┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  迷子になったらここ!(^O^)  ━┓
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┃ :中国への熱い思線: ――――――――――― by けんさん                    (けんさんの日中友好コーナー)

☆ 「混乱の3年」――――――――――――――――――― 2003/03/26
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│終戦後、職を失った多くの日本人は筍生活、
│即ち身の回りのものを売って口そぎをした。
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私が終戦を迎えた撫順は比較的治安が良かったので、奥地から避難して来た人
たちが多く、その人達は、閉鎖された小学校を宿舎にして、集団生活をしてい
た。そのような宿舎を避難所といっていた。彼等は筍生活をするにも売るもの
が無いから、街角でタバコや餅菓子を売っていた。

終戦を撫順で迎えた私達は避難民に比べるとずっと恵まれていた。私はパンを
売ったのだが、8円で仕入れて10円で売る。毎日60個を売る私は仲間内で
もトップだった。

冬も厳しくなり始めると、仲間の子供が一人二人と見えなくなった。中国人に
貰われて行ったのである。哀れとは思わなかった。羨ましいとも思わなかった
が、「あの子も今日から、寒い思いやひもじい思いをしなくてすむな」と思っ
た。避難所では発疹チブスが流行り、馬車に何台という単位で死者が出てい
た。彼等の多くは裸で防空壕に捨てられ、春の雪解けとともに川に流された。
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┃胸┃を患っていた母は、春を待てずに亡くなった。
┗━┛妹がすぐ、その後を追った。
当時気持ちが荒んでいたとは思わない。しかしあまりに日常的な死を見て、死
に対する感覚だけは少し麻痺していたと思う。野犬が食いちぎった生首を見て
も、怖気立つことはなかった。それでも、少年期の感性には耐え兼ねることも
あったのだろう。私はひどい吃音(どもり)になっていた。以来、この吃音では
30年近く苦労した。今でも私は少しどもる。
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┃パ┃ンを売りながら、時に家の中の「がらくた」も売った。
┗━┛昔使った玩具、折れた鉛筆、錆びたナイフ、割れた茶碗、綻びた衣類、
本その他何でも売れた。
日本語の本が何故売れたかというと、手製の紙巻タバコの材料として売れたの
だ。だからコンサイス英語辞典のように、紙質の薄い上質紙はいい値がした。

この、店を出す瞬間が一番緊張するときである。何を持っているか、物見高い
中国人がたかるように集まる。夫々が何かを手にして「幾らかと」叫ぶ。モタ
モタしていると、そのまま持っていかれてしまう。そのとき、一人の男に玩具
の太鼓を持って行かれた。これは私が大切にしていた思い出深い品物である。
私は後先も考えずに駆け出した。

「この小僧は、私が金は後から持って来ると言うのを聞かずに、人を泥棒呼ば
わりする」と回りの群集に向かっていう男に、私はただむしゃぶりついた。
男はしぶしぶ太鼓を手放した。

店番をしていても取られたのである。無人の店は完全に空っぽだろうなと思っ
て戻ったら、意外に何もなくなっていない。さっきまで、一人の店番の私から
争って品物を奪っていた彼らが、今度はお互いに監視して、店番をしていたの
だ。まだ激しく泣きじゃくる子供から、彼等はもう何も奪わなかった。

(三字経)「日本のいろはうたのように最初に覚える漢字の本。中国人なら皆
知っている」
この本の書き出しは(人之初性本善=人は本来善なり」で始まる。あの激しい
略奪合戦は一種の群集心理だったのだ。
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┃街┃頭の物売りでは、もう一つ不思議な経験をした。
┗━┛一人の教授風の上品な老人が、一本の針金を手にして「幾らか」と尋ね
る。30センチくらいのどうしようもない、錆びた針金である。何故そんな物
がそこにあったのかも知らない。値段のつけようも無かったので「金は要らん
よ、持っていきな」と大声で言った。
そのとき老人の表情が翳ったのに、私は気がつかなかった。

ややあって、老人はひとつの湯呑を手にして「幾らか」と尋ねた。200円で
売る腹積もりをした私は「300円」と威勢良く言った。彼が100円にまけ
ろと言い、結局200円になるはずだった。ところが、老人は黙って300円
払ったのである。
おお!私はなんと商売の天才なのだろう。あのタダ同然の針金を、100円で
売ったのと同じことになったではないか。

しかし、何故かいつまでも心にひっかかる出来事だった。私は、心ならずもこ
の老人の心を傷つけていたのだ。老人は、「金は要らない、持って行け」と、
乞食扱いされたことに対し、黙って100円多く払うことで面子を保ったので
ある。それが分ったのはずっと後、大人になってからである。
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┃こ┃の街頭で物売りをしたことは、私に生きた勉強をさせてくれた。
┗━┛簡単なようだが、大きな声で売り声を張り上げることが、最初はどうし
ても恥ずかしくて出来ないものだ。

実社会でもまれ、私はわずか13才の子供とはいえ逞しかった。当時、一人で
北京に行こうと真剣に考えていた。母が死んだ家庭にあまり未練は無かった。
北京に行きさえすればなんとかなる、と思っていたのである。なんとしてでも
生きて行くくらいの自信はあった。

引き揚げの列車が撫順を離れる最後の日、私は一つの賭けをした。発車までの
わずかの間に「元の家に忘れ物をした」と言って、間にあうか心配している父
を尻目に、列車から降りたのである。

列車が発車していたら、私は一人中国に残り北京に行く積りだった。
列車はまだいた。
私は運命と共に日本に引き揚げた。

もし北京に行っていたら、と色々想像するのだが、今ごろは北京の街角で焼き
芋売りをしているかもしれない。何をしているとしても、「大地の子」として
逞しく生きていたと思う。
┏━┓
┃1┃948年春から夏にかけ、撫順は解放を前にして、恐慌状態にあった。
┗━┛八路軍の包囲を受け、街から一切の食料が姿を消したのである。
インフレはもう度を越していた。リュックサックにイッパイの紙幣を背負って
行っても、その重さの雑穀が買えなかった。やがて紙切れになる国民党発行の
紙幣ではもはや一粒の米さえ買えなかった。栄養失調で、動けなくなったのは
このときである。

私はよく「混乱の中国では苦労したでしょう」と言われる。私はこう答える。
--
一番苦労した人達は、死んでしまっていません。
二番目に苦労した人達はいまだに帰りたくても帰ることが出来ずにいます。
私は無事に、帰ってきました。
--
・・と。
                           = つづく =
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┃┃ 読後感アンケート結果。
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◇ 面白かった  (^○^) -------------------------------- 41人  (98%)
◇ ふつう   (゜.゜) --------------------------------  1人  ( 2%)
◇ ツマラナかった(-_-) --------------------------------  0人  ( 0%)

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┃┃ コメントボードに頂きました感想。
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┌--------「太田和男さん」

面白い、とか面白くないとかじゃありません。身につまされました、
我も終戦後一年を十六歳から十七歳まで新京の(長春)満州電電の社員寮で暮
らしました。 琿春電報電話局に着任して一年勤務しただけでした進駐してき
たソ連軍に追われて、命からがらトラックと汽車を乗り継いで、3ヶ月かかっ
て満電本社に引き上げてきたのです。

途中、リュックの僅かの身の回り品もソ連兵に略奪され、本当の着の身着のま
までした。 もっとも悲惨だったのは、二十数人いた若い電話交換手でした、
たびたびソ連兵に襲われ、拉致され、新京に着いたときには殆どその姿をみる
ことはできませんでした。

└--------
┌--------「あずきさん」

「超重た」くて結構です。
ありのままを知りたいです。

身内に大陸から引き揚げて来た人がいますが、何も語ろうとしません。
語れないのだと思います。あのまま墓場に持って行くつもりでしょう。
「けんさん」のありのままを教えてください。

└--------
┌--------「匿名くんさん」

面白いという評価はおかしいですが、これが一番いい評価なので、しょうがな
く(?)、面白いに一票入れました。
日本ではあまり語られない話なので、興味深く読んでいます。

また勉強させてください。

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┌--------「大竹道行さん」

私も12歳・21年9月まで新京にいました。20年の冬、凍てついた路上で
タバコ・饅頭等を売って生計を立てていました。
ロスケ(ソ連兵)に偽札を掴まされタバコを渡し、オマケ沢山のお釣りまで渡し
た苦い懐かしい思い出があります。

今は亡き、親父の位牌を持ってこの街角に昨年行って来ました。
懐かしさのあまり、胸に熱いものが込み上げてきました。。

└--------
 
┌--------「けんさんから」

ありのままに書こうとすればするほど、事実と違うもどかしさ。
風雪の彼方に霞む想い出は、美しくなるようです。

夜明けとともに、物語は少しずつ明るくなります。

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┃┃ お便りで頂きました感想。
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┏━━━━━━━━━━「たろおじさん」――――――――― 2003/04/04
 
けんさんの満州記、おやじの記憶と重なり、しみじみしました。
出征・満州へ・終戦後シベリア抑留・帰国の後で生まれたわ・た・し

おやじは、抑留されたころの話や、出征中のことは、一切・・・話しません。
そんなことがあったんかいな???というくらい、自分の過去を話さない。

そんな親父が、孫の授業で「おじいちゃんに聞く」というテーマで出た宿題に
初めて口を開いたと聞きました。
おふくろが聞いてびっくりしたくらい悲惨な内容だったようですが、その親父
も、もう鬼籍に入って7回忌が終わりました。

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┏━━━━━━━━━━「(^^) OJIN です(^^)」
 
 OJIN の父も、当時の黒河省黒河にて対ソ国境警備部隊に所属しておりました
が、終戦の僅か数ヶ月前に病をえて内地送還となりました。
その後の状況を鑑みれば、戦友達にはすまない事をしてしまった、と常々申し
ておりました。

ーーその父も、数年前に他界いたしました。
 
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 

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