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┃ 重慶熱線 (重慶で見た中国): by 重慶出稼ぎ人のちゅーさん

1−家庭崩壊への道−「初めての中国」その4.北京到着

広州の空港は白雲空港といいます。正式?には「広州白雲国際空港」です。
この空港は大変便利で、中国の主要空港でも、市の中心部に一番近いのではな
いでしょうか。
「東方賓館」から、朝早くなら20分程度です。
もっとも、今の時代に、日中に走るとかなりの渋滞に巻き込まれます。
このため花都という近隣都市に、新たな空港を建設している(はずです)。

わたしが初めて中国へ入った1972年、車での渋滞というのは未だありませ
んでした。
国産車も輸入車も少なくて、例えばタクシーに使用されていたのは、ソ連製の
ボルガ、イギリス製のオースチン、中国製の上海などでした。
オースチンはその後北京で乗ったのですが、フォルクスワーゲンのカブトムシ
を二回りほど小さくした形で、方向指示器は運転手が手を窓の外に出し、手動
で出し入れしていました。

今日はいよいよ白雲空港から北京へ飛び立ちます。
この時の飛行機は、イリューシンだったでしょうか。
乗物にはあまり興味がなく、全く覚えていません。

わたしの知り合いで、飛行機に乗るたびに機材、形式、機材番号(と言うのが
あるんです。電車なら車体に番号が打ってありますが、飛行機の場合は乗務員
に聞かないと分からないようです)などをノートに書いている人がいました。
ある飛行機が事故に遭います、彼はノートをくって、あの飛行機には何年何月
に搭乗した、とか言うのでしょう。人の趣味の多様さは計り知れません。

イリューシンの大型ジェットは、尾翼の下に、8の字を横に倒した形で、二つ
のエンジンをつけていました。なかなかのスタイルです。
いつかこの飛行機に乗った時、機内が真っ白になりました。
気圧調整の為に、外の空気を入れているのでしょうか。
急に白い煙(としか思えないもの)が上から出てきたので、機内がパニック状態
になったのを覚えています。
白人のおばさんが立ちあがり、両耳を押さえてギャーギャー叫んでいました。

イリューシンは当時我々日本人の間では、「遺留品」と揶揄されていました。
他にもソ連製の飛行機は、ツポレフやアントノフなどがありました。
ず、ず〜っと後でロシアへ出張した事があります。
その時、これらの飛行機は、開発者の名前を取ったものだと教えられました。
イリューシンさん、悪口を言ってご免なさい。

広州から北京へ。
こちらは北京首都国際空港です。
広州も北京も、今からは想像も出来ないくらい、小さくて暗い空港でした。
当時は北京の国際線到着ロビーでも、「友人が来る。中国語が出来ないので、
中まで迎えに行く」と言えば、荷物を受け取るところまで入れてくれました。

我々が北京へ到着した時も、先発隊が荷物受け取り場所まで出迎えてくれまし
た。皆が宿舎の「前門飯店」へ着いたのは、丁度夕食前でした。
そこで同じく先発隊の化学品メーカーの人に挨拶して、初めての北京料理を食
べました。

さてここから、前回予告した「死にかけた」話しです。
夕食の後、風呂へ入りました......今回は少し長すぎますね。
D「おまけ」の方でお話します。

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2−道で出会った仏と閻魔

我々はプラント商談の為に、北京へ出張しましたが、北京には駐在員がひとり
いました。
もっとも、駐在事務所は未だ認められていなかったので、長期出張という形態
でしたが、業務は今の駐在員と何ら変わりません。
いや、今よりもっと大変な仕事だったのですが、それは別の機会に。

わたしが初めて北京へ行った時、駐在員はWでした。
わたしが中国貿易室に異動した時、彼が先に途中入社でその部門にいました。
わたしが挨拶すると、実に腰の低い人で、なおかつ緊張しながら、丁寧に挨拶
してくれたのをよく覚えています。

彼は日本から機械を輸出するため、毎日の様に「輸出ビル」へ出かけていまし
た。やっとのことで商談がまとまり、契約調印をしました。
ところが翌日、公司の担当に呼び出されて、少し訂正箇所があるから契約書を
持って来るように言われました。
公司の担当が預かって修正すると言うので、そのまま置いて来ました。

しかし数日経っても、契約書は戻って来ません。
Wは公司の担当に何回も掛け合いましたが、返してくれません。
一方日本からは、早く契約書を送るよう、毎日矢のような催促が来ます。
Wは板挟みになり、随分苦しみました。そして最後には、商談室で泣きながら
契約書の返還を訴えたのです。彼の涙は責任感の現れです。

公司は数日後、訂正なしで契約書を返して来ました。

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3−重慶短信

この前共産党の幹部が、当社の工場を訪問しました。

事前に来訪の連絡はあったものの、具体的な時間も人数も教えてくれません。
結局マイクロバス3台で乗り込んで来ましたが、こちらに挨拶する訳でもなく
いわば勝手に工場を見学する形になりました。

逆にこちらが飛んでいって、名刺を出し、案内をかわさなければ、後々いかな
る嫌がらせをされるかわかりません。
幹部ともなれば、我々の工場など歯牙にも掛けないでしょうが、下吏には癖の
悪いのが多いのです。
だから「無礼にならないよう」に、細心の注意を払わなければいけません。

しかし、例えば小泉首相が工場を訪問するなら、かならず事前に具体的な時間
と、随行者の名前と人数などの連絡があるでしょうし、勝手にマイクロバスを
現場に乗り付けて案内もないまま見学を始めることなどないでしょう。

工場見学の作法についても、WTO加盟国の一員たるしきたり?を守ってもら
えないものでしょうか。。

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4−外大では教えない中国語

前回は鶏の意味をご紹介しました。
「男の言いなりになってくれる、お嬢さん」のことだと。
それでは「女の言いなりになってくれる、男の子」はいないのでしょうか。
社会主義市場経済の世の中です、お金持ちの女性も沢山出て来ているし、そう
いう男の子の需要が増えています。

需要のあるところに供給が生まれるのは、経済の道理ですね。
そういう男の子を、鴨(Ya1)=アヒルといいます。
これは先に鶏にがあり、それにかけた洒落ですね。

ちなみにホストクラブは「鴨子夜総会」(Ya1 Zi0 Ye4 Zong3 Hui4)です。
けれどさすがのわたしも、(この)アヒルの値段までは知りません‥‥

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5−おまけ

さて、@で途切れた「死にかけた話」の続きです。

風呂から上がると、初めて北京へ来た興奮も手伝い、身体がほてって仕方ない
ので、パンツ一丁でベランダへ出ました。
当時の北京にはネオンというものがなく、ビルも蛍光灯よりは白熱灯の時代で
あり、また四人組が席巻していた社会情勢ということもあって、本当に暗いと
ころでした。

ベランダから眺める初めての北京は、ひっそりと夜陰に沈んだ街でした。
ホテルの向かいは「光明日報」社。
ところどころの窓に、明かりがついていたような記憶があります。
その時、二つのビルを挟む道路を、車体の上下半分ずつを黄と赤に塗り分けた
トロリーバスが、灰色と黒に支配された北京の夜景にとけ込めず、恥ずかしそ
うに通り過ぎて行きました。(‥文学的やなぁ〜。自分の才能が怖い(^^;)

わたしは身体のほてりも取れたので、部屋へ戻ろうとしました。
ところが、、、あれっ?ノブが回らん!?
繰り返し試しましたが、回りません??

‥‥ということは、部屋に入れない!
‥‥今は12月、北京の気温は....完全に零下!
‥‥ということはこのままでは凍死する!
!!げぇえ〜っ、えらいこっちゃ〜!!

わたしはやっと、今は死の危険に遭遇している事を悟りました。
ガラスを割って中に入るか。
パンツを手に丸めて割れば、怪我はしないだろう。
いや待て、、、、人民の財産を破壊するのは大罪だ、強制送還などされること
になったら笑い者になる。...そうそう、隣の部屋には先輩がいる。
その窓に、小石を投げて合図すればいい!!

わたしはベランダに落ちている小石を探しました。
‥‥無い。な〜んにも無いんです。 誰や、こんな綺麗に掃除したのは!

仕方がない、パンツを丸めて投げるか?。しかしリスクが大きいぞ....
第一に先輩が気づいてくれるかどうか。。
第二に、先輩は女性なので、俺の一糸まとわぬ姿を見て、そのまま部屋へ閉じ
こもらないか。ーーああ、どうしたらええんやーー。。

その時、ホテルへ車が入って来ました。
そして運転手が車を洗い出しました。
彼に救いを求めるしかない!

わたしは、当時はまだつたなかった中国語で、必死に叫びました。
6階からありっきたりの声で。

「救命呀!門不開〜!」。

彼はやっと気づいてこちらを見上げ、そしてホテルへ入って行きました。
待つこと数分、ボーイとその運転手が部屋へ入って来ました。
彼らはベランダに閉じこめられたパンツ一丁で凍死寸前のわたしを見て駆け寄
り、抱きしめてくれ....まへんでしたんや。

二人とも、アホか、という目で眺め、顔一杯に嘲笑を浮かべていました。。。
‥‥とほ‥‥

それでは「下周一、見」(来週の月曜日にお会いしましょう)。

                           <(_ _)ちゅー>
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││お便りで頂きました感想。
└─┘
┏━━━━━━━━━━「たろおじさん」

重慶出稼ぎ人のちゅーさんの、重慶短信おもしろい。

今の話と、昔の話が交錯して、鶏も鴨も出てくるし(^^;

ホテルで凍死しそこなった話は、なんか身につまされる‥‥

中国の偉い人の行動様式は、興味深いですね。
結局、党の偉い人は、→ 全てのものは人民(国)のもの。→ 国のものは党の
もの。→ 党のものは自分のもの。
って論理で、他人の会社へ来ても、自分のものに思えるんでしょうね。
案内も請わずに勝手に中に入って見学する心理を想像してみると、そんな心象
風景が目に浮かびます。

日本のお役人さんは、一般にはとても控えめですよ。
捜索令状持参で来るおじさんたち以外は、それはそれは紳士的な人たちです。

┗━━━━━━━━━━
 
┏━━━━━━━━━━「重慶出稼ぎ人のちゅーさんから」

たろおじさん、こんにちは。

お便りをありがとうございました。
楽しんでいただけて何よりです。

凍死寸前の話は、今でこそ笑い話ですが、その時は大変でした。
もし車が戻って来なかったら、パンツを手に丸めてガラスを割ったことでしょ
う。 そして強制送還......にはならないか。
逆にホテルが叱られていたかも知れません。
ともあれ、それ以上の迷惑をかけずに済みました。

わたしの話は全て実話なので、かえって滑稽話がおおいのかも知れません。
長らく人間をしていると、色んなことに出くわします。
これからも楽しみにしていて下さい。

何か特に中国のこれについてお知りになりたいとか、そういうご希望があれば
出来るだけお答えしたいと思っております。
これからもよろしくお願いします。

┗━━━━━━━━━━

┏━━━━━「GOROさん」女性@三十代@公務員@その他海外2002/07/19

初めまして。いつも楽しくメルマガ読ませていただいています。

あれだけボリュームあるものを週三回も発行されているエネルギーはどこから
湧いてくるのでしょうか?
どうぞこれからも無理なさらず、楽しく、ためになるメルマガを発行して下さ
いね。

連載の記事の中では、とくに重慶出稼人ちゅーさんのものと、YUKAさんの
ものが好きです。

ちゅーさんがイリューシンはかつて「遺留品」と呼ばれていた、と書いてらっ
しゃいましたが、とっても笑ってしまいました。

私はモスクワ在住なのですが、初めてロシアに向かった飛行機がイリューシン
で、離陸するとなぜかもくもくとドライアイスのけむりのようなものが上から
出てきてビックリしたのを今でもよく覚えています。
 
YUKAさんの文章には共感するところが沢山あります。

年齢もわりと近いですし、夫が中国人という共通点もあるので。
YUKAさんの旦那さまは今日本語勉強中とのことですが、私はいま中国語を
勉強中です。

またYUKAさんは妊娠中だそうですが、私もこの5月にモスクワで女の子を
出産しました。
今は中国の義母がこちらに助っ人に来てくれてまして、とても助けてもらって
います。

YUKAさん、お体に気を付けて、これからも日本からのレポート届けてくだ
さいね!
楽しみにしています。

┗━━━━━━━━━━
 
┏━━━━━━━━━━「重慶出稼ぎ人のちゅーさんから」

GOROさん、こんにちは。重慶出稼ぎ人のちゅーです。

お便りありがとうございました。
わたしの連載をいつも読んでいただき感激です。
 
モスクワにお住まいですか。わたしも二度モスクワに訪問しました。
こう言ってはなんですが、ロシアに比べると中国は天国だというのが1999
年の冬に初めてロシアへ行った時の偽らざる印象です。

出だしが悪かった。新潟から極寒のイルクーツクへ。
 
出迎えるはずのホテルの車がない。
そこに30分もぼーっと立っていたでしょうか。
朝食はすっぱくて冷たい黒ぱん。冷たいハムに、冷たいピクルス。
中国のホカホカしたおかゆが、ことのほか懐かしくなりました。

その後モスクワやサンクトペテルブルグ、ウファーなどを訪問しました。
先頃ウファーの学生が、飛行機事故にあいましたが、人ごととは思えず、大変
悲しく感じました。

モスクワの生活環境は大変だと思いますが、お身体に十分気をつけてご主人と
の愛を日一日と大きくして下さい。
お子さまの健康なご成長をお祈りしています。
 
(連日40度近い) 中国 重慶にて

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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 

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