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                            遊 庵 散 人
         ---------- China,20years ago ----------
           殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
         1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
    
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<< まえがき >>

泊まるホテルが無い、街中を車が走らない。
これは都市としての機能麻痺以外何物でもありません。
1980年代の上海が正にその様な状態でした。

依然としてその頃は我々訪問者の宿舎手配は、全て取引公司の手にゆだねられ
た恰好で、上海には私の関係商社の駐在所があり、駐在員の方が常駐している
にかかわらず、我々訪中者の宿舎手配は中国側の斡旋に任せるより、方法はあ
りませんでした。

それは改革解放の路線が、やっと実際的にその一歩を踏み出し、世界中よりの
商談客がぼちぼち増えだし、観光客も少しは街中で見掛ける様になった時代な
のですが、それを受け入れる上海では未だ一つの新築ホテルもなく、依然とし
て解放前の旧式ホテルだけで暫増する訪中者に対応していましたから、忽ち飽
和状態で破綻を来すのは必然であり、その為中国が集中的にコントロールして
いました。

何事もこの国がそうである様に、計画を立前にしていながら、その現実は行き
当たりばったりの、混乱と杜撰さを巻き起こすのは常に良くある事です。
ホテルの混乱状況は当時北京も同様でしたが、未だ北京は80年代半ばには合
弁系ホテルが建ち始まり、上海より先行していました。
やはり首都としてメンツでしょうか。
それを言うと上海人は又「あれは上海で儲けた金で建てた」と必ず言います。

道路については国産車オンリーの時代から輸入車も入りだし、上海に於ける仏
ルノー社とのノックダウンによる新車サンタナも市内を多く走り出しました。
それと共に経済が活況を呈すると共に物流も増え、依然として改造されない市
内は、忽ち道路が飽和状態になり、殆ど全市が渋滞地域で車が進まなくなりま
す。
決して広くない上海市内で、何処へ行くにも所要時間一時間の覚悟は必要でし
た。
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<< 本号の内容 >>

◆◆ 上 海 満 杯 

  海軍兵舎はラッパで起床 

  人と自転車で溢れる道に自動車も加わった
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  海軍兵舎はラッパで起床

1985年頃我々の業務を通じ、取引によるトラブル続きは相変わらずとして
それ以外頭を悩ました大きな日常問題は二つあった。
それは取引先相手公司が手配する宿舎の問題と、国内を移動するに際し使用す
る中国民航の恒常的トラブルにより、当初予定していたスケジュールを絶えず
変更せざるを得ない事だった。
中国民航の問題は後日述べるとして、今回は宿舎の問題にを書きたいと思う。

前書きにも述べた様に、その当時中国経済の大きな変化の中で、徐々に増加し
だした業務訪問者と、スタートし出した観光ツアーの訪問客と、それを受け入
れる中国側の準備と体制のおくれ、つまり需要と供給の極端なアンバランス現
象が、様々な悲喜劇が毎回毎回訪問の都度繰り返された。
今回のレポート前半はその問題に就き私の経験した事、私の周囲で起こり私が
聞いた事実を書いていきたい。

先ず一番悲壮だったのは観光ツアーの連中だ。
我々業務渡航者も同じなのだが、或る程度予め覚悟を決め、仕事の為ならとい
う気持ちもあった。
しかし遊びの目的で訪中してきた人達にとっては、飛んでもない事態に驚いた
だろう。
特に当時のツアーを引率した添乗員の苦労たるや、筆舌に尽くし難い物があっ
たと思う。
もしその添乗員が当時の経験談を書かれたら、大ヒット保証の記事になるはず
だ。

夜遅く上海に到着した観光ツアーの一行が、空港から暗闇の上海市内をひた走
ること二時間近く、やっと到着したホテルは深夜に近い。
疲れ果てた一行は取り敢えず直ぐ割り当てられた部屋で、中国での第一夜を過
ごした。
一行は翌朝指定された時間ロビーに降りてきて驚いた。
周囲は作業服にヘルメットを被った作業員で溢れていた。
そのホテルは日中合弁の宝山製鉄所の外人作業員用宿舎だった。

或るツアーは上海空港より市内とは正反対の方向へ、これも当時車で二時間近
く走った金山工業区の宿舎に泊められる等は日常茶飯事だった。
特筆すべき出来事は北京で郊外にある日中友好病院の病室に入れられた観光者
も多くいた、その場合軽病者用病室より、重病者用病室の方が設備が良くて好
評だったとか、この事は当時の日本の一般紙にも報道されたから、ご記憶の方
もいらっしゃると思う。

しかしこれでも未だ良い方で、当時国内便のフライトは遅れるのは普通であり
キャンセルはこれも又当たり前だった。
当日夜のフライトがキャンセルになり、翌朝発に変更されても、その夜の宿泊
場所について中国民航側は、当時一切責任を負わない。
通常でも予約困難なホテルを、急に多人数手配してもとれる筈がない。
結局冷暖房の切れた、悪臭漂う空港待合室の椅子で一夜を明かす事になる。

我々の業務出張の場合も状況は変わらない。
空港で公司担当者と会う。
これは我々を出迎えの意味もあるが、当時相変わらず日本よりハンドキャリー
してくる大量の原料に対し、彼等公司がその通関手続きをする目的もあるわけ
だ。
空港を後に市内へ向かう時、「今度のホテルは何処?」と尋ねる。
大抵答えは「今公司で手配中で未定です」予告通りの訪問なのにどうしてもっ
と早く手配できないのか。

公司でその日の業務終了の頃、
「取り敢えず今夜はここで泊まって下さい。明日は又他を探します」
その様な状態で上海7泊の間、5ヶ所のホテルを転々と、その都度多くの荷物
と共に移動させられた事もある。
その間ある時は未完成の郷鎮企業設立の、まだ部屋の壁も風呂場の床も乾きき
らず、悪臭に満ちた部屋で接客サービスも全然不慣れな、不快極まりないホテ
ルに有無を言わせず泊らされた。

そうかと思えばその翌日は、先号に書いた解放前英国人が建てた素晴らしい豪
邸の改造ホテルを指定された。
この豪邸の部屋は4室続きのスィートで広い寝室、浴室の外、ダイニングや豪
華なソファーセットのある応接室等、それに外部は一面の芝生で、結構この上
ないのだが、そんな部屋で一人泊まって一体何をすればよいのだろう。
否応なしでこの様に天と地とも違うホテルを転々とさせられた。

或る時公司担当者は「今回は少し辛抱下さい」と言い、車は黄浦江沿いの道を
ど河口へ向かう。
方向からして前記した宝山製鉄所の作業員ホテルかと思っていたらどうも違う
らしい。
着いた所は“解放軍海軍基地”である。
] これも以前紹介した上海より出る黄浦江遊覧船ツアーの際、揚子江へ出る手
前に、常に玩具の様な潜水艦数隻が停泊しているのが見える、あの海軍基地内
の宿舎であった。

さすが解放軍と我々宿舎とは隔離されている様だが、一般的にその基地宿舎は
中近東よりの出稼ぎ労働者用宿舎として使用されているらしい。
夜になればそれら作業員が一斉に宿舎へ戻ってきた。
当然基地内宿舎といえば凡そ飾り気もなく、部屋も食堂も建物もその周囲も全
てホテルの雰囲気はない。
加えて周囲の宿泊客は全てが中近東の男性ともなれば、もう只寝る以外どうす
る術もない状態だ。

そうして朝5時半ラッパと共に、スピーカー一杯に勇壮な軍歌が鳴り響き叩き
起こされる。
こんなホテルは世界にあるだろうか。
私は我慢できても、たまたまその出張には同伴の女性デザイナーも同行してお
り、何とか彼女だけでも宿舎を変更させたいと苦労し、結局関係商社の駐在員
宅に無理を言い、彼女だけ宿泊のお世話を頼んだ。
そうして私は結局3泊の解放軍入隊生活を経験した事になった。

北京では春節休暇で学生が故郷へ帰省中の大学の学生寮に泊まらされた者もい
た。
食事は学生食堂だが、中国の学生食堂は値は安いが飯の中に小石の混じったい
わゆるジャリ飯で有名だ。
こう言う時はたまたま日本より持参したカップラーメンにどれほど感謝した事
か。
今では中国でも様々な品種が揃うインスタント食品も当時未だ中国にはなく、
我々がそれを作り食べる周りは黒山の人だかりだった。

某有名飯店のロビーでの出来事。独りの西洋人が怒りまくっている。
彼の手には同ホテルの予約受付の確認レターが握られている。
しかしフロントは「部屋はない」
しかし「必要なら市外のホテルを紹介する」とのホテルの言い分だ。

男はいきなりフロントで服を脱ぎだして「ここで寝る」と言う。
大慌ての服務員は幹部に連絡、とりあえず奥のオフイスに案内した。
翌朝食事をとる彼を食堂で見た。
強引が奏効したらしい。

よく幕末の歴史小説を読んでいると、当時の西洋諸国は東洋人に対し先ず恫喝
する事が事態を有利に解決する手段だと考えていたと述べられているが、今で
も本質的にその様に考えているのだろうか。
当時中国ではよ「第三世界との連帯」とスローガンを掲げていたが、中国人は
一般的に白色人種にはコンプレックスを持っており、それが時に反動となって
現れる気もする。

日本人に対する感情も、過去の不幸な時代に対する感情はともかく、人間的に
信不信の振幅は大きい。
言わば一寸特殊な感情を持っている。
しかし中国周辺のアジア人や中近東の人々に対しては、歴史的な朝貢民族的の
名残か、伝統的な中華思想が消えないのか、彼らに対し優越的態度を示す。
黒人種族に対しても、明らかにそれは見られ、満室のホテルのロビーで寝かさ
れている彼らを幾度か見た。

北京では長城飯店、京倫飯店等の外資系ホテルが85年頃誕生したが、上海に
ヒルトン、花園飯店等の外資系ホテルの誕生は、80年代末から90年代初め
だから、上海では殆ど80年代は外人専用ホテルとしては、今日私がレポート
した厳しいホテル事情が続いた。
その間急場しのぎで国内人用ホテルの数フロアーだけを、急遽外人用に改装し
対応する処置等はとられたが所詮焼け石に水だった。

  人と自転車で溢れる道に自動車も加わった 

当時は未だ中国人個人の車の所有は認なかった。
又個人では車を買う収入から未だ程遠いレベルだった。
ただ80年代も進み、経済の改革開放により、合弁企業や郷鎮企業経営が進み
国営公司も未だ表面盛大な時代だっただけにそれら公司企業使用の車は急増し
た。
それは物資を運ぶ為の貨物車や、人や物を運ぶリムジンであり、更に公司幹部
の乗用車として、上海の街に新車が急増していった。

その車の通る道路は、依然として解放後何ら改造されないままの一世紀前の旧
市街路である。
その道は通常何処も車道まで人が溢れ、自転車が道幅一杯流れる道路を急増し
た自動車が通れる筈がない。
かくして市内すべての道で渋滞が発生し、車は立ち往生を繰り返す。
その結果市内の移動はどんな短距離であれ、1時間が必要だった。
これは朝から夕まで2ヶ所を回ると3時間の移動時間が必要だ。

中国人の使用するタクシーは無かった。
例えあっても彼らの収入ではとても乗れない訳だし、ただ公司や役所のお偉方
は公用車を自家用車として運転手付きで自由に使った。
当時流しのタクシーも全然無かった。
我々も車の必要なときはタクシー公司(車隊)に電話し依頼するか、ホテル玄
関の車隊カウンターに依頼するより方法は無かった。
早朝ホテルを出発する際は前夜よりの予約が必要だった。

当時殆ど何も無かった様な浦東だが、我々は幾つかの工場と関係があり、度々
黄浦江を渡った。
当時は川を渡るトンネルは1本で、それを利用するか、フェリーで渡るかのど
ちらかだが、どちらを選ぶにしてもかなりの待ち時間が必要で、我々は優先的
に通らせてくれたものの、あの広くも無い川を渡るのに、一般トラック等は数
時間待ちが普通だった。
我々も当時浦東へ行くのは丸一日仕事だった。

同行したお客と外部のホテルで食事を取り、我々のホテルへ帰る場合、丁度時
間的にタクシー公司でも非常に車も少なく、ましてやそれが急に雨が降り出し
た時等、一寸やそこらで車は来てくれそうに無い。
その内我々同様タクシーを呼んだ客達がフロントに溢れ出してくる。
思い出した様な間隔でやってくるタクシーに対し、配車係は巧みに誘導するの
だが、同一方向の客には相乗乗車を指示する。

合い身互いでそれは了承するのだが、タクシー料金はきっちりと乗ったグルー
プ毎に正規運賃を請求する。
つまり同一地点より、同一行き先へ3組の乗客が相乗りをした場合、運賃は各
組からそれぞれ正規運賃を取る訳だから、車隊としては3倍の収入を得る事に
なる。
そういう抜け目無さというか、ちゃっかりした行為色々な所で見られたが、そ
の個人が利益を貪る様な行為は未だ多くなかった。

当時のタクシーは、レシートだけはこちらが要らないと言っても必ず発行して
くれた。
それもカーボン紙のコピー用になった規定レシートに出発点、到着点、キロ数
時間迄書くのだから、急ぐ時にはこちらがイライラする。
ただ手書きで書かれたが判じ難く、又彼ら流に省略された表現になっている為
帰国後の経費清算時苦労したのも思い出だ。
当時未だ悪意なごまかし等は少ない時代だった様だ。

この様に当時の上海は、宿泊場所もままならず、市内外への行動も思うに任せ
ず、全く都市機能を失った様な印象が深かった。
しかし反面様々な宿舎に泊まらされたり、渋滞する地上をのろのろと走り、時
としては当てにならぬ車に乗らず、かなりの距離を歩いて通った街だけに、あ
の独特な猥雑さや、民衆の生活に触た魅力も忘れがたく、高速を通って走る現
代より、当時の懐かしさが感慨深い。
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<<あとがき>>

今回は1980年代におめる、殆ど都市機能を麻痺した様な状態での上海に就
いて述べました。
最近当時共に苦労した仲間達や、お世話になった方々に、上海での思い出を尋
ねましたら、仕事に就いてはそれぞれの方の御苦心談はありましたが、共通し
ている事はやはりホテルの問題と、車の問題でした。
そうしてそれらは全て中国側が握っているだけに我々には如何共できない苛立
ちがありました。

やがて上海も80年代末期、例の天安門事件以降、既にインフラ関係がかなり
整備された深センを中心にした南方経済解放区や、都市計画が先行していた北
京の後を追う形で、上海の大都市改造が始まります。
それは上海閥と称される江沢民、朱熔基等の北京中央での権力基盤の安定や、
トウ小兵の南順講話の大号令もあって、浦東開発という国家プロジェクトと併
せ、上海は驚異的改革期を迎えます。

今や上海は国際水準の最高級ホテルから、お手軽で快適なビジネスホテルまで
各種様々な、それもいずれも高層ビルで、上海来訪のお客を待ち構えておりま
す。 お客は好みのホテルを選び放題で選び、上海の夜をエンジョイしている
様です。
完全に需給のバランスが逆転し、表向き200 150ドルと言うそれこそ国
際的宿泊代もその筋に依頼すれば半値以下でも可能とか。何にしても夢物語で
す。

タクシーは殆どのホテルの玄関前には、空車が列をなして待機しています。
乗ればすぐ高速道路に上がり目的地まで殆ど短時間で運んでくれます。
浦東への往来も90年代に入り高速道路用と一般道路用を併せ橋が4本、トン
ネルも2本となり、その至便さは昔日とは比較になりません。
それでもまだ交通渋滞の完全解消とは行かないのは、急激な90年代上海の経
済発展の凄さを示している様です。

お詫びと訂正

先号「まえがき」の、外灘風景を描いた文章で上海市政府、上海共産党委員会
が外灘の元香港上海銀行ビルに入居している様に述べましたが、既にその双方
ともかなり以前、人民公園内に建築した新ビルに移転している事が判明しまし
た。 お読み頂いた何人かの方より、この件に就きご指摘のメールを頂戴いた
しました。
ここにお詫びと修正を申し上げると共に、今後のご指導もお願い致します次第
です。

                           遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
紅い中国の時代の目次に戻ります







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