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                            遊 庵 散 人
         ---------- China,20years ago ----------
           殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
         1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
    
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<< まえがき >>

1978年の初訪中以降、殆ど毎月の様に中国通いを続けて、約2年が経過し
た頃より、よく人から「貴方程よく中国へ行っていると、もう中国の事はよく
理解できたでしょう」と言われる様になりました。
これはとんでもない話です。

そう聞かれる度私はこう答えていました。
「何度行こうが行く程ますます判らない国だという事が判れば、それが中国を
理解した事ですよ」と変なロジックで説明しました。

数十の国家に分割されたヨーロッパと、ほぼ同面積の単一国家中国を考えると
き、欧州が他民族、他言語により成り立ち、中国は殆どが漢民族が占め、言葉
も中国語(普通話)で一応統一されているとはいえ、やはり北と南、東と西で
はそこに住む人の考え方、生き方も自然大きく異なるのも当然の事です。
言葉ですら通常彼等の使う地方地方の現地語は、普通語といわれる標準中国語
とは全然異なります。

よく日中友好の合い言葉として「一衣帯水」といわれますが、如何に地理的に
近い隣国とはいえ、そうして如何に日本の文化のルーツが、中国より渡来した
ものであっても、あの巨大大陸の中国と、狭隘な島国日本とでは、その後の歴
史の流れの中で、培養されたお互いの国民性に於いても、大きな差異が生じて
いるのも当然でしょう。
加えて国の政治体制まで大きく異なる現状に於いては尚更の事です。
それを数年の訪中で、相手を理解したと思う事こそ誤りであると思う様になり
ました。
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<< 本号の内容 >>

◆◆ 毛沢東に対する不可解な人民意識

  毛沢東と天皇陛下

  したたかな中国民族
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  毛沢東と天皇陛下

1979年秋頃汕頭での或る宴会の席だった。
その雰囲気は真に和やかで、楽しく会話が弾んだ愉快な一時だった。
その時たまたま人間の健康法について話が及んだ。

御承知の方も多いと思うが、中国の朝は老人達の体操から始まる。
三々五々一寸した広場や路上でグループを組んだり、或いは単独でゆったりと
太極拳を行う人、激しい動きの拳法を行う人、優美に剣を使っての剣舞等様々
行われている。

一人で片足を柵の上に上げ、屈伸運動を繰り返している老人もいる。
考えれば体を鍛える為の運動というものは、金をかけなくても、何処の場所で
あっても、本人のやる気があれば出来るものだと、その様な風景を見つつ何時
も思った。
日本人の様に金をかけてスポーツジムに通ったり、早朝から遠方まで車を走ら
せゴルフに興じる事も、体の為と言いながら、多分に遊興の気も無きにしもあ
らずだろう。

宴会の席でそれらの事も話題に上がり、それぞれ出席の中国側幹部達は、自分
は何をやっているかを披露し自慢した。
所が驚いたことに、それらの簡単な体操を奨励し、全中国の国民に実行させる
様にしたのは、何と彼等の話では「偉大な毛主席」の指示によるものだと言う
事だった。
さすが人民解放の大革命家だけあって、この様な人民の健康の為、細かい所ま
で指導しているものだと感心させられた。

聞けば「老人の為の健康法」と称する何ヶ条かの項目があり、たまたま私の隣
に座っていた若い女子通訳も、それを暗記していて一ヶ条毎、中国語と日本語
で私に説明してくれた。
もう殆ど忘れたが、「良く歩け」とか「早寝早起き」とか「肉を少なく野菜を
多くとれ」「時間が有れば体を動かせ」等全く細かいその指示を私に伝えてく
れた。
それに対し私はそれを改めてその席の日本人に声高に伝えていた。

そこで私は大きなミスをしてしまった。
もう可成り懇意な連中との、珍しく楽しかった酒席の雰囲気の中、私の酒の過
ごし過ぎもあったのだが、ついその女子通訳の言う言葉を、茶化したような言
い方で、日本人に毛主席の遺訓を伝えた。
いわば私としては酒席の余興の様な軽い気持ちだった。
例えば「酒をよく飲め」「肉は良く食え」「夜遊びに励め」等の他愛のない酒
席の冗談のつもりで出た言葉だった。

途端に先ず女子通訳員の顔色が変わった。
そうして表情を固くし、一切口を閉ざしてしまった。
彼女のその態度の急変を見たその席の中国人達も、全員喋るのをやめた。
勿論その席の人達は、彼女が毛遺訓を伝えていたのを知っていたから、それに
対し私が、何か失礼なことを言ったのだろうと察したのには違いない。
その急変に日本人側も訳の分からぬまま黙ってしまった。
一瞬にしてその座は白けきった。

勿論最も慌てたのは私である。
一瞬酔いが醒めたのは当然だが、この場をどう収拾すべきか、混乱した頭で考
えた。
取り敢えず日本人に対し私が毛主席の遺訓を茶化して皆に伝えたこと、それが
中国側の気に障り不快の念を与えたのであろう事を説明し、通訳員にも失礼し
た旨告げて、何とかその場を繕った形で、その後の宴席は会話も弾まず、落ち
着かぬ雰囲気のままにその夜の宴会は散会した。

私自身が招いたこの不覚の、恐怖に近い原因を色々考えてみた。
何故私の悪意無い軽口があそこまで場を白けさせ、彼等に不快の念を与えたの
だろうか。
その結果ようやく推測し理解し得た事は、中国人にとって毛沢東は人民解放の
大恩人であり、新中国建設の絶対的指導者として、神以上の神とも言える尊敬
崇拝のシンボル的存在なのであろう。
その神の遺訓に対しそれを茶化す外人等は以ての外の事。

私はこう解釈するより考え様がなかった。
それは私の戦時中の思い出と重ねて考えたのは、もしあの戦時中外人が天皇陛
下のお言葉を茶化して、冗談の種にしたとすれば、やはり日本人として許す事
が出来なかったのではないか。
その様に考えると、あの日の出来事が少しは判った様な気がして、今後毛沢東
に対する発言は出来る限り控え様と考えた。しかし中国人の持つ強かさはもっ
と強烈なものだった。

  したたかな中国民族

その宴会の日より2年近くの歳月が流れた。
その間目に見えて中国内部でも様々な変化が見られた。
中央では毛沢東の後継主席、華国鋒が追放され、トウ小平抜擢の胡耀邦が党主
席となり、文革は否定され、次いでは先号にも書いた様に、毛沢東個人に対し
ても、「彼の後半の政策は失敗だった」と定義付けされるに至る様に、着々と
新しいトウ小平路線の確立に向けて、大きな変換を起こしつつあった。

それに伴い街の様相も徐々に変化が見られた。

先ず私がこの記録集の初期に書いたように、広州の街の至る所で目に付いた、
病床の毛沢東が華国鋒に向かい「君が後をやってくれるなら安心だ」と言った
という大看板は、先ず片っ端から取り外されていった。
そうしてやがて都会でも農村でも、溢れていた毛沢東の肖像画も、こちらの方
はそう急激でもなく、徐々にではあるが、撤去され始めた。

その頃私は相変わらず公司の人達とマイクロに乗り、汕頭周辺の田舎道を走っ
ていた。
その同乗の連中は殆ど2年近く前、あの私にとって忘れられない宴会に同席し
た者達である。
その車の前方から1台のトラックが土煙を上げこちらに向かって進んできた。
そうしてその車の荷台には取り外したばかりの毛沢東の大型肖像画数枚が積ま
れているのが見えた。
その途端私には信じられない光景が車内に起こった。

その時同乗の公司の彼等は、全員手を打ってその行き違うトラックを指さして
一斉に哄笑したのである。
一体この笑いは何なのだ。私はまるで理解できなかった。
彼等が2年前宴席で示した、毛沢東を神聖視した態度と、今の取り外された肖
像に対し、指さしし蔑視的哄笑をする、この落差は一体何なんだろうか。
あの時私が結論的に考えた様に、毛沢東は中国人にとって決して天皇陛下では
なかったのだ。

日本人は戦争中天皇を神とし、天皇の為という大義名分で、多くの人が死んで
いった。
当時中学生であった私すら純粋にそう信じていた。
戦後天皇観は一変され天皇自ら人間宣言し日本の象徴として存在しているのだ
が、終戦より今日まで一部左翼は別として、国民大部分は決して皇室、天皇を
排斥したり蔑視する事なく、先日の妃殿下ご懐妊を国や国民全体の慶事の如く
祝福する様に、尊崇感は変わらない。

それに対し中国人の毛沢東に対する感情は、とても日本人には理解できない。
敢えて言うならば毛沢東は外国の侵略を排除し、中国人民を解放した偉大な革
命家であるが、中国自体がそう定義づけた様に彼の終晩期は、蓁の始皇帝以来
中国全土に君臨した、時の為政者と変わらなかったのかも知れない。
人民はその彼の盛時は神聖視し失墜すれば哄笑する。
これが中国の歴史だと思う以外理解できない。

中国人民の強かさ。

敢えて言えばそういう事だろう。
それは何千年動乱に明け暮れる大地の中で生き、鍛えられてきた人間の本能、
生活の知恵というものの様な気がする。
当時より遥か後年、1989年5月首都北京は異様な空気の中にあった。
所謂天安門事件直前である。
連日長安街の大通りを群衆が、天安門広場へとデモ隊が続く。
私はそれを道端で見ていて、これこそ人民蜂起と言うものだろうと感じた。

それぞれの工場単位で、スローガンの書いた横断幕を掲げ集団行進をしてい
く。
何処かの病院の看護婦達も、全員白衣を来て自転車で隊を組み通り過ぎる。
タクシー組合も警笛を鳴らしながら一斉に車を走らせる。
道端では、保母さんに連れられた幼稚園の園児達まで、小旗を振り声援してい
る。
私の関連の商社北京支店の中国人従業員も上司の了解を強引に取り、デモに参
加すべくスローガン作成に懸命だ。

やがて6月4日。

解放軍出動による強制鎮圧が始まり、全くあっけなく騒動は終わった。
私は5月末工場を気にしながらやむなく一旦帰国した。
そうして鎮圧の五日後再度北京へ飛んだ。
北京行きのJAL機は未だ殆ど空席だった。
市内中心地は到る所銃弾の跡が残り、街角には解放軍の警備の姿も多かった。
案内された商社支店長室の窓ガラスにも、銃弾の穴があき更にそれが天井板を
ぶち抜いていた。

しかし私をもっと驚かせたのはその様な凄まじい動乱の傷跡よりも、一般中国
人の全く動乱前と些かも変わらない平静な日常生活振りだった。
社内の中国人従業員も、以前と変わる事なく机に向かい仕事をしている姿から
は、とても僅か十日前の異常に高揚し殺気だった雰囲気は微塵も見られない。
あの世界を震撼させた大事件は全く関係ない他国の出来事の様に、市民は談笑
し買い物し生活を続けている。

「友人が負傷し入院しているが、チェックされるので見舞いにも行けない」と
極めて親しい若い中国人が私にこう言ったのが唯一の動乱についての談話だっ
た。
私は約十日前立っていた長安街の同じ道端に立ち、あの人民蜂起かと思えた凄
いエネルギーのうねりを思わすデモ隊の群が、全て夢か幻だった様に思えてく
る不思議さを味わった。

それにつけても繰り返す様だが、そこに中国波乱興亡の歴史と、それと共に逞
しく生きた中国民族の強かさを考えずにはおられなかった。
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<<あとがき>>

「六四」天安門事件を中国ではこう呼んでいます。

解放軍が出動し騒動が鎮圧された六月四日の日をとってそう呼称しているので
すが、その後そのトウ小平指導による強制鎮圧に対し、国際世論は一斉に中国
に対し人権の抑圧、民主主義の弾圧と口を揃えて非難を加えました。
アメリカは未だこの問題については執拗に牽制の声を止めません。
しかしその中にあってこの様な信念を吐露する方もおられました。

私は本文に書いた様に事件終結直後北京へ飛び、業務処理に当たり帰国後、関
係商社部長に対し業務継続に支障無き現状報告と、北京の平静な状況に就き詳
細なレポートを届けました。
折悪しく当時可成りの重病で入院中の部長より、折り返し直筆で私宛長文の手
紙を頂きました。
私の敬愛するその部長は海外勤務の経験豊かな国際派であり、性格は誠実且つ
温厚至極で、更に敬虔なクリスチャンでした。

その手紙の冒頭には

「今回の争乱に対しトウ小平の執った処置は唯一無二のものと考えます」
「西欧諸国が薄っぺらなヒューマニズムを振りかざし非難するより、中国の将
来を見つめ的確な現実的対応をした中国政府の判断を理解します」
「私は中国人の未来を信じています」

あの部長がと驚く程の強烈な文章の羅列に、改めて深い感銘を受けました。
部長はそれから数週間後惜しまれつつ逝去されました。

そうして中国はあの争乱以降、目覚ましい経済発展を続け、今や中国人にとっ
て六四は、既にもう完全に風化した過去の物語のように考えているでしょう。
これも中国の長い歴史の一齣といえるのでは無いでしょうか。

改めてこの誌面を借り、あの厳しい批判的世論の中で、将来を洞察された故部
長の卓見と叡智と更に勇気に対し、衷心より尊敬と哀悼の意を表したい気持ち
で一杯であります。

                           遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。 
紅い中国の時代の目次に戻ります







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