┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  迷子になったらここ!(^O^)  ━┓
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┃ :中国への熱い思線: ――――――――――― by けんさん                    (けんさんの日中友好コーナー)
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│皆様、けんさんです。
│このたび、「WEB 熱線」様のご好意で、私の、中国への「熱い思線」を
│掲載して頂くことになりました。
│感謝。感謝。本当に心から感謝しています。
│
│自己紹介を兼ねまして私の中国への夢。
│北京オリンピックの聖火ランナーをしたい。
│100メートルでいいから、なんとかならないものかと....
│夢だから、もう一つ。
│瀋陽から北京まで、ヌルハチの進軍コースを自転車で走ってみたい。
│ついでにもう一つ。
│アジアの子供を一堂に集めて、囲碁大会をしたい。
│
│どうぞご笑覧の上、宜しくご指導下さい。
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☆ 「回来了!」―――――――――――――――――――― 2003/03/19

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│1992年、四十年勤めたNTTを定年退職。
│その後北京語言学院に、延べ九ヶ月短期留学し中国語を学んだ。
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なにか中国に関わる仕事をしたいと思っていたら、国際交流員として愛媛県庁
に、中国の瀋陽市から派遣されてきている李さんが、
「瀋陽の看護婦学校で、日本語の先生をしませんか」と言う。
渡りに舟と引き受けた。

1996年の夏も終わり、瀋陽郊外桃仙飛行場は、おりしも地平線に夕陽が、
鎔鉱炉の中で焼け爛れた鉄鋼のように、まさにぐらぐらと煮えたぎるように沈
み始めていた。
思えば50年前、私はこの夕陽に送られて、終戦後の三年を含め、十三年過ご
した大陸を後にしたのだ。

「回来了!回来了!=帰って来たぞ!帰って来たぞ!)と、私は何度も心の中
で夕陽に向かって中国語で叫びながら、半世紀前の中国に想いを馳せていた。
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┃旧┃満州国時代、日本人が植民地の支配者として君臨した中国。
┗━┛敗戦後、母と妹を含め多くの同胞を失った中国。
日中友好交渉が始まった1970年代、
各種の報道や、来日したスポーツ選手を、テレビを通して見た中国。
退職後、望郷旅行で実際に見た戦後の中国。
それぞれに節目はあるが、中国は一貫して私にとって宿命の国だった。

宿命といえば、私の名前の「献」は、父が旧満州国皇帝溥儀に献上するとして
名付けたものである。父は青年官吏として、ここに旧満州国建国スローガンの
「王道楽土」「五族協和」の理想郷を作ろうと命を賭けていた。

今ここで、その是非を問うつもりはない。勿論その侵略行為を是認するもので
もない。ひとりの個人として考えた場合、歴史のうねりが、どの一頁で狂って
いても私自身が存在しなかったと思うと、歴史に、また中国そのものに宿命を
感ずるのである。

中国留学は、二回とも父が旅費も学費も負担して呉れた。私の名誉の為に一言
付け加えるならば、私は父の援助が無くても来ることが出来た。父に「罪滅ぼ
し」の気があったとはさらさら思えないが、自分が果たせなかった中国への想
いと夢を息子に託した、元満州国官吏の善意だけを信じたい。
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┃子┃供の頃「満州」という小学校の副読本があった。
┗━┛その中で、中国人の優しさを紹介する一節として「中国人は袖の下で取
引をする」というのがあった。例えば豚の取引をするとき、豚に聞かせたらか
わいそうだから、袖の下で指を使って符丁で会話をするというのである。

この本では、中国人の風俗習慣を好意的に紹介していた。満州国建設のため少
なくとも建前上は、私達は中国人と仲良くする教育を受けていたのである。

しかし実際は、当時私は完全に中国人をバカにしきっていた。記憶に残る中国
人の印象は、愚鈍と不潔である。言う事をよく聞く満人(当時中国人のこと私
達はこう呼んだ)はよい満人であり、反抗する満人は悪い満人だった。
彼等は、「没法子=仕方が無い」と言って私達に従った。
父の思い出のひとつに、何か命令をするとすぐ、

「仕方がありません、今は満州国ですから」

という返事が返ってきたというのがある。未来永劫に満州国は続くと信じてい
た父にとって、「今は」というところがやけに耳障りだったという。

「東亜病夫」は、誰が付けたのか当時の中国人に対する蔑称。
食べる物もろくに無く、襤褸にくるまった、煤けた一般中国人の表情はまさに
病人で、その不潔さは、同じ人間と思えない程酷かった。

パールバックの有名な小説「大地」の中で、金持ちの軍人が貧しい民衆が怪我
をして苦しむのを見て、「あいつらでも痛いのだ」と、不思議そうに語る場面
がある。
同じ中国人同士でも、少し上流階級の人間から見た貧しい一般民衆は、同じ人
間に見えなかったのではないか。
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┃小┃学校二年生のときだったろうか、通学途上の池の畔で、ひとりの老人が
┗━┛行き倒れていた。多分悪い病にかかっていたのだと思う。
彼は不潔で、その上酷く醜かった。
私は彼の前に置かれている空き缶に、一杯水を汲んで来てやった。しかし私は
なんと偽善者だったのだろう。そのあと、遠くから彼に石を投げたのである。

翌朝彼は冷たくなっていた。思いがけず日本の子供から優しい親切を受け、更
に思いがけずもこの酷い仕打ちを受け、最後に彼は私を呪ったに違いない。
この思い出は、胸の澱のようにいつまでも苦い。
┏━┓
┃1┃945年8月15日、終戦と同時に全ての関係が一夜にして逆転した。
┗━┛いま思えばナンセンスだが、女は皆妾に、男は皆鼻輪を通されて奴隷に
されるかもしれない、と密やかに囁かれていた。そしてそのときは死ぬまで戦
おうと誓いあっていた。
しかし夜、「助けてー!」と女性の悲鳴が聞こえて来ても、私達はなにも出来
ずに固唾を飲んで、じっと成りゆきを待つしかなかった。

終戦は撫順で迎えたのだが、最初にソ連軍が来て、共産軍、国民党軍の順で進
駐してきた。そして最後に共産軍が来る前1948年8月に引き揚げた。
どんな政権でも、一度政権の座につくと力で治安維持を図るから、落ちつくと
いいのだが、恐いのは政権の変わり目である。

例えば共産軍が撤退して、国民党が進駐して来る間のわずかの時間、無警察、
無法の瞬間が出現する。力の強いものの勝ち。大勢の中国人が暴徒と化して、
日本人を襲って来る。遠くから潮のように群衆の雄叫びが聞こえる。私達日本
人もバリケードを組み、手製の武器を取り力で自衛する。青龍刀を背中に負っ
た暴徒の偵察隊がやって来て、緊張はいやが上にも増す。

幸い私達のところは、まだ日本人がまとまっていたので、国民党軍が進駐して
来るまでの間無事に済んだが、ばらばらでいた日本人は惨めだった。
箸一本残さず持って行かれた上、何人かの日本人は、命を落とした。

「人民裁判」という名目のリンチも、我々日本人にとっては恐怖だった。
平頂山事件の時の炭坑長、久保孚氏も処刑された。誰それが公安に引っ張られ
て拷問を受け、その悲鳴を奥さんが電話口で無理やり聞かされたとか、身の毛
もよだつ話しが次々と伝わってきた。
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┃日┃本人が引き揚げるに従って、周囲は中国人ばかりになった。
┗━┛こうなると私達が虐められる番だ。道端で子供に捕まって、「小日本、
東洋鬼=日本人に対する罵り言葉)と地面に書けと言う。「何を!」と反抗し
たら、いけない。わっと人だかりがして袋叩きに遭う。
ビンタ位は屁ともないのだが、腹を拳で思いきり殴られるのは堪えた。

当時は、私も相当な悪餓鬼で、畑の作物を泥棒する位は毎度の事だった。
少々殴られても仕方ないことも、していたのである。
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┃私┃が、定年後中国語の勉強を始めた時の友人は、昔中国で兵隊だった。
┗━┛彼は、独学で中国語を勉強し、さらに他人にまで教えているのだから、
親中派と言っていい人間だが、それでも中国には行きたくないと言う。
そして、私が中国で暮らしたいと言うと、

「殺されないようにしろ」

と、真面目な顔で忠告してくれる。終戦時の恐怖の印象が抜けていないのだ。
撫順で一緒だった友人がいる。彼は、幼い日を過ごした中国に来たくてたまら
ない。しかし彼は、中国人を恐れて来ないのではない。植民地の支配者として
君臨した地に郷愁を抱くことに、罪悪感というか内心に忸怩たる思いを持って
いるのである。
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┃長┃年、日中友好事業に従事している幹部の方が言う。
┗━┛
「中国東北地方に、日本の資本進出が上手く行かないのは、彼の地の中国人が
まだ日本人を恨んでいるからだ」と。

中国は一衣帯水の国といわれるが、私を含め日本人にとって、まだまだ近くて
遠い国である。アメリカのことは、なんらかの形で毎日報道されるが、それに
比べると中国のニュースは少ない。

彼等の言うことは本当に正しいのだろうか。
私が今回「帰って来た」大きな理由の一つは、実際に中国で、中国人と一緒に
暮らす中で、このような事を確かめたかったからでもある。
「百聞は一見に如かず」
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┃空┃港からの若いタクシーの運ちゃんは、話好きだった。
┗━┛彼の父親が元気だったら、私と同じ位の年齢だという。
日本語が上手だったとも言う。

彼の車は、中国のタクシーにしては珍しく、手入れと掃除が行き届いていて、
きれいだった。そこで、胸に一物ある私は、何度もこれを褒めたあと、

「ところで、僕は今度中国で日本語の先生をするのだけど、君も知っているよ
うに中国の先生の給料は安い。タクシー代少しまけてくれないかな」

「いいとも」

彼は、ここに至って始めて私の企みに気が付いたように破顔一笑、タクシー代
を少しまけてくれた。わが第二の母国中国の人達は、帰って来た息子を暖かく
迎えてくれるようだ。
「住めば都か中国か」

少なくとも、殺される心配は要らないだろう。
                           = つづく =
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┃┃ 読後感アンケート結果。
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◇ 面白かった  (^○^) -------------------------------- 55人  (93%)
◇ ふつう   (゜.゜) --------------------------------  3人  ( 5%)
◇ ツマラナかった(-_-) --------------------------------  1人  ( 2%)

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┃┃ コメントボードに頂きました感想。
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┌--------「yucchiさん」

淡々と戦前〜引揚の様子が書いてあったのに驚きました。
第二の故郷に戻った途端にタクシー代を負けさせ、これから
どんな日本語教師生活が繰り広げられるのかと思うと楽しみです。

└--------
┌--------「あずきさん」

面白かった・・・と言うには語弊があります。
「ずしん」と来た・・・が適切でしょうか。
飾らない正直な語り口にびっくりしました。期待しています。

└--------
┌--------「yukiさん」

掌にずっしり来る内容の重さと、文体の絶妙なリズム感に引き込まれて、
最後まで一気に読みました。
まるで、大河ドラマか映画の冒頭場面を見ているような・・・。

続きをとても楽しみにしています。

└--------
┌--------「takaokaさん」

丁度、張戎のワイルドスワンを読んでいますが、
大陸での実体験には感嘆させられます。

└--------
 
┌--------「けんさんから謝謝」

みなさま けんさんです。
ご愛読と暖かい励ましのお言葉に感激しています。

う〜ん  少し重たかったですか。
すみません、次回の「混乱の三年」も超重たいですね。
でも、その後の「中国への熱い思線」は、
涙有り、笑い有り、ありのままの生活記録ですので、お許し下さい。

今後ともご愛読の上、ご鞭撻下さいますようお願い申し上げます。

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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 

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