┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  迷子になったらここ!(^O^)  ━┓
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┃ :中国への熱い思線: ――――――――――― by けんさん                    (けんさんの日中友好コーナー)

☆ 最後の関東軍 ――――――――――――――――――― 2003/10/01

愛媛県日中友好協会理事長Nさんの口から、横道河子の地名を聞いたときは少
し驚いた。横道河子は、牡丹江の西30キロ。牡丹江盆地とハルピンに境する
山脈の麓。いまではロシア人の屋敷跡などが残る観光地だが、交通の要衝でも
ある。

鶏西から引き揚げた義母が、横道河子で兵隊さんと手を振って別れた話をして
いた。そして「あの人達はどうしているかね。」と言っていた。兄をシベリヤ
で亡くした義母はこの人達に強い関心を抱いていた。

今度父の最後の勤務地鶏寧を尋ねるにあたり、なにかの手掛かりをと思ってN
さんからも色々とお話を伺った。

Nさん当時19才。繰り上げ召集で、特別幹部候補生として牡丹江で荒木大隊
に所属していた。
――――――――
8月 9日 ソ連参戦 
8月11日 非常呼集、臨戦態勢
8月13日 牡丹江で戦闘開始
      ソ連軍は、南は石頭、東は磨刀石から進入
8月17日 横道河子で武装解除
      8月15日の終戦は、指揮系統の乱れで知らなかった。
――――――――
鶏西に行く高速道路の途中に、磨刀石の地名が入った料金所がある。
窓から写真を撮ったのだが、なだらかな丘陵、柳等の樹木、唐黍、向日葵、が
あるだけ。この辺一帯と同じ景色で何の変哲もない。
鶏西からの帰り、牡丹江で少し時間が出来たので行ってみることにした。

「中国銀行に寄って、磨刀石に行ってくれ。」
とタクシーの運転手に言うのだが何度言っても通じない。
やっと通じたようなので、不機嫌に
「俺の発音そんなに悪いか?」
と言ったら、
「銀行は何しに行きますか?」
「換金」

「磨刀石はなんの御用です?」
「古戦場を見に行く」
 
「そうだったんですか。私は銀行と磨刀石の関係がどうしても分からないので
 聞き間違いかと思いました。でもあそこは何もありませんよ」

「友人が昔関東軍の兵士で牡丹江にいた。この辺で何でもいい建国以前の古い
 建物があったら写真に撮りたいので教えて欲しい」

「私も詳しくは知りませんが、牡丹江にかかっている古い橋のたもとのトーチ
 カは間違いなく昔の物です。少し遠回りになりますが、行きますか?」

早速行ってみることにした。写真を撮っていたら解放軍の兵士のような人が出
てきて「あちらへ行け」という仕種をする。どうもここはまだ現用の軍事施設
なのだ。

「対岸のトーチカは料理屋みたいなことをしているから、問題なく写真に撮れ
 ます。帰りに寄りましょう」と運転手が言う。
こんなところで、スパイ容疑で強制送還されてはたまらない。私もそうそうに
退散した。

牡丹江郊外を東へ、高速道路で20分も走っただろうか。左手前方の丘の中腹
に磨刀石鎮はあった。1千戸程の集落。緑の中に集落全体が赤のレンガで一色
に見える。

小川を渡り、集落に入ると木陰に数人の老人が居た。昔関東軍がいた頃の建物
を知らないかと尋ねるのだが皆首を横に振る。次も同じ。
若者の一団がいたので、今度は少し質問をかえた。

「昔ここで日本軍とソ連軍が戦争したことを知っていますか?」
「聞いたことはあるよ」

「なにか当時の建物、その跡地でもいいのですが知りませんか?」
「知りません」

「昔の戦争の話を知っている人を、誰か知りませんか?」
お互いで話し合っていたが、あの爺さんなら知っているだろうと、一人の男性
を呼んできてくれた。

奇しくも1935年生まれという私と同年のこの男性が「私は当時11才だっ
た。いまでもよく覚えているよ」と講談口調で語り始めた。
実は私の中国語レベルでは、老人が土地の言葉で話すと聞き取れない部分が多
い。大筋は分かるから、下手に質問して話の腰を折るようなことはせずさも分
かったような顔をして頷く。

日本軍はここに守備、主要火器は大砲三門。ソ連軍は前方丘陵台地に布陣。
殷々とこだまする砲声は彼の語り口から想像する。

村落裏の小高い山で白兵戦が行われたと指差す。そこからは激戦地一帯が見渡
せるという。
「この車で一緒に行って案内してよ」と運転手が懇願する。
若者達も「行ってやりなさいよ」と言う。

「私も年だから、山には登らなくてもいいです。近くまで行って説明してくれ
ませんか」とお願いしたら、人の良さそうな老人は笑顔で引き受けてくれた。

この辺一帯は盆地である。だから海抜は分からないが、この山は地表から約2
00メートル。緩やかな中腹は唐黍畑で覆われている。すれ違う馬車に老人が
何やら声をかけると先方も笑顔で道を譲ってくれる。

道幅はタクシーがやっと通れるだけの山道。深い馬車の轍に車輪をとられない
ように慎重に行く。泥濘があると少しバックさせて、勢いをつけ飛び越えるよ
うに行く。

山頂近く、道が途絶えるところまで車は行ってくれた。老人二人が車を降り、
散策する。東ソ連国境から進軍してくる道路と牡丹江が、ここからは一望に見
渡せる。軍事用語ではなんと言うのか知らないが、砲弾指揮所の望楼があった
のだ。

いまは何もない望楼跡に老人に立って貰い写真を撮る。付近に茶色く変色した
幅1メートル程の線状のものがある。ここが俗にいう蛸壺。塹壕だったのだ。
戦いの後この地に来たらまさに屍累々だったとのこと。掘れば遺骨が出てくる
かもしれない。

丘陵をスターリン戦車が疾駆する様を想像したのだが、戦車は上がっていない
ようだ。ここでは望楼を巡っての白兵戦が行われ、その帰属が決着をつけた。
占領後ここから誘導される前方ソ連陣地からの砲弾を老人が擬音で表現する。
三発の砲弾が正確に、三門の大砲に命中した。
(問題都解決了。)「これで全てが終わった。」という老人の言葉を最後に、
私達の話題も現実に戻った。

「あなたの話には感動しました。また他の人と一緒に来たいのですがまた案内
 してくれますか。」
「いいとも。」

「お名前はなんといいますか。」
「陳 来友」

えーっ!まさに「いいとも」ではないか。
「いい名前ですね!」
「来る人はみな友達です。有縁千里来相会。」
有縁千里来相会、この言葉を聞くのはこの旅で二度目である。

生粋の土地の人間である陳さんは、富農に属していたため文革時代は苦労した
が、改革開放後は自動車を買い運送業をしたのが成功した。子供は北京で学ば
せているそうである。

「戦争は、庶民にとって悲惨です。」と陳さんがため息をつく。
撫順に来た多くのソ連兵士が二の腕まで、腕時計をしていた。あるいはこの戦
場に倒れた日本兵のものかもしれない。

帰りは、例のトーチカを見たあと、「何処でもいいから牡丹江の観光地に案内
して下さい」と頼んだら、解放記念碑と「八女投江碑」に案内してくれた。
解放記念碑は、憶測だが元の忠霊塔だろう。両軍の無名戦士が、奇しくも同じ
碑に祭られているのである。

"八女投江"は少し説明がいる。

日中戦争のとき、中国軍が敗れて牡丹江まで追い詰められた。そのとき八人の
女性兵士が、負傷者を肩に負い放歌高吟しながら牡丹江に身を投じ、日本軍の
注意をひきつけ主力の撤退を助けたという話である。

関東軍に取り残された日本人婦女子が、30キロ爆弾を身に巻いてソ連戦車に
飛び込んだという悲しい話がある。

Nさんはこれを「フィクションです」と、静かにしかしハッキリと言った。
Nさんに最後に下った命令は「貴様達に名誉の戦死の場を与える」だった。
30キロ爆弾は、屈強の若者でも腰にしたら容易に動きがとれない。
Nさんは更に語る。

「負け戦は、まず指揮命令系統が滅茶苦茶になります。そんな中では、誰もが
 自分のことだけ考えます」

事実、Nさんは終戦を知らず混乱の中でウロウロしているのである。避難民に
紛れてハルピンまで行き、そのまま帰国した人、脱走した人も少なくないとい
う。私の父も間際に応召され、まだ正規に部隊編入もされていなかったので、
部隊長公認のもと徒党を組んで離脱した。

シベリヤ抑留とその後の悲惨は、私は伝聞でしか知らない。

この世代の人達は、あまり多くを語らない。語り尽くせないものをそのままあ
の世まで持っていく気かもしれない。
それでもいいではないか。語りが全て真実ではない。真実を語ろうとすればす
るほど真実と離れるもどかしさ。過去の心象遠景は全て美しくなる。あるいは
逆に巨木のほこらのように小さな傷がどうしようも無いほど拡大される。

「八女投江」が、自分たちが助かろうとし、結果として主力を救うことになっ
た行為だったとしても、彼女達の勇敢さは毫も否定されるものではない。
「30キロ爆弾」がフィクションだったとしても、その異常な緊張と口に表せ
ない悲劇を語るには小さすぎるフィクションかもしれない。

ーー関東軍最後の激戦地は、もう一度訪れてみたい。

                        = この稿おわり =
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┃┃ 読後感アンケート結果。
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◇ 面白かった  (^○^) -------------------------------- 12人  (60%)
◇ まあまあかな(゜.゜) --------------------------------  5人  (25%)
◇ ツマラナかった(-_-) --------------------------------  3人  (15%)

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┃┃ コメントボードに頂きました感想。
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┌--------「ミカの赤い服さん」

けんさん、こんにちは。

母方の親戚は満州からの引き上げ組みですので興味深く拝読しました。
大東亜戦争のことを訊ねてもあまり教えてもらえないので、このメルマガは
勉強になっています。

…でも悲惨なお話が多いので、たまには爽快なお話も伺いたいです。

└--------
 
┌--------「けんさんから」

戦争が本来悲惨なのではないでしょうか。
不器用な私には、爽快に書けません。
川柳で回答させて頂きます。

 目を閉じて 涙の露を 手向けする

 蛸壺に 草生す屍 横たえて

 彼岸花 戦の庭に 紅く咲き

└--------
┌--------「気分は情報無限さん」

若い私には辛い内容ですが、実感のこもったお話を有難う御座います。

└--------
 
┌--------「けんさんから」

 望郷の 夕日背にして 目を閉じる

 星霜は 六十年の 傷を消し

 防人は 遠く異国に 何百里

 砲声の 途絶えが 歴史の幕を閉じ

└--------
┌--------「やあないんさん」

来友さん、お元気で!
日常のお付き合いがしっくりと深まりますように!
実地リポートに感謝!

└--------
 
┌--------「けんさんから」

 古戦場 かつての敵も 今は友

 見渡せば 風と空なり 磨刀石

 秋風や 火筒の響き 遠く聞く

└--------
┌--------「山本直哉さん」

終戦時横道河子に住んでいて、8月13日に逃げ出し、
新京に避難していた者です。Nさんに連絡を乞う。

└--------
 
┌--------「けんさんから」

Nさんには、ご都合を伺ってみましょう。

横道河子から新京への避難はさぞご苦労が多かったことでしょう。
どうぞ、お聞かせ下さい。

└--------
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┃┃ お便りで頂きました感想。
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┏━━━━━「小島よしゆきさん」男性@六十代@自営業@愛知 2004/01/21

けんさんは35年生まれでしたか、小生は36年です。
親父も大体同年輩です。鶏西の隣町の東安(現密山)で省公署=県の上の組織で
しょうか)の総務課長でした。

貴君のお父上と同じ「五族協和、王道楽土建設」を真剣に考えるような人だっ
たと思います。ーー38歳、シベリアで終戦の年の冬が越せずに没しました。

磨刀石に関心がありました。
いつもその地名を通過して鶏西、密山に走りました。

つい最近に、あそこの戦闘で幹部候補生の部隊が全滅するくらいの激しい戦闘
地であり、その中の一人に「岸壁の母」の端野さんの息子さんも参加、あそこ
で行方不明になられたと知り、なおかつご本人は生きている・・という後日談
も知りました。(真偽は別)

つい最近も、磨刀石で生まれたけど「そこは中国のどこ?」という方のために
牡丹江の知人を使って白い雪の磨刀石鎮の画像を送ってもらったばかりです。

お願いをしたい事がございます。
ご苦労をされて情報源の「陳」さんを確保をされましたが、私も本年のゴール
デンウイークに彼の地を訪問したいと思っています。
そこで「陳」さんをご紹介が頂けないでしょうか?
ーー厚かましくお願いをする次第です。

拙い中国大好き人間のHPです。お暇ございましたらご笑覧ください。
http://www.katch.ne.jp/~k-yoshiyuki/

┗━━━━━━━━━━
 
┏━━━━━━━━━━「けんさんから」

楽しいHP早速拝見させて頂きました。
リンクを貼らして頂きたく思いますので宜しくお願いします。
 
父と同年輩。仕事も同じ総務課長ということであれば、ご父君と私の父は面識
があったかもしれません。 いや、必ずあったでしょう。

ご縁ですね。

陳来友さんとの連絡、私もやってみます。
磨刀石の写真はメールで添付しましょう。

┗━━━━━━━━━━
 
┏━━━━━「小島悦行さん」男性@六十代@自営業@愛知 ―― 2004/04/07

その節には磨刀石についてご指導いただきありがとうございました。

お陰様でGWですので運賃が割高なのが難がございますが、他は順調に訪中の
準備が進んでいます。
貴サイトの「最後の関東軍」を参考にさせていただき、磨刀石の古戦場の見学
も段取りが整っているように聞いています。

牡丹江のガイドも「わざわざ磨刀石に出かけて「陳来友」氏と面会してきまし
た」とメールを寄こしましたので、案内について研究をしているものと存じて
おります。陳氏の近影が添付されていました。
また、ここの戦いの生き残りに、児童作家の“ともちゃんのおへそ”を書いた 著者増田昭一氏も知りました。岸壁の母の息子さんもそうですし、名も知られ ぬ戦場ですが、故国のために散華された諸氏に心から合掌してきたいと思って います。 ともちゃんのおへそ ―――― 増田昭一氏の経歴 ┗━━━━━━━━━━「小島悦行さんの ホームページ」             http://www.katch.ne.jp/~k-yoshiyuki/ ┏━━━━━━━━━━「けんさんから」 5月1日〜5月15日まで、私も瀋陽に行くのですが、5月4日は残念ながら どうしても日程の都合がつきません。 いい旅行になりますことを、祈っています。 もし宜しければ、磨刀石のこと、お便り下さいませんか。 陳来友さん、実は私も住所を聞き漏らしました。 家は知っているのですが・・・ これもよろしければ、住所が分かりましたら、お教え願えませんか。 増田昭一さんのホームページも早速拝見し感動しています。 ┗━━━━━━━━━━ ┏━━━━━━━━━━「小島よしゆきさん」―――――――― 2004/06/11 けん様、磨刀石の古戦場に行ってまいりました。 あなた様の「最後の関東軍」が大変に参考になりました。 名も知られぬ小さな中国の一農村で、若い命を散らした戦場も忘れられつつあ るようですが、数少ない慰霊の訪問者の一人となれた事に満足をしています。 マイクロバスで強引に、バスの車幅より狭い道を頂上近くまで上りました。 戦闘の記録「我銃火にまだ死なず」を読み、戦闘配置図をコピーして現場にて 確認いたしました。帰りにその地図を記念品に陳氏に差し上げました。 帰国後に、東寧の要塞に毎年桜を植えに行かれる方のビデオを見る機会があり ました。牡丹江のガイドの案内でしたが、彼女が早速にその方の一行を磨刀石 の戦場跡に案内をしたようです。無論、現地ガイドは陳氏でした。 驚いた事には、私が差し上げた戦闘配置図を示して、滔々とご説明をされてい る様子をビデオで拝見しました。この分では、次にご案内いただけるときには 背広にネクタイ姿かもしれないぞ・・と思いました。 一人でも多くの日本人に知って頂く事が、無念の思いで果てた勇士のご供養に なることと存じます。 おかげさまで中国訪問の一同、無事に帰りましたことを、遅まきですがご報告 させて頂きます。 ┗━━━━━━━━━━ ┏━━━━━━━━━━「けんさんから」 ご縁とはいえ、私の雑文がお役にたったこと、非常に喜んでおります。 いま私は、あの高原に蕭条と吹く風を思い起こし手を合わせています。 実は陳来友さんの住所を聞き忘れ、連絡がとれません。 もしお分かりでしたら、教えて頂けますか。 私ももう一度行ってみたいと思っています。 yamasaki@myad.jp ┗━━━━━━━━━━ ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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