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★ 遊 庵 散 人
★ ---------- China,20years ago ----------
★ 殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
★ 1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
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<< まえがき >>
中国の航空公司が幾つかに分社化されたのは、やはり90年代に入ってからだ
と思います。
それまでは国際路線も国内路線も、全て中国民航で運行されていました。
その中国民航の英文の略称「CAAC」の本来の名称が「Civil Aviation Air
China」だと知ったのは極めて最近の事でした。
当時我々仲間ではジョークですが「China Air-line Always Cancel」が当
たり前の事として通用していました。
正にその当時は我々の通称がピタリ合致するCAの運行状況でした。
国内移動の為早朝市内より空港へ走らせる車中で希うことは、何とか時間通り
飛んでくれという願いでなく、何とか今日中に目的地へ到着してくれという願
いでした。
それが空港に着き、直ぐ見上げるボードには大抵「延遅」か最悪「取消」の2
字が見えました。
「又か」という何時もの諦めと共に、深い落胆に気分が重くなります。
何時かも書きましたが、80年代の中国ビジネスで、商品によるトラブルは日
常茶飯事とし対処しても、毎日の業務活動を行う上の困難は、前々章で申し上
げたホテルの問題と、今回述べるフライトトラブルでした。
この問題は後々の日程の全て迄影響し、結果帰国日が大幅に狂います。
我々は出張出発に際し,家に対しても「出発は何日、帰宅は大体何時頃」とし
か言い様がありませんでした。
しかしその状態を擁護する訳ではありませんが、無理からぬ問題もあります。
あの欧州全体に匹敵する、広範な国土に張り巡らされた航空路線を、決して充
分といえない航空機でカバーしているのです。
正に一機の航空機が一日数箇所の都市から都市へ飛び続けているのですから、
その何処かで機体のトラブルや天候異変が起これば、以後その路線の先の先ま
で或いは翌日まで影響を及ぼします。
航空機の尾翼にその機体番号が書かれております。
以前の航空時間表にはその機体番号も明記されておりました。
その為時間表を見ればその航空機は、その日一日AからBへ飛び、そこで我々
を乗せCへ、更にその後Dへ向かうという機体予定が判ります。
それを見ただけで何か随分無理をしている事を感じます。
ある時親しくなったスチュアーデスも我々に過密運行の実態を話してくれまし
た。
それに80年代初めは全て昔のソ連製で、当時ソ連でもその種の生産は中止に
なっており、部品が故障すれば飛行機をバラして部品補給するのだ等と悪口を
囁いた時代も、やはり80年代中頃より「波音〜ボーイング}等の米国製も飛
び始め、それに滑走路に牛が放牧されていた様な空港設備、機中薬缶で茶をつ
いで回っていた乗務員の数的充足(質的でなく)も進み、少しは進歩し90年
代に入ります。
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<< 本号の内容 >>
◆◆ 恨めしや中国民航
★ 一寸待てが72時間
★ これが「為人民服務」
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★ 一寸待てが72時間
いきなり強烈な話題に入る。
昼の12時半上海紅橋空港発、山東省煙台行きのフライトに乗るべく、上海の
ホテルをお客一人を連れ車で出発したのは朝10時、天気は快晴で空港のボー
ドには珍しく「準時…時間通り」と書かれていて、思わず「ラッキー」と叫ん
だ。
所が本来出発の半時間前頃アナウンスされる搭乗指示も一向になく、グランド
には搭乗する筈の飛行機の姿も無い。
嫌な予感が走る。
やがて1時過ぎ3時間後の出発に変更とアナウンスされた。
しかしその時間になっても又何の通告もなく、遅延出発時間も過ぎ又約3時間
遅延の放送。
そうして更にもう一度それが繰り返され、ようやく夜9時頃になり
「本日は取り消し、出発は明朝9時」と放送され、預けた荷物はそのままに、
真っ暗な空港を後にした。
別にホテルを手配するわけもなく、中国人の乗客は黙って待合室でゴロ寝に入
る。
翌朝8時空港に着いた。
しかし結局その日も前日と同じ様に3〜4時間毎、遅延がアナウンスされ、丸
一日が無為に終わった。
私の客はとうとうその日で煙台行きを諦め、後の仕事を私に任せ翌日上海より
帰国した。
彼は丸二日で用意してきた文庫本5冊を空港で完読し、もう読むものもなくな
ったと語った。
私はそうも行かず結局翌日も待ったが、その日の昼頃に至りその遅延の真相が
判明した。
目的地山東省一帯は、数十年来の猛烈な台風に見舞われ、ここ数日来全ての交
通がストップしている現状だという。
そんな状態なら何故、もう飛ぶ、もう飛ぶと三日間言い続けたのか。
何故当分飛べない実状を乗客に伝えないのか、私は全く理解できない。
何より苛立つのは質問する我々に対し、担当者は「判らない」の一辺倒、女子
服務員は「関係ない」とばかり仲間と談笑し散策している姿だ。
結局飛行機をあきらめ、列車に切り替え翌朝上海発の便で出発、済南までは順
調に進んだ列車も、山東半島に入るや停車する時間が長くなり、結局上海出発
後28時間で終点煙台にたどり着いた。
沿線風景は台風の痕跡生々しく、大樹が根こそぎ倒れ、土地の冠水も至る所で
見られた。
上海空港で待ちだして五日目の夕刻である。
しかし皮肉にも私の煙台到着前日上海よりの飛行機は飛んでいた。
もう一つそれに類する経験を話す。
上海より青島に向かう午前の便が、前記の様に、延遅、延遅の繰り返しで結局
夜10時、翌朝10時に変更と説明があった。
私には大事なお客もあり直ぐ空港横のホテルの部屋を電話で予約し空港を離れ
た。
そのフライトの乗客には香港の団体客が殆どで、彼等はCA担当者に険しく詰め
寄っていた。
ホテルを手配しろ、その費用を負担しろとか他国なら当然の要求だ。
翌朝7時半念の為空港へ確認の電話を入れた。
所がそのフライトの出発は2時間早まり8時になったとの事。
直ぐに行くから待ってろと伝え、慌ててお客と共に顔も洗わず空港へ駆けつけ
た。
何とか間に合ったが理由を聞くと、昨夜の香港のグループが10時発は遅過ぎ
ると散々騒ぎだし、やむなく出発を8時に早めたという事だ。
この突然の変更に同乗予定の昨夜いた日本人外多数の顔も見えず乗り遅れた。
その件で未だ余談がある。
前夜の交渉の結果CAに香港グループはホテルの手配と費用負担を認めさせ、
バスでやはり空港と至近のホテルへ向かった。
翌朝ホテルを出発の際、ホテル側は宿泊費を払えという。
香港側はCAが負担する約束だという。ホテルはそんな事は聞いていない。
払わなければバスを出発させないと言う。
やむなく払い空港でCAと交渉したが、「昨夜の事は私は聞いていない」
緊急で北京より大連に飛ぼうとした。
その便は沈陽から大連に飛び、そこから北京そうして大連に戻る飛行機である
事は判っている。
空港のボードには遅延と出ているが、出発予定は不明である。
それを調べる方法は、大連に連絡しその飛行機が沈陽から到着しているか、そ
うして何時大連より北京へ向かうのか、これが判れば、大連から何時頃北京に
到着し、何時頃私が大連へ飛べるのかが推定できる筈だ。
そんな簡単な事をCAに調べてくれと言っても、絶対駄目で「私は判らない」
で終わる。
当時の一般電話は国際線は比較的繋がり易いが、国内長距離線は何時繋がるか
不明。
そこで私は空港近くのホテルへ入り、先ず関係商社北京店に電話を入れ、そこ
から東京本社を経て大連店へ連絡してもらい、その機の大連での発着を調べて
もらい、今度は逆ルートで北京空港近くのホテルで待つ私に返事がきた。
大変面倒だがその間20分位で見通しを立てられる。
しかしそれにより遅れの見通しは立っても、時間があるからといって、空港を
離れる事は出来ない。
何故なら万々一代替え機を仕立てる事等もあり得るからだ。
例えばそれは大抵政府幹部の搭乗の際等は充分考えられる。
彼らは既に搭乗した一般乗客を一時間以上も機内に待たせ、タラップの下まで
高級車を横付けし、悠々乗り込んでくる事もあるのだ。
★ これが「為人民服務」
我々は中国との往復にはやはり日本の航空会社(80年代はJALのみ)を使用
していた。
私自身が幸いJALグローバルメンバーだった事により、様々な優遇サービスを
受けられた事にもよるが、一般の商用リピーターも概ねJALが満杯でない限り
滅多にCAは利用していなかった様に思う。
そういう人の一人が言うには、成田よりCAに乗るとそこから中国だ。
JALに乗ると北京に着く迄は日本であり帰りも同様だと。
当時中国人の海外渡航は極端に厳しく、殆ど外貨獲得の為の公用出張以外認め
られない状態だった。
全てに厳しい制限が付けられ、渡航する為の航空機もCAに限定された。
ある時期が来て海外航空会社による渡航も認められ出した時、彼らはCAでな
く外国機を好んだ。
私はその理由はサービスの違いにあるからと思ったが、意外やCAの乗務員は
外人客は優遇するが、自国客を無視し軽視するというのだ。
彼の言葉を借りれば、CAの乗務員の態度は「何よ生意気に中国人のくせに外国
へ出かけて」という様な蔑視に近い眼で冷たい態度を取る。
しかし外国機ではお客は皆平等に扱ってくれる、それが彼の意見だった。
確かに判る様な気はする。
服務員自体或いはCA従業員全体不可解なエリート意識を持っている様に、我々
すら感じる事があった。
事実CA服務員は初期の頃は中国的エリート集団だった。
特に対外的な交流を極めて制限していた時代。
海外へ行き来するスチュアーデスや服務員は、党幹部や解放軍幹部の子弟であ
る事が、国家より配属される第一条件であった様だ。
以前にも書いたが、かって西安で知り合ったスチュアーデスと夜食事し送って
いった彼女の宿舎は「党高級幹部訓練所」だった。
聞けば彼女の父親がそこの教官をしているとの事だった。
彼等は生まれながらのエリート階級なのだ。
加えて航空企業という当然中国でも、庶民の羨む花形企業を職場とした人達が
同国人の搭乗者を見下ろす態度で接するのも、成り行き上当然かもしれない。
その風潮は自然機上勤務者の態度だけでなく、空港勤務者の勤務態度にもある
種の不貞腐れを感じさす程、客に対する誠意を感じさせぬ態度、無責任極まる
行動は、我々利用者にとっては堪らなく不愉快な気分にする。
何が「人民に対する奉仕」なのか。
空港でよく見受ける光景だ。
チェックインに長い列を作る一般搭乗者を尻目に、空港服務員が知人を列の一
番前に連れて行き、優先的に手続きをさせる等の行為はチンピラ服務員が自分
の出来る精一杯の職権をフルに使い、知人にサービスするのは日常茶飯的行為
だ。
政府の偉い人が山の様な土産を海外より持ち帰り、それを空港幹部の指示で、
カート十数台に積んだままトラックで自宅へ運ぶ話も聞いた。
空港の中で幹部は幹部なりの大きな職権、下っ端は下っ端のささやかな職権を
フルに生かして行使し特定の便宜を図る。
それが彼らのステータスであり、その結果それなりの見返りを、例えばそれが
タバコ1本にしても貰う事が、彼らの仕事の遣り甲斐の様に思える。
それらの事は衆人環視の中で堂々と行われ、それを又当然の事の様に人々は見
ていても何も言わない。
これもやはり五千年の伝統なのだろうか。
「清官三代」という言葉が、古くから中国にあるのを聞いた。
清官とは文字通り清廉潔白な官吏の意である。
そういう人でも一度地方の長官(言わば県知事等)の役職に任命され赴任すれ
ば、その任期中に受ける金品の贈与で、彼の子と孫の時代まで、即ち三代に亘
り生活が出来たという意味らしい。
清官ですらである。
況や一般役人においては莫大な利を当然の様に受けたであろう。
この様な事は日本も余り偉そうに言えない現状だし、TVの人気番組「水戸黄
門」も毎週その種の話で、長寿番組となっているのだから、昔から行われた人
間の本能的な欲望だろうが、その行為は日本では陰で、中国では陽の差異があ
る様に思うが如何だろう。
我々は度々その様な光景を目にしたが、当時社会主義の特権階級の権利意識も
加わって、それら行為が堂々と行われていた様に思う。
中国民航も我々との日常的接点が多かっただけ、その権威主義やミスの多さに
辟易する事が多かった。
空港でチェックインの際、或いは空港内でバスを利用し乗機する時、中国人は
我先にと急いで列に割り込み、駈け、押し合って機内に入る。
既にチケットを持ち、搭乗カード迄持っているのだから急ぐ必要も無い筈だが
その理由を聞くと納得した。
搭乗直前ストップをかけられる事もあるのだと言う。
例えば搭乗機が突然何かの理由で小型機へ機種変更になった場合、急に政府要
人の搭乗が決定した場合等、色々な理由で既に搭乗カードを持ちながら搭乗拒
否される。
だから我先に急ぎ、乗って座る迄安心できないと彼らは言う。
私の経験でも5人のグループでチェックインし、受け取った搭乗カードの枚数
をチェックしたら7枚あり、私が黙っていたら2名がチェックイン拒否されて
いたかも知れない。
或日本人が上海の銀行で日本人同士が誤ってパスポートを取り違えたまま、お
互い気づかず、一人は翌日帰国の途についた。
もちろん航空券は所持していた。
空港で二度即ちチェックインカウンターとパスポート検査であるが、どちらも
チケットとパスポート(写真も)の名が違うのに気がつかず難なくパス。
そうして成田の検査で初めて指摘され当人も大慌てした。
当人も気楽だが中国の検査は一体何だ。
そうかと思えば青島空港で、私と同行した友人の名が、パスポートでは本名の
ままの訓読みのローマ字で書かれているが、チケットは中国の手配者の間違い
で音読みになっていた。
その二字の読みの違いを空港で指摘され、先ず搭乗拒否された。
その交渉は延々一時間以上に及びようやく了承、搭乗の許可が出た。
お陰で機の出発も三十分遅れ、他の乗客に迷惑をかけたが全く馬鹿げた話だ。
同じ空港での話、セーターのサンプルを約20キロ、工場が詰めてくれたパッ
キングケースで空港へ持ち込んだ。
所がケース入りの商品は携行品としては認めないという、仕方なく余分の布製
のバッグに係員の目の前で詰め替えた。
そうしたら係員はこれは袋製バッグに入っているから携行品として認めるとい
う。
彼らにすれば本来商品は認めないという原則が、袋に入っておれば商品ではな
くなるのだ。
商品を携行品と認めない等、他の空港では言わないよと皮肉ると、担当者曰く
それは他の空港が規則を守っていないのだという。
序にパッキングケースに入っていたら商品で、同じ品をバッグに詰めておれば
携行品かと問うと、その通りだと平然といった。
確かに見せられた規定書には、携行品は身回り品のみと明記されていた。
しかしケースとバッグの事は書いてない。これが頑固で有名な山東人気質だろ
うか。
しかしそのCAもやはり90年代に入り、開放経済と共に、幾つかの航空会社に
分社化され、やがてそれまで街中でよく見かけた「為人民服務」のスローガン
が空港でもよく見かけるようになり、今まで最も欠けていた「乗客へのサービ
ス」がようやく向上し始める時代に入る。
それに大きく変化したのは、空港の設備だろう。
北京、上海の大都市はもとより、酷い所は農家の納屋の様だったお粗末な地方
空港も、それぞれ整備され、それも地上の道路整備と共に、90年代発展の基
盤となっていった。
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<<あとがき>>
今回は随分中国民航に対し厳しい、しかし我々にとっては嫌な思い出の多い恨
み節を書かせて頂きました。
更に断片的な苦い経験を述べさせて頂ければ枚挙に暇が無い程、次々と浮かん
できます。
とは申せ二十年間で百五十回近い訪中を通じ、国際線は日本便を使うとしても
国内線はCA以外に無く、一度の訪中に平均三度利用したとしても、ざっと五
百路線と全くよく乗せて頂いたものです。
「遅延」「取消」は当たり前だし、サービスに就いては国際的に見ても最悪の
部類に入るとしても、これだけお世話になりながら、その間取り立てて言う程
の事故に遭う事もなく、一応無事に運んでくれた事に対しては感謝したい気持
ちも持っています。
と申すより今から思えば変な愛着すら感じます。
あの狭い座席、後ろに倒れたまま起きない背もたれ、或いは安全ベルトのちぎ
れたシート等懐旧の念一入です。
やはり今思えば当時中国の経済未発展期は、機体のやりくりや整備もままなら
ず、それに運行管理技術も未経験であったと思われます。
更にサービスに就いては大よそ中国の社会全般では無縁のものであり、競争的
心理も働かないまま、当然他の国のサービス事情も知る術もなく、これで良し
として来た彼らの行動は非難できないでしょう。
その当時はしきりに非難してきた私自身今は少し反省するのは歳の所為でしょ
うか。
聖書の言葉ではありませんが「彼らはそれを知らざるが為なり」
遊 庵 散 人
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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