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★ 遊 庵 散 人
★ ---------- China,20years ago ----------
★ 殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
★ 1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
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<< まえがき >>
汕頭の後背に広がる田園地帯が、汕頭レースの主産地である事は、以前にも申
しました。
地名では澄海,潮陽、掲陽、それに潮州料理で著名な潮州等の邑落で、ほぼ北
回帰線上に点在し、主産地の米は二毛作で、あの頃の中国としてはかなり恵ま
れた地方だったといえるでしょう。
中国では南方人と称される彼等住民は比較的のんびり屋が多く、それが我々ビ
ジネスには様々な問題の原因ともなりました。
ほぼ年中、夏季に近い暑さと、梅雨期の多湿さは、我々にとって大変不快感を
覚えるものの、海辺と言う事もありそれは幾分救われた様です。
村の人達も殆どシャツ一枚で過ごし、特に子供達は殆どがパンツだけの裸で遊
んでおり、時折その子等が水牛の浸かっている田圃の脇の用水路に一緒に水浴
している楽しげな光景もよく見られました。
「あんな泥水によく入れるものだなぁ」と日本人は呆れて言います。
しかし彼等にはそれは全く気にならない様です。
大体清らかな水というものには、生来お目に掛かった事もないのですから、一
向平気なのも当然です。
我々の宿舎のシャワーの湯も茶褐色なのが普通で、洗面場の水をコップに入れ
一夜放置し朝見ると、数ミリほどの砂の様なものが底に沈殿しているのも常識
です。
彼等も口にするのは、煮沸した水以外は使用しません。
だから魔法瓶は各家庭の必需品です。
当時彼等は自慢していました。
「今の中国で、世界一生産量の多いものが三つある。一は人間、二は自転車、
三は魔法瓶」確かにそうでしょう。
当時既に「一人っ子政策」が本格的に打ち出された時代でしたが、人口は既に
十億を越していましたから、4人家族としても二億五千万所帯、魔法瓶はその
各所帯の必需品ですから、確かに品質的には粗雑でしたが、その生産量は世界
一には違いなかったでしょう。
様々な問題も経験しつつ、汕頭に於ける我々の業務も二年が経過し、周囲の環
境にも少しは慣れ、手編みセーター生産も品質的に著しく向上し、日本の客先
も増えると共に可成りの期待を得られる様になりました。
中国側現地の公司、工場の幹部や工員の、仕事に対する意識も可成り変化し、
我々の成果も一応評価される程度に推移するかに見えたのですが、81年中頃
より思わぬ大きな転機が訪れました。
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<< 本号の内容 >>
◆◆ 汕 頭 撤 収
★ 経済特区と郷鎮企業
★ 華 僑 侵 攻
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★ 経済特区と郷鎮企業
当初我々が汕頭に足を踏み入れた1978年秋は、中国民航も広州ー汕頭便を
始めて就航させた時期でもあり週2便が飛んだ。
当時の乗客は我々を除き100%香港在住華僑であり、かって中国本土から共
産中国を嫌い脱出した人々である。
文革期が終わり国内情勢の変化に、恐る恐る帰郷してみた彼等が受けた予想外
の故郷の人々の歓迎に、彼等の中に急速に回郷熱が高まり、その人数は急激に
増加した。
他方身内より国外脱出者を出した一族は、特に文革中は当局より厳しい仕打ち
を受け、卑屈な生活を余儀なくされた彼等にとり、文革が終わり彼等の帰郷も
認められ、その都度本土では入手困難な様々な文化品を手土産として持ち帰っ
てくれる事とにより、脱出者は一躍一族の名誉的存在に変化していった。
脱出後些かの蓄えを得た人達は、その故郷のレストランで一族を集め盛大な祝
宴をはり成功を誇った。
79年春節前私は列車で、広州より香港に向かったが、広州市と深セン市の駅
前には、そこからバスに乗り継ぎ各故郷へ向かう、華僑の恐らく数十万の群衆
が広場を埋めているのを見た。
その各個人が持てる限りの手土産を持っての帰郷だから、当時の中国にとって
は莫大な無償輸入といえるのではないだろうか。
当時復活間もないトウ小平が、経済加工区設定構想を最初に提案したのはその
79年4月である。
中国が外貨獲得を目的に、正式に当初4地域(深セン・珠海・汕頭・厦門)を
経済特別区に決定したのは80年5月の全人代である。
この4地区を見ると面白い。
深センは香港、珠海はマカオと隣接しそれぞれの華僑資本とその後に日米欧の
資本が入る。
汕頭は東南アジヤに多い華僑の故郷。厦門は福建出身の台湾系華僑の窓口と、
巧みに出身地への出資がやりやすい、配置になっているのも見事である。
かくて80年頃より、それまではせいぜい故郷に錦を飾る、手土産持参、宴会
付きの帰郷であったものが、徐々に企業、投資計画の協議を目的にした帰郷に
変化していった。
その点以前も述べた事だが、華僑の場合それらの対応は素早い。
彼等の殆どがオーナー企業であり、そのオーナーのディシジョン一つで全ての
決定が可能となる。
複雑な組織内部を稟議稟議で許可を取る近代組織でない強みがある。
次ぎに我々が約二年間育成し、可成り成果を上げてきた手編みセーターの加工
基地としていた人民公社生産大隊の変化について述べよう。
人民公社の業務主体は集団的農業生産にあることは当然だが、何にしても総人
口の85%を占める過剰農民人口では、配分される年間収入も都市部の一割と
も言われた。
その結果一部自留地が認められたり、副業の成果などで地域的に有利な地では
収入が増加した。
特に大都市周辺や沿海地方の農村では、それら自留地による農作物の販売や、
副業による非農業収入の増加で万元戸と称される金持ち階級の農民まで出現し
た。
政府はむしろその方向を奨励する形で、82年には人民公社組織を解体し、新
たに郷鎮(町村)中心の組織へと発展させた。
そうして力を得た農民や郷鎮では、お互いが出資したり、他よりの出資金も集
め非農業企業所謂郷鎮企業に乗り出した。
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★ 華 僑 侵 攻
これら経済特区政策や郷鎮企業政策にいち早く反応し乗り出したのは言う迄も
なく華僑資本である。
オーナー経営の強みは述べたが、何よりもそれらの地は彼等の古里であり、親
類縁者の住む土地なのだ。
かって述べた様に商社の通訳が普通の中国語で喋った際、工場の者が「頼むか
ら中国語で言ってくれ」と言われて呆然とした様な相互会話は、もっとひどい
方言でも彼等同士は充分通じ合う仲なのだ。
81年暮れ頃より、我々の取引先である広東省汕頭支公司の商談室や、我々が
技術指導した人民公社の生産現場にも、華僑の人々の来訪が急に多くなった。
繰り返すが彼等が愉快そうに交わす談話は、当然我々には全く理解できない広
東語でも一寸違った汕頭方言である。
そうして汕頭市内のレストランでは、今までの帰郷華僑一族の大宴会から、次
第に華僑と公司、工場との歓談の宴に変化してきた。
やがてその内、我々の廻る農村の工場では、工場責任者がこの様な事を平気で
我々に話す様になってきた。
「この新しいライトバンは香港にいる親戚がプレゼントしてくれたんだ」
「香港に住む身内の者が工場改造の資金を出してくれる事になったんだ」
「先日来訪した同族華僑が、税関員全員を食事に招待してくれた」
未だ本格的な業務が進行する前から、既にこの様な話は各地で持ちきりになっ
てきた。
「血は水より濃い」嫌でもそんな言葉を痛烈に感じさせられる状況が、次々と
起こって来た。
我々の手で数年かけ開発してきた工場へ、徐々に香港貿易業者が発注する様に
なってきた。
それらは殆ど香港経由で、その仕向地は米国を始め伊、仏等欧州各国、それに
一部は日本向けである。
要求される商品レベルは、決して我々の製品に比し高級品とはいえないが、発
注数量は桁違いに我々より多かった。
その上我々の現地での生産輸入の過程において、最も大きな難関だった原料、
製品に対する輸送の問題は、香港華僑にすればいとも簡単に解決された。
香港業者は自身の輸送車に常に二枚のナンバープレートを保有している。
そうして原料を積み汕頭に向かう時、深セン迄は香港のナンバープレートを、
深センの税関を通過すると中国のプレートに交換し汕頭に到る。
片道約六時間、帰路は製品を積んで戻る。
勿論汕頭伝統のレース編み商品については、戦前より香港が最大のマーケット
であり、そこから世界へ売られていた。
従ってその様な輸送方法も何らかの経験は持っていたものの、ここへ来て中国
側の経済特区の開設や、農業の非農業化促進等の政策転換で、それに華僑の投
資も加わり、香港ー汕頭の道路網も見る見る整備されてきた。
やがてその様な輸送手段も容易に実行されるに到ったと言えるだろう。
ここで改めて我々のこの汕頭手編みセータープロジェクトに就いて振り返り考
えてみよう。
これについて第1回の広州訪問で、広州紡織品公司と締結した3年間の契約で
あるが、その第一は先ず他の日本商社に対し汕頭地区に於ける当該商品の生産
販売は認めない。
所謂モノポリー契約である。
この件は中国側は確実に実行した。
広州の公司でも汕頭支公司でも、また工場でも日本他社との商談風景はなかっ
た。
契約に於いて、中国側より年間生産責任数や製品の輸入最低額の条件提示はな
かった。
ただ我々に対する責任額として、年間ミニマム10万ドルの生産加工費(工場
経費、公司経費、輸送運賃も含む)の達成のみ提示された。
その責任額に対し、初年度は技術的問題もあり目標未達に終わったが、二年度
より双方の努力により加工費目標は達成した。
かくして第一期の契約を終え、契約延長の段階に入った。
我々の要求した複雑な手編みセーターは、当時日本国内で生産した場合、熟練
技術者が編み立てても、1枚の生産に最低5日を要し、その加工賃は七〜八千
円以上で、それでも作業者は年を追って減少し、殆ど日本国内では生産が不可
能に近い状態だった。
その後台湾、韓国と生産地を移動させたが、何れも当初魅力的だった加工費も
徐々に高騰し、作業者の減少等安定生産も期待できぬ状況であった。
そう言う条件下、78年秋広東省紡織品公司より提案された、上記手編みセー
ター独占生産販売契約は、資本、設備等の投資や、過大な責務条件もなく、極
めて魅力的な契約だった。
更に、当初当方より提示した企画に対し、先方より提示された1枚のセーター
加工費(製品加工費、工場経費、公司経費、輸送運賃の一切も含む)は、平均
2.5ドル(当時のレートで¥500弱)は中国ならではの低価格だった。
かくして二年が経過し、工場の生産技術や管理体制も向上安定し、我々が輸入
したそれら商品の、日本市場に於ける評価も認識されだした。
勿論そこに到るには今まで述べた、我々の多大の技術、管理面の指導があり、
中国側もそれに対し当初可成りの戸惑いを持ちつつも、積極的に対応した事も
事実である。
我々が当初目標にした「中国でしか出来ない高級品の生産輸入」もかなり結実
しつつあった。
そういう段階での華僑進出による大きな状況変化である。
先ず加工費単価の高騰である。
81年と82年度を比較し、前年比平均の50%近い加工賃アップがオファー
されてきた。
次ぎに、難易度の高い商品の受注を嫌い、生産の簡単な商品の発注を望み、更
に一品当たりの発注数の増加を要望してきた。
そうして必ずその引き合いとして香港からのオーダーを我々に提示し、妥協を
迫る様変化してきた。
それら要求の諸問題で、我々として最も憂慮したのは、加工賃急騰もさること
ながら、むしろ華僑進出により、難易度の高い生産を敬遠し、平易な製品の大
量生産に走ろうとする工場の意向である。
これは我々が難易度の高い製品の作成こそ、中国で生産するメリットであり、
その高付加価値商品を日本市場で高く評価され、認識してもらおうとする基本
方針が、根本より崩れ去る事を最も恐れたのである。
更に華僑進出により、我々の持つ日本向けモノポリー契約は、当然ながら香港
経由で日本へ輸出される事は阻止できない問題も起こり、実質的メリットも消
滅していった。
そうしてそれら手編みセーターは、どちらかいえば低品質原料を使用した、低
付加価値商品が、価格メリットだけで日本へ輸出されるという現象が出始めて
きた。
この現象はやがて日本国内市場で中国製安物手編みセーターの氾濫を招く。
工場にとっては多少1枚の加工賃が低くとも、単純製品を大ロットで生産する
方が望ましいのは当然だ。
当時の(現在でもそうだが)工場幹部の考え方は「大きい事は良い事だ」とい
う基本理念があり、工場の大型化、生産規模の拡大、雇用人員の増加が、彼等
の求めるステータスなのである。
我々の様に工場は小規模でも、何処よりも高品質な製品を作り、収益性を高め
る考え方は到底理解されない。
また当時の情勢として、人民公社から郷鎮企業への転換が始まったばかりの現
段階では、未だ農村に於ける農民の余剰人員を就業させるだけの企業(離土不
離郷…故郷を離れず農業を離れる)であった。
しかしそれが今後華僑を含む様々な投資も入り、ますます大企業化が進展した
時、いよいよ我々の基本方針である高付加価値製品の生産とは、大きく乖離す
るだろうとは充分予測せざるを得なかった。
82年3月汕頭に於いて、工場及び公司幹部と基本的契約問題や、具体的な秋
冬物の商談を巡り、我々もかなりの主張すべきは主張し、他方一部の譲歩も試
みたが、ネゴは紛糾し殆ど当方の趣旨、意向は理解されぬまま、結局商談は成
立せず、やむなく我々は汕頭撤収を決断した。
商社名で最初に交わした契約自体極めて曖昧な点が多かった様に、その破棄に
ついても何ら問題のないまま契約終結した。
交渉決断の翌日、我々は汕頭で生産予定していたサンプルを全部数個のケース
に詰め広州行きの飛行機に乗った。
その時しみじみ感じた事は、改めて言うが「血は水より濃い」という事「広東
は広東人の世界だ」という当然の事だった。
空港の原っぱに放牧された牛の群が、離陸する機の爆音に驚き四散した滑走路
を、ゆっくり機は助走し始め離陸した。
これが約3年に亘る汕頭ビジネスの幕切れだった。
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<<あとがき>>
汕頭撤収については、残念だという気持ちが無かったと言えば嘘になるでしょ
う。
ただ繊維業者の外人として、戦後始めて汕頭に入り、ともかく無我夢中に三年
間、国内では客先に謝り続け了解を求め、現地では説得し理解を求め、その挙
げ句、ようやく軌道に乗りかかった段階での撤収ですから、万感の思いを残し
たのは当然の事です。
しかしその気持ちの奥には「何かを掴んだ」という感慨はありました。
三年間懸命にやってきただけに無念の思いは否定しませんが、反面夢中でやっ
てきただけ、私だけに残る充足感を持てた事も確かです。
それは前号の後書きに、柳田邦男氏の「ガン回廊の朝」を引き合いに出した様
に、五里霧中の中でトライ&エラーを繰り返し、我々が切り開いていった、中
国に於ける生産ノウハウらしき物は、私のその後の更に20年に近い中国業務
の基礎になったのは事実と思っています。
私の汕頭訪問は何度も申しておりますが1978年秋より82年春迄でした。
その間確かに文革終結後数年が経過し、トウ小平の復活、毛路線の転換、近代
化路線の発表等、全中国が目まぐるしく転換した時期の様に思えますが、未だ
それらは中央の方針としての転換だけで、社会や個人はそう簡単に転換できる
筈もなく、全体の中国経済は極端に貧しく、中国社会は以前とした旧体制のま
ま進行していました。
ただ我々の関係した汕頭地区は、深セン地区と共に、隣接する香港や華僑人の
影響で、中央の政策転換を最も敏感に反応し、加えて華僑独特の強かさで、素
早くそうして当初は比較的投資資金を必要としない、繊維生産から、乗り出し
てきたと理解するのが実状であったと思います。
やがてこの当初試験的にそうして外貨獲得の為設置された輸出経済特別区は、
中国経済の牽引車として発展していきます。
我々の汕頭撤収の翌々年84年、政府の発表により輸出加工特別区は、単なる
外貨目的だけではなく、世界の技術、管理、知識及び対外政策の窓口と位置付
けされ沿岸14都市に拡大され、更に88年には長江、珠江デルタ地帯へと、
即ち80年の最初の4都市(深セン・珠海・汕頭・厦門)の点から沿岸地帯の
線へ、更に大河流域の面へと拡大すると共に、それにより中国経済も大きく変
貌していくのです。
私のメルマガも本年1月より掲載し、その後確実に隔週掲載を続け、本号で半
年を経過しました。
その間主として広州、汕頭を中心にした華南地帯についての様々な経験を述べ
て来ました。
その間メールにより、様々な方よりご感想、ご意見を頂戴した事を深く感謝致
します。
何分殆どを私の記憶だけで執筆している物だけに、誤った記載も多く、その都
度メールで御指摘頂き、真に申し訳なく存じております。
来月よりは華東、華北と北上し、やはり20年前の、現在とは異なる中国事情
の、私の業務を通して見た或いは感じた、思い出の数々を記載していきたいと
考えております。
こういう表現が現在は不適切かと存じますが、所詮「群盲象に触れる」類の文
章の羅列になるのも覚悟の上で、敢えてあと年内一杯掲載を続けていきたいと
存じます。
どうか引き続きお付き合いいただきますよう宜しくお願い申し上げます。
遊 庵 散 人
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┃★┃ お便りで頂きました感想。
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┌────────「ヒデさん」男性@四十代@会社員@大阪 2005/03/04
スワトウ撤収物語を拝読させていただきました。
本文中、
「難易度の高い商品の受注を嫌い、生産の簡単な商品の発注を望み、
さらに、一品当たりの発注数の増加を要望してきた」
と記述されているのを見、現在、我々にふりかかっている事情と似ています。
これぞ中国ですかね。
ーーそのスワトウに今年、進出を考えています。
└──────────
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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