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★ 遊 庵 散 人
★ ---------- China,20years ago ----------
★ 殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
★ 1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
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<< まえがき >>
満潮になると河は膨れて逆流した。火を消して蝟集しているモータボートの首
の波、舵の並列。鎖で縛られた桟橋の黒い足。海関の尖頭が夜霧の中で煙りだ
した。鈍重な波のまにまに、破れた黒い帆が傾いてぎしぎし動き出した。
波打ち際のベンチには、ロシヤ人の疲れた春婦達が並んでいた。彼女等の黙々
とした瞳の前で、潮に逆らったサンパンの青いランプが果てしなく廻っていた
(一部中略)
これは私が昔読んだ横光利一著の名作「上海」の書き出しの部分です。
彼はこの作品を1928年から書き始め、1932年7月初版を発表しており
ます。
アヘン戦争に敗れた清朝が、英国に対し未だ一寒村だった上海を開港させたの
は、19世紀中頃で、その後英、米、仏それに日本も参加し、この街にそれぞ
れ租界地を開き、当時としては世界的な大都会を築いたのは19世紀末から、
20世紀の始めでした。
それは丁度横光が小説上海を書いた時代と重なります。
私が最初に広州から上海に入ったのは、やはり初訪中の時即ち1978年10
月でした。
空港に到着したのはかなり夜も更けていて、出迎えの公司の案内で、暗闇に近
い市街地の道路を走り抜け、到着したホテルは「上海大厦」でした。
高層の部屋の窓外には大上海が広がり、更にその真下には黄浦江と外灘(ワイ
タン)を見下ろす絶好の景観でした。
しかし目の下に無限に広がる上海の、何と街全体が暗い事か。
所々に灯る街灯らしい明かり以外は、ビルも住宅群も明かりらしいものは殆ど
見られず、その不気味な暗黒と静寂の世界を目の前にして、私の脳裏に甦った
のは、我々の年代では経験している、戦時下の灯火管制の街の不気味な雰囲気
でした。
これがこの暗闇の中に一千万の人達が息づいている、世界屈指の大都会なのか
という感慨でした。
そうして冒頭に書いた横光の小説「上海」の陰鬱な書き出しの文章から受ける
印象に、私の気持ちは正にタイムスリップした感じでした。
それは私が初めて見た夜の上海の外観は、ビルも道路も住宅街も、全て横光の
描いた昭和初期の「上海」の雰囲気と殆ど変わる事のない現実に、この50年
ここで起こった様々な世界史的にもドラマティカルな事件の経過を、飲み込ん
でいる暗闇に不気味さを覚えました。
しかし窓外直下を見ると、蘇州河に掛かる我々の年代者にとって、四馬路や虹
口と共に、正に上海のシンボル的存在である「ガーデンブリッジ」の鉄橋上で
深夜に近いこの時間、街灯の薄明かりの中で一組のカップルが熱い抱擁を交わ
している姿を見た時、何かホット安堵の気持ちがしました。
この橋は今は「外白渡橋」と名付けられているそうですが、意味は「外人は無
料で渡れた橋」
昔の中国の屈辱を忘れぬ為新中国が付けた名ですが、その新中国との上海ビジ
ネスが始まります。
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<< 本号の内容 >>
◆◆ 超過密都市上海
★ 人 間 の 洪 水
★ 黄浦河畔の恋人達
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★ 人 間 の 洪 水
当時の上海の人口は一千万人とも言われ、街は完全に飽和状態で一切の上海へ
の居住者の人口流入は法的には禁止されていた。
ともかく市中何処を歩いても、人、人である。勿論人口密度は世界一。
特に繁華街南京路は地方からの旅行者も加わり何時も人が溢れ、交通マナーに
は素より欠けた市民だが、交通信号無視も当然で、南京路では赤信号で人が止
まると、人が道に溢れ逆に余計混乱する始末だ。
私は商用で上海に来た関係商社の某ヨーロッパ人客に「通常道路の上を通行人
が歩くが、ここでは通行人の下に道路がある」と言ったら、彼も大笑いし「ラ
イト」と言ってくれた。
南京東路と西蔵路か交わる交差点に、歩道橋が出来たのは更にその数年後のこ
とだが、その歩道橋の上から南京東路の超過密歩行者群を撮影するのは、上海
記念の最高のビユーポイントで、私は何度そこへ来客を案内した事か。
つまり中国には五千年の歴史があり、その遺跡、名所旧跡が、北京を始め全国
至る所に存在するが、此の上海だけは、街の発生が19世紀であり、その後急
速発展した都市だけに、歴史的に何も殆ど見るべき物がないのは当然である。
だからこの「超過密人口の風景」だけが上海最大の名物といえるだろう。
その反面最も進歩したこの近代都市は、中国人には異国趣味に富んだ超魅力都
市と見える様だ。
だから上海に住む中国人には、自国の先端を行く誇りを持っている感じを受け
る。
そうして歴史と伝統を誇る北京の人達との間に、上は政府要人から下は庶民に
到るまで対抗意識が予想以上にひどい。
笑わせる話だが東京新橋に中国女子留学生が働く飲み屋が多い。
中には数十人も屯するバーもあるが、ここでもホステス間で、北京系上海系と
派閥が別れ、客である我々にも絶えず相互陰口を告げあっている。
もう一度前書きで述べた、暗闇の大都会に話を戻そう。
夜街を車で走った。
街路灯もまばらで殆ど暗黒の中を走っている状態だ。
そうして何故か車はヘッドライトを点灯しないまま街路を疾走している。
助手席に座っていた私は、最初ライトの故障の所為かと思った。
だが時々思い出した様にライトをつけるが直ぐ消してしまう。
その瞬間的にライトが点き前景が浮き出された時、私は背筋が寒くなる感じを
受けた。
それまで暗闇で全く何も見えなかった車の前後左右、道路一杯正に自転車の洪
水なのだ。
良くこんな中を無灯火で車を走らせられるものと感心するが、しかし実際は至
る所で自転車との接触事故を起こし、街頭の方々で上海名物の激しく罵りあう
口喧嘩と、それを幾重にも取り囲む野次馬の群はこれも上海名物として、絶え
ず目にする事が屡々だ。
それだけに何故車は無灯火で走るのか、理解できなかった。
多くの人に聞いたが、私を完全に納得させる回答は得られなかった。
曰く
「中国人は夜目が利く為ライトは不要」
「バッテリー節約の為点けない」
「防空体制下にある為点灯を規制されている」
「国産車のヘッドライトは上下の方向転換が利かない為、対向車との配慮で点
灯を規制している」等々。
多分最後の意見が正解ではなかったかと思う。
しかしこれらの様々な意見は皆運転手の意見なのだから面白い。
その代わり警笛ブザーは鳴らしまくって走る。
これは鳴らす事が癖になっている様に、昼間車の少ない道路を走っていても、
やはり絶えず鳴らし続けている。
当時の中国内を走る車は、中国が自力更生した「上海号」が殆どで、それ以外
高級幹部用のリムジン車「紅旗号」が、偶に大抵白バイ先導で走っているのだ
が、トウ小平が78年来日し、日産訪問した経緯もあり83年頃より外車もや
や見掛ける様になった。
しかし或る日本の自動車メーカー社員から直接聞いた話だが、中国への車売り
込みのテスト中先ずクレームがでるのが、警笛ブザーの故障だそうだ。
その原因は国際基準の数十倍の量のブザーを鳴らしている為だそうだ。
さすが中国もその後かなり早い時期にブザーによる騒音防止を発令し、街頭の
道路をまたぐ横断幕に、違反者に対するかなり厳しい罰金刑を大書し、法令の
徹底を計り騒音は幾分緩和した。
もう今の時代中国国産乗用車「上海」や「紅旗」それにトラック「解放」を中
国の何処へ行っても見る事はないだろう。
いずれも分厚い鉄板の固まりの様な重厚な車体は、さぞやその車体重量だけで
も現代車と比較できない程重く、その為ガソリン消費量は数倍を必要としたと
思われる。
結局1983年仏ルノー社とのノックダウンが上海で始まり、その製品が市場
に現れるまで、国産車オンリーの時代が続いた。
しかしそんな不経済車だった中国国産車も、乗用車「上海」に就いては、乗り
心地も悪くなく、英国のオースティンを思わすクラシックな車体は、私が東京
より案内してきたデザイナー等には案外好評で、魅力的に見えたらしい。
当時新聞で見たのだが、神戸の物好きなタクシー業者が珍しさもあり一台輸入
し、その価格が当時で一千万円だったとの事で、我々も呆れたが、その後どう
なったかは知る由もない。
「紅旗」は国賓或いは高級幹部送迎の車で殆ど一般では乗る機会がない。
何れにせよ当時は流しのタクシーはなく、ホテルの入り口で手配するか、タク
シー公司に電話し手配する以外車に乗る手はないのだが、運の良い時には「紅
旗」を回してくれる事がある。
但し運賃は「上海」の倍以上はしたと思う。
キャデラック等の米車大型リムジンに乗った経験のない私には、だだっ広い車
内で極めてご満悦だった。
しかし面白い話がある。
公安局に百元(千五百円)払えば、白バイ数台が先導してくれて「紅旗」で目
的地まで送ってくれるというのである。
勿論白バイが先導してくれる以上、車前方の信号も全て青になり、正に目的地
までノンストップで走る。
気分の良いことこの上ない。
私もトライしないかと随分進められたが、結局果たせずに終わった。
商社駐在員は東京本社より偉いさん来訪の際、随分利用したそうだ。
トラック「解放」は凄い車だ。
前部のエンジン部分を開く時、左右が二つ折れに開く、日本では随分昔消えて
しまった型であるが、その凹凸のある車体の鉄板が凄く重厚で、頑丈だけが取
り柄といえそうな、丸で戦車を思わせるトラックだ。
我々はよく冗談話で、「この車を東京へ持ち帰り、昭和通でも思いきりぶっ飛
ばせば、どんな車でも恐れて逃げ回って道をあけるよ」
「解放」号はそんな感じの車だった。
中国人に自転車の話をすると、必ずといってよい程、中国人が毛沢東より遥か
に尊敬というより思慕する周恩来の話が出る。
彼は生前何かの時「中国人は将来経済的に如何に豊になろうとも、自転車は離
すべきでない。その最大理由は自転車は極めて健康的且つ経済的な乗り物だ」
という話。
それに中国は四川省等の一部を除き殆どの都市、農村が平坦であり、これが自
転車利用発達の最大要因となった。
自転車の中で上海製「鳳凰」が圧倒的に人気があり、価格も他工場製より高価
であるが、それでも入手困難だ。
こういう場合通常職場単位毎に優秀工員より入手権が得られるのだが、外人用
売場等には売られている。
その為中国人は店の入り口で我々に闇で入手した外人用兌換券を渡し購入して
くれと依頼する。
やがて地方で偽「鳳凰」が生産販売され摘発された。
これらは時代変化の蠢動的兆候だった。
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★ 黄浦河畔の恋人達
上海の中心地に広大な面積を占める英、米、仏の旧租界地は、さすが西洋人の
都市計画により作られた街だけに、人間の住環境を基本に考え建設された事が
判る。
その為中心街はやはり公園が多い。
至る所に大小様々な緑に覆われた憩いの広場がある。
私はかってロンドンの朝、高層ホテルの窓から地上の風景を見た時、その俯瞰
風景が上海錦江飯店からの、それと何と似ている事かと驚いた経験がある。
暗黒の大都会上海。
それを最も歓迎するのは、言わずと知れた恋人達である。
彼と彼女等は夜毎三々五々主に自転車で公園を目指す。
家は一軒に大抵数所帯が同居し、各世帯も親兄弟同居の、一人当たり畳数枚程
の詰め込み住宅。
解放前の一軒の邸宅には、各部屋毎に一所帯併せて五所帯位が入る始末で、こ
の様な人口密度世界一、超過密住宅事情の家の中では、とても愛を語れないの
は当然だろう。
従って恋人達は公園を目指す。
最も多いのは黄浦江畔のプロムナード。
現在の改装前の遊歩道であるが、それでも20世紀初頭にこの様な遊歩道が出
来、今の中山東路に並ぶ素晴らしいビル街があったというのは正に驚きで、当
時とすれば東京を遥かに凌ぐ東洋一の近代都市だった事が判る。
その遊歩道に横光の「上海」に登場したロシヤ人の春婦ならぬ、現代中国人の
恋人達が隙間無く並び囁いている。
夕暮れのバンコックの街で、目を上げて頭上の電線を見られた事があるだろう
か。
全ての電線に燕が不思議に一定方向を向き、止まっているのだがその止まり方
の見事さはまず見物である。
その列の中に一羽でも割り込もうとしても、到底不可能な程、お互い詰め合い
詰め合いして止まっているのには驚かされる。
黄浦江畔の中国人の愛人達も正にそのバンコックの燕達同様、お互い詰め合っ
て愛を語っている。
蘇州河が黄浦江に注ぐ三角地帯に、解放前「犬と中国人入るべからず」との看
板で有名な、パブリックガーデン後の黄浦公園がある。
ここは河沿いの遊歩道と違って、迷路の様な小道とその左右は灌木が植えられ
ており、愛人同士では暗闇の中へ、姿を隠すにはもってこいのロケーションで
ある。
だから遊歩道の連中よりかなり積極的な行動の愛人達が多い。
正に「犬と外人は入るべからず」という光景だ。
我々も、夜の無聊を持て余し、更に些かの愉しみ心も加わり、食後の散策に出
る。そうすると殆ど数人の若い男性が近寄り話しかけてくる。
たどたどしい日本語で大抵「東京からいらっしゃいましたか」「中国は何度目
ですか」「上海へは何時着かれました」
我々は発展途上国にありがちな、妖しげな誘いと解釈し全く応じない。
何日か何度かその話しかけを聞いていると、少し応答しようという気になって
きた。
丁度空いていたベンチに座り、会話は始まった。
彼等は先ず名乗った。
「名前は×××と申します。現在△△学校で日本語を勉強しています。少しで
も上達したいので、日本のお客さんの多いこの辺で話しかけて実習をしていま
す」
それは失礼な事をしたと言ったものの、暫く簡単な会話を重ねる内、次のよう
な話を聞いて驚いた。
今夜もこの後公安局に連れていかれるでしょう。この周囲には随分公安がいま
す。
「どうして?」
と聞く私の質問に、彼等の回答は、公安は外人と話していると、まずスパイと
認識するのだという。
そうして公安局へ連行後、会話の内容の一部始終を報告さすのだそうだ。
特に外人がお前達に何を聞いてきたか、それに対しお前はどう答えたか、何か
物を受け取らなかったか。
それで問題がなければ釈放されるそうで、彼曰く我々のクラスメートは全員何
度もそんな経験を持っていると平然と言った。
逆に私は慄然とした。
そうして「君達に迷惑の掛からぬよう祈るが、気をつけて帰れよ」と言って慌
てて席を立った。
「平気ですよ」と彼等は言って去っていった。
社会主義とはそこまで自国の人間も信用できないのだろうか。
周囲の灌木の中では無数の恋人達の怪しげな蠢きが続いている。
やがて彼等も自転車で深夜の家路につく。
この暗黒の大都会の中には表面では見られぬ様々な顔のある事を知った。
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<<あとがき>>
司馬遼太郎氏的表現を借りますと、「僅か10年の間にこれほど外観が変貌し
た都会は、人間の史上に於いて初めてではないだろうか」とでも言いたくなる
程、上海の街はここ10年見事に大きく変化しました。
特に1980年頃より約5年間は年間の半分以上はこの街に滞在し、かなりこ
の街の地理や事情を、理解していた積もりの私でも、現在の大きく変貌した上
海の市内事情には戸惑いを感じてしまいます。
ましてや市内を縦横に走る高速道路に上がり車を走らせれば、一体いま何処を
走っているのか皆目見当もつかないのには驚きます。
以前は市内でビルといえば、20世紀初頭の租界時代建築された、幾つかの高
層ビルが殆どで、それが市中殆どの場所から望見され、地理的目印になったも
のでした。
それがここ10年来のビル建築ラッシュの中で完全に埋没してしまい、それが
私の方向感覚を失わされる様です。
それに劇的なのは浦東の変化です。
80年代前半その浦東の幾つかの工場で生産を続けていた我々は、屡々訪問し
た当時の浦東に対する印象は、黄浦江に近い一部分に中層アパート群が有るだ
けの、後はただ所々の寒村を除けば、広大な田園と荒野の続くだけの不毛地帯
でした。
海岸に近い田畑の所々に、未だ上海事変当時の、日本軍の上陸を阻止するトー
チカが残り、嘗ての歴史を物語っていました。
浦東の追憶です。
租借地時代上海中国人は貧困でした。
その中でも浦東は極貧に近い状態であったそうです。
その時代上海の夜の市長として君臨していた、いわば上海のカポネとも言うべ
き男、杜月笙の名は有名です。
彼はその浦東高橋鎮の出身です。
ガキの頃よりフェリーで対岸上海に渡り、バクチや駄賃で稼ぎ、食い詰めては
浦東へ逃げ帰り、又出ていっては稼ぐ中で勢力を次第に大きくしたのです。
彼の伝記では、彼の昼の顔としては、財界では数社の銀行頭取や百に近い大企
業を支配し、軍事面では国民党の参謀少将として登場し、正に上海の政財軍を
掌握しますが、本職は巨大ギャング組織の頭目として、麻薬、賭博の帝王とし
て魔都上海に君臨していました。
上海に戦火が及ぶ頃、彼は香港、重慶と居を移し、戦後一旦上海に戻ります
が、新中国になり再度香港に戻り結局その地で亡くなります。
我々はその彼の故郷上海浦東高橋鎮(ここは浦東でも最北東部、丁度揚子江が
東シナ海に注ぐ河口にある村)にもニット加工工場があり屡々訪問したのです
が、工場の古参幹部より当地出身の英雄?の話は良く聞かされました。
彼の本当の墓は、台湾の基隆にあるそうですが、高橋鎮にも墓があるという事
で、一度その墓を見たいと調べたのですが、今は解放軍基地の敷地内になって
いるということで、結局訪問は不可能でした。
今回は、1978年頃の夜間、照明が殆ど無い暗黒の上海の前書きから書き始
め、戦前に於ける夜の帝王の後書きで終わりました。
私が中国で始めてネオンを見たのは確か83年、やはり上海でした。
場所は錦江飯店の中楼西側道路の頭上にアーチ風に飾られた、「友誼商店錦江
分店」の看板文字が、ネオンで輝いているのを見つけて「中国にもネオンの灯
がついた」と思わず歓声を上げた記憶は鮮明です。
遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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