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                            遊 庵 散 人
         ---------- China,20years ago ----------
           殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
         1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
    
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<< まえがき >>

自分自身日本人の一人としてそれも決して出来の良い方ではなく、どちらかと
いえば浅学非才、平均的に申せば遙かに水準以下の、更に申せば極めて欠点の
多い人間である事を自負している私が、隣国とは申せ他国の国民性、人間性を
云々する資格ありやを自問する時、その答えは当然ノーと言うべきでしょう。
それを敢えて、彼の地で20年間仕事した一営業マンの私的見解として厚顔に
も試みてみました。

数千年の悠久の歴史の中で形成された民族的共通性、広大な大陸の中の様々な
地域的特殊性、そういうものを包含した中国人論は多くの識者によって、多く
の出版物として語られ、書店の書架を埋めております。
私の場合はあの厳しい社会主義管理体制下という特殊な環境の中で作られた、
人々との殆ど業務的なつきあいを通し感じ得られた、中国人の思考や行動から
往時の中国人論を述べたいと思います。

彼らと接触した当初の印象として、殆どというより絶対と言える程、個人の私
的部分を、公的付き合いで見せなかった、極言すれば匂いすら感じさせないの
は正に驚きでした。
私と常に同行した日本人女性デザイナーも、公司や工場の同じ女性とある程度
親しくなり雑談を交わす様になっても、凡そ家庭を中心にした私生活、ご主人
や子供の話、日常の生活等、一切触れないのは不思議な位だと感心していまし
た。

これもやはり当時の厳しい共産主義体制化下の個人への締め付けと、中国人固
有の個人主義的性格から来る物と判断しておりました。
開放が徐々に進みやがて90年代に入ると、本当に親しくなった人達より、家
庭に招待されたり、身内を紹介されたり、人によっては家庭内の揉め事まで、
相談されたりする様に変化するのですが、やはりその経過を考えると「私事語
らず」の要因は過去の政治体制にあった様です。

今回は初期当時の中国人との業務的交渉を通じて、私が推定した中国人のタイ
プについて、私の独断による感想を述べていきたいと考えます。
その為今日の様に中国も開放が進み、国際的感覚も向上した現在とは、当然彼
らの生活や思考法も大きく変わり、今訪中される日本人の人々と、現地の人々
との接触において、大きくその対応も変化しているであろう事も、予めお断り
して記録していきたいと思います。
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<< 本号の内容 >>

◆◆ 「YES」と言う中国人 「NO」と言う中国人

  何時も「没問題…メィウェンティ」 

  汗顔の至りです
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  何時も「没問題」

「没問題」「問題ないよ」
この一言に二十年間、幾度泣かされてきた事か。
当初は本当に信用したが、結果として問題が起き、次は疑問を持ちつつも相手
の「問題ないよ」に賭けるつもりで依頼した結果又裏切られる、最後は絶対信
用できないと自身よく理解しながらも、何とかやって欲しいという期待で、相
手の「没問題」に望みを託しその挙げ句やはり何時も通りの苦い結果を味あわ
される事になる。

そんな二十年。

しかしその苦い経験を振り返って、私は中国人は本質的に人を平気で騙す人種
とは決して思わないし、又簡単に嘘をつく人種であるとも思っていない。
それでいて業務では二十年間苦い思いに振り回されたのは事実だし、それを傍
で見ていた同じ日本人からも、「よくそれだけ騙されても懲りずにやっている
なぁ」と皮肉と冗談交じりで言われた事も幾度もある。
では何故それ程物事全て順調にいかないのか。

私は状況を三通りに分析する。
一つは国の体制からくる当時の中国人の国際的視野の無さと、大体において仕
事に対する使命感の欠如。
言わばやる気の無さである。

二つ目は広い国土の80%を越す農民主体の国民性、それは地方格差はあるも
のの全般的に至極大雑把な業務的性格があげられる。
三つ目の個人の性格に就いては千差万別の個人差はあるものの、総体的に判断
すれば中国人は自己本位的要素が強い。

先ず国の体制からくる問題として、70年代までの中国は殆ど鎖国状態だった
といっていい。
彼らにとっては自由経済社会における市場がどんなものなのか、それこそ丸で
想像もつかなかった筈である。
特に70年代後半の農村では、工場訪問した我々を丸で民衆の遠巻きに珍獣を
眺める様な目付きに、私は黒船騒動に日本中が揺れ動いた幕末の様相もかくや
と、つい連想したくなる様な違和感が双方に在った。

「納期」ってなんだ。「品質」ってなんだ。
極端な話当初はそんなものだった。

最初のオーダーは、忘れもしない広州での、中国製生地による簡単な秋冬子供
服。オーダーは前年十一月、
そうして本来翌年の七月でよい船積みを、余裕をみて五月とした所「没問題」
と彼らは言う。
。。結局それが積まれたのは更に翌年の三月。
彼ら縫製工場にすれば生地工場が遅れたのだから、我々は仕方がない事だと平
気で主張する。

品質の問題の話。。。繊細な手刺繍が出来るという。
それなら我々が日本より綿の極薄天竺編生地を送るから、刺繍シャツが出来る
かの問いに例の通り「没問題」の回答。
縫製を始めたから工場を見てくれと言う。

何と農家の小屋でゴム引き軍手と一緒にその製品を縫おうとしているのを見て
仰天慌てて生産中止を指示。
こんな太い縫い針で我々の繊細な生地を縫われたら100%不良品だ。
これらは技術以前の問題だ。

納期なんて少々(彼らにすれば)遅れても翌年だって売れるじゃないか。
シャツ等少々縫い目に穴が空いていようが着られるから良いじゃないか。
多少の汚れなんて洗濯すれば綺麗になるじゃないか。

当時の中国の中の市場はそんなものだったし、彼らはそんな市場しか全く知ら
ない訳だから、彼らが何時も使う「没問題」が我々にすれば「有問題」である
という、次元の違いを先ず理解さす事が「最大的問題」だった。

何でも直ぐ「没問題…問題無いよ」と簡単に言う中国人。
即ち常に…「YES」と言う中国人…は、その彼我の理解できない次元の違い
に加え、余りにも仕事に対する使命感に欠けるのは、前号でも言った様に、殆
ど人生に希望も野心も持たず、無事これ平穏で日常を過ごそうとする考え方が
一般大衆の殆どであったと言える訳だが、これも中国人の共有的性格というよ
り、やはり国の体制に基本的問題はあった様に思う。

それが徐々に更に急速に変化してきたのは、やはり90年代に入り、開放経済
が進むに連れ、そうしてトウ小兵の「先富論…先に豊かになれる者から豊かに
なれ」の号令が、人それぞれの欲望に灯をつけた。
金銭によるインセンティブが人々を変えた。
出来高制の工場では、幾ら工員の意志による残業も10時までと制限し、時間
がくれば工場内一斉消灯にしても、懐中電灯の灯で延長作業を続ける様に変化
してくる。

それは基本的には我々日本人が自企業に抱いていた、企業へのロイヤリティか
らくる労働…それは日本でも過去のものとなりつつあるが…とは全く異質な労
働であり、少しでも稼ぎ出し、その金を田舎へ送金したい欲望から、只管規則
を破っても出来高を上げようと言う行為に他ならない。
どう贔屓目に見てもそれは、会社の業績を上げる為でもなければ、遅れそうな
納期を必死に間に合わせようとする行動とは思えない。

日本がバブル崩壊の荒波を被る直前の頃、私は福建省福州へ行った。
その周辺の道路が見事に舗装されているのは、その地に投資した台湾、香港企
業の出資によって完成したものらしくその外資工場も周辺に林立している。
その為同地区住民の所得は国内で最高水準にあるのも肯ける。
道路脇に立ち並ぶ個人住宅も中国各地を回ってきた目で見ても、格別の高水準
に驚き入るばかりで、さぞや彼らは満足していると思った。

所がその水準以上の立派な個人住宅の中に、取り分け際立って広大な敷地に豪
壮なお屋敷と言えそうな大邸宅が点在する。
あの家は何だと問う質問の答えに驚愕した。。。

「彼らは日本へ行って稼いだ」
何と彼らは日本で話題になった「ボートピープル」の成功者だ。
日本人の大方は彼らは「食うや食わずで中国を不法に抜け出し、日本に働き先
を求めて命がけで渡航してきた気の毒な連中」と思っていた。
。。とんでもない話だ。

あの地帯は中国の何処よりも仕事に恵まれ、水準より遥かに高い所得を得て、
悠々と生活を送っている地帯である。
それでも更なる収入を求め、更なる豊かな生活を求め国禁を破り、先ず先遣者
が日本へ渡り、そこそこのお金を持ち帰る、その金は彼らの故郷では日本より
幾層倍の使用価値をもって豪邸を建てる。
それを見た連中は、我も我もと危険を顧みずボートで船出する。
これが日本で騒がれた密入国騒動の実態だ。

この様に広東省、福建省という南方沿海地帯は昔より世界に雄飛する華僑の出
身地であり、地方住民としては性格的に、商売についても積極性があり、加え
て香港を通じての、国際ビジネスの空気は伝統的に吸ってきた種族といえるだ
ろう。
上海も同じく欧米列強侵略の影響をもっとも強く受けている。
中国の歴史的に新しく急発展した上海は浙江、江蘇の出身者が多く、彼らも言
わば商売馴れした民族集団といえると思う。

黄河以北は農耕族が殆どを占め、歴史的にも工業生産地でもなかったし、商業
的センスも南方人に比べれば希薄であり、競争的心理も極めて少ない。
この両者と我々が取引をする上での長短は、何れが是で、何れが非なるかはい
えるものでない。
何故なら商売に長け我々への対応も早いたと称される上海以南の南方人は、そ
の反面ずるさや駆け引きに長じ、黄河以北の北方人はその逆で素直だが対応が
鈍いと言えるだろう。

  汗顔の至りです

基本的に中国人には集団的団結心や、グループに対する忠誠心が持てない人種
だとするなら、我々はそれに如何に対応したらよいか。
前述の様に中国人全般、或いは公司や集団で考えるとき、総体としては幹部以
下担当者に至るまで、“親方五星紅旗”的な事なかれ主義の無責任集団である
事は既に述べた。

ならば結局我々の取り組む対象の基準は何を以って判断すべきか。
結局その対手個人の能力と人間性以外無い。

“NOと言う中国人”が居る。何でもノーである。

出来るか?大丈夫か?有るか?答えは決まって全て“NO”或いは“没有=有
りません”だ。
西洋人が始めて中国にきて、始めて覚える中国語は“没有”だという。
勿論この意味は真実「無い」場合のノーもあるが、頭から面倒だという気持ち
でノーで問題を回避する場合のノーの方が、遥かに多い気がする。
彼らは問題はあるが積極的に問題を解決する意思を持たない連中だ。

何でも「YES」と言って無責任に安請け合いし、後で平気で問題を起こすタ
イプ。
頭から面倒を避け何でも「NO」と言っで逃げを打つタイプ。
明らかに中国人営業マンには個人的にこの二つのタイプに分類できる。

しかしこの両タイプの中にも、極少数派だが、「YES」と言った以上何とか
成功させようと使命感を持ち懸命にやるタイプ。
更に「NO」と言ったが何とか期待に応えようと意欲的に努力する貴重なタイ
プが稀に居る。

我々の仕事の第一はそういう希少性価値的中国側パートナーの発掘が、先ず業
務成功不成功の鍵を握ると言える。
この判断法を当時を基準に考えていきたい。

先ず男性と女性の場合、圧倒的に女性の方が優秀で責任感のある事は定説であ
る。 中年組と若手組これも後者に軍配を上げる。
これは当時の中年層は厳しい文革の後遺症で、殆ど実務経験には乏しい。
更に常に不満をもち野心も希望も持たない者たちが多い。

次に日本語を話せる者と話せない者、これは意外に思われるだろうが私は話せ
ない者の言う事を信用する。
私の経験を通しての、全くの偏見と思われるかもしれないが、日本語を極めて
堪能に話す若い男性は私の最も警戒心を持つ対称である。

初めて訪問した或る公司に素晴らしく日本語の堪能な、そうして発音のきれい
な若い男性がいた。
思わず私は「君は日本語が上手いね」と正直感心しながら彼に言った。

彼は即答えた。
「その様におっしゃって頂くと汗顔の至りです」

この様な言葉、今の日本人も日常会話で使うだろうか、若い日本人はその言葉
の意味すら理解しないのが多いのではないだろうか。
私はやはりこの言葉も中国よりの故事成語の類かと思い辞書を繰ってみたが該
当語はなかった。

私は反って嫌悪感を覚えた。
彼のこの発言は日本人が感嘆するのを見越した発言なのだ。
私のその判断が正しい事がその後の業務を通し実証された。

彼はその特異な話術だけで業務を小手先で進める型である。
そこまで語学に堪能な彼が考えるのは、どう言えば日本人は満足し、納得する
かそういう会話の進め方を彼は会得している。

我々と工場の間に立って彼が通訳する場合、双方の発言を常に相手方の都合の
よい方に迎合させ上手く調停する。
私は商談では右から左へ直訳するだけが名通訳と思わないが、この様に相手の
気に入る様に重要事項まで曲げるのは問題だ。

当然その結果は実務におけるトラブルが必然的に発生する。
所が彼は得意の話術で言い訳し無責任に切り抜け、最後は日本側の泣き寝入り
で終わる。

これは一例だが偏見と思われるかもしれないが、日本語の堪能な男性陣には要
注意これが私的持論だ。
しかし日本語の出来る、出来ないに関わらず、中国人は全般的に言い訳の巧み
さ、悪い立場や不当な事を、見事逆転させ正当化する能力は、日本人にはとて
も敵わない。

十二億の人間個々の性格、考え方を一方的に引っくくり論評するのは、中国の
人達に対し僭越且つ失礼極まりない事であるのは十分承知しながら敢えて書か
せて頂いた。
総体的に中国人は集団的結束やそれに対する使命感には極めて関心も薄く、脆
弱であると思う。

しかし個人的能力としては他の民族に見られない、逞しさと積極性を持つ民族
の様な気がする。
芸術やスポーツの分野で世界的な活躍を見る所以でもあろう。

これはやはり数千年に亘る動乱の歴史や厳しい自然環境の中を、巧みに生き続
けた民族として、真実頼りになるのは自分やその一族のみという厳しい現実認
識の中に培われた、自己防衛本能が、中国人一人一人の中に遺伝子として、脈
打っていると言えそうである。
よく中国人は個人主義者といわれる所以だろう。
やはり日本人とは異なったDNAを持つ人種であり、簡単に言われる様な一衣
帯水の隣人ではないのである。
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<<あとがき>>

80年代を中心に、私の仕事を通して見た中国人像の一面を書きました。
所詮それは適切な表現ではありませんが「群盲象をなぜる」の類でしょう。
それ以降の中国は開放体制も加速し、国際社会の中で堂々とした存在になりま
した。
当然それにより中国の人の生活、考え方も変わり、最近商談に訪中された方達
との中国側の対応も、過去とは随分異なった状況である事は、我々もそれを認
める事に異論はありません。

特に国中革命一色で、学校教育一切もストップした約十年に及ぶ文化大革命終
焉以降、正規の学校教育を受け、少青年期より国際人的環境の中で視野広く育
ち、社会人となった若年層が、今後の中国社会の中心となって活躍するとき、
さらに大きく中国も成長し発展するだろう事は、充分予測されると考えていま
す。
その中国の若い力を私自身が感じた二つの特異な見聞を、最後に披露し本号の
終わりと致しますます。

或るニット工場を沿海地区に新設するにつき、新規採用した中高新卒の工員百
名近くを、資本的に関係ある奥地の遠隔工場へ、半年間技術訓練に派遣しまし
た。
その工場もその訓練生を暖かく迎え入れ、殆どマンツーマンで指導してくれま
した。

半年の訓練も終わりに近づき、時期的にもその工場は超繁忙期に入り、毎夜か
なりの残業が続きました。
勿論これらの事はトレーニング中の訓練生には本来全く関係のない事です。

その厳しい仕事の状況を見ていた訓練生達は、皆で相談し自発的に工場の作業
でそれぞれが協力できる分野で、自主的に応援する事を工場に申し入れ、工場
側も喜んでその申し入れを受け入れました。
勿論無報酬です。

やがて訓練は終了し訓練生が工場を離れる前夜、私が主催し工場食堂で指導側
と訓練生が一堂に会し賑やかな感謝と歓送の会は和気藹々の内に開かれ、愉し
い賑やかな一刻を過ごしました。

これは90年代初めの出来事です。
中国も若い人を中心に変わり行く事を痛感した思い出として書きました。

更にもう一つの極めて最近の見聞です。
或る日本のニット企業が中国で合弁の生産工場を経営しており、その企業の決
算報告書を拝見する機会を得ました。
業績が極めて好調である事は当然として、より私を驚かせたのはその決算報告
書の見事さです。
勿論中文ですが内容は誰が見ても一目瞭然で業績が判ります。

それはコンピューターにより全文作成されているのですが、カラーによる表、
グラフを駆使して見事な見易い決算書が出来上がっております。

そうして更に驚いたのはそれらの決算書は全て中国人により作成されたという
事です。
当然以前は日本の技術者が作成していたのを、コンピューターに興味を持つ中
国人の若者達が、見よう見真似で更に従来より工夫を加え、今回は彼らの手で
この報告書が作成されたとの事です。

そのうえ私が感心したのは、この決算書を若い中国人に作らせるという事は、
会社業績を中国人従業員にまで理解させるという効果があり、そのガラス張り
経営のあり方を見て、それにより私が本編で度々述べている、中国人は一般的
概念として、従来企業に対する忠誠心の無さも又大きく変わって来るのではな
いだろうかと言う感慨と、その方向に思い切って踏み込まれた日本側経営陣に
限りない敬意を覚えた次第です。

                           遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
紅い中国の時代の目次に戻ります







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