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中国への熱い思線 ――――――――――― by けんさん
| ☆ 開原と鉄嶺 ―――――――――――――――――― 2003/05/21
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│約80年前、父方の祖父が、開原で診療所を開いていたことがあるという。
│開原には私自身も、60年前父の仕事の都合で一年近く住んだことがある。
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その時の写真も一枚だけ残っているが、二才にもなっていない頃なので、なん
の記憶も無い。また祖父も、私が生まれる10年前に他界しているので、祖父
について詳しくは何も知らない。父の話によると、祖父は軍隊で衛生兵の経験
があり、その経験を生かして診療所みたいなことをやっていたらしい。祖父は
日露戦争(1904-1905)に参加した。
何故中国まできてそんなことをしたか。先代まで広島郊外の庄屋としてかなり
の資産があったのだが、祖父の代で没落した。ということと大いに関係がある
はずだ。
祖父は酒もいける口だったという。開原駅前の酒場で飲んで帰らない祖父を、
父は幼い弟を背にした母(私の祖母)の手に引かれ、よく迎えに行ったという。
父はあまり明るい顔でこのことを話さないから、私の開原に対するイメージも
やはり暗い酒場だ。
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┃日┃本語教師の会で知り合った藤原先生が、鉄嶺市の中華国際学校で教鞭を
┗━┛とっておられる。私よりほとつ年輩で、高校の理科教師を退職したこの
先生とは、よくウマが合う。先生も子供の頃中国で暮らしていた。
「畠の中にポツンと学校があるだけで、なんにもありませんよ」という先生の
言葉に、私は是非遊びに行きたいと思った。
鉄嶺は瀋陽の北約70キロ、開原は更に北30キロである。この何も無い所で
日本語教師をしている藤原先生に、私は暗い酒場の片隅で中国酒を飲んでいる
祖父の姿を重ねたのである。勿論、藤原先生は暗い人ではない。お互いの住ん
でいる場所が近いことと、日本人がいない所で仕事をしているという点に共通
点を見たのである。だから、開原と鉄嶺はどうしてもセットで行きたいと思っ
た。
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┃同┃じ宿舎の若者留学生千葉君に、一緒に行ってくれるようお願いしたとこ
┗━┛ろ快諾を得た。中国の田舎を一人旅するのは心細い。彼とはこれまでも
一緒に旅行して気心が知れている。
開原駅の売店で、まず地図を買おうとしたのだが無い。売り子に「開原の名所
旧跡は何処か」と聞いたら「そんな所は無いよ」と笑う。「名物は」と聞いた
ら「大蒜だ」とまた大笑いする。
駅前の広場から三本の道が走っている。右と左は前方1キロ足らずで町並みが
途絶えている。真ん中の道は何かありそうだ。小さな食堂が三軒並んでいる。
ちょうど昼時だったので、その中の一軒に入った。或いは、ここが80年前、
祖父が酒を飲んだ店かもしれないと思いながら、私も中国酒を注文する。
店員の一人が「何処から来たか」と聞くから、「私は生粋の開原の人間だ」と
赤ん坊のときの写真を見せる。「これは60年前の開原だが、こんな所を知ら
ないか」と尋ねてみたら、周囲の客も面白がって覗き込んだが誰も知らない。
駅前一帯は昔日本人が住んでいた所で、一部古い建物も残っているというから
それを写真に撮ることにした。
開原は自転車タクシーが多い。中で、年輩の何となく話し好きそうな人がいた
ので「何処でもいいから、市内をぶらぶらしてくれ」と千葉君と二人で乗るこ
とにした。
以下、私の選んだ名ガイドから聞いた開原市の概要。
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│人口:郊外を含めたら七十万。市部だけなら十五万。
│産業:農業。
│歴史:約一千年前の前金の時代に、商工業の中心地として栄えた。
│旧跡:文革までは四方に城門があったが、取り壊されてしまった。
│其他:人民解放軍空軍の飛行場がある。民間のは無い。
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ここも不景気で、このような自転車タクシーが一千台はあるが、殆ど客は無い
と言う。
一時間も乗ったら回る所がなくなった。現在二時。帰りの汽車の切符は、既に
買ったのだが四時半出発。まだ二時間半もある。どうやって時間を過ごそうか
と考えていたら、駅の構内に「茶館」があった。茶瓶に一杯五元(七十円)。
碁盤があったので、相手がいないか尋ねたのだが、こんな真っ昼間から遊んで
いる人はいない。客は私達二人だけ。店番の娘も奥に引っ込んでしまった。
開原は全く何もない。80年前祖父はどんな気持ちで酒を呷ったのだろうか。
ウツラウツラしながら祖父を偲ぶ。
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┃中┃華国際学校は、鉄嶺市の郊外、東へ30キロの所にある。
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鉄嶺駅からタクシーに乗ることにした。50元で行くと言う。
「メーターでやって呉れ」
「鉄嶺のタクシーには全部メーターなんかないよ」
と運転手君両手を広げて肩をすくめる。別の車と交渉しようとしたら、40元
(日本円600円)にすると言う。いい線だと思ったから乗ることにした。
乗るなり運ちゃん
「貴方の中国語は少し日本訛があるからすぐ日本人だと分かったが、こっちの
若者は中国人と変わらない」
千葉君は中国語を始めて一年と少しだが、最初から現地の人に揉まれているの
で発音がよい。そして、
「日本人を乗せたかったから安くした」
と嬉しいことを言う。彼の話しによると、鉄嶺も景気が悪く、国営企業の九割
が営業をしていない。最も安定した職場は市役所と公安。日本の札幌市と姉妹
都市である、これといった外資系企業もない。開原と同じで、有るのは大蒜だ
けだと言う。
「何も無いといったって、娘さんはいるだろう」
ーーと水を向けたのがいけなかった。
「いるとも!ここの娘は体格が良くて美人だ」
と言った後、ここには具体的に書けない万国共通の男の話題で、学校迄の50
分をまったく退屈させてくれなかった。
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┃中┃華国際学校は丘の麓、まだ田植えの終わっていない田んぼに囲まれてい
┗━┛た。二キロ位彼方に、小さな集落が見えるが、学校の建物以外はまさに
何もないといってよい。
元は解放軍の施設だったそうで、3万坪余りの敷地に、校舎、寄宿舎、職員宿
舎、講堂等の設備がゆったりと配置されている。
経営者は、台湾の人。生徒数は小学生から高校生まで約三百名。
私立のエリート校だ。で、外人教授陣はアメリカ人の先生が四人と藤原先生。
先生の部屋は、八畳の部屋が四間。食堂、風呂場それに物置まである!まさに
皇帝の間だ。
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┃二┃キロ離れた集落の食堂に食事に行った。メニューなんてない。お任せの
┗━┛家庭料理が三品、それにビール、中国酒、主食の焼き飯まで入れて三人
前で30元=400円強)と全く安い。料理を待っている間、近所の子供達が
珍しそうに覗き込んでくる。写真を撮ってやろうとしたら、サッと逃げた。
しかし、やはり子供だ。また寄って来てカメラにおさまった。
私達が楽しそうに話す日本語が、珍しい響きなのだろう。
「日本語て、美しいね」
と奥で店の女主人が言っている。
「いま私達が、何を話していたか分かった?」
と聞いたら首を横に振るから
「お嬢さんのことをね、こんな別嬪見たことないと言っていたのさ」と言った
ら、彼女笑いながら仕事の手を休めて私達の横に座った。
「そのお嬢さんというの止めてくれない。私はもう45だよ。あんたは40と
幾つだい」
「40と22」
「そんな計算は私には出来ないよ」
「62さ」
「嘘でしょう!私はてっきり私より若いと思っていた」
と、お世辞のお返しをしてくれた。
近所の人も寄って来て、手製の煙草をご馳走してくれる。実は私5年程吸って
いないのだが、このご好意は受けることにした。「私達は貧しくてこんな煙草
しか吸えない」と言うがどうしてどうして、マイルドな味は下手な高級煙草よ
り美味しかった。
中のひとりが言う。
「あなた達は本当に日本人か。気を悪くしないで欲しい。私達がテレビで見る
日本人と違う。あなた達は私達とどこも変わらないではないか」
「不幸な歴史もあったけど、私達の友好の歴史はもっと長い。これからも仲良
くしようよ」
と周恩来の言葉を受け売りして手を差し出したら、向こうも熱く握り返してき
た。
鼻を摘まれても分からない真っ暗な道を帰ったときは、9時を回っていた。
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┃小┃鳥は寝起きのおしゃべりが好きだ。日の出と共に、タンバリンを一斉に
┗━┛鳴らしたようなさえずりがする。何時だろうか。
ーー昨夜の中国酒がまだ残っていて、時計を見る気にならない。
六時。スピーカーから、アクビをしながら背伸びをするような、間延びのした
三拍子のリズムに乗って、管楽器の旋律が流れて来る。
「ラドー、レラー、ラソー、ラソー」
が私には
「起きー、なよー、あさー、だよー」
と揺り起こすように聞こえる。更に学校責任者の訓辞と続き、全ての放送が終
わった時は六時半だった。
七時過ぎ、宿舎から遠くない食堂に行く。児童達も一緒だ。大自然に囲まれ、
二十一世紀を担うこの子達の声は小鳥のように弾み、どの子の表情にももカゲ
がない。
藤原先生の話しによると、学費が年間七千元。宿舎費、食費、教材費等は別だ
から、すべてを含めると少な目に見積もっても月一千元は要る。この額は大学
教授の月収を超える。親の期待の大きさが分かろうというものだ。大半が瀋陽
市出身だそうで全寮制。二週間続けて授業をし、休みはまとめて二週間に一回
帰省する。そのための送迎車が学校にある。
その中の一台のマイクロバスが、ちょうど瀋陽に用事があって出るという。
これ幸いと便乗させて貰った。
開原、鉄嶺と私の祖父を偲ぶ旅は終わった。いつの日か孫が、曾孫がこの道を
歩いてくれることを願いながら。
= つづく =
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┃★┃ 読後感アンケート結果。
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◇ 面白かった (^○^) -------------------------------- 37人 (97%)
◇ ふつう (゜.゜) -------------------------------- 1人 ( 3%)
◇ ツマラナかった(-_-) -------------------------------- 0人 ( 0%)
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┃★┃ コメントボードに頂きました感想。
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┌──────────「nomuさん」
兎に角面白いですね。内容が庶民的?で暖かみがあります。
そこいらの単行本を読むより内容がリアルで中国に行ったような。
次回が楽しみです。
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┌──────────「けんさんから」
最高のお褒めの言葉感激です。
庶民的?って、すけべーという意味ですよね。
はい!その通りであります!
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┌──────────「PACKMANさん」
上海、北京、広東そして此処も本当の中国ですね。
中国は・・・とか中国人は・・・という表現が良くありますが、中国は広いで
すね〜。
└──────────
▼
┌──────────「けんさんから」
五千年の歴史の中の一瞬間、
13億の人間の中の一握り、
広大な土地の中の一点・・。中国は、
と語るには、あまりにもちっぽけな見聞ですが、
感動と驚きはいつも大きなものを受けています。
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┃★┃ お便りで頂きました感想。
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┌──────「津田義信さん」男性@六十代@自営業@岐阜 2004/03/24
私は、開源で生まれました。3歳の時母を亡くし、とてもツライ思いをしまし
た。もう一度生まれたら、思いっ切り母親孝行をしたい。
終戦後、無蓋貨物列車に乗せられ帰国したのを今でも思い出します。
└──────────
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┌──────────「けんさんから」
遼寧省開原市と同じでしょうか?
開原は私の中国の原点です。事業に失敗して、祖父がここで診療所みたいなこ
とをしていたそうです。私も2才の頃暫くいたことがあるのですが、全然記憶
にありません。1997年、祖父を偲んで旅をしてきました。「開原と鉄嶺」
がそのときの感想です。
私も、終戦後撫順で母を亡くしました。あなたの辛かった想いはよく分かりま
す。開原の写真、よろしければお送りしましょう。
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┌──────────「(^^) OJIN です(^^)」
現在の遼寧省開原市、当時の四平省開源。ご苦労をなされたことと存じます。
OJIN の父は黒河省黒河市の満ソ国境守備部隊におりましたので一度は訪れて
みたいと思っていますが、未だに果たせておりません。今回、津田さんのお便
りを拝見して、今年こそはとの意を強くいたしました。
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┌──────「津田義信さん」男性@六十代@自営業@岐阜 2004/04/26
パソコンを始めだして ようやく希望する欄を発見!
私は、昭和11年開源生まれ、伯父が市場で興行師をしていて、サーカスなん
か何時もフリーで見られました。開源の長寿街に住んでいました。いま一度、
生まれ故郷へ行ってみたい。
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┌──────「ijitotoさん」男性@六十代@自営業@宮崎 - 2006/05/06
自分の誕生地を検索していてこちらを知りました。
父から話を聴いていただけで、どこにあるのか詳しくは知りませんでしたが、
場所と今の様子が分かり、なにか懐かしさと、父のことが思い出されてきまし
た。機会があれば一度は訪ねてみたいと思っていました。
終戦までは、撫順の中国人街に住んでいましたが、その後は引き上げてきまし
た。開原の警察官舎で生まれたあと、撫順へ転勤になり終戦までおりました。
警察、といっても建築の管轄部の仕事をしていましたが、そのあと自分で建築
事務所を開設していましたが、すぐ終戦になり、着の身着のままで、親子4人
妹と私そして父と母で帰って来ました。まさに乞食みたいな姿でした。
あとはご存じとおりDDTを浴びせられ、おにぎりをもらってようやく鈍行列
車で郷里に着いた次第でした。果たして開原という町が日本名で、いまはない
のではと思っていました。
当時、建築事務所に中国人の青年が勤めていたことも、子供ながらおぼろげに
思いだしますーーー。
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┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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