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┃ 藤田健の"中国だけで驚いてちゃアカン!":by 藤田健さん
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☆ インド編(4)―インドの身障者―
インドという国は、経済的には恵まれないままに人口ばかりが増え続け、社会
的矛盾に満ち溢れている。
その為、充分な福祉サービスなど望むべくもない状況である。
その為か、先進国の国民がインドに対して持っているイメージには悲惨さが付
きまといがちである。
にもかかわらず、身障者の人たちにとっては、もしかしたらインドは日本より
住みよい社会ではないのだろうかと思うときが私にはある。
インドでは、身障者であっても(福祉制度が未整備なので)自力で生きていかね
ばならない。だから、身障者の人たちも健常者の人と何ら変わらずに子供の時
から表に1人で出て行って生活している。
10歳くらいの両足のない少年が地面を這いながら川まで行って、7〜8人の
友達と一緒にガンジス川で元気に遊んでいる姿をバラナシで見かけたことがあ
る。川の中では、ごく自然に友人の助けを借りながら無邪気に暴れまわってい
た。付き添いの保護者などはいなくて、本当に子供達だけなのである。
普段から身障者の子供達も健常者の子供達と一緒に生活しているので、友達や
社会の大人たちも身障者とどう付き合うべきかという事をごく自然と身につけ
ているような気がする。
(この文を書いていたら、以前ベストセラーとなった乙武洋匡氏の著書 「五
体不満足」の中での彼と彼の周囲の状況(彼自身の価値観、生き方、友人達の
接し方、周りの大人たちの接し方等)があまりにインドの身障者ののびのびと
した生き様と似ている事に驚いたことを思い出した。)
インドの身障者は、独力で生き抜いていかねばならない。
身障者の為の特別な居場所(施設等)などはほとんどないのだから、自力で社会
に飛び込んで社会の荒波を掻き分け自分の居場所を確保しない限り、生きる術
はないのだから。
行きたい場所があれば這ってでも道を歩くし、よじ登ってでもバスにも乗る。
しかし、そんな光景はインドでは珍しくも何ともないので、誰も見向きもしな
い。
つまり、身障者が特別扱いされない、注目を受けずに済む社会なのである。
しかし、身障者の人が助けを求めれば、(出来る範囲の事であれば)誰かが手助
けをしてくれるという一面もまたあわせ持っているところにインド社会の懐の
深さを感じる。
インドではよくトラブルにも巻き込まれるが、また、数多くの親切にも巡り会
える。
その様は、あたかも山本周五郎の小説 「人情裏長屋」の世界のようである。
山本周五郎といえば、「青べか物語」という若き日(たしか昭和初期?)の山本
周五郎が過ごした浦安近辺を舞台とした私小説に近い作品がある。
この小説の中では、若き作家である主人公が地元庶民の面々に好いように金を
むしりとられ翻弄されながらも、一方では彼ら庶民の人情に触れながら日々が
過ぎていくのだが、この話の内容は、舞台をインドに移してもほとんど違和感
がないほどに出てくるエピソードがインドの日常とよく似ている。
これを読んだ私の感想は、“なーんだ、昔の日本はインドとそっくりだったん
じゃないか”というものである。
話が脇道にそれたが、インドの身障者というのはとても社会に馴染んでいて、
社会の中での居場所もあり、健常者の人達にまざって普通に暮らしていると思
うのである。
だから、彼らには普通の人達と同様に沢山の友達がいる。それに、どこにでも
1人で出かけていくし、必要であれば健常者の人とも平気で怒鳴り合いの喧嘩
もする。健常者と違っている事は、純粋に体のハンディキャップなど、物理的
側面だけのように私には感じらた。
本当の実状は正直なところ全くわからないのだが、インドでは、もし足のない
人が職を探している場合、その職が足が無くとも全く問題なく勤まる職であれ
ば足が無いことを理由に職に就けないという事はあまりないように思う。
足が無い為に就ける職が限られている(つまり職に困っている)弱みに付け込ま
れて賃金が叩かれるとか、カースト等他の理由で職に就けない可能性は充分に
あるとは思うのだが。
そンなインドの状況に対して、日本では身障者など社会的弱者に対して可哀想
と思ったり悲惨さを感じたりする感性が過剰過ぎるように思う。
彼らに対する可哀想という視線は彼らを哀れむという、つまり、彼らを見下す
視線にも通じていく。
そうした視線が多い限り、身障者の人は気軽に外出ができないのではないだろ
うか。
例えば、両足のない人が自宅では(車椅子を使わずに)室内を自由自在に這って
日常生活を送っていたとする。
それが一歩自宅の外に出ただけで、もし道を這って歩いたりなどしようものな
らば世間の好奇と哀れみの視線の集中砲火を浴びて、とても自宅の様に自由に
は振舞えない。
だから、外出時には最低限車椅子が必要となってしまう。
しかし、車椅子で移動できる場所は残念ながらかなり限られていると言わざる
をえない。
それがもし、車椅子なしで這って移動する事やスケボーのような軽い乗り物に
乗って移動する事が奇異でなくなれば、それでも行けない場所には(重くて大
きく扱い難い車椅子がない分)周りの人たちも手助けがかなりしやすくなって
随分行動範囲が広くなると思うのだが、これは素人考えだろうか。
人はそれぞれ生まれついての長所と短所、そしてハンデを抱えたままで生まれ
てくる。運動能力や頭の良し悪し。そして、顔やスタイルの良し悪し。
アレルギー性疾患など遺伝性の強い病気や先天性の病気を抱えた人、そして貧
乏な家庭や(暴力等)問題のある親の元に生まれついてしまった人。
人はそれぞれ、平等でも公平でもない様々な状況を内外に抱え込んで生まれて
くる。
足がないとか目が見えない、先天的に脳に異常があるといった身障者の人達が
抱えるハンデついても、健常者といわれている一般の人達が抱えているハンデ
と同様に障害をマイナス面としてだけ受け止めて哀れみを感じるのではなく、
障害を一種の個性と受け止めるべきではないだろうか。
盲目の歌手、長谷川清氏が以前こんなことをラジオで語っていたのを聞いたこ
とがある。
「僕はよく“目が見えなくて可哀想に”といった事を言われる事があります。
でも、僕の場合生まれついての盲目で目が見えた経験がないので目が見えない
ことが普通の事であり、目が見える世界を知らないし想像もつかないので普通
の人の目が見える世界をうらやましく感じることもないし、僕は僕の世界の中
で目の見える人には持ちえない感性を持って楽しく暮らしているのだから、人
から哀れみを受けるとかなり違和感を感じますね。だって、僕は目が見えない
ことによる不幸を感じた事がないんだから」
インドで乗合バスに乗っていた時の事である。
走行中の車中を車掌がバス代を集めてまわっていた。私もバス代を手渡そうと
して車掌の手を見たとき、一瞬ギョッとしてしまった。
なんと彼の手には指が6本あったのだ。
しかし、彼は何事もないかの如く普通に働いていた。
きっと、手に指が6本あったとしても生きていく上では何の支障もないのだろ
う。そして、そんな彼の奇異な手を見ても周りの誰もがことさらに彼を特別視
する事もない社会だからこそ、彼は指を5本にする手術を受ける必要も感じず
に普通の生活を送れるのだろう。
同様の事は、今の日本ではありえないことだと思う。
無論、インド人と日本人の間では、そういった場合に整形手術を受ける費用を
捻出することができるかどうかといった違いはあるだろう。
しかしそれ以前に、今の日本で手の指が6本のままで公然と生活をしていけば
世間の好奇と哀れみの視線に日々さらされながら生活せざるおえないのではな
いだろうか。
身障者に哀れみを感じる感性を日本人が変えていかない限り、身障者に対する
特別視はなくならないと思う。そして、身障者の人達に対する特別視がなくな
らない限り、身障者の人達は健常者の人達と対等に付き合い、社会に溶け込む
ことは難しいと思う。
日本では、身障者の人たちを保護しなければという発想が行き過ぎて、彼らを
特別扱いし、特別な施設や学校に隔絶して逆に社会から締め出している気がし
てならない。
その結果、普段身障者と接する機会のなくなってしまった一般の人達(健常者)
は、身障者の人達との自然な接し方というものがわからなくなって、身障者の
人と接する機会に出会うと妙に身構えてしまってぎこちなくなりがちなのだと
思う。
社会から隔絶した状況での身障者の人達の生活は不自然である。
そんな日本での身障者の人達の生活よりも、インドでたくましく生き抜いてい
る身障者の人達の方が幸せに見えるのは、身障者の人達の現実を知らない私の
浅はかな思い違いだろうか。
藤田 健
Fujita Ken
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