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★ 遊 庵 散 人
★ ---------- China,20years ago ----------
★ 殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
★ 1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
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<< まえがき >>
約一ヶ月前の繊維業界新聞のコラム欄に、次の様な記事が掲載されておりまし
た。
その記者が最近上海空港で、寧波行きの便を待っている時、同様に待っていた
一人の日本人女性は、やはり繊維業者の企画担当者で、単身寧波の工場に出荷
前製品の検品に行くとの事、極めて軽装で全く手軽に海外の工場へ行く、彼女
の姿に発展した日中繊維貿易の時代を感じたという様な文意だったと記憶して
おります。
それを読んだ時、やはり私は約20年前の様々な出来事が、自然に思い起こさ
れてきました。
私が始めて女性手編み技術者を連れ、汕頭に入ったのは1978年の暮れで、
私にとっては同年秋の初訪中より三度目の出張からでした。
彼女は編み物や手芸の技術については師範の資格も持ち、現実に国内で制作の
指導も行い、自ら製品も作成し販売もしておりました。
その意味では経験充分な専門技術者でした。
数年後、手編みセーターとは別アイテムとして、我々が取り上げた手動式セー
ター編み機による生産(これが現在も中国生産セーターの主流を占めるのです
が)の現地派遣指導者として、当時国内一流の生産工場で、三十数年の経験を
積んだ超ベテランの男性エキスパートが、我々の事業に参加し協力してもらっ
たお陰で、それでも常に様々の問題を発生させつつも、事業を堅実に伸展させ
る事が出来ました。
爾来20余年を経過、中国よりの輸入セーターが日本市場の大半を占めるに到
りました。
その現地生産に際しては、中国の経済体制や、工場の取り巻く環境が、以前よ
り比較にならない程変化し、進歩したとはいえ、現在もやはり生産に対する日
本よりの管理、指導が絶対不可欠と言われており、その為に益々多くの訪中要
員の往来や現地駐在が当然の如く増加し、そうしてその成果を上げつつありま
す。
しかし僅か20余年前、そんな当然な事がとても容易に行う事が出来ませんで
した。
中国入国さえその手続きが煩雑でした。
技術指導という言葉さえ技術交流と改めさせられました。
そういう中で我々の行ってきた事は、正に時代の先駆者的行動であったと自負
しております。
改めて当時の積んでも積んでも崩れ落ちる「砂の器」の様な苦い経験の数々
を、冒頭の業界紙コラムを読みつつ想い起こした次第です。
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<< 本号の内容 >>
◆◆ 「シジフォスの神話?」
★ 女性技術者の「思い出すのも嫌」な数々
★ 薄暗い工場、埃をかぶった機械での操業
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★ 女性技術者の「思い出すのも嫌」な数々
「前書き」で述べた様に、我々の汕頭手編みセータービジネスに、技術指導の
為当初より協力してくれた女性がいる。現在も彼女は高級アパレルの、企画嘱
託として忙しく活躍中であるが、彼女に対し今回のこの随想記に、やはり彼女
自身の生々しい体験談を掲載するのは意義有る事と考え、その意向を申し入れ
た所、彼女から先ず返ってきた答えは「当時の経験は思い出すのも嫌」という
述懐の言葉だった。
約三年間に亘るこの汕頭業務で、彼女の現地訪問は、二十回に近かっただろう
し、延べにすれば百日に近い滞在だった。
男性でも耐え難かった、広東省の農村での業務の日々は、女性である彼女には
甚だしい苦痛の連続だったのは理解できる。
以前にも書いた様に、当時は未だ我々が工場を訪問するだけで、門前は現地の
人達による、黒山の人垣が出来た時代である。
況わんや女性は興味の的だった。
その停車した車を幾重にも取り巻いた群衆は、顔を車の窓ガラスにくっつける
様に無遠慮に覗き込む視線は、やはり車内の女性に集中する。
これは堪らない事だ。
当時の中国の農村は樹木の緑は別として、それ以外全くといっていい程色のな
い世界。
建物も大地もそこに立っている男女の服装も含め、僅か露店で売っている煙草
のカラー包装のみが目立つ程、全てがグレーいわゆるアースカラーの世界だ。
その中で日本女性の、先ず服装の色が彼等にとって、全く異常に見えるのだろ
う。
それは外人特に女性を見る事の無かった農村、テレビや雑誌等で海外の服装に
も接した事のない人達にとって、その奇異な感は当然の事だったであろう。
広州市内に於いても、彼女が夏場Tシャツ姿で外出した時の、その周囲を囲む
中国人の目は忘れない。
彼等にすればどうして女性が下着姿で街を歩くのかと見た様だった。
そうして何より彼女にとり耐えられなかったのは、ホテルでさえ満足に湯も使
えず、水も殆ど出し端は黄濁した泥水に近く、暫く出したままにしやや澄むの
を待ち、使用せざるを得なかった事等は、女性にとっては極めて不快な事だっ
たと思う。
更に最大の苦痛はトイレの問題である。
農村の各工場を回る日、彼女は朝から水分の摂取を極端にセーブした。
工場でしきりに勧める茶も彼女は先ず口にしなかった。
大都会上海の列車中央駅(現在は移転し改装)のトイレへ、日本より中国へ初
めて出張してきた若手社員を先ず連れて行くと言っていた商社の上海駐在員が
いた。
勿論男性用トイレだが、小用はともかく大用の方すら、仕切や個々の囲いも無
く、ただ落とす為の溝が一列掘られているだけで、使用者は全てオープンで横
にかがみ込み、用を足している状況を見せて「これが中国だ」と先ず認識さす
のだそうだ。
ましてや我々の業務地は農村地帯の工場である。
そのトイレがどんなものか説明の要はないと思う。
その為彼女は朝から水分の摂取を可能な限り避け、何とか再びホテルへ戻るま
で、その使用機会の無い為の努力をするのである。
万一どうしてもその必要に迫られた時は、我々より工場側に依頼し、適当な年
配女性にトイレの入り口を厳しく張り番をしてもらい、余人の入るのを完全制
御してもらう手段を執る。
彼女は与えられた仕事は充分の使命感を持って当たり、更に生産指導に対して
は、絶対妥協を許さず厳しい姿勢で臨む文句無い指導業務をこなしてくれた。
しかしこの様な現地での生活だけは、容易に耐えられるものでなく、それが今
になっても「思い出したくない」悪夢の印象として残っている様だ。
彼女にとって汕頭へ入る唯一の個人的楽しみは、その往復に通過する香港での
ショッピングにあった様だ。
さて仕事での苦心談に入る。
過去のこのレポートでも幾度か書いた様に、レース編みとしては著名な汕頭も
同じ手編みのセーター作りについての技術は各人で持ってはいても、それは全
く我流であり、その作り方も千差万別、とても商品として均一性もなく日本市
場に持ち帰れるものでなく、結局基本からの生産指導を必要とした。
それは日本技術者の懸命な努力で、困難を伴いつつも技術は確実に進歩した。
その理由は、レース編み手編みの基本技術があった事、中国人特有の器用さ、
幹部のみに問題点を徹底指導すれば、それが当時の人民公社組織を経由して、
素早く末端作業員まで徹底出来た事。
ただ幹部工員に対する重点指導に際し言葉の問題はあったが、協力願った商社
通訳よりも(彼等にも専門用語は翻訳不能)むしろ当方の指導者が、現実に編
んで見せる事により、先方も容易に理解し得た。
最大の問題は生産中に於ける汚れの発生だった。
これは日本市場への商品としては絶対妥協出来ぬ問題だったが、現地の生産状
況を知る我々としては非常に苦しい対策を強いられた。
これら手編み製品の現物生産の作業場は、人民公社管理の農家の納屋内での集
団作業か、或いは各農家の自宅内での作業であったり、何れにせよ薄暗い土間
の上に、小さい腰掛けを置きそれに座っての手作業であった。
酷暑の候には殆ど窓もなく、勿論冷房もない納屋や屋内での作業に耐えられず
作業者は屋外の木陰に椅子を持ち出し作業するその横を、土煙を上げてトラッ
クが通り過ぎる様な場所で、そうしてじっとしていても汗が吹き出る様な暑さ
の生産環境の中で、更に原料、付属、製品の運搬は自転車の荷台に縛り付けて
これらを運ぶ様な輸送手段では、我々がそれ等を「汚すな」という方が無理な
話だった。
更に多発した問題点は、送付した原料や付属の紛失や不足の問題だ。
日本より発送するそれら貨物は、厳重に数量、品質をチェックの上、我々が持
ち込んだり送付するのだが、それでも数量不足というクレームが頻発する。
我々は悪意で先方が紛失さすとは考えないが、公司に到着した貨物の検品ミス
であろうと推定しながらも、しかし足らないと云われた以上、我々はそれを再
度補充せざるを得なかった。
公司に到着したそれら貨物を、各作業場へ運搬する際のミスも指摘される。
或る工場では正直に自転車で運搬中荷台より落としたとの届けもあった。
セーターに取り付ける米粒大のビーズ等、作業中の土間にこぼれ落とせばもう
探し様もない。
ブランドラベルも良く不足の対象になった。
某作業場を訪問した際には、その不足と言われたブランドテープで商品を縛る
テープ代わりに使われているのを見て唖然とした。
結局我々の指導は基本的な「生産管理」と「汚れ防止」の徹底から始まった。
それらの意識改革と、特に汚れ防止には土間の上での作業には必ず筵を敷く事
の実行、原料、半製品、製品は絶対土間には直接置かず、作業中以外の物はビ
ニールシート(日本より持参)で覆う事、これらの実行と生産後の検品体制の
強化を指導した。
その上で更に日本へ入荷後、再検品再仕上げ体制の確立を実施した。
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★ 薄暗い工場、埃をかぶった機械での操業
広州とその周辺で手動機によるセーター生産を目指し、その調査に入ったのは
初訪中の翌年1979年の年末だった。
先ず我々としては方々の工場を調査し、その中より幾つかの工場を選定し、先
ず試験的にオーダーを出す。
更にその中から将来良品生産の可能性有る工場を指定し、その工場に対し重点
的に技術指導の上、今後継続生産を行うという方針で臨んだ。
そうしてその為の工場調査を開始した。
広州周辺の工場視察も大変だった。
当初試験的に生産投入をすべく、視察出来た数工場の内一工場を選び、日本よ
りの同伴技術者により、生産についての詳細な説明を行った。
翌月訪問するとその生産は全く別工場で行われていた。
当然前回指示した注意点は無視されている。
我々はこの背信行為に対し烈火の如く怒った。
それに対し公司は平然と答えた。
「公司にも貴方にも工場指定の権限はありません」
納得できないままその工場変更の理由を聞くと、この国の縦割り機構に起因し
ている事が判明してきた。
我々一般的に考えれば貿易公司が受注した商品を、傘下工場の内より、そのス
ペースと受注商品の品質レベルと工場の技術レベルを勘案し、適当な生産工場
を決定すると考えていた。
しかしそれはとんでもない誤解だった。
実態は、客先も貿易公司も、生産工場の選択決定権は殆どない事が判明してき
た。
中国では組織上生産工場は貿易公司の傘下ではないのである。
我々の商談先の貿易公司は、対外経済貿易部総公司傘下の紡織品貿易総公司の
更に下部、広東省分公司となる。
しかし生産工場は紡織工業部総公司傘下の毛紡織品総公司の広東省分公司に所
属する。
公司と工場では上部所属機構が全く異なる訳である。
その為貿易公司の受けた受注を配分する裁量、決定権は貿易公司にはないので
ある。
もっと平易に言えば一方は貿易省、一方は工業省所属で、他省に対し勝手な指
示行動は了解無くとれないわけだ。
毛紡織品公司としては貿易公司の受けた全受注製品を、各工場へあくまで公平
に生産配分をするというのが、彼等の基本方針である。
従って我々が技術指導をしてくれるなら、一工場向けでなくその管轄下の全工
場の幹部技術者を集めるから、その席でやって欲しい。
これが先方の回答だった。
我々に希望する工場視察にしても、貿易公司から上部機関に申請し、それが毛
紡績分公司上部の視察許可を得て、ようやくその工場を訪問する事が出来る。
その工場の所在地が隣町の外人非開放地域の場合(当時は殆どが非開放地区)、
又その方面への立ち入り許可証を申請し、決済を得た上訪問する事になる。
ともかく一事が万事全てが申請、決済の繰り返しでその組織の壁の厚さに悩ま
され続けた。
これは、公司と工場間の問題に止まらず、前回までのレポートに度々書いた様
に貿易公司と運輸公司の問題、或いは貿易LCを巡る貿易公司と銀行の問題。
更にその各公司内部に於ける課(中国は科)と課の問題。
そのそれぞれに障壁がある。
汕頭での手編み製品の場合は、彼等が人民公社生産大隊の所属下にあり、農業
生産の内職的生産形態の為、我々の生産指導を容易に受け入れたという事らし
い。
そうして苦労しながら視察した幾つかのセーター工場は、とても仕事を出せる
様な工場は一つもなかった。
それもあのメンツを大事にする中国で、彼等が見せても良いとセレクトした優
良工場にしてそんな状態であった。
先ず建物のお粗末さはやむを得ないとしても、些かも生産に対する合理的レイ
アウト等考慮されていない。
ただ建物を建て、中に適当に設備を入れたというに過ぎない工場自体に驚かさ
れた。
内部は窓も少なく、高い天井の所々に灯された電灯だけの照明では、とても暗
くて製品を作る雰囲気はない。
土間、又はコンクリートの打ちっ放しに近い床の上に置かれた編み機や諸設備
は、稼働中のものも含め埃に覆われ、方々に放置された製品、半製品も殆ど裸
状で積み上げられた状態では、その少し前我々が指導協力してきた台湾の工場
水準と比較しても、その生産環境の水準格差は歴然としていた。
取り分け工場従業員の就業モラルは、目を覆いたくなる状態だった。
工場内のあちらこちらに、仕事もせず屯し雑談に耽る者、機械の横で物を食っ
ている者、やはり工場内で子供を遊ばせている者、ともかく設備や生産量に対
し余りにも人が多く、その事を工場幹部に聞いてみると、全て工場人員は国よ
り割り当てられるとの事、日に三回届く郵便物を、門より事務所へ運ぶ専任者
が三名と聞いて唖然とした。
余りにも雑然とし汚い工場内を、少しは整理整頓し掃除でもしたらどうかとい
う、当方の意見に対し工場長曰く「もう一ヶ月もすれば春節休暇に入るから、
その前に掃除はやる」と平気で言う。
つまり工場内整理は年一度やる考えの様だ。
毎日の終業時に必ず、担当機械やその周辺を掃除する習慣を持つ、日本国内工
場の常識とは余りにもかけ離れ、これだけで日本市場向け製品の生産には失格
である。
それに彼等の言う生産最小ロットが、日本市場を考えた場合桁違いに大きい。
当時通常一型セーターで百ダース、カットソーの場合千ダースの数字の要求で
は、今日程の多品種少量てない当時でも、簡単に発注できる数字ではない。
ましてや我々の狙う商品ターゲットは中高級市場だ。
当時中国側より「貴社は日本を代表する大企業、それなのにどうして注文数が
少ないのか」何十回聞かされたか判らない。
結局我々は広州での手動機によるセーター生産を断念した。
敢えて発注するには余りにも問題が有り過ぎた。
「我が公司は世界中(当時は未だ共産圏諸国が大半)に売っているのに、何処に
問題があるのか」
彼等は執拗だった。
しかし私はその際日本市場の厳しさと特殊性を、彼等に説明しても到底理解し
て貰えないと判断した。
これは当時は広州だけでなく上海も北京も全く同じ様な工場水準だった。
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<<あとがき>>
「えらいすんまへん(本当に済みません)」関西出身である私が、当時商社の中
に席を置いていて、毎日の様に電話に向かって客に謝るこの言葉が、その周辺
に座る商社マンやOL達の流行語となった程、バカの様に繰り返す業務が暫く
続きました。
それは、本来経験の蓄積により、同じ様に蓄積される筈の生産ノウハウが、商
品、地域、公司、工場、更に担当者により全く異なる事が多く、問題続発の因
でした。
エラーの経験が、次の業務に反省点として活かされる事は先ずあり得ないので
す。
うまく行った業務を、次の業務で繰り返しても、それがエラーになる事も度々
です。
それでもその様な不合理で不透明な生産環境の中で、辛抱と忍耐と手探りの連
続で、遅々としたスピードながら、当時の中国に於ける「物づくり」のノウハ
ウと迄はいかないにしても、「コツ」程度の物は徐々に会得していった様に思
いました。
当時私はルポライター柳田国男氏著の「ガン回廊の朝」を読み深い感銘を受け
ました。
当時は対ガン治療に対しては殆ど未知の分野であった医学界の中で、日本の優
秀な医師達が、それこそ手探り的に彼等自身で独自の医療機器や、新しい治療
方法を開発しながら、時には予期の成果も得られない中で、本当に僅かずつ僅
かずつながら、治療成果を上げていく実に涙ぐましい努力に就いてのルポでし
た。
それが今日のガン治療の基礎になっている事は申すまでもありません。
これを読みながら、それを当時の我々の苦労に置き換えるのは真におこがまし
い話ですが、我々のやり始めた中国繊維製品貿易に対する全く初期段階の経験
が、何時の日か今後の相互取引発展の為に、何らかの貢献になれば結構な事だ
と考えておりました。
勿論当時は、とても今日の様な発展をみる事まで、到底予測は出来ませんでし
た。
遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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