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                            遊 庵 散 人
         ---------- China,20years ago ----------
           殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
         1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
    
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<< まえがき >>

外灘(ワイタン)の黄浦江公園の側より双胴の遊覧船が出ます。
約一時間黄浦江を下り、一旦揚子江に出てその周辺を回遊し、又黄浦江を遡り
元の波止場へ戻ります。

大して面白くもない観光ですが、揚子江を見ていない人にとっては、あの凄い
海かと見まごう川幅は一見の価値はあるでしょう。
しかし帰路は皆退屈するので船中でマジックショー等のサービスがあります。
私も何度かお客を案内しました。

しかし私がこの観光船で最も興味有るのは、当時未だ多く見られたボロボロの
巨大な帆を張ったジャンクにすれ違う瞬間と、やはり船が波止場へ着船する少
し前、外灘に立ち並ぶ、戦前は正に東洋の摩天楼と呼ばれた堂々たるビル街が
船の前面に現れだした瞬間です。
航空輸送の殆ど無かった戦前迄、数多くの日本人が海路ここへ辿り着き、今と
全く同じ光景を見て果たして何を感じたのでしょうか。

そこで抑圧された中国民衆を見、日本に警鐘を鳴らした人達。
そこに西洋文明を見て、音楽に青春をかけた若者。
不逞な野望を抱いて、大陸侵略を志した男達。
それら様々の日本人は、色々な考えを抱いて、この景色を先ず目にした正に大
陸の玄関口だったのだと思う時、昭和史の主に不幸な出来事とオーバーラップ
してきます。
それは決して紅橋飛行場に降り立った時受ける感慨と全く異質な物の筈です。

現在上海市政府・上海共産党委員会の入る堂々とした元香港上海銀行ビル・時
計台のそびえる上海税関ビル。
和平飯店の三角錐の青屋根は上海に君臨した英国サッスーン財閥が根城にした
キャセイホテル・ガーデンブリッジの正面にそびえる上海大厦は日本の諜報機
関として有名な児玉機関がこのビルの2フロアーを抑えており戦前の上海にか
かわった人はブロマンと称していたブロードウエィマンション。

これら外灘に立ち並ぶ建物は、19世紀末から20世紀初頭、ここを植民地と
していた主に英仏両国が、当時欧州で風靡したアールヌーボー様式の建築、美
術の粋を、本国に負けじとこの地に建設した、正に世界的にも価値ある歴史的
建造群です。
既にその間争乱の一世紀が経過。現在もその外観を保つのは嬉しい事ですが、
その間殆ど無修理で使用し、摩滅した大理石の階段を見るのは痛々しい限りで
す。

日本人が宿泊者の殆どを占める花園飯店ガーデンホテルはホテルオークラが経
営する、上海でも最高級ホテルの一つです。
その一角に解放前のフランスクラブが、上手くホテルの内部に取り込んで利用
され、昔の栄華の跡を見ることができます。
このホテルの利用者の方でも余りその事をお気づきの方は、殆ど無いと思いま
す。 もし御興味をお持ちでしたら、ホテルの玄関を入りそのまま右へお進み
下さい。

突き当たりが茂名南路に面した元クラブの玄関で、現在そこからの出入りは出
来ません。
しかしそこの正面は真に優美で、左右両側に弧を描いた大理石の石段が2階へ
通じて居ますが、そこから天井に到る装飾は正にアールヌーボー美術の象徴で
す。
特に階段を上がりきった左右の壁面に刻まれたビーナス像は白眉です。
当然文革時にはその上を漆喰で塗り固め隠蔽し、紅衛兵達の破壊から防いだそ
うです。

恐らく命がけでその様な対策をして、文化財を守った無名の中国人には頭が下
がる思いがします。
それに反したまたまそのクラブ(当時錦江クラブと称していました)の2階の
1室に、私のお世話になっていた商社のオフイスがあり、毎度その玄関から出
入りし、セーターの一杯つまったケースをその美の殿堂の大理石の階段を引っ
張り上げたり蹴落としたりしていたのですから、まったくお恥ずかしい限りで
した。
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<< 本号の内容 >>

◆◆ 上海の夜は何もない夜です 

  村田英雄先生のお成り 

  上海浮生記(上海バンスキング)
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  村田英雄先生のお成り

現在上海に在住される日本人の方の概数を上海在住の知人に調べてもらった。
正確な所は不明だがとの前置きで、次の様な回答が寄せられた。
正式駐在員の約1万を含め常時滞在者総数約3万人程度ではないかというのが
その回答だった。

家族帯同による所帯数約3千、明確なのは日本人学校の生徒数、小中学合せて
計520名。
これが推定的現状であると言う。
勿論一過性の旅行者は別である。

1970年代末、初めて海外企業の駐在員事務所開設が正式に許可されたばか
りの頃。
日本総合商社上海駐在員も、各社せいぜい邦人3ー5名であり、当時の上海在
留邦人は、駐在技術者を併せても3百人程度だった。
ましてや家族帯同者は少なく30家族程に過ぎなかった。
それは丁度現在の1%に相当する。だから全く呉越同舟で、商社やその他同業
者間も極めてオープンなお付き合いがあったと思う。

日本航空ですら所長以下5名程の駐在で、所長ご自身がカウンター業務や手荷
物の処理、それに機の乗降の際には乗降客出入り口で乗客に挨拶迄して居られ
たのを思い出す。
当時未だ乗客の殆どが限られた駐在員やリピーターで顔見知りの為、「お帰り
は何時?」とか「次のお越し?」等話し合う様な親密感があったり、座席に余
裕があると、チケットそのままでグレードアップサービスまで受けられた。

私が中国20余年の業務や在中生活で、最も深い恩恵を受けた方が居られる。
それは私の業務上関係のあった総合商社の上海事務所所長と、その家族の皆様
である。
その御家族はご夫婦と当時未だ小学校低学年の3人の子供達だった。
その子供達も今は成人され、その成長過程において身につけられた国際的経験
を活かし、皆さんそれぞれの分野で立派に活躍をして居られるのは私には嬉し
い限りだ。

当時の在留邦人の総数では、とても日本人学校設立は無理である。
所長の子供達も止む無く現地人小学校へ通った。言葉はまるで判らない上に、
授業は正式な中国語(普通語)で受けるのだが、休み時間や放課後即ち教室を
一歩出ると、友達同士は彼らが家庭で使う上海語で普通語とはまるで違う。
しかしこの厄介な問題も、お互いの子供達には余り関係ない様で、自然に上手
くとけ込める様だ。

所長の子供も兄の男児二人は勇躍登校したが、末娘は一旦登校したものの、子
供心にも受けたカルチャーショックで翌日より登校拒否。
何分冬だというのに暖房もなく、ガラス窓は破れそれをカバーする為カレンダ
ーをはられた教室。
教科書は新聞紙大の印刷物を生徒が切り取り、折り曲げ、糊で貼りつけて各自
が作る始末。
しかし、兄達の楽しげな毎日の登校、学校生活を聞き1週間後大決意で登校を
再開。

全然余談になるがネパールのカトマンズに私の友人が居る。
主人は現地人のインテリで日本語は話す。
夫人は日本人で結婚10年を過ぎネパール語は極めて堪能だ。
小学校低学年の子供が3人おり、その全てがネパール語、ネワール(部族)語、
インド語、英語、日本語を全く自然に何の抵抗も無く話す。
ネパールの休暇を利用し千葉の房総に住む祖父の家に戻り、翌日から元気に近
くの小学校に登校する。

もう一組の中国人夫婦は小学校4年の女児がおり、殆どの生活は日本だが時折
母親の都合で北京へ戻る。
その子も日中両国の小学校へ通う身だが、全然問題なく両校での授業や、友達
との愉快な遊びの中に加わっている。
日本人の語学教育が色々取りざたされている現在、やはり今の英語教育も基本
的に改訂する必要ありと思う。
中国でも都会の小学校では3年から英語を正式カリキュラムに入れている。

その後領事館や在留邦人の文部省への働きかけで、ようやく領事館宿舎に日本
語補修校が誕生した。
それにより所長の子供達も、午前は現地小学校で学び、午後は日本語補習校に
通った。
しかし設立時補修校の生徒数僅か5名。
内3名が所長の子供だった。
それでも暖房もあり、ピカピカの教科書やドリルを手にした子供たちは大満足
だった。
それに文部省より派遣された先生が極めて優秀な先生だった。

そんな補修校でもと言ったら失礼だが、長野県より赴任のご夫婦二人の先生は
日本では文部省のカリキュラムに少しでも外れると指弾される日本での教育よ
り、自分の教育理念を徹底して海外の日本人の子供に実践する為、志願してこ
られた先生であり、毎日欠かす事無く子供の在学中の出来事を、全家庭へ連絡
したり、同じ様な海外校との生徒作品の交流等、実に指導信念を持った方だっ
たと聞いた。

80年代早々の上海は在留邦人3〜4百人。
これでは日本料理屋を作っても経営が成り立たない。
当時一時期上海で肝炎が異常流行し、北京へ行っても上海から来たと言えば、
ホテル、レストランも敬遠された。
何れにせよ当時の「上海の夜は何もない夜」だった。しかし日本からの来客は
徐々に増えだした。
勿論日本より来る商用の客で、韓台の様に夜の楽しみを期待する客は居なかっ
たが、やはり寂しい。

そこで所長は考え中国側と交渉した。
「せめて日本からの来客をもてなせるスペースのある宿舎を貸せ」
中国側もその希望に応じ、向かい合わせの2軒の提示があった。
場所は日、米、仏の領事館に近い東京で言えば麹町といえる一等場所。
一軒は土地3千平米、向かいは2,5千平米、双方ともその中に素晴らしい7〜
8百平米の2階建て洋館が建ち、後は所々樹木がしげり残りは整備された芝生
である。

勿論言わずと知れた解放前の英か仏人の住んでいた接収居宅跡だ。
その内の一軒には文革時4人組の一人、張春僑が愛人と共に住んでいた縁の邸
宅で、裁判を放映するTV画面でも時々出てきた所だという。
更に条件として門番3名(24時間勤務)料理人2名、庭師1名、それに服務
員2名がつく。
これらの従業員費まで入れて2軒の借り賃ハウマッチ。
答えは日本円で月100万円。(60万円と40万円)

結局2軒を借り受け、1軒は所長1家の住宅と来客接待用、もう1軒は駐在員
4名の宿舎とした。
お陰で私も良くお世話になり泊めて頂いたが、私が泊まる場合でも服務員が来
て、宿泊カードを記入しろと言う。
結局中国従業員特に服務員2名は党員で、彼等が居ると居ないとでは他の者の
態度が違う。
門番は外からの侵入より居住者を管理する役だ。
そうして週1回彼等は本部でその週の出来事を報告する。

しかしその迎賓館のお陰で上海第1号の、ビデオとカラオケセットが入った。
所長が自らカラオケセットを日本で購入し、上海空港に持ち込んだ際税関員は
それが何か全く理解できなかった。
所長は「電子音楽伴奏機械」と漢字で書いたが納得してもらえず、その内或る
男はマイクを見て“これは台湾向けの諜報活動機械では無いかとの疑いまで出
て、結局「暫く税関に留め置く」との事で、その日は終わった。

約1ヶ月後税関より電話があり、持って行くから用途を説明しろとの事で2名
の税関員が来宅した。
結果は納得したのだがたまたまあった山口百恵の「ファイナルコンサート」の
ビデオを見つけ、是非これを見たいという。
当時中国での彼女の人気は、まさに表現の仕方がない程の異常フィーバーで、
私も訪中の度テープを持参しプレゼントしたが、税関氏にすればビデオは始め
てで仕事を忘れ異常興奮した。

これでカラオケは上手く通関出来たぞと喜んだのも束の間、後日ちゃっかり百
%の輸入課税通知が来た。
全く高いカラオケだ。
しかしそれが縁で商売についての来客だけでなく、思わぬ人達が来訪し私もそ
のお相伴に接する事になる。
1983年頃だろうか、演歌界の大御所村田英雄氏が上海で公演した。
但し当時は営利的な公演でなく、日本側はボランティアとして、日中親善を目
的とした公演だった。

さて大盛況の公演も無事終了し食事も終わり、さて寝るに早いが案内する所と
て全くない。
当然この公演を企画した宣伝会社の社員も居るのだが、彼も全く不案内と言う
より、実際何処も気分良く更に一杯と言う場所がないのだから仕方がない。
結局所長宅に急に電話が掛かり、村田先生を案内するのでウィスキーとカラオ
ケでもお願いすると言う依頼が突然入った。
我々も驚くと同時に緊張してお待ちした。

村田氏の今回の公演を引き受けたのは氏にはやはり昔、中国に対する深い思い
入れがある事を始めて知った。
突然の来訪に村田氏の好きな日本酒を用意するまもなく、あり合わせのウィス
キーで辛抱願い、気さくにチビチビやってもらいながら、氏から聞いた苦労話
はやはり大物ならではの幼い頃の厳しい辛い経験談であった。
氏が浪曲界の出身である事は殆どの方は御存知であろう。
勿論戦争中の話である。

真冬の旧満州牡丹江近くの雪原、師匠のお供で慰問興業に来た村田少年は、
腰迄浸かる雪道を、先を進む師匠に遅れまいと、そうして師匠の荷物、舞台道
具を濡らすまい、落とすまいと必至に両手で支え、雪道をあえぎながら、その
苦しみに、寒さに涙しながら進んだ思い出を、しみじみ語ると共に、その苦労
で私の今日がある。
その自分を鍛えてくれた中国への恩返しに今回の公演を引き受けたと語った。

我々の期待したカラオケは、歌って貰えなかったが、酔っぱらった同行者が村
田氏の持ち歌を歌った。
ウイスキーをなめながら、目を瞑り聞いていた氏は、歌い終わった彼に、ニッ
コリと「もうチョット勉強だね」と言われ一座大爆笑。
一応ご機嫌でお帰り頂いた。

これを機にやはり上海公演した牧村三恵子さん(彼女は炭坑夫の娘と言う事で
大もて)や喜太郎氏(NHKシルクロードの作曲者)の訪問があった。

当時の上海の夜は依然暗黒の世界であり、一軒の憩いの場所もなく、大御所村
田英雄氏さえ行く所もなく、縁もゆかりもない一商社事務所長の自宅へ、来て
頂き持て余す時間を過ごしてもらった等、今の上海を訪問する人に考えられる
だろうか。
既に銀座に近い南京路のネオンの洪水、聞く所では歌舞伎町顔負けの「ノーパ
ンシャブシャブ」まで出現しているという現代の上海からは想像外の世界だっ
た。
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  上海浮生記(上海バンスキング)

ある朝突然所長宅の豪邸の一角が、大音響の下に崩れ落ちた、その2階の崩落
部分は、子供の寝室であり、幸いにも登校中で不在であった為、難を免れたが
もしこれが就眠中であったとすれば、正に大惨事だった。
服務員が飛んできて「中に入るな」と言う。
「馬鹿をいうな」と強引に部屋に入ると、厚さ20cmもあるコンクリートの
天井が見事にベッドの上に落下している。
身も凍る恐怖の場面だった。

服務員は更に声を荒げ「中を見るな」と言った崩落した天井裏には、盗聴用ら
しき電話線が見られた。
所長の厳しいクレームに対しても「何分古い建物なので仕方がない」と言い訳
をするばかりで、一切謝罪もしない。
取り敢えず修理の間代わりの邸宅を提供すると言う事で、世話してくれたのは
これも見事な豪邸だった。
聞けば、清朝末期の中国を支配した実力者、李鴻章の上海の愛人宅であったと
か。

結局元の邸宅は英国領事館が入る事になり、更に向かいも東独領事館用として
接収され、上海での豪邸合宿生活は終わり、各自それぞれマンションを借りそ
こでの生活が始まった。
短期間であったとは言えあの豪邸宿泊は忘れられない。
しかし危険と隣り合わせである事に違いなく、確かに約百年基本的改修なしで
使用しているのだから、問題が起こらない方が不思議だ。
伝統誇る有名ホテルすら同じである。

日本の某商社の所長は、格式ある有名ホテルの一室で、単身生活をしておられ
た。
暑い日仕事より戻り先ずバスで汗を流し、その後冷蔵庫より冷えたビールを出
し、先ず一気に喉を潤されたその直後大音響がした。
所長はとっさに又エレベーターが落ちたなと思いながら、更に一杯飲まれた直
後、裏の浴室よりもうもうと煙が舞い込んで来た。
崩落したのは浴室の天井、それこそ裸で惨死を免れた一瞬だった。

現在では国際級の洋風豪華ホテルが林立状態で、世界からの商用、遊覧の客に
充分なサービスを提供している。
これらホテルの利用も結構だが、現在でも租借地時代のホテル、代表される和
平飯店、錦江飯店、上海大厦等の古典的ホテル。
又は広大な敷地に点在する、嘗ての租借地支配者達の豪華邸宅をホテルに利用
したリッチ感溢れる上海ならではの宿泊もお勧めする。
もう今は天井の崩落もないだろう。

例えば興国賓館、瑞金賓館,丁香花園、紅橋迎賓館等これらは現在何れも市内
中心地に入るが、昔は静かな郊外の農場地帯であり、英国人が好むファームハ
ウスとして建てた名残であろう。
様々な装飾を施した部屋は広々とし、天井は高く、通常のダブルを凌ぐ大きな
ベッド、広いバスルーム、それらが全て一戸建てで周囲はすべて芝生という、
洋画のクラシックな場面を体験させてくれる貴重なホテルだ。

日本でも大ヒットした映画「上海バンスキング」は、勿論上海のロケが多く、
その為ロケ隊は大挙して上海を訪れた。
私の関係商社の駐在員の中に、熱狂的な主演女優ファンがおり、ロケ隊の来訪
前から仕事は手につかず、落ち着かない毎日を過ごす。
そこは商社マン情報入手に抜かりはない。
ロケ隊のスケジュールから、宿舎のホテルまで確認できた。
宿舎は錦江飯店正に我々の商社オフイスの隣である。

彼の魂胆は村田大師匠と同様、我々の客間へその麗姿をお運び願い、そうして
共に杯を交わし、一緒にデュエット出来れば、無上の喜びと夢想したが、結果
はロケ先への追っかけでやっとサインをもらうに止まった。
後で見たゴシップ欄では当時同映画の監督と、夜も忙しくお付き合い中だった
との事。
悔し紛れに彼女の泊まった部屋を聞き出し、後日そこに一人泊まり妄想に耽っ
たとか。
その真実は知らない。

この映画は程なく中国でも上映された。勿論中国語での吹き替えで、そうして
私が日本で見たオリジナルに比べ、きわどいシーンは全てカット。
それでも観衆は大いに笑った。
その中国の題名は「上海浮生記」。
「浮生」とは「はかない人生」。
さすが漢字の国である。

何もない当時の上海で、そこに駐在した人達は、昼間は常に厳しい商談の激務
に追われ、夜は「浮生」的な毎日を送っていたのである。
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<<あとがき>>

この項で触れねばならない問題があります。
夜毎外灘和平飯店で開かれる「ジャズ演奏会」です。
正に上海バンスキングの生き証人的価値あるジャズバンドです。
何度も申す様に、全く何もなかった当時の上海の夜に、このバンドだけは80
年早々に演奏を開始しました。
そのメンバーの平均年齢推定60歳、そうあの映画上海バンスキングの主人公
シローやバクマツと同年配の同時代を生きた人々なのです。

このジャズメンは戦前モダンジャズに心酔し、その世界に飛び込んだ若者が、
時代の歯車に押し潰され、40年間楽器も手に出来なかったその過去を取り戻
す様に、更に40年ぶりに楽器を持てる限りない喜悦に心踊らす様に、懸命に
演奏する彼等老ジャズメンに、我々は心より拍手を送りました。
上海宿泊時殆ど夜毎通い、たまにビールの差し入れ等する内、親しくなり気安
く挨拶を交わし会う仲になりました。

会場は1階バールームの一角。
シックな格調を持つ薄暗い部屋。客席も簡素なテーブルと椅子。
その中で彼等の奏でるジャズサウンドを最も感激的に喜んだのは、アメリカの
観光客でした。
殆ど老夫婦の彼等にとって、正にそれは自分らの青春時代の熱い思い出のサウ
ンドでした。
僅かしかない中央のボールスペースは忽ち彼等老カップルのダンスで埋まりま
した。
そうして1曲終わる毎に大変な拍手です。

私は何時もこれらを見てとても日本人は、人生を心よりエンジョイする能力は
彼等にはとてもかなわないと言う事を、改めて知らしめられた気がします。
エンジョイとは罪悪である様な感覚はもう我々の時代で終わりにしたいもので
す。

オールドジャズンの生き生きとした演奏、それにあわせて心より愉しそうに踊
る老夫婦達。
今宵もこの一角だけは、グレンミラーの甘美なメロディーが、外灘の夜に流れ
ます。

                           遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
紅い中国の時代の目次に戻ります







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