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                            遊 庵 散 人
         ---------- China,20years ago ----------
           殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
         1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
    
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<< まえがき >>

前号に於ける「次号予告」では「技術指導」について述べる予定でしたが、そ
れを訂正し、今回はその技術指導の前提となる、現地に於ける業務全般の苦心
譚の幾つかの紹介より入りたいと思います。

その業務に対する見聞を述べる際、何度も申し上げております様に、私は繊維
それもニット中心の業務の為、その限定された経験で申し上げる外無く、これ
はやむを得ない事と御断りしておきたいと存じます。

1978年にスタートした私の中国ビジネスは、無我夢中の内に経過した、約
五年程の出来事を振り返って、自身しみじみ考えた事があります。
いきなりギリシャ神話を持ち出して恐縮ですが、有名な「シジフォスの神話」
があります。
ゼウスに憎まれたシジフォスが地獄で科せられた刑罰が、山頂から落下してく
る大石を、必死に押し上げるのですが、上げた途端大石は又落下し、それを又
押し上げる刑罰です。

その無限に続く様な次々と発生する困難な問題は、処理しても処理しても絶え
る事なく、災難は様々な形で我々に降りかかります。
その原因は基本的には、日本の厳し過ぎる程の市場(これも国際的には少し異
常でしょうが)に対する、中国側の認識と理解が絶対得られ無かった事が最大
の要因だったのでしょう。
余りにも中国人が身近に接している、自国の市場との格差が余りにも大き過ぎ
た事が問題でした。

それ等問題点について、中国側は一向に理解する風もありません。
更に日本の客先側も、発生する諸問題に対し、中国生産という事で、或る一定
の理解は示して頂けるものの、そう簡単に理解、妥協してもらえるものでもな
く、その結果中国側には説得し協力を頼み込み、客先側には謝罪し了解を取り
付ける日々の連続でした。
何とか早くお日様の下を歩ける様な仕事にしたい、これが当時の私の述懐でし
た。
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<< 本号の内容 >>

◆◆ 「シジフォスの神話?」

  当時の年間生産計画と対応

  輸送の隘路…貨物は何処に
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  当時の年間生産計画と対応

「中国との商売は一年がかり」

既に日本国内では、当時短サイクルによる生産期間の短縮化が叫ばれかけた頃
にかかわらず、中国との商売は別格扱いに考えられていた。
我々も客先より注文を頂くに際し、中国の諸事情を縷々説明しながら、製品発
注を、他の一般商品の発注とは別格に配慮願い、遥か早期に先行発注頂く様努
力した。
はっきり申せばその条件でしか、我々は受注を頂かない方針で望んだ。

「婦人セーター」に例をとりその企画から、日本国内の小売り店頭に並ぶまで
の、当時の中国生産基本スケジュールに就いて述べてみよう。
商品的に秋物セーターが小売店頭に陳列されるのは、当時(今は全般的に遅れ
ている)いわゆる八月の旧盆が終われば、徐々に店頭商品は夏物から秋物に移
行する。
従ってアパレル(衣料卸店)が要求する商品納期は八月初旬から九月の要望が
圧倒的に多かった。

その商品に対し我々が原料の段階から準備に入るのが、前年の九月頃からだか
ら正に「中国との商売は一年がかり」と言う表現は全く妥当なものだった。
その、セレクトされた素材を元に、主にデザイナーの手により企画がまとめら
れ、十月には第一回のサンプル作成を中国側に依頼する、勿論当時は原料から
副資材(ボタン、ホック、ビーズ等)の一切を、全て我々が日本で手配しそれ
を現地へ持ち込んだ。

その最初のサンプルは順調にいけば、年内に上がり客先に届く。
当然そのサンプルは客先の要望で、2回或いは3回と変更されたり修正されし
て、何とかいわゆる旧正月(中国の春節…大体一月末か二月)迄に価格交渉も
終え、正式契約を完了する。
次ぎに困難だったのは客先が三月頃催す展示会に必要な、各スタイル各カラー
最低一枚のサンプルの手配だ。
これがなければ客先の販売が不可能となる。

それと並行し日本国内では紡績或いは糸商への原料発注、副資材の手配に忙殺
される。
そうしてそれらを二、三月には中国へ向け発送。
その原料は三、四月に工場に到着し、工場は本格生産に入る。
我々の製品船積み指定は六、七月で、予定通り積まれた製品は、七、八月日本
到着、我々はそれに対し国内で全品検査の上再仕上げを行う。
かくして客先の要望通り、八月初旬から九月に納入する事になる。

これが基本進行日程であり、万事此の通り進行すればほぼ問題ないのだが、殆
どの場合この日程の至る所で齟齬が生じる。
その齟齬の要因を一つ一つ挙げれば、幾ら紙面を費やしても言い尽くせるもの
ではない。
しかし敢えて要約して述べるとするならば、双方のコミュニケーションの不徹
底であり、その基礎にあるものが、当時の中国の不完全なインフラ事情と、公
司の縦割り行政にあったといえると思う。

先ず言葉や文書の問題にしても、現在と違い当時は、双方にお互いの言葉や文
書を理解する人は極めて少なかったし、特に我々を悩ませたのは、繊維製品に
就いての専門用語は概ね現物を前にしての手話しか仕方なかった。
その上さすが広大な中国、華南、華中、河北では業界専門用語の表現も、些か
異なる点もあり、我々をまごつかせた。
現在は日中繊維用語辞典まであり、これらの困難は除去された。

我々は中国側に表現を理解させる為、早い時期に留学で東京に来ていた元ニッ
ト公司の女性に協力を依頼し、日本側より手渡す企画書、修正指示書等一切の
書類は中文に翻訳しそれを中国へ持参した。
ただ中国側にはコピー機も殆ど使用出来なかった為(コピー機が無いか有って
も殆ど故障或いは用紙の不足等)出張前日はまるで製本工場の様な忙しさで、
公司、分公司、工場向けの書類をコピーした。

現在の様に日本語で制作した企画書、修正書を一式工場宛にフアックスで流せ
ば、それを受け取った相手側は直ちに翻訳し、コピーし工場が全てを理解出来
る現在。
サンプル用の原料や副資材を、EMS等の国際特急便で送っておけば、数日の
内に確実に工場に届き、着実に作業を進められる現在。
中国工場が近代化され、その様に仕事がスムースに流れる様になったのは恐ら
く90年代に入っての事だろう。

我々は上記生産日程をより確実に進行させる為には、我々自身の人力によるハ
ンドキャリーが、唯一の手段だった。
1985年頃までの我々の中国出張で、その都度携帯した貨物(往路は原料、
復路は製品サンプル)は平均150キロを越えた。
最高は300キロ。

それを大抵一人で運んだ。
空港で満載したカートを一人で3台操作する特技も身に付いた。
一回のエクセスチャージは何時も15万円は下らなかった。

初訪中の1978年は成田開港の年である。
ハンドキャリーする貨物について、空港との往復輸送や空港内のカートを使用
しての移動で比較的問題はなかった。
しかし、中国内の空港での運搬は、トラックで所定位置に放り下ろされた荷物
を、当初は全くカートもなく、持ち込んだ大抵十数個のパッキングケースを、
一個一個税関まで担いで運び、検査後又それを出口まで運び出す、これはかな
りの労力を要した。

何故これ程の費用と労力をかけざるを得なかったのか。
答えは、前述の基本スケジュール通り、生産を進行させ客先へ契約通りの商品
を、指定納期通り納入するには、その手段しか無かった事に尽きる。
中国は1970年代までは、一部共産圏を除き貿易業務は殆ど停止状態にあっ
た。
その為、港湾、空港、道路等いわゆるインフラ関係の整備は、ほぼ戦前の水準
だったと言える。

これが先ずネックの元凶だった。
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  輸送の隘路…貨物は何処に

それらの問題を私の経験から述べていきたい。

汕頭での業務に於いて先ず航空便を利用する場合、汕頭→広州→香港→日本へ
と運ばれる。
日本からの場合はその逆だが、汕頭ー香港間の貨物が完全にトレース出来なく
この段階では貨物が出されていても、何処で聞こうが、何処を調べ様が、いつ
積むのか、いつ到着するのか調べ様のない空白状態になる。
そうしてある日突如着いたとの知らせを受ける。

航空便の問題での苦労話としては、比較的問題の少ない上海よりの便で、これ
は現在も引き続き発生している問題の様だが、船便で積み遅れ空便に変更した
セーター輸送に対し、それが時期的に丁度上海よりの上海蟹、松茸の日本向け
空輸のシーズンと重なる。
当然生鮮品優先で我々の貨物はドンドン後回しにされる。
便数が現在と比較できない程少なかった当時としては、致命的納期遅れの要因
となった。

汕頭よりの船便は不定期だが日本への直行便が月一便有る。
それ以外は香港で積み替え日本に送る。
このトランシップも途中で貨物は一旦消えて行方不明となる。
私の中国業務は日本を代表する大商社の嘱託業務であり、当然香港にも支店は
あり、広州にも駐在員が常駐していた。
当然それらの担当者の方々も、随分現地で骨折りいただいたが、それでも輸送
中の貨物のトレースは、殆ど不可能だった。

汕頭より横浜への直行便が出るというので、それへの貨物の積み込みを指定し
た。船は予定を少し遅れ汕頭を出港。
しかし一週間で着くと言う船が半月立っても連絡はない。
納期も迫りイライラする中、一ヶ月近くして船は横浜に入った。
その遅れた理由は重い墓石を大量積んでいたので、予定を変更し北海道へ先行
し墓石を降ろしたとの事、公司に文句を付けると回答は「この船に積めと言っ
たのはお前だ」

上海や青島は中国を代表する貿易港である。
日本より直行すれば航海は三日で到着する。
日本より原料貨物の船積みと出港を確認し、その到着予定を見計らい我々は現
地に飛ぶ。しかし貨物は幾日待っても到着しない。

待ちきれず私は上海より青島へ飛んだ。
上海を飛び立つと機は揚子江河口を横断する。
その揚子江上に数十隻の貨物船が停船している。
その全ての船が上海港での着岸待ちなのである。

飛行機は青島に近づく。
そうしてここも上海と同様、港外の洋上に数十隻の貨物船が、入港の順番待ち
をしている。
つまり殆ど戦前と変わらない港湾施設とその処理能力に対し、急速に始まった
海外貿易に対し、完全にパンク状態になっているのが最大ネックだという事を
実感した。
当時客先より製品の入荷遅れを指摘された時、私は冗談でこう言った事がある

「もう少し待って下さい、今港を作っていますから」

次の要因は公司(お役所)による縦割り業務の弊害だ。
我々の当面の相手は貿易公司営業課である。
工場で生産された製品は、営業課から公司内の運輸課に渡される。
この段階で営業課の仕事は完結する。

運輸課はそれを運輸公司に渡す。
これで貿易公司の業務は完結する。
運輸公司の内部にも幾つかのセクションがあり、それをひとつずつパスする度
に、仕事の責任は終結し「後は知らないよ」となる。

今の日本でも「聖域無き行政改革」と叫ばれているが、当時の中国は仕事に関
して隣の領域は全て侵さざる聖域だった様だ。
だから我々は常にイライラしつつ幾ら担当者に向かい「一寸踏み込んで調べて
くれ」と頼み込んでも、答えは何時も「判らない」或いは殆ど適当に黙視され
た。
国内では客先より「一体どうなってるのか?」との厳しい質問にも、とても客
先を納得させる回答は出せない状況が続いた。

この私のメルマガ初期のビザ発給の際にも書いた様に、このお役所仕事の弊害
が万事の業務の足枷となり、我々を大いに苦しめただけでなく、今日の中国経
済としての大問題である、殆どの国営企業大赤字現象に至らしめた原因である
事は申すまでもない事だ。

その当時彼等の間で言われていた「鉄飯碗」
…落としても割れない鉄の茶碗…
失業が無く、賃金は確保され、ポストも安泰…に全て甘んじていた。

更に当時よく聞かされた「鉄飯碗」と殆ど同意語の「大鍋飯」は共産主義国家
の大前提である、一人の失業者も出さない完全雇用政策である。
一つの釜の飯を、皆が分け合って食べる事を意味するこの言葉は、反面懸命に
仕事しようが、怠けていようが、得るものは一緒であり、これでは他人の仕事
の領域まで踏み込んで、現状を調査しようという気の起こらないのは、むしろ
人間として当然といえるだろう。

今回は我々が常に苦渋を味あわされた、貨物輸送の問題に関するネックに就い
て一例を述べた。
更に我々が経験した事実の数々まで書けば、紙面が幾らあっても足りない事は
言うまでもない。

次回は生産についての厳しい体験と、それに対応した我々の技術指導の困難な
問題や、当時の中国人の仕事に対する使命感等から、我々のビジネスに於ける
苦心談を、要約しながら述べていきたいと考えている。
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<<あとがき>>

「いい歳をして一体何をしているのか!」との厳しいご叱責を、客先より頂戴
したことがあります。
そう言われても仕方がない様な失敗談を最後に披露いたします。

客先の秋冬物展示会用の大事なサンプルの納期が迫ってきておりました。
サンプル用素材は前回持ち込み、次回訪問時までに上げてもらうよう工場にも
特に依頼し、その確認も取り付けておりました。
それを引き取る為、翌月再び汕頭に入りました。

所が懸念が的中しサンプルは未完成です。
汕頭ー広州の便は当時週二便、私は厳しいネゴの末、持ち帰ってギリギリ展示
会に間に合わせられる為の、五日間の余裕を与え、その飛行機が出発する前日
迄に、私の宿舎に届ける事との確約を取りました。
しかしその夜になり明朝にして欲しいと変更になり、最後は当日朝になり空港
へ持参するとの回答に変わりました。

私は空港へ行きイライラしながら待ちました。

やがて搭乗のアナウンスが流され乗客は機の方に向かいます。
この便を延ばせば次便は三日後、これではその時持ち帰る他のサンプルも遅れ
ます。
やむを得ず空港の原っぱを歩き搭乗すべく機に向かいました。

その時原っぱを一台の小型トラックがタラップ目がけて駆けてきます。
工場の車です。
ようやく間に合わせてくれた、良かったとの安堵感で一杯でした。
ケース三個の荷物を急いで機中に引き上げました。

今考えると、出発直前の飛行機のタラップの下まで、よく車が入れたという事
実、更にパッキングケース三個の荷物を、そのまま客席へ持ち込めた事実、こ
れらは如何に中国とはいえ今では考えられぬ事でしょう。

ともかくその状態のまま、広州更に香港と乗り継ぎ、当日夜成田空港まで持ち
帰る事が出来ました。
そこで待機していた再仕上げ工場の車に同乗し、東京の工場へ持ち帰ったのは
既に深夜でした。

ところが悲劇はその後に起こりました。

早速仕上げすべく先ず今朝空港で受け取ったケースをあけ愕然としました。
数量こそあっているものの、内容は現地で私が幾度も指示し確認した内容と、
まるで違ったサンプルが入っていたのです。
もうどうすることも出来ず、余りの情けなさと怒りに眠れぬ夜を過ごし、翌朝
取り敢えず客先へ謝罪に行った際、客先担当者から言われたのが冒頭に書いた
厳しい言葉でした。

「どうして受け取ったとき確認しなかった」
「高い旅費を払い取りに行って一体何をしてるのか」

全てが尤もなことで、反論の余地は全くありません。

現地に於ける経過、状況を説明しても理解して貰える筈もなく、ただ平身低頭
謝罪を繰り返す外はありませんでした。
しかしこの様な事は当時中国業務に関係した方なら、業種を問わず大なり小な
り、多かれ少なかれ皆さんが経験された事ではないでしょうか。

                           遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
紅い中国の時代の目次に戻ります







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