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★ 遊 庵 散 人
★ ---------- China,20years ago ----------
★ 殆どの方が御存知無い「あの頃」の中国
★ 1970年代後半に於ける不可解な体験の記録
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<< まえがき >>
1990年以降中国を訪問された方、或いは業務として中国と係わった人達に
は、「人民公社」の名前も御存知無い方も多いのではないかと思います。
1949年の中国建国から約10年が経過し、その間の朝鮮戦争への介入を経
て、敢えて盟友ソ連との決別まで行い、毛沢東が進めた独自路線による社会主
義国家建設の象徴が、いわゆる「大躍進」政策であったのです。
「十五年で英国の工業生産を追い越す」というスローガンで始まったこの政策
は、逆に多くの矛盾を生み、弊害が生じ、更にそれに自然災害も加わり、国や
国民に重大な悲劇的結果をもたらす事で終わり、更に今度はその失敗を糊塗す
るような形で1966年から嵐の文革が始まるわけですが、その辺の事情を述
べる事は、私のメルマガ執筆の趣旨から逸脱しますから省略いたします。
ただその「大躍進時代」の農業生産面の産物とし、「人民公社」が組織され、
我々の生産にもこれが深く関与したので、その事を申し上げたくて書き出しま
した。
人口の85%以上を占める農民を、社会主義の大衆運動として組織化する為、
小地域毎の行政単位と一体化した集団生産組織を作り、それが「人民公社」と
なったのですが、57年頃より始まり58年末には全農村の99%が組織下に
入りました。
この集団組織は、当然集団による農作業で収穫の増産を計ると共に、農村の水
利、灌漑工事等にも従事し、更に日常生活に至るまで共同化で、正に社会主義
的農村のあり方として、当時は国際的にも非常に大きな話題となり、日本の一
般紙でも左翼的色彩の濃い新聞では、むしろその改革的現象に対し、礼賛に近
い論評まで掲載され、それらが当時の我々に中国に対する不透明感を与えたの
は事実でした。
各郷鎮の「人民公社」の中に生産大隊があり、そこで本来の農業生産を行うと
同時に、我々の委託する手編みセーターの生産に就いても、ここがその窓口と
なり、実際の作業はその生産大隊の運営する小グループの集団工場(農家の納
屋)や、その組織下の農民の家に原料を持ち帰っての作業となります。
確かにその様な家内工業的な生産には、人民公社という既存組織が活用された
のは効果的でした。
さてその人民公社もやがて様々な矛盾にぶち当たります。
その最大のものは集団作業では自分一人が如何に努力しようと、収入は一緒だ
という矛盾と不満、それからくる労働意欲の減退、即生産の減少です。
やがて77年頃より極一部の農村で自留地の拡大、家庭副業の許可等の実験が
成功し、次いで省単位で実験され、それらが大豊作や黒字転換の成果を上げ、
やがて82年人民公社解体につながります。
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<< 本号の内容 >>
◆◆ 人民公社生産大隊
★ 我々は電影明星(映画スター)?
★ ソフト投資のスタート
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★ 我々は電影明星(映画スター)?
我々が始めて汕頭で郊外を連日駆けめぐった頃の農村は、人民公社が健在であ
り、何処の田舎を廻っても、常に農民は至る所で集団による農作業或いは土木
工事に従事しているのを見かけた。
さすが当時既に人口10億を越していたこの国は、集団作業と言っても半端な
人数ではなく、特に灌漑や道路工事の為の集団作業では何処も数千人による、
全く人力だけに頼る労働が、黙々と続けられていた。
我々を乗せたワゴン車が汕頭の町並みを抜けると、途端に道路は舗装のない凹
凸のひどい田舎道に変わる。
そこを走る車の上下動も尋常なものではない。
その為半ば腰を浮かした状態で車は進む。
その上初夏に近い気候だが車の冷房もなく、その上車の窓を開けるにも外の土
ぼこりが車内に入り込み、やむなく窓を閉めた状態で走る。
体中汗とほこりまみれで疲れが甚だしく、正に先が思いやられた。
ある村に入る。そうして工場らしき建物の前で車は停まる。
途端に何処から出てきたのか、群衆が我々の車を取り囲む。
車近くの者達は顔を車の窓ガラスにくっつけて中を覗いている。
その周囲を幾重にも好奇心一杯の老若男女の目が車に注がれている。
これは全く予想もしていなかった事態だった。
しかし思えば我々は1950年の大戦終結以来、少なくとも30年ぶりにこの
村に現れた外国人なのだろう。
子供や若い人にとっては、始めて見た外国人と言うことになるのだろう。
同じ東洋人だというのにそんなに珍しいのか。私は車を降りる際大声で「ニィ
ハオ」と叫んだ。
群衆は無言だったが少し顔が微笑んだ気がした。
車から工場へ入る僅かな道を、我々を案内してきた公司の男は、群衆を大声で
制して道を作り、我々を中へ誘導した。
それは丁度江戸時代の小役人が町民を怒鳴り散らす光景だった。
我々は約二時間その工場を視察、歓談し、次へ移動すべく表へ出た。
すると我々が到着した時と殆ど変わらない人達が、そのまま我々の出てくるの
を待っているのには、全く唖然とした。
再び公司の誘導で車に乗る時、私は再び「ツァイチェン」と群衆に叫び手を
振った。
今度は何人かは手を振って応えてくれた。車は動き出した。
そうしたら多くの子供達が一斉に手を振り、車の後を追いかけ走り出した。
勿論私もこんな経験は始めての事だ。
「これは丸で映画スター並だな」と同僚が言った。
しかしその時私の頭を一瞬過ぎった不安は、この国ではこの時期より数年前ま
では、特に文革時代「日本鬼子(日本人は鬼)」と日本人に対し徹底的な非難
教育をしており、その感情が今も根強く彼等の心の底にあり、それが我々の突
然の訪問に、理解し難い心として行動に出ているのではないか、私はそれを恐
れた。
しかしこれは私の杞憂かも知れない。
何の変化も刺激もないこの様な農村の中で、当時男女共よれよれのグレー一色
の人民服だったこの世界に、突然変わった服装をした一団の到来は、彼等の生
活の中での一大異変であり、丁度日本も恐らく明治維新前後次々と開港され、
それまで見られぬ紅毛碧眼の異人を目の前にした時、江戸や横浜の市民達はこ
の様に奇異な目でこれに接したのでは無かろうか。
車は幾つかの村を廻り、幾つかの工場を見た。
その都度工場の入り口では、その様な風景は繰り返された。
その日は主に縫製工場を中心に視察したが、結果は以前広州のサンプルをみて
推定していた通り、とても機械、技術、管理とも、全く見るべきものは無い。
それぞれの工場が独自で技術向上に努力している様だが、基本的欠陥があり、
我々としてはとても利用できる工場は全然見られなかった。
先ず、工場長は我々に必ず「工場の面積の大きさ、従業員の多さ、生産数の多
さ」を自慢らしく説明する。
彼等にとっては「大きい事だけがが良い事」なのだ。
しかし内部は、多くの機械は稼働しておらず、少なく見ても3分の1の工員は
遊んでいる。
自分の持ち場で飲食している人、子供を側に置いて遊ばせている者、持ち場を
離れて仲間と大きな声で笑いあっている者、これが当時の国営企業の実態だっ
た。
工場の壁にやたらと貼られているのは、相変わらず政治スローガンであり、大
抵工場の入り口等に設置された、大きな黒板(大字報)には白墨で全く細かく
綺麗な字で政府が発表し、人民日報に掲載されたニュースの一部が書き写され
ており、従業員はそれで政府の布告を知る仕組みらしい。
私が中国とベトナムの紛争を知ったのもこの頃の大字報だった。
未だ一般工場の管理状況はこの程度のものだった。
舗装されない道路を、窓も開けられず冷房もない車で、一日中走り回り、かな
りの疲労を覚え汕頭の宿舎に戻る。
シャワータイムに間に合ってやっとホットする。
夕食後7時取り敢えず広州の商社事務所へ電話連絡し、日本への連絡を依頼す
べく、宿泊棟一階入り口の事務所に広州への電話を申し込む。
何時間でつながるか未定との事。
部屋に電話はないが掛かれば呼びに行くとの事で部屋で待つしかない。
昼間の疲れでうとうとする。
既に夜中と覚しき頃慌ただしく廊下を走りながら「電話」と叫ぶ女性の声に飛
び起きて、四階から一階へ一気に駆け降りる。
しかし既に電話は切れている。
もう一度掛けるというので、今度はもう玄関脇の籐椅子に座りそこで仮眠しな
がら又掛かるのを待つ。
ようやくつながり話し終えたのは午前3時。
これが同じ広東省内の広州と汕頭間の当時の電話事情だった。
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★ ソフト投資のスタート
我々の生産本命は、このHP第4編で述べたが、手工業を基本に日本市場で、中
級以上の商品として通用する、高付加価値商品の生産を目標にし、その為汕頭
レースで著名な汕頭に入った訳だが、同レースは細い鈎針編みである。
しかし我々の狙いは太い棒針で編み立てるセーターが生産目標であり、これは
各家庭で家族用に編まれてはいるが、商品として未だ本格的に生産されていな
い事も先に述べた。
その為先ず汕頭の鈎編みレースによる製品、即ちテーブルクロスやランチョン
マット等のファニシンググッズやハンカチーフやブラウスの様な衣料品の生産
状況について、その生産現場を視察する。
今回の「まえがき」で述べた様にそれらの生産母体が各村の人民公社生産大隊
である。
手配された原料(強撚綿糸)は先ずその大隊本部に配られ、そこから各傘下作業
班或いは農家である各家庭へ配分される。
先ずある村の納屋の様な建物の前で車は停まった。
ただの漆喰塗りの20坪位、何処にもある農家の美しくもない一棟である。
付近は物音一つせず静寂そのものである。
案内されるままに半ば訝しげな気持ちで、入り口を入った途端驚いた。
その土間の狭い室内に、すし詰め状態で百人を越す若い女性達が、それぞれ低
い腰掛けに座り、全く黙々と手だけを動かしレースを編みを続けているのだ。
リーダー的な人は別だが一般作業者の彼女達の平均年齢は、どう見ても17、
8歳か。それ以上には到底思われない。
或る子など未だ小学生ではないかと思われる容姿である。
それでいて更に驚異的なのは、各自の技術の正確さと編み上げていくスピード
である。
我々の不意の闖入に若い彼女らも驚いたか、我々が側へ寄ると彼女らもついこ
ちらの方を見るのだが、手だけは休む事なく正確に編み続けている。
その日数ヶ所廻った鈎編み作業所は、何処もほぼ同じ様な状態で作業が進めら
れていた。彼女らは黙々とただひたすら編み続けていた。
共産主義国家では基本的に職業選択の自由はない。
彼女らも命じられるままに、この仕事を毎日続ける以外生きる道がないのであ
る。
私はそれ以後中国各地で様々な生産の場で、この様な場面を目撃した。
そこには連日緻密で且つ単純な作業を繰り返す彼女達が居た。
我々の本命である棒編みセーターの件に入る。
汕頭は手編み工業の著名な産地、鈎針が可能なら棒針も問題ない筈と、その様
な単純な判断でこの計画に入った事が、極めて厳しい事態である事に気づく結
果となる。
確かに汕頭でも棒針セーターは作られている。
しかしそれはあくまで家庭用であり、つまり母親が子供に、或いは娘が父親の
為編むセーターであり、商品としての製品生産では無いのである。
我々は始めての汕頭入りの前月広州で、棒編みセーターのサンプル作成用の原
料と、可成り厳密に細部説明を加えた企画書及び生地スワッチまで用意し、そ
れを公司に渡し、翌月の我々の現地訪問までに、サンプルを仕上げておく様指
示した。
依頼しておいた10枚の初サンプル、結果は惨憺たるものだった。
それぞれ各作業者が“我流”で作られた製品は、基本技術が出来て無く1枚と
して合格品は無い。
本来技術というものは、確実にそれを身につけた熟練者がおり、その指導或い
は影響により技術は拡散し、継承されるものである。
しかし我流で各家庭で継承された技法は、それなりのユニーク性はあっても、
商品とした場合例えば同一商品千枚作ればその千枚は、ユーザーの指示通り全
く同じ技法で、同じサイズで製品化されなければ、それは商品として成り立た
ない。
この様な基本的な点に問題があった。
中国で大小に係わらず一つの事業を立ち上げる事の困難さは、大変な事とは覚
悟していたが、この最初からの躓きに如何に対処するか、当然関係商社上層部
とも熟慮の末、結果的に生産についての基本的問題から技術指導を行う事に決
定。
その対策として日本より優秀な技術デザイナーを派遣し、特に生産のためのグ
ループの編成と、その技術リーダーを徹底教育するとの方針を決定した。
この様な方針決定に至った理由は、やはり鈎針で彼女らの持っている天性的に
器用で優れたテクニック、そうしてこの根気を必要とす仕事に、ひたむきに取
り組む若い女子生産集団を見た時、もう今後世界的にもこの国以外の生産は不
可能であるとの我々の判断によるものだった。
そうして今後の当方の適切な指導により、必ず技術的成果が上がると共に、そ
の結果事業としての成功も確信し得ると考えた。
更に中国としても殆ど資本投下の必要もなく、それこそ有り余る人的労働力を
フルに使えるという、一石二鳥の効果についても、我々がその趣旨を中国側に
も充分説明し協力を求めた。
この様なハード面での投資協力でなく、技術指導というソフト面での投資協力
により、日本へ付加価値の高い商品生産を行い日本へ輸出するシステムは、当
時としては未だ皆無に近く、それだけに我々も極めて不安であった。
現在の中国生産ビジネスにとって、日本よりの技術者による技術指導は、当然
のこととして行われているが、第6編で述べた様に当時は我々サイドより「技
術指導」と言う言葉自体禁句であり、「技術交流」と表現させた中国で、果た
してうまく行くのか。
当時公司幹部の我々への要求として口を開けば、現在の日本で最新鋭の機械を
持ち込んで欲しい。
これが彼等の考える単純な「現代化」の思惑だった。
深セン地区に続き対外経済活動の特恵地区となりつつある当時の汕頭に、多額
の設備投資或いは補償貿易による機械設備の持ち込みを、我々に期待しての汕
頭への誘い込みであったのであろうが、残念ながらその期待に添う事は出来な
かった。
未だ電力供給も満足でなく、絶えず停電が発生する様なインフラ未発達の社会
に、コンピューター機器を持ち込んで、満足に稼働可能とでも考えているのだ
ろうか。
この我々のプロジェクトは、日本国内の一部では高く評価され、JETROの
海外向け英字機関誌“TRADESCOPE”にも数頁に亘る記事で世界に紹
介された。
発展途上国の日本に対する輸出拡大のノウハウとして、ハード面での高額投資
による優れた製品輸出も一方法であるが、投資を抑えてもソフト面を導入する
事により、高付加価値の製品を作り出し、日本への輸出を可能にする一例とし
て紹介された。
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<<あとがき>>
人により器用、不器用の違いがあるように、民族的にもその差があるとすれば
中国人は確実に器用な民族といえると思います。
これは別に学術的に根拠があって申し上げるのではありませんが、農耕民族で
ある漢民族が、何千年に亘り営々と、広漠の大地と取り組んできた、その根気
強さから来ているのではないか、器用の根元はやはりその根気であろうと思う
ようになりました。
少し例を挙げます。
汕頭の鈎針の作業員は目で我々の行動を追いながら、手だけは確実に正確な作
業を続けている事は先に書きました。
外で遊んでいる小学校低学年と思われる子供達も、お尻のズボンにさし込んだ
竹を、片手だけで器用に竹細工を編み立てながら遊んでいます。
僅かな小使い稼ぎにでもなるのでしょう。
シルク生地に手刺繍加工を行う女性労働者の一日数センチの作業の積み重ね等
は正に根気の精華でしょう。
中国では淡水真珠をよく見かけます。
その加工工場で大きさは何れも直径2〜3ミリ程で米粒大のものですが、色は
白とピンク系のものがあります。
毎朝始業と同時に袋に入った数千粒の真珠を、各員のデスクの上にばらまかれ
ます。
工員は一日中針を使いその真珠を、大粒の白とピンク、小粒の白とピンクの4
種類に分類していくのです。
毎日繰り返すこの単純作業は根気だけで出来る作業です。
私は当初大きな誤解がありました。
それは全般的に知的能力はそう高くない民族ではないかという印象です。
特に仕事面で接する人々の物事に対する理解力が余りにも低い感じを受けまし
た。
私も日本人の常識として中国数千年の栄枯盛衰の歴史や、その間作り上げた中
華民族の様々な優れた思想や文化も、更に日本人もそれらを学んで今日がある
事も理解している積もりです。
それが何故?という疑問でした。
しかしその誤解は直ぐ納得できました。
当時、我々と具体的に仕事面で接触した20〜30歳代の年齢の人々にとって
は、丁度あの文革の10年が、人間が学校で様々な基礎知識を身につけるべき
時期であった筈が、学業は殆ど放棄され、専ら革命行動に明け暮れる毎日だっ
た事は、彼等の人間形成に少なからず負の影響を与えただろう事を改めて感じ
ました。
やはり教育の大切さというものを痛感させられます。
それが証拠に、その時期以降正当な教育を受けて、現在中国ビジネスの第一線
で活躍する人々にしても、音楽、美術、映画等の文化面においても国際的に高
い評価を受けている人々が、輩出している現状を見るにつけ、やはり中国民族
の優秀性を改めて認識せざるを得ません。
私がこれらの事を再認識して、当時此の発展途上の不透明極まる国であるが、
少なくとも労働集約産業に於いては、近い将来、必ず世界一の国になるだろう
と強く意識したのは、1979年春の汕頭でした。
遊 庵 散 人
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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