が走っている道に平行している鉄路は、当時の満州から何十万の引揚
者が通った道でもある。そして今回の自転車旅行の出発点となった鉄西区は、
奇しくも当時の飛行場のあった場所。
当時歌った、霧島昇の「誰か故郷を思わざる」がツーンと鼻頭に来る。
「あなたが私の遺骨を抱いて帰る」と私の膝にうずくまって泣いた病床の母。
母亡きあと、すぐ後を追った妹。その遺骨を抱いて、ここから大陸を後にした
のは、丁度56年前。今、齢(よわい)70の古稀を迎え、こうして再びこの地
に自転車で訪れることができたことに感謝する。
夜の宴席は「さくら」の合唱で盛り上がった。
呑み助二人も、今日は李さんと笑顔で話し合っている。高坂さんも今日は好物
の白酒をあおってご機嫌。実は高坂さんも呑み助だが、一日おきに休肝日を設
けている。昨日はその休肝日だった。
ーー「さくら」は満開..魔物は去ったようだ。
= この稿おわり =
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┃★┃ お便りで頂きました感想。
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┏━━━━━━━━━━「気分は情報無限さん」――――――― 2004/11/11
日本の自転車でママチャリが絶滅してしまったわけではないですが、若い人達が
乗っているのは「シティーサイクル」という車種らしいですね。
私が今現在使用しているのもシティーサイクルなんですが、自転車屋で一番安い
ものを購入したにも関わらず凄くペダルが軽いです。
少し高いものになると必ず変速機が付いています。何だか中途半端に贅沢な気が
します。
ところで話は変わりますが、私は蒋介石総統に対して好感は持っていません。
けんさんには大変申し訳ないのですが、教科書的な知識しか持ち合わせていない
私としては「蒋介石」と「白色テロ」は一体不可分なのです。
しかし当時を生き延びられてきた方には、また違った歴史観があるのも理解でき
ます。例え歴史的大悪人であっても「命の恩人」は別ですからね。恐らく、今の
台湾の方々にも独自の歴史観がある事でしょう。
もし可能なら、台湾に行って蒋介石総統に関して色々と調べてみたいです。
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┏━━━━━━━━━━「けんさんから」
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