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                            遊 庵 散 人
         ---------- China,20years ago ----------
           殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
         1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
    
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<< まえがき >>

上海の街を朝車で走りますと、市内の住宅街のどの家の前にも、陽の当たる方
向へ口を向けた、紅殻色に塗った小さい樽の様な容器を、日干ししているのを
目にします。
朝の遅い家ではその時間になり、主婦が表で水を掛けながら、樽の内部をささ
ら(竹を細かく割りそれを束ねて飯器等を洗う物)の様なもので、それを洗っ
ている風景もよく見掛けます。
これは馬桶(馬の飼い葉桶)と称されているものです。

当然上海の街中の家々で馬を飼っている筈が無く、此の馬桶は各家の屋内トイ
レとして使用されています。
それを朝一番に外へ出し清掃し、乾燥さすのが主婦の朝の仕事です。
以前は上海の目抜き通りの住宅の前には必ず見られたのが上海の風物詩(?)
でしたが、今は上海市街地大改造で、それら古い住宅地は壊され、周辺地のト
イレ付きアパートへ強制移住されており、その為馬桶の歴史も消たでしょう。

今でも残るとすればオールドシャンハイと言われる、名勝豫園近くの住宅街で
しょう。
市内の道路が全て直線に走っている中で、この古上海街を取り囲む人民路と中
華路は円形で繋がっています。
これは昔の上海城の城壁の跡を道路にした為です。
その城も明末倭寇の侵攻に備えて造られたそうですから、日本とは無縁ではな
さそうです。
但し倭寇侵攻が全て日本人の仕業でない事は陳舜臣氏も書いています。

この界隈の民家は迷路の様な狭隘な道路の左右の陋屋に、スシ詰めで住む上海
人の生の生活が、道路から失礼ながら内部奥まで覗き見られ、非常に興味があ
ります。
更に食事時間にもなれば、狭い屋内より道路に食卓を持ち出し、楽しげに一家
で食事する風景も見られます。
大抵4、5品以上の料理が並ぶ彼等の食卓は、我々日本人の夕食より豪勢さを
思わすのは、やはり食の国の民の生活でしょう。

兎小屋と欧米より揶揄された、日本の住宅事情は確かにその通りでしょうが、
では80年代市街地改造前の、上海の一般住宅事情は何と形容すればよいので
しょうか。
90年代に入り本格的に上海の都市改造が始まり、先ず延安路の上海博物館の
周辺より全くダイナミックに大型機械で、旧住宅群の破砕に取りかかった時、
それを見た商社員は、丸で蜂の巣を壊している様だと表現したのを覚えていま
す。

それは壊しても壊してもその断面は、同じ様な小さな穴蔵を思わす立体的住居
跡の連続でした。
この様な大変な住環境でありながら、それでもなお上海人はそこに住むのを誇
りとし、他の地方人は何とか厳しい法の目をくぐってでも、上海に潜入し生活
することを模索します。
しかし当時(80年代中頃まで)の中国には今では想像できない程、人間の移
動は全くの自由がないほど厳しく規制されていました。

今回は社会主義中国が誕生し、その後の中国人の生活の中で、先ず各個人が、
そうして居住が、更にその活動が如何に制限され、統制されたか、我々の実感
を通して述べていきたいと思います。
そうしてその厳しさは本格的には80年代中頃より始まった経済の本格的開放
に伴い、やむなく人口移動緩和が認められ、やがて80年代末「民工潮」とい
われた出稼ぎブームの出現により、新しい時代に入ります。
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<< 本号の内容 >>

◆◆ 人間管理統制

  档 案 と 単 位

  街道委員会と居民委
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  档案と単位

「档案…ダンアン」という言葉を御存知だろうか。

簡単に言えば日本の履歴書の様な物だが、一口でいってそんな生易しい物では
ない。
表に「档案」と墨書した専用紙ばさみは、どの公司でも適当に他の目的で使用
しているから、何度もお目に掛かったが、本物の档案の入った中身はお目に掛
かった事はない。
これは当然で本人も自分の档案の内容を見る事は、余程特別のコネが無い限り
不可能だそうだ。

档案とはその当人の経歴書と言ったが、当然当人の民族、出生地、生年月日が
書かれているのだが、次ぎに出身家庭(出身階級)の欄がある。
ここには両親や一族の職業や、特に思想面の問題が有れば細かく記載される。
その中で親の職業として党員、解放軍、農民、工員等なら良いが、反革命者、
地主、資産家等と書かれていたら、もうそれだけでその当人の一生は浮かばれ
る事はないといって良い。

当人の事については、中学時代からの学校の成績や思想問題等が記述され、中
学卒業と同時に、国の指示により職業に就く者は、以後その職場へ档案は回さ
れ、当人の全く見知らぬ内に、その職場に於ける勤務評価や思想面の問題も記
述され、更には友人関係や特に海外人との特別な関係まで記載されていくそう
だ。
結果、その档案は下記のようなやり方で当人が死ぬまで一生つきまとうことと
なっている。
その極秘の档案を管理しているのが、自分の職場の「単位…ダンウェイ」であ
る。

私が某公司へ電話し「Aを呼んでくれ」と言う。
すると先方は「お前は誰だ?」とは聞かない。
殆ど「お前は何処の単位だ?」と聞いた上で電話を繋ぐ。
つまり中国人にとって「単位」がその者の存在保証となる訳だ。
だから彼等は常に単位の発行した「工作証…工作は業務の意」を所持し、それ
を自己身分証明としている。

中国人の農民戸籍者は日常生活の全てを「人民公社」で管理され、農民戸籍者
以外は学校を卒業すると、国により指示された国営企業である職場「単位」に
配属される。
勿論職業選択の自由はない。

その単位では単に日本の様な仕事だけの問題でなく、その人間の住宅問題、結
婚問題、出産制限、老後年金等、死に到るまでの全てを、単位が責任を持つ訳
で、その為全面的にその人間を管理する仕組みだ。

従って少し大きい単位は、保育園から学校、病院まで持ち、更に食糧供給まで
行っている。
公司退勤の際嬉しそうに紐で魚をぶら下げて帰る人、白菜を抱えて家路につく
人等の風景は絶えず見られたし、アパートなども単位毎に建設し、それらは業
務成績効果或いは思想堅固な人間より、優先順位が点けられ獲得権を得る。
つまり本来国自体がやるべき事を、公司(これも国営)が代行するシステムだ。

もし当人が都合で単位を変わる場合、档案は元単位幹部より新単位幹部へ送付
されるか、当人がそれを持参する場合は厳重に封印され持参する事もあるそう
だ。
最近の様に自営業を始めたり、国営企業以外に転職する場合、その档案は後半
に記す彼等の住居の「街道委員会」に於いて档案は保管する。
何人かの来日中国人に聞いたが、やはり彼等の档案も全て中国現住地の街頭委
に保管されている様だ。

勿論単位を定年退職した人の档案も、その住宅地の街道委員会に移管され、当
人が死ぬ迄保管されている。
当人だけでなくその親の代からの出来事や、当人に加えられた評価や賞罰まで
当人の知らぬままに、その幹部の思惑一つで評価され、それが当人の全く知ら
ぬ所で死ぬ迄保管されるというのは、通常考えればやりきれない事だと思う。
しかし一般中国人はこんな事は余り気にしないのは幸いだ。

この様に農民戸籍、非農民戸籍が決められたのは新中国誕生間もないことであ
り、これにより農民の都市への移動を禁止した政府の措置であろうが、80年
頃より開放経済が始まり、私のメルマガ前半に書いたように、沿岸地帯の合弁
企業の設立や郷鎮企業の発生により、当初その地場人口でまかなっていたのが
不可能になりその働き手を奥地に求めるようになってきたのは、80年代中頃
だったと思う。

そのやむを得ぬ人口流動に対処する為、確か85年頃従来の単位発行の「工作
証」から国の発行する「身分証」に変更された。
それまで公司の連中と出張の際、空港やホテルで工作証と紹介信(公務出張の
許可証)を提示し、自己身分を明らかにしていたのが、身分証になったのを見
て驚いた記憶がある。
従来より私企業や自営が進み人口流動も益々増え、結局単位では管理しきれな
くなったのだと思う。

中国もこの辺から本格的な開放の風が吹き出したのだろうが、しかし一方90
年代に入り私は某日系企業の人事採用に立ち会った。
新卒者約五百人位の応募者の履歴書をチェックしたが、その中の家業欄に「貧
農」と書いている者が40%位居た。
もうかなり中国の国内事情も新しい変化を遂げているのに、未だこんな毛沢東
の遺産の様なものが根強いのには驚いた。
人間の意識はそう簡単に変わらないものだ。

今号の前半は、80年代前半までの中国人は全て、社会人になると国のいずれ
かの単位(職場)に加入し、そこに於いて完全に思想や行動までコントロール
されてきている事を述べた。
そうしてその一人一人は、档案によって評価され記録されて保存されている事
実を述べた。
後半は、居住地に於いて、私的生活まで完全に統制されている事について、私
の主に上海で感じた事を述べたい。
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  街道委員会と居民委

街道委員会の制度はやはり新中国誕生後程なく決定した機関である。

全国の市町村にある人民政府の下部機関として、判りやすく江戸幕府調にいえ
ばお上の民衆取締出先機関の様なものだ。
それに対し居民委は住民が自主的に、お上への民衆の意向を伝達する隣組自治
会に該当するのかも知れない。
しかしそれはあくまで表向きであり、実際は全て政府の指示を民衆末端迄徹底
さす為の管理組織なのである。

だから居民委の幹部は、奉行所の下の岡っ引きの様な存在で、町内の胡散臭い
連中を嗅ぎ廻っている。
これらの役員は、全員単位(職場)を定年退職した、年金生活者で構成されてい
る。
だから基本はあくまでボランティアであり、無報酬なのだが中にはお目こぼし
料を懐にしている人もいるのだろう。
当然この様な役職の連中は町の連中からも敬遠され「お節介おばさん」的ニッ
クネームで囁かれている。

街頭で腕章を巻いた老人達をよく見掛ける事があると思う。
その人達が居民委の老幹部だ。
彼等は、お上である街道委員会よりのお達しにより、諸条例の違反者を捜し出
す。
例えば街頭衛生週間には道路上で痰を吐く人間から罰金を取り、交通安全週間
では、歩行者の信号無視を摘発し、可成りの権限を持って自己の持ち場を管理
する。
その成果でお上より表彰を受ける事もあるのだから老幹部も一生懸命だ。

一人の中国人が立ち止まり煙草を吸っていた。
それを物陰から腕章を巻いたおばちゃんがじっと眺めていた。
暫くし吸い終わった彼は吸い殻をポイッと捨てた。

瞬間おばちゃんは現れて彼に怒鳴りだした。
そうして罰金を取り上げた。

アベックの男性が路上に痰を吐いた。

すかさず箒と雑巾を持ったおばちゃんが現れ二人に路上掃除を命じた。
恥ずかしげに二人はそれに従った。

どうも我々から見れば陰湿である。

一つの居民委はそれぞれ僅か数十軒ずつを1単位で管理しているのだから、そ
のそれぞれの所帯内の状況、行動は全て完全に居民委は把握している。
この問題は次回詳しく取り上げるつもりだが、その町内の出産制限管理も彼等
の仕事の一つである。
その為その町内に住む女性の生理日まで把握しているそうだ。
私も当初まさかと思ったが、アメリカ人のルポにも私が聞いた同様な事が詳し
く記載されていた。

当時私は以前日本に留学していた、友人の家に招待を受けた。
そこはやはり上海の靜安区にある超過密居住地区だった。
当時外人の中国人自宅への訪問は禁止されていたのだが、そこは私の友人が居
民委に特別の(?)許可を得て招待してくれたらしい。
居民委はこんな事まで権限があるのかと驚いた。
狭い家の為炊事は外にある共同炊事場を用い、奥さんが外で料理を造り家中へ
持ち込むのも妙な感じだ。

何れにせよ住宅がこんな状態だから、家の中の様子も生活の実態も、他人に隠
し覆せるものでなく、それこそ個人の或いは家庭のプライバシー等とても守ら
れる状態ではなかった。
結論的に1980年代までの中国都会人は、職場では「単位」と言う縦糸と、
それに加え家庭では「居民委」という横糸で、動きのとれない政治構造の下に
組み込まれ、管理されていたというのが実情でなかったかと考えている。
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<<あとがき>>

「2008年北京オリンピック開催決定」

北京中は今歓喜に包まれていると新聞は報道しております。
私は8年前シドニーに僅差で敗れ、それこそ北京中が悲嘆に暮れた様な姿を、
当時北京にいて目の辺りにしているだけに、その喜びも推察されます。
社会主義国家はこの様な場合、異常な程国家の威信を懸け、行うだけに当落が
国にとり国民にとり、我々には理解できぬ程重要な問題である事の様です。

8年前北京市東北郊外にある北京首都空港と、北京市内に入る三元橋の間に、
高速道路が完成し、その走り初めの盛大且つ派手な祝典の後、北京側から出発
した一群の車の隊列は、正に2000年オリンピックの最終決定会議に臨む、
北京代表団のメンバーを乗せた車でした。

当時は北京市内の道路やビル、広場には至る所五輪の旗や、スローガンに埋め
尽くされ、正に自信と必勝を期した構えでした。

当時我々はその出発セレモニーをテレビで見ながら、これでもし負ければ国へ
帰られないのじゃないか。等と冗談で語っていました。結果はシドニーに破れ
ました。しかもその敗因は「環境と人権」正に中国のアキレス健です。

今回のレポートで述べた
「馬桶生活と劣悪な住環境」
「档案と居住委により締め付けられた人権」
これを批判されれば当分五輪中国開催は無理だろう。
これが我々の感想でした。

それが今回2008年の開催権を得た事は、前回の惜敗以来中国の積極的な国
際化への解放、それによる経済発展の成果と見るべきでしょう。
社会主義体制は、過去そうであった様に絶えず、次々と新しい目標を設け、そ
れに向け前進させていきます。
昨年の建国50周年を目標に北京市街地が大改造された様に、2008年を新
目標に更に大計画が始まるでしょう。
低迷する日本を追い越せかも知れません。

しかし前回そうであった様に、北京以外特に上海などは冷静というより冷淡で
す。
上海人に言わせれば「上海で稼いだ金で北京はオリンピックをやるつもりだ」
とは殆どの上海人から聞いた言葉です。
そういえば今回の決定についても、日本の新聞には「喜びに沸く北京市民」の
活字や写真は踊りましたが、上海の様子は全く報道されていません。

又前回と同様上海人は同じ様に愚痴っているのでしょうか。

                           遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
紅い中国の時代の目次に戻ります







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