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┃ 重慶熱線 (重慶で見た中国): by 重慶出稼ぎ人のちゅーさん

1−家庭崩壊への道−「日中国交回復」その4.出張決定

日中国交が回復してから2ヶ月後、1972年の12月に中国出張が決まりま
した。出張先は北京ですが、海外事業部長と中国貿易室長、それに女性の先輩
が一人、先行部隊として乗り込んでいました。
化学繊維を造るプラントを売り込むべく、激烈な商談を進めていました。
化学メーカーからも常務を始め、何人かが滞在していました。
中国といえば憧れのない筈がなく、緊張よりも喜びの方が大きかったのです。

今では中国旅行も簡単に出来ます。パスポートやビザも、旅行社経由で簡単に
入手出来ます。
しかしわたしが初めて中国へ行ったころは、それはそれは大変でした。
実際の手配を中国貿易室の先輩にまかせたので、詳細を記憶していないのは残
念ですが、たしかパスポートを取得するとき、渡航先が中国なので、政治活動
をしないという一筆を入れさせられた記憶が、おぼろげにあるのです。
すでに国交は回復していたのですが、色々な制約はすぐには無くならかったの
でしょう。

パスポートの後はビザの取得ですが、中国の受入先から招請状(INVITATION)を
もらわないといけません。
受け入れ先は、その訪中に関係する貿易公司(会社)ですが、化学繊維プラント
の場合は、中国技術進口(輸入)公司でした。
ここへ、訪中する者の氏名、生年月日、年齢本籍、性別、年齢、中国入境日、
渡航目的、滞在予定日数などを、5月13日号でご紹介した写真電報で打電し
ました。

数日して相手の公司からは、数字ばかりの電報が来ますが、その時はひと揉め
ありました。訪中申請者四名の内、同じ誕生日が二名いたのです。
これは間違いではないかとの問い合わせがありました。
その二人とはわたしと、数才年上の先輩ですが奇しくも同じ5月4日でした。

ちなみに5月4日といえば、中国では「五四青年節」とよばれる記念日です。
1919年5月4日、北京の学生たちが列強の中国侵略に講義したことに端を
発した、反帝反封建の政治・文化運動(「Chinese Writer」)です。

それはともかく、4人の内2人が同じ誕生日であるのは、やはり疑ってしかる
べきなんでしょう、確認の問い合わせがありました。
受入先から? いいえ、北京に滞在している先行部隊からです。
彼らがこの写真電報を受け入れ先へ持ち込むのです。

もし受け入れ先へ直接打電しておれば、誕生日の確認はなかったと思います。
それは人口の違いなのか、文化の違いなのか。
やはり日本人の緻密さと慎重さ、悪くいうと小心さがなせる業なのでしょう。

ともかくパスポートとビザを入手して、航空券も手配しました。
行き先は北京、いえいえ国交は回復していても、日中航空協定が出来て直行便
が飛ぶまでにはそれから何年も待たなければいけなかったのです。
それなら何処へ飛ぶのか?、香港なんです。

なぜなら、中国が当時外国人に開放していた入境地点は広東省の広州だけで、
そこへは香港から列車が出ていたのです。
我々一行はこの後中国まで、日本の旅行社と中国の旅行社が引いた路線を進む
ことになります。

いよいよ来週からは、日本を飛び出て中国への旅が始まります。
楽しみにしていて下さい。

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2−道で出会った仏と閻魔

人事部に大変な美人がいました。

中国貿易室が八階にあり、人事部も同じ八階にあったことと、彼女の友人が中
国貿易室にいたので、知り合いになったのです。
残念ながら、わたしはすでに、冗談でも「結婚しよう」と言った彼女がいたの
で、この美人には本格的なモーションをかけることはありませんでした。

それにわたしより二歳年上で、姉と同い年というのも、その気にならなかった
大きな理由です。
しかし、もしその気があったなら願ってもないチャンスが一度ありました。

5月13日号で、中国貿易室全員で、酒を飲む機会があったことを紹介しまし
たが、この時彼女も参加したのです。
そのまま二次会のディスコを踊っていると、わたしも彼女も、その他の同僚も
最終便がなくなるのでホテルに泊まることになりました。
その部屋取りに行ったのが、わたしと彼女なんです。

二室押さえて、別々に入っていたのですが、彼女がわたしの部屋へ来て言いま
した、待たせてあるタクシーはどうするの。
そうです、又ディスコへ帰るつもりでタクシーをホテルの玄関に待たせていた
のです。「お金を払って来て」と言ったのは、彼女ではなくてわたしでした。
人に甘える性癖は、いまだに治りません。

もちろん彼女がOKするわけがなく、わたしが支払いに行きました。
運転手は、予想通り大変不機嫌でした。
それがいやだったのに、男は辛いですね。

さて部屋へ戻ると、彼女がベッドに腰掛けていました。
ディスコでわたしは彼女を執拗に誘い、チークダンスをしていたのですが、彼
女を横取りする先輩がいました。
彼女はしかたなく、わたしにこっそりと「ごめんね」と言ったのです。

つまり分析すると、彼女はわたしにまんざらでもなく、チークダンスの余韻も
さめやらず、わたしの次の行動を待っていたに違いありません。
今から思うと残念なことをしました。
しかしそう思うのは自分だけで、もし彼女の肩に手でも触れれば、往復ビンタ
が飛んだ可能性もあります。

想い出は都合のいい様に抱いておきましょう。

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3−重慶短信

「重慶辛妹子歌劇団」とかいう名前の劇団が、中国各地を回っていませんか。
辛妹子というのは、重慶の女の子を指す言葉だそうです。
というのは、職員に聞いてもはっきりと説明してくれないから、わからないの
です。四川料理の唐辛子から来たのなら、四川の女の子も辛妹子というかもし
れません。

今度成都へ出張したら聞いておきます。

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4−外大では教えない中国語

仕事ばかりしてはいけません。遊んでばかりもいけません。
周恩来首相は言いました。
「上手に休める人こそ、いい仕事が出来るのだ」と。

仕事と遊びのバランスを上手くとること、これを
「労逸結合」(lao2 yi4 jie2 he2)といいます。

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5−おまけ

もしあなたが中国に駐在しているなら、一度ならずこういう質問を受けたこと
があるはずです。

「この木はなん(の木)ですか」

質問をする人の手は、時には街路樹を指し、時には車窓の外の山の上を指しま
す。
わたしも純情な時は失礼にならないよう、「すみません。ぞんじません。次回
までに調べておきます」と答えていました。
しかし日本にある木も分からないわたしは、調べる気持ちなどさらさらありま
せん。嘘を付くのもいけないので答え方を変えることにしました。

もしその人が神戸の出身なら、「あなたは神戸の山に生えてる木が何か知って
いますか。知らないでしょう。日本の木もわからないのに、中国の木がわかる
はずないでしょう」

これは標準日本語で言えばまだ聞ける言葉ですが、本当は大阪弁でやるのです
「あんな、あんたは神戸の山の木を知ってるんか、しらんやろ。日本の木も知
らんのに、中国の木がわかるはずないやろ。(おまえはあほか。しょうもない
質問さらすな、ぼけ、かす、でべそ)」←カッコ内はため息でごまかす。

それでは「下周一、見」(来週の月曜日にお会いしましょう)。

                           <(_ _)ちゅー>
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