┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  迷子になったらここ!(^O^)  ━┓
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┃ :中国への熱い思線: ――――――――――― by けんさん                    (けんさんの日中友好コーナー)

☆ 最後の満州「黒竜江・鶏寧訪問記」 ――――――― 2003/09/24
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│2003年9月7日から21日まで中国各地を巡りました。
│南通へも行って OJIN さんにも会ってきました。(^^)
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ハルピンまで所用で来たついでに、父の満州国官吏として最後の勤務地鶏西を
訪ねることにした。

鶏西は黒龍江省の東、ソ連国境に近い炭坑の町である。鶏冠山の西に位置する
ために鶏西市と名付けられているがもとは鶏寧県だった。今は市内の人口90
万強だが、当時はほんの数万人だったはずだ。

1945年4月、終戦を間近にして父三十六才。撫順から急遽この町に鶏寧県
総務課長として赴任した。既に病の床に久しかった母は動けなかった。
父と六十二才の祖母二人がこの戦雲急な国境の辺鄙な県に赴いた。
母と私、弟、幼い妹が撫順に残った。

母と妹は翌年亡くなる。
父は4年前八十九才で他界した。
父は最後まで侵略を認めなかった。そんな父に私は頑なだった。

鶏寧は、もうひとつ私に個人的な縁を生む。帰国後父がこの鶏寧で知り合った
女性と再婚したのである。つまり私の義母もここで暮らしていた。
父の上司、鶏寧県知事の奥さんの妹、当時二十六才。

その義母も今年84才。一昨年脳梗塞で倒れ病床に伏している。彼女が元気な
とき、断片的に引き上げの様子などを聞いたことはあるが詳しくは何も聞いて
いない。今回鶏寧に行くと話したら「そうかね、そうかね」と何回も嘆息をつ
いた。しかし後遺症の言語障害で、詳しい話は何も出来ない。母の姉が健在で
1941年に一度鶏寧に行ったときの思い出を話してくれた。

坂道に鈴蘭が咲いていたそうである。母の姪になる人が私より三才下で、やは
り鶏寧に住んでいたのだが詳しいことはあまり覚えていない。彼女からはその
当時の開拓団や医療機関のいた人達で作っている会報「東仁医報」を資料とし
て頂く。

ーーさてこんな頼りない手掛かりで何が得られるのだろう。

私は鶏寧の土地に立つだけでいいとハルピンから牡丹江への列車に乗った。

ハルピン〜牡丹江間は約300キロ。特別快速列車で4時間。牡丹江から鶏西
は200キロもない。軽く考えていたら、どっこい、、牡丹江から普通列車で
7時間も掛かるという。

駅前にマイクロバスの長距離バスがあったので運転手に聞いたら、2時間半で 着くと言う。もう直ぐ発車するとも言う。しかしこの"もう直ぐ"は、それから 一時間半もかかった。 この手のバスは客が満席になるまで動かない。乗りかかった舟ならぬ、乗りか かったバスである。諦めてそのままひたすら発車を待つ。 しかし蹉跌はここまでだった。このあとは思いがけない幸運が次々と訪れる。 第一の幸運。 鶏西市で一番大きいホテルに荷物を預け、夕食を摂るため外に出た。北国の夜 7時はもう真っ暗だ。詳しいことは明日調べることにして下調べのため市内を タクシーで回ることにする。 折りしも外は中秋の満月。 感傷に浸った私が、独り言のように運転手に語り掛ける。 「実は私の父が、昔ここで満州国の官吏をしていた。それで何か名残がないか  と訪ねて来た」 「えー!私は満州族で祖父は満州国軍の少将だった。戦後は祖父もソ連に抑留  されて20年間監獄に入っていた」 さらに言葉を継いで、 「私達は同類だね。有縁千里来相会。(縁有りて千里合いまみえる)」と言う。 祖父から三代に亘る生粋の土地の人間という彼が、まず街灯に照らされた駅前 の六車線の舗装道路を指差し「ここは(黄土路)未舗装のデコボコ道だった」と 言う。両脇に低い土塀と平屋。犬の鳴き声。馬車、ロバ・・・土埃り、目をつ ぶるとすぐその光景が目に浮かぶ。 次に彼が案内してくれたのは「鶏西樹梁中学」だった。 「ここがあなたのお父さんが仕事をしていた場所かどうかは分かりません。  しかし、建国当時鶏寧県の事務所はここにありました」 ほとんど全てといっていいほど当時の建造物は残っていない。その場所がどこ か分かるだけでも十分である。まず間違いない、ここが鶏寧県庁の跡だろう。 50才の彼自身が、58年前のことをそのまま知らないとしても彼の子供の頃 の状況を思い出すままに語ってくれる。 兵器の工作所みたいなところがあったらしい。子供の頃の遊び場所だったそう だ。山腹の住宅地を指差し「このあたりが、昔日本人が住んでいたところだと 思います」という。そして、殆ど古くなって撤去されたけど、一部残っている かもしれませんとも言う。 しかし既に日はとっぷりと暮れているので、明日また訪れることにして、遅い 夕食にすることにした。中華料理は一人で食べるのは空しい。彼が火鍋に付き 合ってくれた。 66年に文革が始まる。65年にソ連から戦犯として出獄してきた彼の祖父と 一族は身を潜めて暮らしていたという。 鶏西のタクシーは初乗り料金が5元というだけでメーターが無い。「幾らでも いいです」と彼が言うから50元渡した。2時間以上もガイドさせて市内をぐ るぐる回ったのだから相場かなと思ったのだが、彼は多過ぎると言ってどうし ても受け取らない。 押し問答をしていると、何事ならんとホテルのボーイらが寄ってきた。 タクシーの運ちゃんが「多過ぎる」と言って料金を受け取らないこの前代未聞 のやりとりを「貰っとけよ」と言いながら見守っている。 20元と幾らかの小銭を受け取って貰ってこの騒ぎは収まった。ここにこの縁 深い運転手の名前を記し、お礼に代えさせていただく。「関 太平」 第二の幸運。 明くる日、この勤勉な町の7時はすでに活気に満ちている。 早速タクシーで昨日の中学校に行き写真を撮る。すこし自分で歩きたかったの でタクシーを捨て、それらしい所を歩き回ってみるが、全然それらしい建物が ない。違うとは思ったが、古い工場みたいな建物の前に十人ぐらい人がいたの で「あれは建国以前の建物ですか?」と尋ねてみる。 勿論違う。さらに近くを流れる「木蓮河」に掛かっている橋のことも聞いてみ る。「建国前にそんなのものがあるはずがない。あれは改革開放後のものだ」 という。 そして、何故そんなことを聞くのかと不思議そうな顔をするから、事情を説明 して、何でも古い建物があったら教えて欲しいと言ったら、一人が 「あの給水塔は日本人が建てたものだ」という。 そして「第十三給水塔」といえばタクシーなら皆知っていると教えてくれた。 礼を言ってタクシーを拾ったら、「変な所に行くな」と不思議そうな顔したが 連れて行ってくれた。 「写真を撮りたい」と言ったら、良い角度を教えてくれる。 これで一応満足しホテルに帰る途中のタクシー車中。 「あんた土地の人間かね?」 「そうだよ、あの給水等のすぐ近くさ」 「昔日本人が住んでいた所を探しいるのだけど、もう無いだろうね〜」 「あの給水塔の真下の家は、日本人が建てたと聞いているよ」 「早くそれを言わんかい!戻るぞ!」 「OK!」 「この辺の人間は皆顔見知りだから他も聞いてあげよう」 と彼が順番に当たってくれる。中のひとりが、 「私が知っているから案内してあげよう」 とタクシーに乗り込んできた。 程なく着いた処はまさしくそこだった。いくら古くなっても、昔日本人が住ん でいた建物は私には一目でわかる。この風格のある平屋は間違いなく元の知事 公舎だ。義母とその義兄が住んでいたところだ。隣の一回り小さいが、それで も、周りとは違う品格のある建物は総務課長だった父が居た官舎だろう。 書斎と思しき窓際に父の影が見える。庭には祖母が立っている。 私は確信した。 ここは鈴蘭の花がよく似合う。 父の霊が私を呼び寄せたのだ。 ――お父さん、あなたは青春の全てを満州に捧げたのですね―― ・・生前はどうしても言えなかったこの言葉を私はやっと言った。 ーー父の満州国官吏として最後の勤務地で、私の満州も終わった。                         = この稿おわり = ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ 読後感アンケート結果。 ┗━┛ ◇ 面白かった  (^○^) -------------------------------- 32人 (89%) ◇ まあまあかな(゜.゜) -------------------------------- 4人 (11%) ◇ ツマラナかった(-_-) -------------------------------- 0人 ( 0%) ┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ コメントボードに頂きました感想。 ┗━┛ ┌──────────「ミカの赤い服さん」 けんさん、こんにちは。母方の親戚は満州からの引き上げ組みですので興味 深く拝読しました。 大東亜戦争のことを訊ねてもあまり教えてもらえないので、このメルマガは 勉強になっています。 └────────── ┌──────────「けんさんから」 私より少し上は「私は貝になりたい」世代です。それも、なんとなく理解で きます。彼等がときどき語ってくれるひと言を私は拾い集めています。 └────────── ┌──────────「むむーさん」 けんさんの原点が分かった旅でよかったですね。 うちのじいちゃんも、戦時中、北京で兵隊をしていたので、もし生きていたら 話を聞きたかったです。子どもの頃って、戦争の話とかってつまんなく感じる んですよね。大人になった今なら、ぜひ聞きたいのになと残念です。 └────────── ┌──────────「けんさんから」 私は父の話を、頑なに拒みました。 なんでもう少し優しく接することが出来なかったか。激しく後悔しています。 いまの子供は、戦争の話をあまり好みません。それもよしと思っています。 └────────── ┌──────────「山本直哉さん」 牡丹江の近くに住んでいて命からがら引き揚げた人間ですので、鶏寧の話は 面白く読みました。 私の引き揚げの記録は「文学サイト長野」に「黄昏の松花江」という題で紹介 しています。 └────────── ┌──────────「けんさんから」 是非読ませて頂きたいと検索したのですが、「文学サイト長野」まで出て、 黄昏の松花江のリンクが分かりません。 URLをそのまま貼り付けて頂けないでしょうか? └──────────「黄昏の松花江:山本直哉著┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃┃ お便りで頂きました感想。 ┗━┛ ┌──────────「大地の子さん」男性@六十代@兵庫 2003/10/08 そうですか。お父さんが住んでいた公舎が残っていましたか。 感無量の思いがしたでしょうね。 └────────── ┌──────────「けんさんから」 熱心にご愛読、感謝申し上げます。   父の元官舎、埴生の宿は幻でないかと、帰国後義母に写真を見せるまで一抹の 不安を抱いていました。 脳梗塞で言葉を失った義母ですが、記憶は鮮明でした。 「けんちゃん、けんちゃん」と涙顔でなんども私の手を握りしめたのです。 私の中国語は、最近中国人に「お上手ですね」とお世辞を言われるレベルまで 上達しました。早く、なんにも言われないレベルまで上達したいものです。 └────────── ┌───────「松虫草さん」女性@六十代@主婦@神奈川 2006/10/06 お父上の旧居に辿り着くことができましたとのこと、感銘深く読ませて頂きま した。 私の父も、召集されて満州に行き、鶏寧付近の警備に当たっていたようです。 戦地からの軍事郵便(母宛てのハガキ)が100枚以上手元に残っており、中に 松虫草の押し花がありました。 1995年8月、厚生省主催の中国東北地区友好訪中団の旅で、姉共々、ハル ビン・牡丹江・鶏寧・東寧を回ってきました。鶏寧あたりには、野生の松虫草 がたくさん咲いていました。 └────────── ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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