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★ 遊 庵 散 人
★ ---------- China,20years ago ----------
★ 殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
★ 1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
★
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<< まえがき >>
前号では1980年中頃の上海における厳しいホテル事情と、市内を移動する
車と道路の麻痺状態について、正に都市機能を喪失したような状況を述べまし
た。
今回は「食」の問題につき、70年代末期から80年中頃にかけ、私の追憶を
述べたいと思います。
中国は当然中国料理であり、既に戦前から日本でもお馴染みの料理で、且つ国
の大半はお米のご飯が主食ですから基本的に問題はない筈です。
しかし問題はありました。
その一つは当時上海といえども日本レストランは皆無で、中国料理以外全く食
べられない事。
絶対食べられないと言う事は、とても食べたいと言う心理が働きます。
これは辛い事です。
二つ目は中華料理店は戦前より世界中どの地方へ行ってもあり食べる事が出来
ます。
そうして世界中の人達がこの料理を愛好しています。
日本でも横浜、神戸の様な大中華街が大繁盛です。
それは基本的に食材の良さを活かす日本料理と違い、食材に対する料理法の良
さを活かす中国料理の特徴がある様に思います。
その事が世界中に散らばった中国人達が、その地その地でその地の人々に合っ
た味に上手く変化させ、受け入れられ繁盛している様に思います。
その点我々が始めて訪中し口にした中国料理は、私がそれ迄過去日本や台湾や
香港で食べた味とは、かなり異なったものでした。
しかしこの本場で食べた味が、言わばこの中国料理の「ルーツの味」といえる
のでしょう。
中国以外で味わうものと違った、世界でその国の人に迎合したり、或いは例え
ば台湾、香港の様な激しい競争社会にも巻き込まれ、豪奢に変化させた味でな
いと考える様になりました。
我々の仲間にも「日本の中華料理の方が美味い」と言う人や「やはりこれが本
当の本場の味だ」と喜ぶ人も居り様々でした。
中国各地を歩いている内に、或いは上海市内でもそうですが、同一料理でもそ
の土地により或いは店により随分味が違うものだという事も知りました。
例えば一般家庭料理として有名な家常豆腐や、代表的スープである酸辣湯にし
てもこれが同じ名の料理かと首を傾げたくなる程の、味の違いがあります。
私は決してグルメ人種でもなく、料理の事を語る資格はありませんが、やはり
それは感じます。
私は味覚の中に視覚も入ると思うのですが、特に「四本足は机以外、飛ぶ物は
飛行機以外、水中の物は潜水艦以外全て食う」という広東のゲテモノ料理は特
別としても、一般でも地方へ行けば宴席に出される、蛹や蠍それに蛇や亀等が
原型のまま出されても如何に美味といわれても、先ず私としては視覚的に箸が
出ません。
鰻のぶつ切りの油煮等よく出ますが、ついこれが蒲焼ならなぁと思ってしまい
ます。
熊の掌の肉が超美味だとか、猿の頭蓋骨を割って、そこから食べる脳味噌が珍
味だとか、様々な事をいう人もおりますが、私は御免被るで通してきました。
しかし年2回開かれる広州交易会に、蛇料理を楽しみにきているという日本女
性も居ましたから人様々です。
今回は決して食通とは申せませんが、食べる事については人後に落ちない私の
当時の上海での業務滞在者の食を中心に書いてみました。
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<< 本号の内容 >>
◆◆ 食 の 問 題
★ 日本食への思い入れ
★ 上海蟹と物価
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★ 日本食への思い入れ
我々が何時もほぼ一ヶ月に及ぶ、中国出張に出かける前日は、スーパーでの食
料買い付けが欠かせぬ日課だった。
それは日本食へのこだわりという意味ではなくどうしても農村地方に多い工場
で過ごす日々の中には、箸を出し難い料理に遭遇する機会も多く、その為最小
限の満腹感を得られる様に、幸い中国なら殆どの地方で出されるご飯にかける
為の「つくだに」「ふりかけ」の類が大部分だった。
それから何時飛ぶか判らない空港での待ち時間や、列車移動の車中での食事に
簡便なカップラーメンは絶対的必携品だった。
90年代に入り中国でもこれらインスタント食品は、共稼ぎが殆どの中国家庭
に大受けで大ブーム期に入るのだが、当時未だこれらは中国人には見た事もな
い珍奇な食品であり、湯を注いだだけで食べる我々の周りは黒山の人だかり。
ゆっくり食べてもおられない状態だった。
85年頃お世話になっている関係商社の上海所長宅で帰国に際し、未だ小学校
低学年だった子供達に次回の土産をリクエストすると、決まって「マクドナル
ド」という答えが来た。
当時既に日本では「マック」は、日本市民の嗜好品として定着していた事実を
今改めて思い返した。
そのマックも90年代に北京に第一号店が出店し、記録的売れ行きを示した。
今更中国の90年代の変化を痛感する。
現在の中国での近代式ホテルの朝食は、殆ど洋中料理を中心にしたバイキング
形式であり、私等が日本で日常食べているものよりも、遥かに豪華絢爛で贅沢
だ。
その点当時はやはり洋中(地方は中のみ)だったが、殆どが定食であり、むし
ろ現在より手軽であり、少なくとも腹八分目の適量が味わえた。
洋菜はトースト(不味かった)目玉焼き、コーヒー(これも不味く殆ど紅茶)
のフルコースだった。
中菜はお粥中心で、点心、油條、皮蛋、漬物が付く大体このフルコースは、北
は内蒙古から南は広東まで、ほぼ基本は変わらず極めて快適な朝飯である。
ただお粥は早めに行けば八分粥程度のものを頂けるが、遅く行けば段々重湯に
近くなるのは仕方ない。
そのお粥に持参のお茶漬けふりかけをぶっかけて、それこそ本場のザーサイで
食べる朝食は何ものにも代え難い結構な味である。
それで当時2〜3元だった。
笑われるだろうが、昔私の故郷京都では、祇園で徹宵遊んだ嫖客が、朝早く妓
と共に東山を散歩し、茶店で粥の朝飯を楽しんだ粋さが連想される様な、中国
の朝食は私の気に入りだ。
ただ上海の著名ホテルで、四日間全く同じメニューでオーダーした朝食が、四
日間とも請求額が違っていて、さすが最後の日にクレームをつけた。
当日の服務員はこう言った。
「昨日迄の者が計算違いをしたのだ。私は関係ない」
昼食は大抵出向いた工場内での食堂で、賄い担当従業員が我々の為、特別に料
理の腕を振るってくれて、それを工場幹部らと卓を囲み食事をするのが普通だ
が、行き慣れた工場では、私の食の好みも理解し調理してくれるのもありがた
かった。
一般工場作業員は大きな琺瑯椀に飯を盛り、その上から肉や野菜をぶっかけた
食事が普通だが、どういう訳か食堂がありながら、工場の敷地内を歩きながら
食べる習慣が不思議だ。
工場での食事にも美味い所や、余り感心できない工場もある。
聞く所では各地方で工場料理人の料理コンクールもあるらしく、幸い我々の良
く通う上海浦東のブラウス工場
の料理人は、そのコンクールの入賞常連者だけあって、確かに料理は美味い。
我々を案内する貿易公司の連中も、その辺を考慮に入れ丁度そこらで昼食にな
る様その日のスケジュールを立てる。
そんな事よりもっと仕事面で気を使えといいたいのだが。
工場による味の差はあっても、出される料理の量だけは、どの工場も凄い品数
が次々と円卓に出てくる。
我々がこれ以上とても食えないと思う頃から、更に料理は運ばれてくる。
いくら勧められても我々は呆然と卓上を眺め終宴を待つ。
しかし卓を囲む公司、工場幹部の旺盛な食欲と活発な対話は衰える事はない。
その頃我々客人はもう彼らの眼中にない。
窓の外を歩きながら猫飯を食う工員に対するこれが幹部の特権だ。
提供される料理で、大抵の日本人は、日本で食べるものより野菜のおいしさは
賛美した。
特にほうれんそうやトマト等は、これが本当の味だと賞味し、老齢の方はこれ
こそ戦前の味と堪能された。
そういえば鶏肉の味も卵の色味とも、日本のものと違っていて、色も黄色みが
深く盛り上がった様なボリュームがあった。
当然これらは化学肥料の問題につきるのだろう。
現在は以前の味を知る人は中国も日本と変わらなくなったと嘆く。
工場へ出向かない日の昼食は商社仲間4,5名と連れたって、近くのホテルの
食堂で昼食をとる。
未だ我々外人には何処でも食事する自由はなかったし、その上市中の一般食堂
では肝炎罹病のリスクもあり、我々は敬遠した。
魚、肉、野菜の料理皿と汁物に飯を皆で分け合って取り、それに一口のビール
を飲んで、一人あたり日本円4百円程度だったろうか。
急ぐ時や少人数では飲茶や麺ですませるが大体2〜3百円程度。
夜は公司の宴会が多い。
これはされたりしたりする訳だから、ほぼ同じメンバーと2回は卓を囲む事に
なる。
我々でもこの宴会はかなりの苦手で、それより我々だけで好きな物を好きなだ
け食べ、誰に遠慮なく談笑しながら取る夕飯の方が余程楽しいのだが、現地商
社マンにとっては、特に日本より偉いさんが参加しての、中国側との宴会は、
心身共に苦痛意外何ものもない。
しかもそれが殆ど連夜続くのは悲劇である。
宴会では日本側はともかく、中国側の連中が実に良く食うのは、昼食の場面で
紹介した。
80年代後半の頃、さる恰幅の良い中国公司の総経理は、我々に対し「どしど
しお召し上がり下さい。ただ私は現在健康上食事を節制しておりますから、ど
うかご理解下さい」
いつも大食いの中国人から聞いた初めての言葉だった。
食に対する健康管理を心がける人が出てきた。
中国もそれだけ経済発展した証左だろうと私は感じた。
宴会のない日の夕食、日本食は無理でもせめて中国料理の中で日本風の料理を
提供してくれる店を探す事を心がけ、そういう情報が入るやタクシーを飛ばし
食事に出かけた。
その様な中、上海大厦の食堂に「オムライスがあるぞ!」とのニュースが入っ
た。
早速行ってみるとメニューに、「蛋包飯‥卵で包んだ飯」とある。
確かに焼き飯風なご飯を薄焼き卵で包んでいる。
しかしケチャップがない。
それでも十分満足だった。
街には洋食屋はなかったが、外人宿泊用ホテル内には、洋食提供の食堂はあっ
た。
しかしお世辞にも美味いといえないし、特に食用に特別飼育されたものでない
農耕用の牛や水牛の肉は堅くて食えなかった。
だからもっぱら肉は豚か鶏の注文となるが、揚げ物の油臭さには閉口した。
それよりも先ずサラダを注文した。
ポテトや玉葱等を材料にしたマヨネーズサラダ等は、生野菜が食えない現地で
は、貴重で有り難い献立だった。
85年頃錦江飯店の近くに何と初めてフランス料理専門店が出来た。
店の名は「紅房子」
解放前フランス料亭でコックの経験を持つ親父が、昔取った杵柄で店の名「赤
い部屋」を象徴する様な、外観を赤く塗り小さいがさっぱりした感じの良い店
だった。
名物は「オニオングラタン」と「エスカルゴ」。
前者はかってパリ、ピエ・ド・コッションで食べた味を思い起こさせたし、後
者は本物でないにしてもガーリックの風味が懐かしかった。
白いコックスタイルの親父は、我々の味に対する反応、批判や如何と、心配そ
うに我々の食べる横に、じっと立っていたのも非常に印象的で好感が持てた。
先般述べた和平飯店の老ジャズメンと同じ様に、数十年ぶりに握った楽器や包
丁に、それぞれの昔の夢の再現を目指している情熱に敬服した。
その初めて「紅房子」を訪れての帰路、立ち寄った錦江友誼商店の道路上に、
上海で初めてのネオンを見た思い出も深い印象だ。
日本料理屋らしきものが初めて上海に店を出したのが、その後だった。
場所は我々の事務所のあった錦江クラブの5階、およそ不便で人目に付かぬ場
所だった。
何でも香港人のママさんが昔日本で見覚えた経験で出店したとの事で、およそ
不可解な店だった。
それでも一応寿司カウンターもあるが、魚の切れ身の一切れも入っていない。
それでも注文すると、既に作り終え皿に盛った寿司を、戸棚から食卓に出すの
には驚いた。
その他メニューには丼ものや若干の料理はあったが、いずれも味は今ひとつ、
我々の足も遠のき、その結果僅か数ヶ月で日本料理第一号店は閉店した。
その数年後、延安路のニュービル聯誼大厦の一階と上海大厦のやはり1階に、
やや本格的な日本料理店が出来、これらは結構繁盛した。
その後80年代末期より続々建築される合弁中心の近代ホテルには、集客の手
段としてもいずれも高級日本料理店出店の時代に入る。
かくして80年代の上海は、食べる事もままならぬ時代が続いた。
しかし90年代の経済変化により、現在は街中至る所に居酒屋風ののれん店か
ら、ホテルの高級店まで恐らく数百店の日本食店が、数万人の常駐駐在員やそ
の家族、業務訪問者、観光客に対応している上に、所得が急増した中国人経営
者、エリートまで利用する迄に需要が増えた。
そうなれば又おかしなもので、私など夏でも四川料理の辛い刺激を求めて中華
店へ行く。
★ 上海蟹と物価
上海のホテルのレストランでコツコツと木槌を打つ様な音や鋏を使う音が、あ
ちこちのテーブルから聞こえ出すと、上海に蟹のシーズンの到来を知る。
そのままでは食べ難い西洋人達は、これら道具を使い四肢をバラバラにし食べ
にかかる。
中国人にしても我々も蟹を食べるのに、専ら手つかみで蟹をバラすが、中国人
は更にその蟹の爪を使って、丹念に身をほじくり食べ始める。
そこに中国人の食への執念と、見事な程の器用さを感じる。
83年頃より街に自由市場が誕生し始め、先ず我々が買出しに出かけたのが蟹
だった。
江南の無限にある湖沼や運河が上海蟹の棲息地であり、上海周辺で早朝収穫し
た蟹を上海へ運び自由市場にそれを並べる。
当時の蟹は全くの天然ものであり、現在多い養殖ものと違い、大きさも約4〜
50センチ、色もグリーンがかった全く生きのよい元気さで、人の小指なら噛
み切る程の力強さがあった。
重量も2匹で1斤(500g)位はある大物だ。
自由市場では子供が1匹か2匹を藁で縛り、逃げない様に藁の端を足で抑えて
売っていたのを思い出す。
それで当時の値段は1斤8−10元程度だった。
聞いた所では現在1斤80〜100元との事だから、随分安かった訳だ。
しかし当時の中国人の都市生活者の月収は40元前後。
現在の収入は非常に大きなバラつきがあるが、上海で平均1000元としても
やはり上海蟹は中国人にとって、超高価な食べ物と言える。
当時(83〜85年)のレートは1元に対し100〜110円位。
現在は13〜14円として、蟹1斤の値段は日本円にすれば昔も今も1000
円前後と殆ど変わらない。
それは中国の諸物価が高騰しながらも、円高が進んだ結果といえる。
中国人にすれば所得が上がった分、物価も上がり、その上新しい消費に対する
刺激が拡大し、当時は殆ど無かった教育費や住宅費の負担が増大し、やはり一
般の庶民生活は厳しいのが現実だろう。
さて又蟹に戻る。
秋の声を聞けば上海人は蟹を望むこと、江戸っ子の初鰹以上である。
だから工場では我々の訪問を待って、昼食時でも蒸したままの蟹を山の様に積
み上げる。
言うなれば公費による食欲満喫である。
そうしてその時はあのおしゃべりの中国人が、黙々と沈黙を保ち前記の様に、
器用で執念深く身を取りだし食べ続ける。
盛んに勧められる我々も2匹が限界で、それも手荒い雑な食べ方で、中国人に
叱られながら口に運ぶ。
市の中心部南京東路に「新建酒店」という小さい酒屋があった。
1階は全くの居酒屋で各産地より送られてきた酒を、かめのまま並べられてお
り、中国にもいる飲んべいが、店頭で立ったまま、かめから柄杓で注がれる酒
を飲んでいる。
その薄汚い2階が、普段はがらくたの倉庫だが、蟹のシーズンだけ蟹フルコー
ス店になる。
余り目立つ店ではなく、我々が随分日本よりの客の接待に利用し、親父の張さ
んとはすっかり仲良くなった。
先ずここの蟹全席と称するフルコースを紹介しよう。
蟹の身の前菜、蟹味噌スープ、酔っぱらい蟹(後述)、蟹饅頭、蟹味噌と野菜
のあんかけ、揚げ蟹、そうして蒸し蟹最後に蟹入りチャーハン。
まさに蟹、蟹、蟹のオンパレードである。
それに中国人の器用さで、ゆで卵を半分に割り、中の黄身を取り除きそこに蟹
のすり身を詰め込み、ご丁寧に蟹の卵の赤い粒を眼にして白ウサギを創作する
など、全く良くやるよと言いたくなる。
酔っぱらい蟹は酒好きの私にとっては最高の珍味だが、張ボスの説明では、生
きた蟹を先ず塩を振りかけたタワシで丹念にこすりつける。
それにより侵透圧で蟹の体中の水分を放出させ、それを5〜10年物の紹興酒
の壺に13日間(?)漬け込んででき上がる。
少し塩っぱく紹興酒の芳香がたまらなく、それを肴にこの店独自の錫の風情あ
る徳利で、頂く老酒の味は秀逸だ。
中国人も言う蟹と老酒は相性が良いというのは納得だ。
9月蟹のシーズンインするや、日本から来る客の百%は、蟹料理をご所望だ。
当初は我々もそのお相伴に預かりありがたいのだが、その内昼も工場で我々を
「だし」に食卓に蟹が山と積まれ、夜も蟹宴会では初期はよいが、10月や末
期の11月になると、何とか蟹から逃れたく理由を付けては、宴席参加をご遠
慮する様になる。
しかし商社所長ともなれば回避は出来ず、茶漬けを望みながらも、恨めしく蟹
を睨む日々が続くのである。
その蟹宴席の値段だが、当時一人3〜50元程度だった。
最近の上海での蟹宴席の値段を現地駐在の友人に尋ねると、6〜700元位だ
ろうとの事だから、随分高騰したものだ。
勿論レートの違いもあり日本円で比較すると、約2倍程度の値上がりになる。
「新建酒店」もその後大いに繁盛した。
しかし当時は当然国営であり、張ボスはどれだけ儲けたか知らないが何にして
も外貨獲得に貢献した事により表彰された事は聞いたが今は知らない。
3,4年前の消費不況の時の話、上海に出店した東京に本社のある某百貨店の
責任者のおっしゃるのには、百貨店としては月収2千元(日本円25万円位)
以上の客がターゲットだとの事。
しかし人口1200万人の上海で、それをクリヤーする人は5%即ち60万人
に過ぎない。
それは日本の一地方都市の消費人口と変わらない。
その上海に中国資本外資企業等併せて20数店の百貨店がある現状では、採算
的に非常に厳しいとの事。
豊かになった中国人というのは事実として、上海だけ見ても上記の様な収入格
差は、中国全体を考えると、更に問題なく大きい。
トウ小兵の先富論政策は私も理解し、それにより今日の中国の繁栄を見たのだ
が、やはりその格差を縮める事こそ、中国の最大の課題だろう。
未だ庶民にとって高嶺の花の上海蟹を、皆が充分賞味堪能できる様、個人収入
の平均的増収こそ、本当の国力充実であり、国家の発展と私は考えるが如何だ
ろうか。
「貧しきを憂えず、等しからざるを憂う」初訪中の頃、至る所で聞いた言葉が
懐かしく思う。
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<<あとがき>>
「飯を食ったか」これが中国人の挨拶だとは聞かされていましたが、確かに中
国人は「食」を大事にする国民性である事は、理解できます。
数千年の歴史においても、絶えぬ治乱興亡や厳しい自然環境の中、農民を中心
とした庶民は、職でなく食を求めて、食わせてくれる人、食わせてくれる場所
を頼り移動し、そこに新しい王朝が生まれ、又次の王朝に変わり長い歴史を築
き上げてきた為に「食」にこだわるのは当然でしょう。
新中国も毛沢東の大躍進政策の失敗、加えての大飢饉、更に文革による荒廃、
もしあのまま仮に四人組が政権を奪取し、極左政策が続いていたら、国民が飢
餓に苦しむ事は必至で、更に過去の歴史が証明する様な、庶民による革命が起
こっていた事は、否定できないと思います。
それが78年頃あの四川省での自留地実験の成功以来、急速に進んだ農業解放
路線が全国的な多収穫に結びつき、庶民の食は豊かになりました。
その庶民の食の豊かさが、一般経済開放路線の原動力となり、90年代の大発
展期をもたらしたと言って過言でないでしょう。
初訪中時代(78年)は、家庭人の買い物は全て国営市場でその中はうす暗く
全く新鮮さを失った、少品種且つ少量の野菜や果物が並べられ、そうかと思え
ばその季節の収穫品は半ば腐りかかり路上にも溢れていました。
結局輸送も保存もその技術を、一切持たなかった結果による現象でしょう。
「食」が豊かになった中国人の「飯を食ったか」の次の挨拶は、大阪人の様に
「儲かりまっか」に変わっていくのではないかと思う程、私に言わすれば「1
2億総金儲け」にかかっている感じがします。
全く時代は大きく変わりました。
中国人にしてもあの当時、公司で配給される、萎びた白菜や西瓜を腕に抱え、
それに川魚を紐で縛りぶら下げ職場からの帰路に就いた時代を、懐かしく思い
起こす様になったのではないでしょうか。
本編の締めくくりとして、もう一度上海蟹に戻ります。
確かに上海蟹は美味いし、上海と言うより中国を代表する高級食品でしょう。
香港へ行けばもっと高いし、日本では驚く程の高価で、中国人同様庶民では簡
単に手が出ません。
しかしそれ程超美味かと言いますと私は首をひねります。
先日誘われて京都府丹後町へ行きました。
間人(タイザと読みます)という漁村ですが、ここのズワイ蟹は有名でまさに
天下の絶品です。
蟹の刺身、焼き蟹、シャブシャブ、蒸し蟹等のコースは、「どっちの料理ショ
ー」ではありませんが、上海と比べ私は文句無く日本側に軍配を上げます。
第一身が大きくかぶりつけるのは、蟹の指で身をせせる上海蟹の面倒さはあり
ません。
それで決して大味でなく、ともかく美味としか言い様がありません。
果たして上海の人に食べさせればどういうでしょうか?
多分上海蟹に軍配を上げるでしょう。
上海人は誇り高い人種ですから。
遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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