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★ 遊 庵 散 人
★ ---------- China,20years ago ----------
★ 殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
★ 1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
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<< まえがき >>
汕頭の宿舎として最初紹介した「華僑回郷招待所」の外に、もう一軒海辺に近
い場所に可成り広大な敷地を持つ、「幹部招待所」がありました。
何処の街にもこの様な党幹部が出張の際宿泊する為の「招待所」と称するもの
はあるのですが部屋が空いていると、たまに我々もそこに泊めてくれます。
勿論その場合我々は彼等とは宿泊棟も食堂も別で、隔離された状態で泊まらさ
れるのはいう迄もありません。
そこは先述の様に広い敷地の中、所々にこぢんまりした2階建ての宿泊棟が散
在しており、そのまわりはお花畑という極めて優雅な環境でした。
しかもその庭の先は海岸であり、時々その海を中国特有のとてつもない高く大
きな、しかしボロ布を張り合わせた様な帆を持った、ジャンク(戎克)が悠々
とした貫禄で、沖を通り過ぎていく風物はなかなかのもので、私も朝夕海辺に
座り良く見とれておりました。
ジャンクといえば、昔から中国の写真や絵画でお馴染みの中国独特の帆船であ
り、当時は未だ上海でも黄浦江をゆっくりと上下する巨大な帆を、よく見掛け
る事が出来たのですが、今は航行を禁止されたとかで見る事は出来無くなりま
した。
もう浙江か福建の海辺へでも行かなければ見られないのでしょうか。
近代化が進むにつれ、過去の雅趣溢れる様な風景までが消えて行くのは、何処
の国でも寂しい事です。
さてこの宿舎も各部屋にバスタブはあっても湯は出ず、シャワーで湯の出るの
は夕刻の極めて短時間だけで、我々が仕事で農村を廻り帰舎が遅れると、もう
シャワータイムは過ぎています。
汗とほこりにまみれた体は、とてもこのまま食事しベッドへはいることも出来
ず、女性服務員に湯の供給を頼みます。
女性服務員は隣の棟の炊飯室に向かい大声でこう怒鳴りました
「日本人が風呂に入りたいと言ってるよ」
やがてその炊飯室から一台のリヤカーが服務員に引っ張られ出てきます。
そのリヤカーの荷台には、50本を越す程の魔法瓶が乗せられており、やがて
それが私の部屋へ運び込まれます。
そうしてその熱湯を1本1本バスタブに入れてくれます。
そのバスタブは石造りの大型なものですから、魔法瓶全部を注いでも、せいぜ
い足首迄の深さです。
勿論熱湯ですから注水してようやく腰の部分で適温になります。
ちょうど行水の様な状態で入浴するのですが、それでも大助かりで全くホッと
します。
汕頭での三年間、殆ど毎月の出張で公司が案内した宿舎は「華僑宿舎」と、こ
の「幹部宿舎」の二箇所でしたが、我々としてはやはり後者の方が泊まり心地
良く、空港で出迎えられ宿舎へ向かう公司の車が、手前にある「華僑宿舎」の
前を通り越して、「幹部宿舎」の方へ向かうと、思わず「ラッキー」と叫んだ
ものでした。
その汕頭も最近会った香港の友人に聞きますと、高層ビルの立ち並ぶ見事な近
代都市に変貌し、快適な大ホテルも数多く完備しているとか。あの市内のメイ
ン道路に豚やアヒルの群が、我々の車の行き手を阻んでいた、約20年前とは
何という時代の変わり様でしょうか。
我々には想像できないことです。
しかし現地の公司の一老幹部は、「今でも貴方の名前を覚えていたよ」とその
友人より聞かされ、不思議な感慨を覚え、連日田舎道を走ったあの頃の思い出
が、懐かしく甦ってきました。
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<< 本号の内容 >>
◆◆ 貧しきを憂えず等しからざるを憂う
★ 社会主義はマニアルの国/立前と本音
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★ 社会主義はマニアルの国/立前と本音
人間誰しもその発言には、いわゆる「立前と本音」が異なる場合も多いものな
のだが、当時の中国人は正にその両者を当然持ちながらも、あくまで立前を本
音の如く我々に主張し続けたのは見事だった。
毎月の様に同じ所を訪問し、同じ担当者とその都度商談したり雑談や宴会も重
ね、お互い可成り打ち解けた仲になった積もりでも、やはり面と向かい喋って
くれるのは、立前だけだった様な気がする。
公司の或る年頃の女性に質問した。
何時も人民服を着用している彼女達に「君達もこの様な綺麗な洋服を着てみた
いと思わないか」と日本の服装雑誌を見せると、彼女は答えて曰く「いいえ私
は今の此の服で充分です。もし将来中国の経済が発展し、若い女性全員がこの
様な服を着られる様になれば、私も喜んで着るでしょう。それまではこれで充
分です。自分一人が良い服を着ようとは絶対思いません」
又若い女性に尋ねた。
「君はどんな男性と結婚したいの」この問いには百%こう回答が帰ってくる。
「毛沢東思想を良く学習し、民衆の為奉仕する意志の堅固な人」
我々は意地悪く聞く。
「金持ちの美男子で思想の弱い人と、金もなく風采の上がらぬが志操堅固の人
とならどちらを選ぶ」
これも文句無く「後者を選ぶ」と言う。
更に聞く「美男子と醜男で共に志操堅固なら」答えは「容姿は関係なし」
見事だ。
我々の国内移動日は休日を利用する事が多い。
その都度公司の人が空港で出迎えてくれる。
休日なのに大変だねとねぎらいの言葉を掛けると「我々の使命は日中貿易拡大
にある。その為遠方よりお越し頂いた方々を出迎えるのは、休日でも当然であ
り、大変嬉しい事と考えている」とこれも全く模範解答だ。
しかし休日我々を空港に迎えホテルへ送る、その数時間の仕事の代休はきっち
り取っている様だった。
ともかく我々の質問に対し、誰もがこの様な紋切り型の答えしか返ってこない
事には、全くうんざりし面白さが全くなく、会話が白けてしまうのである。
常に外人と接する彼等、彼女等は一応エリートであり、下手な発言等絶対許さ
れないのだろう。
その上、商談の際でも必ず一人で応ぜず、二人以上がその場に参加して、彼等
同士が、規律を逸した発言をしないか、相互チェックし牽制している様な感じ
だった。
我々と接する貿易業務担当者は、すべて各地にある貿易専門学校の卒業生であ
り、それも日本向け、アメリカ向け、ドイツ向けとそれぞれ貿易相手国別にク
ラス分けされ、専門教育が行われている。
だから、言語教育も対日クラスは日本語についてかなり高度な訓練はされてい
るが、世界共通語的英語については、殆ど理解しないというのが実情である。
専ら特定相手国別に貿易ノウハウが教えられている様だ。
この学校に入れる者も当然国の選別により入学するのだが、中学校時代よりの
能力査定と共に、中国で言う血統の良い家柄つまり国家幹部、解放軍、貧農の
子弟等が、優先的に選抜される。
これは仕事上常に外人と接し、或いは場合によっては海外出張の必要も有りう
る事から、こういう点が重視されるのだろう。
彼等、彼女等はそこで徹底的な思想教育と業務マニアルを指導され各貿易公司
に配属になる。
これは貿易公司だけに限らず、やはり外国人と接触の機会の多い外人用ホテル
服務員やスチュアーデスの様な職業には、出身者身分が特に留意された様だ。
かなり経過しての頃だが、仲間と西安へ旅行した時飛行機の中で親しくなった
西安出身のスチュアーデスと、夜食事を共にし宿舎へ送っていったら、何とそ
の宿舎は「共産党幹部学校宿舎」であり、彼女の父親はそこの教官だったのに
は驚いた。
話は戻すが我々の質問に、全て金太郎飴的画一模範回答が出てくる。
これは我々との実務交渉に於いても同様で、更に商品的に問題が発生し、それ
がクレーム交渉に及ぶ時も、中国側の問題回避の手法、対策の方法、結論の出
し方も、これ全てマニアル通りと思わざるを得ない様に、同一的主張を繰り返
す。
そうして先ず自己の非を認め謝罪する等は、絶対あり得ないのもマニアルの基
本なのだろう。
このやり方考え方はこの様な貿易交渉の様な問題だけでなく、最近に至るまで
の中国政府の、日本やアメリカに対する外交交渉に於いても顕著であり、相手
より指摘された問題に対しては、徹底的に否定し時には内部問題だと主張し、
相手国に対して執拗にその非を責める。
そうして交渉を自己優位に持っていく。
この常套手段は、中国民族五千年のノウハウだろうし、新中国の一貫した戦略
の様に思える。
当時の公司や工場幹部は殆ど共産党員であるが、彼等が我々に話すことが、そ
の時期によっては異なっていても、同じ時期であるならば何処の公司へ行こう
が、工場へ行こうが、滑稽な程同じ事を話す。
一般民衆がラジオと人民日報で日々の情報を得る様に、党幹部には、庶民では
見ることができない幹部専用紙「参考消息」にていち早く政府の方針や動向を
知らされる。
彼等は絶えずそれを注視し行動する。
81年の中頃さる公司で総経理が私に対し「毛沢東主席にも彼の人生の末期に
は失敗もあった」と突然言いだし私を驚かせた。
何分それまで毛沢東は中国では神以上の存在だった。
自己独自の見解の如く、外人である私にこの様な大事を喋るこの総経理は大変
な人だと驚愕した。
所がその出張中どの公司へ行っても幹部に会えば、同様な事を同様な言い方で
私に告げるのを聞いて、今度は呆れ果てた。
彼等幹部もやはり金太郎飴なのだ。
後で我々はその経緯を知る事になるのだが、81年6月の中央会議で文革の否
定と、それを指導した毛沢東をも批判対称とすると共に、彼の一生は「功績第
一、誤り第二」と定義づけされた。
その決定がいち早く地方党幹部に伝達され、それを我々にあたかも自己意見の
如く喋っているのは正に噴飯ものだ。
しかしその決定以降中国の改革解放は本格化する時期に入る。
これらを見ても未だこの時代、厳しい社会主義国家の枠の中で、彼等も本音は
あっても出せず、専ら立前だけの生活や業務を行っていた事になる。
そんな中でも、若い人達は純粋に共産主義に誇りを持ち、立前を本音と同一化
し、冒頭で述べた女子服務員が私に言った「貧しきを憂えず等しからざるを憂
う」や「志操堅固第一」等の言葉は、決して強がりで言ったものでなく、やは
り本音であったのかも知れない。
私は汕頭の公司で日本語を些かしゃべれる女子担当者が、実に良くやってくれ
るお礼に、本来は絶対禁止されている個人へのプレゼントを何とか渡したいと
考え、先ず何にすべきか迷ったあげく、取り敢えず簡単な「日中会話のテキス
トブック」を二人きりの時を狙いそっと手渡した。
最初頑なに拒絶した彼女も、最後は受け取ってくれほっとした。
その日仕事が終わり帰りかけた時、総経理より呼び出しが来た。
何事かと総経理室に入る。
大きなデスクの横に彼女が立っており、デスクの上に私の渡した本が置かれて
いる。瞬間「まずい」と感じた。
総経理は穏やかな声で私に言った。
「彼女が先程貴方よりこれを頂いたが、受け取れないので返却して欲しいと私
に申し出でがあった。
私は内容を見てこれは日中貿易拡大の為になる物だから頂く様指示した。
私よりも礼を言う」その時パンストでなくて良かったと思った。
しかしこれが或る程度年配の担当者となると若干趣は変わり、本音の部分がチ
ラチラと顔を出す。
先ず東西どの社会でも勤め人の不服は給料の問題。
何分国家主席と公司新入生との間も殆ど給料格差の極めて少ない国である。
(但し階級によりその人に与えられる特権は天と地の開きがある。)
ましてや公司内部に於ける個人の給料格差は殆ど無く、これは折を見て我々に
愚痴る、年配者の不満の本音だった。
或る公司で日本語の可成り達者な年配担当者が、私に頼みがあると囁く。
「家内が日本の石鹸を非常に欲しがっている。次回持参して貰えないか」と訴
える。
簡単な事なので次回約束を果たした。
すると次は「ストッキングを」更に「小説本を」と依頼は続く。
何れも小物件である。
問題はその受け渡しである。
人目の全くない場所で更に周囲を窺いながら、無言で私より品物を受け取る
や、全く素早い動作で自分のナイロン製の袋に放り込む。
それは手品を思わす鮮やかな手口だった。
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<<あとがき>>
「女性は天の半分を支える」毛沢東の言った有名な言葉です。
それにより全く女性も男性と同じ職場で、男性と同じ様な仕事に進出していま
す。
最初我々を驚かせたのは、広州市内を走る2両連結の大型トレーラーバスや、
土木工事現場の大型ダンプカーの運転まで女性が活躍しております。
特に我々の仕事が繊維ですから、訪問する公司でも工場でも、幹部から担当者
まで実に女性が多く見られます。
当然女性就業者は、年輩者から、工場などでは本当に小学校を卒業したの?と
思いたくなる様な幼さが残る女性まで様々ですが、私の中国ビジネス20年の
経験から言えば、男女共に同様な仕事をする職場に於いては、女性の方が仕事
に対する処理能力に就いては、一般的に男性より勝り、我々の信頼度も高かっ
た様に思います。
当時の男性には女性に比べ、文革後遺症がひどかったのかも知れません。
中国は御承知の通り、男女全員一定の年齢に達すると、国家が指定する労働に
従事し、結婚しても全て男女共働きとして何らかの仕事に就いております。
そうしてその仕事の都合上、夫婦がはるか遠隔の地で離れ離れに居住している
ケースは、当時我々の業務上での交際範囲の中でも、とても多く見掛けられま
した。
彼等は年2回の公式休暇が与えら、その期間だけ同居するのですが、我々には
全く不可解でした。
共産主義国中国では職業選択の自由は全くありませんが、農民にとってはそれ
こそ自身農業を離れ、街で働く事等とても不可能でした。
農民は戸籍上農民籍(農民戸口)で町に住む者は市民籍(城市戸口)に所属し、
その農民籍の者が市民籍を取る事などは全く困難で、ましてや農村より北京、
上海、広州の様な大都会への転入は、夢のまた夢でした。
20年前の中国は未だそんな厳しい時代でした。
私が東京で知り合った中国人で、東大留学中の年配の学者がいました。
帰国後広州大学教授に赴任したのですが、広州で私と再会した際、彼曰く「私
にはこの上なく嬉しい話があるので祝杯を挙げよう」と言います。
それは彼の奥さんは南京近くの農民籍である為、夫の赴任先である広州へは行
けません。
それを大学側の懸命な努力で、奥さんが市民籍を得られ近日中に広州へ来られ
る事、更にそれにより大学の用務員として正式採用された事で、これこそ奇跡
だと彼は喜んでいました。
遊 庵 散 人
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└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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